母校の龍ヶ崎市立愛宕中学校の閉校
ひょんな事から母校の中学の閉校を知った。その中学は茨城県龍ヶ崎市立愛宕中学校。
非常に個人的な話だが、思い出すままメモしておくことにした。
中学の3年間、自分が得意だった数学を教えてくれたのは「山さん」。栗山友治先生。その後元気にしているかな?と「竜ヶ崎 栗山友治」でググったら、こんな記事がヒットした(ここ)。何と1年前の2022年3月で愛宕中は閉校し、新たに城南中と共に龍ヶ崎中学として統合されたという。
前に書いたが(ここ)、自分が入学したのは昭和35年4月。龍ヶ崎市立竜ヶ崎中学校。各クラス56~58人で1年の時には10クラスあった。ベビーブームで1学年で約570人。 場所は、現在の流通経済大学の敷地にあった。
それが、昭和36年4月から半分に分かれ、それぞれ別の中学と統合されて、愛宕中学となった。3校が2校になったわけだ。しかし新校舎が建設中のため、卒業までの2年間は元の校舎のまま。よって、自分たちには新しい校舎とは無縁で、何の思い出も無い。
その後、校舎は取り壊され、新設(昭和40年開校)の流通経済大学になった。
この写真は、昭和37年1月27日に撮ったもの。渡り廊下でつながった校舎の、西半分が愛宕中、東半分が城南中だった。しかし愛宕中の教室が足りないので、下の写真の城南中側の1階部分2クラスも愛宕中で、自分が2年の時は、右端の5組に居た。担任は栗山先生だった。
先日、旧友から突然の電話がありビックリしたが(ここ)、地元の街はさびれ、店も閉まっているのが多いという。当然児童の数も減っていたのだろう。ググってみると、2021年度の児童数は、1年生55人、2年生63人、3年生68人でそれぞれ2クラスとのこと。自分の居た当時の60年前の1/10。これでは統合されても仕方が無いか・・・
それで、統合された新制・龍ヶ崎中学校の児童数は?というと、2022年度の1年生は3クラス94人、2年生は3クラス104人、3年生は4クラス115人だという。
龍ヶ崎と竜ヶ崎。相変わらずややこしい。
前に「龍ケ崎の表記バラバラ 市は「龍」でも県の施設は「竜」」(ここ)という記事を書いたが、「龍」と「竜」、「ケ」と「ヶ」。
自分が入った当時は「竜ヶ崎中学」だった。今回発足したのは「龍ヶ崎中学」。まあ、元に戻ったワケではない。ということか・・・
龍ヶ崎市の「愛宕中閉校記念誌」(ここ)という記事を読むと、愛宕中の60年の歴史が良く分かる。しかし、自分は新校舎を知らないので、あまり懐かしくない。唯一、先の栗山友治先生については、色々思い出す。
先生が何歳かは、今まで知らなかったが、第12代校長の平沢大吉郎という方の文を読むと、昭和29年4月の入学時に、「10歳年上のピカピカの1年生教師」とある。自分が昭和35年の入学なので、16歳年上。ということは、現在91歳か・・・。
「今でも時々山さんの所へは、教えを乞うために伺っている」とあるのでまだまだお元気らしい。
思い出すのは、栗山先生の1回目の授業の時、「自分の愛称は山さん。“さん”が付くのは敬称なので良いことだ」と言っていたこと。もちろんそれ以来はみんな「山さん」。たぶんこれでずっと呼ばれていたのでは??
「100メートル走の県記録保持者」ということは知らなかった。当時は野球部の指導をしており、6年前の同窓会の時には(ここ)、健康のために毎日ジム通いをしていると聞いた。
そして、この冊子で山さんが、第8代校長になっていたことを知った。平成2年と言うから1990年4月から1993年3月まで、愛宕中の校長だったとは、もう30年も前の話ではあるが、自分まで今ごろ嬉しくなった。
自分の結婚式の主賓までお願いした山さんだが、賀状も途絶えて久しい。
自分も一時期、教師になろうかと思った事もあったが、今思い出すに、多分に山さんの影響では無かったかと思う。
教師は教え子に多大な影響を与える。人生を差配することもある。考えようによっては、怖い仕事。
そんな“人を作る仕事”の教師も、最近は人気が無いという。
自分の人生も終盤に差し掛かり、今さらながら教師という怖い仕事を選ばなくて良かったと思う。到底他人の人生を左右するかも知れない仕事など、自分では無理だった・・・
色々と思い出にふけった一日ではある。
(2023/02/21追)
探したら、当時の帽子の記章が見つかった。下の写真は、上から「昭和35年度までの龍ヶ崎中学校」「昭和36年度~2022年度までの愛宕中学校」「昭和33年当時の龍ヶ崎小学校」の記章。
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コメント
愛宕神社は全国に90ぐらいあるそうなので、それにちなんで「愛宕中学」という名前の中学校は全国にたくさんあるのではないでしょうか。実は、龍ヶ崎市立ではありませんが(国立大学の附属校なので、強いていえば国立)、私が卒業した中学校名も「愛宕中学校」で、愛宕神社が近くにあり、住所も愛宕町にあります。先日(2023/2/14)、NHKBSPの「プレミアムカフェ(1)あの人に会いたい立花隆、(2)思索ドキュメント、がん」という立花隆についての再放送番組を見ていたら、ちらっとですが、私の母校が出てきました。最近亡くなった「知の巨人」というわれる立花隆さんは、同じ「愛宕中学校」の先輩なのです。立花さんは「知の巨人」と呼ばれるだけあって膨大な本を読むことで有名ですが、この学校の図書室(図書館はありません)の蔵書の貸し出しカードには彼の名前が載っていない本はないという伝説がありました。そのころから「知の巨人」の片鱗があらわれているのです。愛宕中学校と書きましたが、愛宕小学校も一緒のところにあり、小学校から中学へそのまま進む人もたくさんいますが、私は小学校は別の学校です。茨城大学の附属校は水戸市内に2か所あり、私たちの卒業後中学校はここに統合され、小学校はその別のほうに統合されたので、現在は「愛宕」の名称はなくなり、単に茨城大学附属中学校という名前になっています。
【エムズの片割れより】
懐かしいですね。
自分も昭和41年の1年間、渡里町(現在は文京と変わっているようですが)に住んでいました。
近くの袴塚に、昭和33年に祖父が亡くなるまで祖父母が住んでおり、小学校5年の夏休みに自分もしばらく行っていました。
材木屋がある坂を下っていった記憶があります。
GoogleEarthで見ましたが、どこか分かりませんでした。
2000年に兄貴と一緒に訪ねました。兄貴も毎年夏休みに祖父母の家に行っていたので。
よく遊びに行ったという神社にも行きました。階段を登った小山の上でした。
若しかするとそれが愛宕神社だったかも?
袴塚には、金子金物店がありました。自分の祖母の異母姉妹の家で、金子家に嫁に入った妹の独身の姉が資金を出して店を創業したとか。
それで二人一緒に住んでおり、自分の祖母もいつも遊びに行っていました。
今見ると、金子金物株式会社として大きくなっており、場所も移転しているようです。
立花さんも縁があったんですね。
もう半世紀以上前の思い出です。
投稿: KeiichiKoda | 2023年2月23日 (木) 11:04
私は学校へは電車通学で上水戸駅(当時)まで電車で来てそこから歩いて愛宕中学校に通うという生活だったので、市内のこの辺の地理はあまりくわしくないのです。以下の地図をみると、袴塚は学校のすぐ近くですね。学校の東側の小高いところにある愛宕神社は前方後円墳の上に建てられていると聞いています。
https://www.google.com/maps/@36.397885,140.448178,16z?hl=ja
渡里町はいまでもあり、お気に入りのイタリアン・レストランがあるので、年に1,2度ですがこの辺に食べに来ています。
立花さんの近著に「知の旅は終わらない--僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと」(文春新書、2020年)という自伝がありますが、この本の第2章が「幼年時代から高校まで」で、愛宕小学校、中学校時代のことが書かれています。立花さんは長崎の生まれですが、子供時代は父親の関係で北京で過ごし、終戦とともに父親の実家のある水戸に来たようです。
【エムズの片割れより】
上水戸駅は懐かしいです。袴塚に祖父母の家があった頃、赤塚駅から乗って上水戸で降りました。
wikiで見ると、1971年まで動いていたようですね。
大人になってからは乗ることはありませんでした。
投稿: KeiichiKoda | 2023年2月25日 (土) 08:35
日経新聞に毎月連載される「私の履歴書」は今月(2023年5月)は作曲家の池辺晋一郎氏です。この人も私の中学の母校茨城大学附属愛宕中学校の出身なのです。まだ連載は始まったばかりで幼年時代の話ですが、こんな文章があります。「すでに、戸外で走り回るようにもなっていたが、近所の「お兄ちゃん」に鉱石や単球のラジオ作りを教えてもらうのも楽しかった。3歳上のこの彼は橘隆志といったが、長じて健筆をふるい、「知の巨人」と呼ばれ、一昨年亡くなったペンネーム立花隆そのひとである。」
【エムズの片割れより】
そうですか・・・
wikiで見ると、確かに池辺晋一郎氏は水戸出身なんですね。知りませんでした。
その家の近くに立花隆氏が住んでいたとは・・・
最近、イジメで校長が辞めたとかのニュースが流れていますが、悪いことでニュースになるのは、あまり愉快なことではありませんね。
投稿: KeiichiKoda | 2023年5月 2日 (火) 11:00
訂正。本日(5/4)の「私の履歴書」によると、池辺晋一郎氏は愛宕小学校へ入学したが、小学校卒業と同時に、東京世田谷区北沢へ引っ越し、区立の中学へ入ったと書いているので、愛宕中学の卒業生ではありませんね。私の勘違いです。小学校時代の音楽の恩師荒和人先生のことを書いてますが、この先生は中学のほうも教えていたので、私もこの先生に音楽を習いました。なお、池辺家が親しくしていた橘家(立花隆家)も同じころ千葉県の柏市に引っ越したと書いていますが、立花隆氏は3歳上なので、愛宕中学は卒業しているのです。
投稿: KeiichiKoda | 2023年5月 4日 (木) 07:56