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2025年1月の4件の記事

2025年1月24日 (金)

帚木蓬生の短編「顔」

先日、NHKラジオ深夜便のラジオ文芸館で、帚木蓬生(ははぎきほうせい)の短編「顔」の朗読(2025/01/13放送)を聞いた。
その残酷な話にショック!

<帚木蓬生の「顔」>

この物語に出てくる病気は「致死性正中肉芽腫」というもの。
その病変をこの小説ではこう表現している。
「そして実際にそのとおりの光景が、彼女の顔のまん中に現出していた。
250124fuukabyoutou 炎症性の病変はまず鼻腔から始まり、その周辺の組織を次々と壊死させていったのだろう。耳鼻咽喉科、そして眼科でも、その病変の進行を止められず、組織の腐った部分を後手後手にデブリードマン(切除)していくしかなかったのだ。その過程で鼻が失われ、ついで両眼球までが剔出(てきしゅつ)されたのに違いない。
サングラスを掛ける耳、物を咀嚼する口、そして額だけは残されているものの、顔の中央が根こそぎえぐりとられていた。
ぽっかりあいた穴を見つめながら、解剖学的にどういう状況かを頭のなかで冷静に考え、また一方で、ここまで顔がなくなっても命には別条ないのだと妙な感慨にとらわれた。」(「風花病棟」「顔」p176より)

まだ52歳の女性の顔が腐って無くなっていく・・・
鼻も、頬も、そして眼球も除去された顔。
もはや頭蓋骨だけとなった顔は、怖ろしくもある。その患部のケアを一人でしている夫。

そして、その看病している夫は言う。「でも家内は、自分の顔が見えなくて、幸運といえば幸運でした」

この「致死性正中肉芽腫」という病気をNetで検索してみると、こんな記述がある。
「致死性正中肉芽腫症は、鼻腔や咽頭領域に発生する悪性リンパ腫の一種で、進行性鼻壊疽とも呼ばれていました。壊死を伴い浸潤性の発育を特徴とし、治療抵抗性の疾患とされてきました。
致死性正中肉芽腫症は、現在は鼻性NK/T細胞リンパ腫という名称で呼ばれています。

<病因>
ヘルペスウイルスの一種であるEBウイルス(Epstein-Barr Virus)の持続的な感染により発症する

<症状>
顔面正中部に沿って進行する破壊性、壊死性病変を主体とする

<治療>
放射線治療と細胞障害性抗がん薬を用いた薬物療法を同時に行うことや、複数の細胞障害性抗がん薬を用いて行う多剤併用療法が行われる
造血幹細胞移植が選択肢になることもある」

極めてまれな症例だと思うが、ある文献によると、鹿児島大学耳鼻科では6年間で14例を経験した、とある(ここ)。

この話を聞いて、昔の「愛と死をみつめて」(ここ)を思い出した。この話も実話として顔が無くなっていく病気で、21歳で亡くなった女子大生の話だった。
wikiによると、この時の病気は「軟骨肉腫」だという。

それにしても、このようなリアルな短編を書けるのは、著者が現役の医師であればこそ、ではないか。

話は飛ぶが「帚木蓬生」という名が読めない。
wikiによると「ペンネームの帚木蓬生は『源氏物語』の第2帖「帚木(ははきぎ)」と第15帖「蓬生(よもぎう)」から取ったものである」とある。
よくもまあ、こんな難しい名にしたもの・・・

「顔」のあまりのショックに、この短編が載っている「風花病棟」など数冊の「帚木蓬生」の本を買ってしまった。
さっき「風花病棟」を読み終わったが、収録されている10編のどの短編も、医師を主人公にした淡々とした小説。
ヘンにひねらず、いわゆる良医の素直な話が何とも好ましい。
初めて読んだ帚木蓬生だが、手に入れたあと数冊を一気に読んでみようと思う。

それにしても、人間は、いや生物は必ず死ぬ。
何が原因で死ぬかは分からない。自分で選ぶことも出来ない。
自分が死に直面した時、上のような残酷な死に方でないことをラッキーと思うことは、難病の人に失礼か!?

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2025年1月21日 (火)

三浦洸一の「流転」

歌手の三浦洸一さんが亡くなったというニュースを見た。

歌手・三浦洸一さん 死去 97歳 老衰のため 「落葉しぐれ」「弁天小僧」「あゝダムの町」「東京の人」などがヒット

「落葉しぐれ」「弁天小僧」「あゝダムの町」「東京の人」「踊子」などのヒット曲で知られる、歌手の三浦洸一さんが、1月11日、老衰のため亡くなっていたことが分かりました。97才でした。
日本歌手協会が公表しました。

250121miurakouichi 日本歌手協会の広報文では、「日本歌手協会の会員でビクター専属の最古参歌手、昭和20年代から歌い続けた三浦洸一(みうらこういち、本名桑田利康・くわた としやす)さんが、令和7(2025)年1月11日午前6時23分、都内の病院で老衰のため亡くなりました。97才でした。」と、報告。

続けて「通夜および告別式は、1月18日、19日にご遺族のご意向により、家族葬にて執り行いましたことをここに謹んでご報告申し上げますとともに、長年にわたって賜りましたご芳情に対し厚く御礼申し上げます。戒名は宝洸院釋浄響居士。」と、記しました。

三浦さんは、昭和3(1928)年1月1日に神奈川県三浦市三崎の浄土真宗本願寺派最福寺の三男として誕生。
幼少期より祖父のもと読経を学びましたが、戦後、東洋音楽学校(現東京音楽大学)に進み、声楽科卒業後に日本ビクターレコードに入社。

作曲家の𠮷田正氏に師事し、昭和28(1953)年5月『さすらいの恋唄』でデビュー。
同年9月発売の『落葉しぐれ』が大ヒットし、「𠮷田学校の長男坊」として歌謡界をリード。
昭和30(1955)年の『弁天小僧』、31(56)年の『東京の人』、さらに32(1957)年には渡久地政信作曲の『踊子』と大ヒット曲を連発させ、一世を風靡。

この時期には春日八郎、三橋美智也とともに「御三家」と呼ばれ注目を集めました。

昭和30年の「第6回紅白歌合戦」から昭和38(1963)年まで出場を続け、39(1964)年落選のときは、所属のビクターレコードが「三浦を落とすならビクターの歌手全員が辞退する」と言わしめるほどの大スターだったということです。
昭和40年代、「なつメロブーム」が訪れたときにも請われると出演し、平成時代までなつメロ番組には欠かせない人気歌手として名を馳せました。
日本歌手協会にも設立時から入会、平成16(2004)年まで理事や監事を永年つとめ、「歌謡祭」にも全27回出場。

ほかにも昭和58(1983)年には、タモリの『笑っていいとも!』(フジテレビ)にレギュラー出演、平成12(2000)年には「日本レコード大賞 功労賞」、令和3(2021)年には「日本歌手協会 功労賞」を受賞。
平成23(2011)年には歌手協会主催の『東日本大震災被災地支援チャリティーライブ』、翌24(2012)年の「靖國神社みたままつり 奉納特別公演」に出演。

三浦さんは、1年半ほど前から都内の病院に入院していたということです。」ここより)

三浦洸一の歌は、自分も好きで、前にも幾つか挙げていたが、今日は「流転」を聞いてみよう。この歌はあまり有名ではないらしく、Netで検索しても歌詞が出て来ない・・・

<三浦洸一の「流転」>

「流転」
  作詞:石浜恒夫
  作曲:大野正雄

泣くんか 泣くもんか
夢にみました ふるさとは
遠くはなれて 思うもの
男生命はひとすじに
男 男 俺はきまゝな
 あゝ流れ星

泣かなんだ 泣かなんだ
捨てて来ました ふるさとは
よるもさわるも 花いばら
男ごころの燃ゆるまゝ
男 男 胸に抱いた
 あゝ夢ひとつ

泣けてくる 泣けてくる
山のむこうの ふるさとは
幸せすむと 人はいう
男流転のさすらいは
男 男 あすはいずこぞ
 あゝ吹雪鳥
(コーラス ブライト・リズム・ボーイズ)

三浦洸一の歌で自分が好きだったのは、前に挙げた「恋しても愛さない」(ここ)、「青年の樹」(ここ)もあるが、やはり代表曲は「踊子」(ここ)。
この歌は親父も好きだった。何しろ声が良い。音楽大学の声楽科出身だけある??

先日挙げた小澤一家もそうだが(ここ)、やはり家庭での環境は子供に多大な影響を与えるもの。振り返ってみると、親父もお袋も歌が好きだったので、それが自分に伝わったのかも?
兄貴も好きだったが、弟は??良く分からない・・・

ともあれ、もうとっくに亡くなっていたと思っていた三浦洸一が(失礼!)、97歳の大往生を遂げたと聞いて、久しぶりにその歌声を懐かしく思い出した。
あと、昭和の大歌手でご存命なのはどなただろう?
やはり自分は昭和の人間なのであ~る・・・

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2025年1月19日 (日)

ウクライナ民謡「キャロル・オブ・ザ・ベル」

気になっていた曲の曲名が分かった。
先日、ニュースサイトを見ていて、バックに流れる音楽が耳に残った。
それで先日の記事(ここ)で「<付録:曲名を知りたい!>どなたか下記の曲名が分かったら教えて頂けますか?(ここより)自分でもこの音源を持っているような気もするが、曲名が出て来ない・・・」と書いたら、早速「デコスケさん」から返信を頂いた。

デコスケさんの返信(ここ)によると「曲名は「キャロル・オブ・ザ・ベル(carol of the bells)」ウクライナの民謡が元に作られたクリスマスソングらしいです。」とのこと。

Netで検索すると、色々な情報がヒットする。wikiにも載っていた。それによると、
「キャロル・オブ・ザ・ベル」(原題:Carol of the Bells)はウクライナの民謡を元に、マイコラ・レオントーヴィッチュが1914年に編曲したシュチェドルィック(英語版、ウクライナ語版)に、1936年にウクライナ人作曲家ピーター・J・ウィルウフスキーが英語の歌詞を付けたもの。曲はパブリックドメインとなっているが、詩はウィルウフスキーの著作権が保護されている。作曲から100年以上経った今日において、最もよく歌われるクリスマス・ソングの一つとなった。」
とのこと。

早速YouTubeで音源を検索すると色々とヒットした。
なるほど、かなり有名な曲らしい。同じタイトルの映画もあったらしい。

知りたかったオリジナルの音源はこれ。

YouTubeで上と同じ音源は見つからなかったが、気になった音源を幾つか採取してみた。

<John Williams - Carol of the Bells | Home Alone (Original Motion Picture Soundtrack)>

<Libera - Carol of the Bells>

<The St. Olaf Choir - Carol of the Bells (Ukrainian Bell Carol)>

<Shchedryk (Carol of the Bells) – Bel Canto Choir Vilnius>

そしてピアノ編曲バージョンもあった。
<Carol of the Bells (Christmas Piano Cover)>

これを聞いて、昔よく聞いたジョージ・ウィンストンのピアノ(ここ)を思い出した。良く似ている・・・

そして自分が持っているジョージ・ウィンストンの音源をチェックしてみたら、同じ曲が見付かった。
「ディセンバー」というアルバムに「Carol Of The Bells」という曲があった。

<ジョージ・ウィンストンの「Carol Of The Bells」>

これはジョージ・ウィンストンの編曲だが、まさに原曲は同じ。
やはり自分は音源を持っていた。しかし、ピアノ版を聞くまでジョージ・ウィンストンのアルバムにあるとは気が付かなかった。
いやはや面目ない!?

ところで、こんな聞いたことが無い海外の音楽の曲名がよくぞ分かったもの・・・!と感嘆していたら、「時流さん」から「音で曲検索は、Googleが結構有能です。この曲もPCで音出ししながらスマホを使って検索できました。」ここ)というコメントを頂き、さっそくGoogleを開くと、なるほど「♪」マークがある。これをたたくと見事曲名が表示された。

当方、iPadを買ってから、パソコンにはすっかりご無沙汰で、いつもiPadのsafariばかり使っていたので、Googleにこんな機能があるとは気が付かなかった。
Googleで画像の検索が出来ることは知っていたが、音源の検索も出来るとは・・・!

「デコスケさん」そして「時流」さん、この度はありがとうございました。
おかげさまで、気になった曲の源流に近付くことが出来ました。
改めてお礼を申し上げます。

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2025年1月17日 (金)

小澤幹夫氏(指揮者・小澤征爾の弟)の話「母の遺した我が家の歩み」

先日、NHKラジオ深夜便で「明日へのことば「母の遺した我が家の歩み」舞台俳優・エッセイスト 小澤幹雄」(2025/01/08~09放送)を聞いた。
小澤征爾の若い頃の武勇談は有名だが、その家族の話であり、なかなか興味深かった。

<NHKラジオ深夜便「母の遺した我が家の歩み」舞台俳優 小澤幹雄(1)>

<NHKラジオ深夜便「母の遺した我が家の歩み」舞台俳優 小澤幹雄(2)>


小澤征爾の父親である小澤開作は、wikiによると「小澤 開作(おざわ かいさく、1898年12月25日-1970年11月21日)は、日本の歯科医師、民族主義者。妻・さくら(1907年-2002年)との間に四男をもうけた。長男・克己(1928年-1984年、享年56)は彫刻家、次男・俊夫はドイツ文学者、三男・征爾は指揮者、四男・幹雄は俳優。」とある。

何よりも驚くのは、この4兄弟が、別々の道でそれぞれの道を拓いているということ。
改めて書くと
長男・小澤克己(1928 (S3)年生まれ 1984年没 享年56) 彫刻家

次男・小澤俊夫小(おざわ としお、1930(S5)年4月16日-)は、日本のドイツ文学者、昔話研究者。筑波大学名誉教授。有限会社小澤昔ばなし研究所・社長。

三男:小澤征爾(おざわ せいじ、1935(S10)年9月1日-2024年(R6)2月6日)は、日本の男性指揮者。1973年からボストン交響楽団の音楽監督を29年間務め、2002年-2003年のシーズンから2009年-2010年のシーズンまでウィーン国立歌劇場音楽監督を務めた。

四男・小澤幹雄(おざわ みきお、1937(S12)年10月24日-)は、日本の俳優、エッセイスト。小澤征爾の実弟であり、兄・征爾に関する仕事が多い。

この話を聞きながら、改めて「家庭」「家族」「親と子」について考えさせられた。

親と子は、もちろん生物としての遺伝の要素もあるだろう。しかしそれ以上に、親の子に対するスタンスが大きい。
この家族では、母親の「いつも家庭に賛美歌がある」という雰囲気。そして子供からねだられもしないのに父親が自分の高級カメラを売って手に入れたピアノ。
それらの存在が音楽家小澤征爾を生んだのだろう。しかし、征爾以外の3兄弟は音楽以外の道で大成し、活躍した。
どうもこれは「子供のやりたい道を自由に」という親のスタンスにあったようだ。

言うまでもなく、江戸時代までは全てが世襲。子は親の仕事を覚え、そしてまた子に伝える。確かに社会の構造としてはバランスが維持される。しかし子の個性は無視される。
現代では、もちろん子は親の言うことなどは耳に入らない。でも良い意味での親の影響という面ではどうだろう?
ふと、自分に対する親の影響を振り返ってみた。もちろん自分は全てを勝手にやった。選ぶ学校も会社も・・・
しかしひとつだけ親父から言われたことを覚えている。
就職のとき、ある企業を選んだ自分に対して「電電公社(現NTT)が良いんじゃないか」。
もちろん無視したが、自分の進む道に対して、唯一のアドバイスだった。

自分の場合、親父とは生涯に亘ってとてつもない軋轢があったので、この事はいまだに覚えている。
しかし今考えると、子供が殴られて育った時代とはいえ、それを大人になっても引きずった自分はやり過ぎだったのかも・・・

我が家は男3人兄弟。3つ上の兄とはいつもパック。夕食の後は正座して一緒に「お説教」。対して5つ下の弟は可愛い「ちびちゃん」としていつも親父の膝の上。
弟だけは、たぶん親父から殴られた記憶など無いのでは??

小澤家のこんな話を聞きながら、ふと我が3兄弟と親父との関係を対比して思い出してしまった。色々な家族の風景ではある。

<付録:曲名を知りたい!>
どなたか下記の曲名が分かったら教えて頂けますか?(ここより)
自分でもこの音源を持っているような気もするが、曲名が出て来ない・・・

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