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2025年6月の3件の記事

2025年6月16日 (月)

沢田亜矢子の「小さい花」と「アザミの花」

今日は、自分の知らない俳優・歌手の話である。
このところ、沢田亜矢子という人について「研究」している。どうも有名な俳優さんらしいのである。
朝起きて、カミさんに「沢田亜矢子って知っている?」と聞くと「俳優さんでしょ? 優しい顔の人・・・」と。カミさんは昔から知っていると言う。

きっかけは、夜中に聞いているNHKラジオ深夜便の番組を聞いたこと。

<NHKラジオ深夜便「75歳からの挑戦」女優・歌手 沢田亜矢子(2025/05/30)放送>

自分の知らない人の話はほとんど飛ばすのだが、この番組はつい聞いてしまった。それで最後に流れた「小さい花」という歌が気になって、翌朝再度聞いてみた。なるほど、これは親しみやすい歌。Jポップでもなく、演歌でも無く、非常に爽やかな歌だ。

<沢田亜矢子の「小さい花」>

「小さい花」
  作詞:沢田亜矢子
  作曲:合田道人

ちいさな路地に 咲いている
名もなき 白い花
茎は曲がって 花びらは色あせて
それでもそっと 咲いている
青空を見上げて 輝くあの頃を
知る人も いないけど
ただ 夢を求め今日まで生きてきた
あなたを愛するため 愛されるため
それが私の いのちの意味

ちいさな路地で揺れている
幼き 赤い花
いつか窓辺の ひだまりに飾られて
愛されたいと 揺れている
青空に架かった 輝くあの虹を
渡る日がくることを
ただ いつもそばで誰より 願ってた
幸せ祈りながら 見守りながら
それが私の生きてく意味

青空に架かった 輝くあの虹を
渡る日が くることを
ただ いつもそばで誰より 願ってた
幸せ祈りながら 見守りながら
それが私の 生きてく意味

250616sawada この歌詞の中で「意味」という言葉が重たい。「いのちの意味」「生きてく意味」という言葉。歌の歌詞ではほとんど使われない単語では無いか?ある意味、哲学的な言葉でもある。
先の対談の中で、「自分の歴史を歌で残そうと、歌詞を書いて自費でCDを作った」という。
なるほど、自分の人世を書いたとなると、誰にはばかること無く使える言葉。

このCDは「芸能生活50周年記念のディナーショー」を開いて、そのお土産の意味もあったらしい。
そしてググっていると、「徹子の部屋」にも出たという。

「<沢田亜矢子>娘は米バークリー音大卒で音楽に厳しい 念願のデュエットも怒られないよう必死で 「徹子の部屋」出演

 タレントの沢田亜矢子さんが、3月14日午後1時放送の黒柳徹子さんの長寿トーク番組「徹子の部屋」(テレビ朝日系)に出演する。現在76歳。1973年に歌手デビューし、芸能生活50周年記念のディナーショーを昨年開いた。
 ショーでは、米バークリー音楽大学を卒業したシンガー・ソングライターの娘と念願のデュエットをすることに。周囲や娘は感動して泣いていたが、音楽に厳しい娘に「音が外れてる」と怒られないように必死で、泣くどころではなかったのだという。

 最近は俳優や司会者として活躍していたが、1973年に歌手としてデビューした。50周年記念にオリジナル曲の自主制作CDを作ったところ、音楽チャートにランクインし、音楽番組で紹介され、意図せず歌手活動を再開することになった。歌手としての活動は全て自分でしているため、行ったことのない地方のショッピングセンターに一人で出かけてCD販売のキャンペーンをするなど、75歳からの新しい挑戦を楽しんでいる。」ここより)

そして今度はこの番組をググってみるとYouTubeに挙がっていて、見ることが出来た。やはりラジオよりも情報量は多い。

wikiを読んでみると、この人の人生は、底抜けに明るい話し方とは裏腹に色々あったみたい・・・。「シングルマザーとして長女(シンガーソングライターの澤田かおり)を出産」とか「DVによる4年に及ぶ泥沼離婚劇を繰り広げた」とか・・・
それでもあの明るさは貴重!

ついでに、デビュー曲だという「アザミの花」という歌も聞いてみた。やはり音楽大学出身だけあって、若い歌声は素晴らしい。この歌は1973年6月発売だという。この頃は自分も歌を良く聞いていた時期だが、自分の歌のライブラリーには引っ掛からなかった。
歌詞は良く分からないが、曲は軽快でなかなか良い。

<沢田亜矢子の「アザミの花」>

「アザミの花」
  作詞:岡田嘉子
  作曲:郷 伍郎

むかし むかし その昔
アザミの花の咲いたみち
アダムとイブの逢ったみち
*アザミ アザミ アザミ アザミ
 アザミ アザミの花
 アザミ アザミ アザミ アザミ
 アザミ アザミの花

とおい とおい あの星に
アザミの花が咲いている
アダムとイブが生きている
(※くり逃し)

あの星 めざして ひとすじに
きのうもきょうもあすの日も
命のかぎり歩きましよう
(※くり逃し)

むかし むかし その昔
アザミの花の咲いたみち
アダムとイブの逢ったみち
(※くり逃し)

俳優さんの顔は覚えても、名前はほとんど覚えない自分だが、チャンスがあったら、この人のドラマも一度見てみようと思った。既に見ているのだろうが・・・

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2025年6月 7日 (土)

中西龍アナウンサーの「にっぽんのメロディー」

夜中に目が覚めたとき、時間が惜しいので、録ってあった「ラジオ深夜便」を聞く事がある。昨夜もそれを聞いていると、「中西龍」という名が出て来たので、つい聞いてしまった。
それは2025年5月24日放送の「アナウンサー百年百話「語りの世界と向き合う~中西龍・語りの世界」(初回放送2024/12/11ラジオ第2)」ここ)という番組だった。

wikiを覗いてみると、この「アナウンサー百年百話」という番組は「2025年にラジオの放送開始100年を控え、歴代のNHKのアナウンサーの証言を基に放送の100年を振り返るもので、新たな音源に加え資料の掘り起こしに取り組むと共に、いろんなメディアと連携・展開すると共に、「NHKの貴重な財産」を社会還元するもの」という主旨らしい。

<「アナウンサー百年百話「語りの世界と向き合う~中西龍・語りの世界」(2025/05/24放送)>

この「にっぽんのメロディー」の流れるような中西節が何とも懐かしい。
「(♪「赤とんぼ」)
歌に思い出が寄り添い、思い出に歌は語りかけ、そのようにして、歳月は静かに流れていきます。こんばんは。にっぽんのメロディーです。
熊本県山鹿市の〇〇さん。こんばんは。おはがき、拝読いたしました。ありがとうございます。「毎日欠かさず15分間楽しく聴いておりますので、そばにいるようです」と。
私があなた様のおそばにいるという風にお感じになってくださっていて、本当に光栄に思っております。ご希望は和田弘とマヒナスターズです。この歌でございますよね、〇〇さん。松平直樹作詞、中山晋平作曲、「男の夜曲」。
(♪「男の夜曲」)」

「(♪「赤とんぼ」)
「含羞(がんしゅう)や 豪雪の屋根 夕焼けて」〇〇(ペンネーム)。
“含羞や”は、“はじらいや”と読むのかもしれません。豪雪地帯です。来る日も来る日も雪ばかり。なんだってこんなに降らなきゃいけないのかと、雪に向かってどなりつけたい思いに駆られるほど降っていた雪がすっかり止んで、今日は珍しく一日中良いお天気でした。美しい夕焼けが、何十センチにも積もった雪に美しく映えています。というより、それは「あまりに降りすぎてごめんなさいね。私恥ずかしくて」とそう言いながら、雪自身がはにかんでいるように見えます。どの家からも晩御飯の支度をするいい匂いが流れています。さて、このお宅はどんなお料理を作るんでしょうか。当マイクロホンがもしこの家の主婦でありましたなら、大根を薄く切り、それに白菜、白滝、しいたけ、豆腐、鶏肉、そうした水炊きにするかもしれません。もちろん、ご主人には熱かんのおちょうし2、3本の用意は忘れないと思います。
「含羞や 豪雪の屋根 夕焼けて」〇〇(ペンネーム)。
さようなら。」ここより)

中西龍の「にっぽんのメロディー」については、昔当サイトに書いた事がある。探してみると2008年8月3日付の「中西龍の「にっぽんのメロディー」と「ちいさい秋みつけた」」ここ)という記事で、もう20年近く前の記事だった。
この記事では、一緒に懐かしがってくれた人が多く、そのリクエストによって、自分が持っている音源を次々とアップしたもの・・・

250607nakanishi ググってみると、同じく中西龍の「ひるのいこい」の収録風景が見られる(ここ)。

「ひるのいこい」についても、音楽が懐かしく、前に挙げたことがあった(ここ)。
どれも、自分が実際にナマで聞いていた番組では無いのだが、でも懐かしい。
しかし今、中西さんの姿を見ると、ちょっと怖いので、ラジオ向きであってテレビ向きでは無いかも??(失礼!)

2025年の今年は、ラジオが始まって100年だという。
「ラジオ放送の開始は1925年3月22日、NHKの前身である東京放送局(JOAK)が、東京芝浦の東京高等工芸学校の仮スタジオから「ああ、あー、聴こえますか。」と第一声を発信しました。この第一声は、当時主流だった鉱石ラジオの調整を促すものでもありました。NHKは、この日を放送記念日としています。」

自分の人生は、小学校低学年のブリキのオモチャの「ロボット」、そして高学年の鉱石ラジオから始まったと言って良く、いまだに「通信型受信機」(ここ)と聞くと心がうずく。

しかし「ラジオ第2」が来年2026年3月末で停波することが決まっているように、ラジオの時代も終焉に向かっている。
こんな番組を聞きながら、懐かしさと共に、自分の人生もそろそろ終焉かな?と思うこの頃である。

(関連記事)
中西龍の「にっぽんのメロディー」と「ちいさい秋みつけた」 

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2025年6月 3日 (火)

小野寺時夫著「私はがんで死にたい」を読んで

もし人間が死を選択出来るのであれば、医師はがんを選択するらしい。という話は前から聞いていた。
今日は、そんな医師が、その主張通りの死を迎えられるのか?という話である。
結論は、やはり「その時々の状況で、判断は変わってくる」ということか・・・

250603gande0 先日(2025/05/31)新聞の広告で「私はがんで死にたい」という本が出ていることを知った。ちょっと興味をそそられ、Amazonで買って読んでみた。
この本は2012年6月に出た本の新装版。データは古いにしても、考え方は今でも通じる。

250603gande 本の帯の解説にはこうある。
「がんだけは絶対に嫌だ、という人は多い。だが2人に1人がこの病気になり、3人に1人が亡くなる。
著者は長年、外科医としてがん拠点病院で活躍。その後ホスピス医として3000人の末期がん患者と接した経験から医療の過剰な介入(幾度もの手術、抗がん剤)に疑いを持ち、むしろ「がん死」こそが人間に相応しいと考えるに到る。
がんでも穏やかに最期を迎えるには、何をどう準備すべきか。
がんで亡くなった愛妻の最期を告白し、「人ががんで死ぬ」25の実例を挙げ、死に方、終末医療のあり方を示す。名著、待望の復刊。序文・久坂部羊。」

筆者は、40年以上に亘って都立駒込病院、都立府中病院(現多摩総合総合センター)などで消化器がんの外科治療に携わり、その後10年以上に亘って、日の出ケ丘病院で死の前年までホスピス医として働いていたという。
氏が言いたいことは、本の目次に並んでいる。

250603gande1 250603gande2 250603gande3 250603gande4

そこで語られていることは、
●高度進行がんになったら手術は受けません
●抗がん剤治療も受けません
●体力のある間に、自分のやりたいことをします
●在宅で最期を迎えるのが第一希望ですが・・・
●入院するならホスピスにします
●痛みなどの苦痛は十分とってもらいます
●食べられなくなっても点滴輸液は受けません
●認知症になる前に依頼しておくこと
●臨終に近づくときは、そっとしておいてもらいたい、
●安らかな死を妨げるのは最終的には心の痛み

著者はこの本を書いた7年後の2019年に亡くなったが、その時の状況を本書の最後に、娘さんが「あとがき」として記している。少し抜粋すると・・・

「そんな父にとって一大転機となったのは、57歳のとき咽頭がんになったことだと思います。幸いこのときは完治したのですが、父にとってはそれまでの仕事漬けの生活を考え直す機会になったようです。管理職になって受け持ちの患者がいなくなり、時間に余裕ができたことも大きかったかもしれません。
・・・
父は87歳のとき、再びがんになりました。今度は大腸がんで、肺転移と間質性肺炎を併発していました。父は消化器外科が専門ですが、不審に思っても、「医者の不養生」の言葉どおり自分の体のことは二の次だったようで、最後はみずから直腸を触診して気が付いたようです。後輩にあたる駒込病院の高橋慶一先生に検査を依頼したところ、やはりがんが見つかりました。
この本には「がんになっても手術はやりすぎてはいけない」と書いた父ですが、後輩であり、駒込病院の消化器外科で大腸の部長をなさっていた高橋先生のことはたいへん信頼していましたので、開腹手術をしていただき1週間ほど入院しました。予定より早めに退院し、自宅に戻ってからは庭の手入れをしたりし、病院の仕事にも復帰しました。
がんで3度目の入院をする88歳のときまで、父は週1度、やはり後輩の医師が経営していた静岡県富士市の病院まで新幹線で通勤していました。また、日の出ヶ丘病院のホスピスでも週に2日勤務しており、ビジネスホテルで1泊して戻って来るという生活を続けていたのです。開腹手術の後はCTなどの検査を行いつつ経過を見ましたが、1年後に両肺野部に転移が見つかり、胸腔鏡の手術を3度に分けて行いました。
父自身、肺転移があった段階で死の覚悟をしていたと思います。自宅でモーツァルトの「レクイエム」を大きな音量で聴いていたこともありました。
・・・
父の最後の日々は、すべてがこの本に書いたとおりというわけではありませんでしたが、抗がん初は最後まで投与を受けませんでしたし、「葬式はするな」とも言われたので、そのとおりにしました。」

抗がん剤はやらなかったものの、手術は受けたという。
やはり健康なときに考えていたことでも、いざその時になると、周囲条件も変わり、判断は変わるもの。
それはそれで良いのだと思う。
全ては自分の命。それへの判断は、いつどう変わっても良いのだと思う。

同じような話で、10年ほど前に「「どうせ死ぬなら『がん』がいい」中村仁一×近藤誠著」(ここ)という記事を書いた。
近藤誠氏は「がん放置療法」で有名だったが、73歳で虚血性心不全で亡くなったという。
がんでは無かった・・・

またまた話は飛ぶが、前に「「死にともない」の仙厓和尚」(ここ)という記事を書いた。
そこにこんな言葉が・・・
「仙厓和尚は、禅僧としてすばらしいキャリアをつみ、当時としてはスーパー長寿の88歳で臨終を迎えたのだから、最後のお言葉をと申し出た弟子たちは立派な遺偈(ゆいげ)がきけるものと思ったにちがいない。そこへ「死にたくない」の一言。弟子たちは驚いたが、いかにも仙厓和尚らしい。」

生前、どんな理屈をこねていても、自分がいざその時になったら、理屈などどこかにいってしまうもの。
前に書いた「訪問診療医 岡山容子さんの話」(ここ)もそうだが、この所、妙にこのような話が気になるこの頃である。

(付録)
この2月に七回忌をした兄。
生前こんな事を言っていた。「検査をして治るならするが、治らないなら調べない」
今になって、やはりこのスタンスが気になる。
この本の著者も、がん検査を受けないスタンス。
結果として、ガンになって発見されたときは既に手遅れ。
つまり、抗がん剤治療などをしないで死んでゆく。
後期高齢者になったら、自然に任せ、がんを調べない、という考え方も有りでは無いかとも思う・・・

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