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2024年2月の2件の記事

2024年2月19日 (月)

倍賞千恵子の「私の履歴書」

最近は、司馬遼太郎を休んで、松本清張と、何と!映画「男はつらいよ」に凝っている。
きっかけは、KeiichiKodaさんからのコメント(ここ)。
そこに「男はつらいよ」シリーズはたぶん全部見ているという話があり、その“全部”というキーワードにまたまた反応してしまった。

「男はつらいよ」は、映画の展開がほとんど同じであり、まあそれが安心感を生んで、50年で50作品を生んでいる原動力になったのかも知れない。
よって、たまにTVで見ても、展開が同じなので、つい飛ばし見をしていた。
それが、さっきの話を機に、BSテレ東4Kで毎週土曜日に4Kで放送をしているのに気づき、録画したおいた。そして見たのが第41作の「男はつらいよ 寅次郎心の旅路」、そして第42作「男はつらいよ ぼくの伯父さん」。
さくらの息子役・吉岡秀隆の恋人役の後藤久美子(当時15歳)の可愛いこと!録画を消すのがもったいない??

「男はつらいよ」は、BSテレ東4Kで毎週やっていたので、もっと早く気が付けば良かった!と思っても時すでに遅く・・・
しかし今が時代が違う。Netでの配信で見られるのだ。
それで、つい配信で順番に見始めてしまった。10作目まではほとんど見ていたので、それ以降の作品を順に見ている。

それにしても、さくらの倍賞千恵子が毎回美しい。
第1作が1969年というから1941年生まれの倍賞千恵子は、当時28歳。

話は変わるが、先のKeiichiKodaさんからのコメントに、日経の「私の履歴書」に倍賞千恵子が登場したという話があった。
これは読んでみたい・・・。

★日本経済新聞/倍賞千恵子の「私の履歴書」(2023年12月掲載)のPDFは(ここ

82歳になる倍賞千恵子の人生の振り返り。
考えてみると、若いときから自分は倍賞千恵子のファンだったのだ。当サイトでも倍賞千恵子版の歌は11曲も挙げている。
特に抒情歌が素晴らしい。前に何度か書いたが、30年近く前に亡くなった親父が、やはり抒情歌が好きで、倍賞千恵子のLPをたくさん持っていた。

日経の「私の履歴書」を読んでいくと、「下町の太陽」から始まった歌手としての活動と同時に、映画での活躍の話が面白い。
第15回にこんな文字がある。
「・・・「遙かなる山の呼び声」では一人息子(吉岡秀隆君)を抱えて女手一つで酪農業に励む。ともに「働く」女性だ。
・・・
「本物の親子になるのよ」 照れて嫌がる息子役の吉岡君と一緒に無理やり入浴し、背中を流したこともある。
 その人になりきる-。
「民子3部作」を通じて私は演技する土台を学んだ。」

ヘエー。かの吉岡秀隆が倍賞千恵子と一緒に風呂に入ったんだって!!
年齢を計算してみると、当時吉岡秀隆くん9歳。やはり「親子」だった。

もちろん「男はつらいよ」でも二人は親子。
第28回にこんな話が載っている。
「そこによく顔を出してくれるのが「男はつらいよ」「遙かなる山の呼び声」で息子役を演じた吉岡秀隆君。私には子どもがいないのでまるで息子みたいに接してしまう。
 吉岡君も中標津には特別の愛着があるらしい。私たちが別荘を建てた後、彼も自分の別荘を建て、骨休めに来るようになった。たまにはウチの別荘にも遊びに来て肩や腰をマッサージしてくれる。とても“孝行な息子”なのだ。
 私は自分が出演した作品を見返すことはあまりない。でも吉岡君が家に来た時、珍しく「遙かなる山の呼び声」を一緒に鑑賞したことがある。
「ヒデ、私たち素晴らしい映画に出てたんだね」「本当ですね……」
 作品に恵まれた幸運に2人で感謝した。
 吉岡君は53歳。“親バカ”と笑われそうだが「幼かったあの子が年齢を重ね、心で演技できる良い役者になったな」と嬉しく思う。・・・」

「下町の太陽」と「故郷」は多分まだ見ていないので、配信で見てみようかな・・・
ひょんな事で、倍賞千恵子を「勉強」してしまったこの頃である。

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2024年2月10日 (土)

小澤征爾さん死去~1972年の日フィルとの「復活」

小澤征爾さんが亡くなった。88歳だという。
ここしばらくは、“病気の小澤征爾”という印象が強く、とうとう・・・という気がした。

指揮者は長生きだという。長寿で直前まで現役だった指揮者は多い。トスカニーニ(89歳)、ベーム(86歳)、カラヤン(81歳)、ジュリーニ(91歳)、そしてブロムシュテット(96歳)・・・
それに比して、小澤征爾は早くして病魔に取り憑かれてしまった。Netによると、
「順風満帆な音楽人生だったが、晩年は病との闘いだった。05年ごろから高齢のため、体調を崩す機会が増えた。70歳を迎えた同年末に白内障を手術。翌年に帯状疱疹(ほうしん)、角膜炎を患い、音楽活動を休止した。10年には食道がんを公表し、手術で全摘出した。」ここより)

70歳でのリタイアは指揮者としてはあまりに早かった。

前に「旧日本フィル解散時(72年)の小澤征爾の「復活」」ここ)という記事を書いた。
2006年7月22日の記事なので、もう18年も前の記事。その時、既に病魔に冒され、2006年7月20日にマーラーの「復活」で活動を再開したという記事だった。
しかし上の記事の如く、完全復活はかなわず、88歳で生涯を閉じた。

この時も書いたが、自分にとっての小澤征爾は、旧日本フィルの最後の定演での「復活」が強烈な思い出として残っている。
もう一度書くと、1972年6月16日(金)19:00 東京文化会館。日本フィル 第243回的演奏会。文化放送からの支援打ち切りでの、6/Eの解散を控えた最終コンサート。首席指揮者の小澤征爾による“復活”を掛けた「復活」演奏会だった。
演奏が終わっても観客は去らず、演奏者が誰も居なくなった舞台に、拍手に応じて小澤征爾ひとりが何度も出て来て挨拶をしていた。
数えてみると、小澤征爾当時36歳。若かった・・・

18年前に書いた上の記事に、当時その演奏会をNHK FMで放送したのを録音した。とあるのを思い出し、ちょっと探したらあった。
Img_3140 1972年6月16日 東京文化会館 旧日本フィル 第243回定期演奏会での、小澤征爾指揮でのマーラーの「復活」の録音である。いつの放送を録音したかのメモは書いていなかった。
しかし残念ながら既に我が家にオープンデッキは無い。よって、この記念すべき録音も聞けない。

あれから52年。しかし会場だった文化会館はまだまだ元気で上野に建っている。

言うまでも無く、クラシック界で小澤征爾ほど日本人として世界で活躍した人はいない。
それだけに、小澤征爾を襲った病魔が残念だった。
何度も「復活」して欲しかった小澤征爾ではある。

(関連記事)
旧日本フィル解散時(72年)の小澤征爾の「復活」 
昭和47年の出来事(25歳) 

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