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2023年2月の3件の記事

2023年2月27日 (月)

立体駐車場で車を失った話~スマートキーの活用

今日は、(メモを見ると)12年ぶりに聖蹟桜ヶ丘SCに行った。実はそこで自車を失ったのである!?
この歳になると、時間が経つのが早く、毎日事件が無い。(よってblogネタも無い!)
事件がない事は大変に良いことなのだが、今日は事件!?があった。
何と、立体駐車場で自車を(見)失ったのである。

久しぶりのモールだが、駐車場の入口は何となく覚えている。前に走る1台の車・・・。良く分からないからそれに付いていくか・・・と付いていくと、発券機があり、その先に駐車場。
周囲を見回して、駐車位置を頭に入れ、入口からエレベーターで1階に・・・

買い物が終わって、3階の駐車場の入り口に戻る。車を探すが、何となく風景が合わない。でも、大丈夫。自分には1年前に起きた車紛失事件の再発防止策として、スマホに「駐車中車両」の位置が表示されるのだ!(ここ
ヘヘヘ!大丈夫!大丈夫!

所が、その位置に行っても車が無い。その辺りを歩くが無い。「確か3階だったよな」と言いながら・・・
日本人は親切である。ウロウロしている自分たちに、帰ろうとしていた1台の車の窓が開き、「ボタン押しました?あちらで音が鳴っていましたよ」という初老の人の声。そして親切にも助手席の奥さんがわざわざ降りてきて「あっちです」と場所を教えてくれる。カミさんは「ありがとうございます。」??
ボタン?? ン? 自分はスマホは見ているがボタンなど・・・無い・・・
そしてまたウロウロ。階が違うのかと、4階に行っても無い。5階も。そもそも周りの景色が違う。
そして2階に降りて、やっと有った!景色も同じ!(バカ者め!どこに行っていたんだ!!)

駐めたときの風景は頭に残っていたので、認知症・・・とは思わなかったが、スマホの「駐車位置」で安心していたのに・・・残念。

後で考えると、原因が当たり前のごとく分かった。
そもそも何階に駐めたか、という認識が足りなかった。つい前を走っていた車に付いて行ったものだから、駐めた場所が何階か、という確認をしなかった。
そしてスマホの地図の位置は、縦方向(階)は教えてくれないということを、分かっていながら、他の階に行くのが遅れた。2階だったのに3階に固執した。
それに、行くときのエレベーターホールの風景を、後からは思い出せるが、その時はじっくり思い出さなかった。行くときは、エレベーターホールから直接通路は付いていなかったのに(2階)、帰りは通路からそのまま駐車場(3階)に入ってしまった。

帰りの車の中でカミさんが言う。「ここだよ~って車が言ってくれると良いのに・・・」
ここであの親切な人が言っていた「ボタンを押す」という言葉がよみがえった。
そうだ。車のワイヤレスキー(スマートキー)のロックボタンを押せば、車がピーッと言ってランプが点滅するんだった。
その事に気付いていれば、ウロウロしないで、一回りするだけで見付けられたのに・・・

よって今回のドジの再発防止策。
(失った!)車を探すときはスマートキーのロックボタンをオンオフしながら、車から出る音と点滅で探すことにしよう。
何ともドジな、30分、2000歩の散歩ではあった。

(関連記事)
iPhoneで駐車場所を記録!!

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2023年2月17日 (金)

母校の龍ヶ崎市立愛宕中学校の閉校

ひょんな事から母校の中学の閉校を知った。その中学は茨城県龍ヶ崎市立愛宕中学校。
非常に個人的な話だが、思い出すままメモしておくことにした。
中学の3年間、自分が得意だった数学を教えてくれたのは「山さん」。栗山友治先生。その後元気にしているかな?と「竜ヶ崎 栗山友治」でググったら、こんな記事がヒットした(ここ)。何と1年前の2022年3月で愛宕中は閉校し、新たに城南中と共に龍ヶ崎中学として統合されたという。

前に書いたが(ここ)、自分が入学したのは昭和35年4月。龍ヶ崎市立竜ヶ崎中学校。各クラス56~58人で1年の時には10クラスあった。ベビーブームで1学年で約570人。
230217adagochuu 場所は、現在の流通経済大学の敷地にあった。
それが、昭和36年4月から半分に分かれ、それぞれ別の中学と統合されて、愛宕中学となった。3校が2校になったわけだ。しかし新校舎が建設中のため、卒業までの2年間は元の校舎のまま。よって、自分たちには新しい校舎とは無縁で、何の思い出も無い。
その後、校舎は取り壊され、新設(昭和40年開校)の流通経済大学になった。
この写真は、昭和37年1月27日に撮ったもの。渡り廊下でつながった校舎の、西半分が愛宕中、東半分が城南中だった。しかし愛宕中の教室が足りないので、下の写真の城南中側の1階部分2クラスも愛宕中で、自分が2年の時は、右端の5組に居た。担任は栗山先生だった。

先日、旧友から突然の電話がありビックリしたが(ここ)、地元の街はさびれ、店も閉まっているのが多いという。当然児童の数も減っていたのだろう。ググってみると、2021年度の児童数は、1年生55人、2年生63人、3年生68人でそれぞれ2クラスとのこと。自分の居た当時の60年前の1/10。これでは統合されても仕方が無いか・・・
それで、統合された新制・龍ヶ崎中学校の児童数は?というと、2022年度の1年生は3クラス94人、2年生は3クラス104人、3年生は4クラス115人だという。
龍ヶ崎と竜ヶ崎。相変わらずややこしい。
前に「龍ケ崎の表記バラバラ 市は「龍」でも県の施設は「竜」」(ここ)という記事を書いたが、「龍」と「竜」、「ケ」と「ヶ」。
自分が入った当時は「竜ヶ崎中学」だった。今回発足したのは「龍ヶ崎中学」。まあ、元に戻ったワケではない。ということか・・・

龍ヶ崎市の「愛宕中閉校記念誌」(ここ)という記事を読むと、愛宕中の60年の歴史が良く分かる。しかし、自分は新校舎を知らないので、あまり懐かしくない。唯一、先の栗山友治先生については、色々思い出す。
先生が何歳かは、今まで知らなかったが、第12代校長の平沢大吉郎という方の文を読むと、昭和29年4月の入学時に、「10歳年上のピカピカの1年生教師」とある。自分が昭和35年の入学なので、16歳年上。ということは、現在91歳か・・・。
「今でも時々山さんの所へは、教えを乞うために伺っている」とあるのでまだまだお元気らしい。

思い出すのは、栗山先生の1回目の授業の時、「自分の愛称は山さん。“さん”が付くのは敬称なので良いことだ」と言っていたこと。もちろんそれ以来はみんな「山さん」。たぶんこれでずっと呼ばれていたのでは??

「100メートル走の県記録保持者」ということは知らなかった。当時は野球部の指導をしており、6年前の同窓会の時には(ここ)、健康のために毎日ジム通いをしていると聞いた。
そして、この冊子で山さんが、第8代校長になっていたことを知った。平成2年と言うから1990年4月から1993年3月まで、愛宕中の校長だったとは、もう30年も前の話ではあるが、自分まで今ごろ嬉しくなった。
自分の結婚式の主賓までお願いした山さんだが、賀状も途絶えて久しい。
自分も一時期、教師になろうかと思った事もあったが、今思い出すに、多分に山さんの影響では無かったかと思う。

教師は教え子に多大な影響を与える。人生を差配することもある。考えようによっては、怖い仕事。
そんな“人を作る仕事”の教師も、最近は人気が無いという。
自分の人生も終盤に差し掛かり、今さらながら教師という怖い仕事を選ばなくて良かったと思う。到底他人の人生を左右するかも知れない仕事など、自分では無理だった・・・
色々と思い出にふけった一日ではある。

(2023/02/21追)
探したら、当時の帽子の記章が見つかった。下の写真は、上から「昭和35年度までの龍ヶ崎中学校」「昭和36年度~2022年度までの愛宕中学校」「昭和33年当時の龍ヶ崎小学校」の記章。

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2023年2月 9日 (木)

司馬遼太郎の「21世紀に生きる君たちへ」

相変わらず、司馬遼太郎に凝っている。相変わらず、中古の本を買い漁っている。
「街道をゆく」をベースに、担当編集者の著作や、「司馬遼太郎記念館会誌」まで手を伸ばしている。
そんな乱読の中で、司馬さんが小学生の教科書用に書かれた一文があるというので探してみた。

21世紀に生きる君たちへ(司馬遼太郎)
私は、歴史小説を書いてきた。もともと歴史が好きなのである。
両親を愛するようにして、歴史を愛している。
歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、「それは、大きな世界です。かって存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです。」と、答えることにしている。
私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。
歴史のなかにもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。
だから、私は少なくとも2千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。この楽しさは --- もし君たちさえそう望むなら --- おすそ分けしてあげたいほどである。
ただ、さびしく思うことがある。
私がもっていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というものである。
私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。
君たちは、ちがう。
二十一世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。
もし、「未来」という街角で、私が君たちを呼び止めることができたら、どんなにいいだろう。
「田中くん、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている、二十一世紀とは、どんな世の中でしょう。」
そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、ただ残念にも、その「未来」という街角には、私はもういない。
だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。
私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。ななめの画がたがいに支え合って、構成されているのである。
そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。
原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。
それがしだいに大きな社会になり、今は、国家と世界という社会をつくり、たがいに助け合いながら生きているのである。自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。
このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。
助け合うという気持ちや行動のもとは、いたわりという感情である。
他人の痛みを感じることと言ってもいい。
やさしさと言いかえてもいい。
「やさしさ」
「おもいやり」
「いたわり」
「他人の痛みを感じること」
みな似たような言葉である。
これらの言葉は、もともと一つの根から出ている。
根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならない。
その訓練とは、簡単なことだ。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分でつくりあげていきさえすればよい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。
君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀は人類が仲良しで暮らせる時代になるにちがいない。
鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、大切にしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格をもたねばならない。男女とも、たのもしくない人格に魅力を感じないのである。
もういちど繰り返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分には厳しく、あいてにはやさしく、とも言った。それらを訓練せよ、とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていく。そして、“たのもしい君たち”になっていく。
以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすことができない心がまえというものである。
君たち。君たちはつねに晴れ上がった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。
同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。
書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。
(平成元(1989)年「小学校国語六年下」大阪書籍)」

この一文は、1996年3月10日に大阪で行われた「司馬遼太郎さんを送る会」で配られ、古屋和雄NHKアナが15分かけて朗み通したという。

しかし、奥さまのみどりさんにとっては、この一文にさびしい件があるという。
「街道をゆく」の最後の6年間の担当だった村井重俊氏の著「街道をついてゆく」にこんな一文がある。

「・・・
秋になった。
 『本郷界隈』の連載は快調に進んでいた。
 十月、ふたたび司馬さんは東京に滞在していた。十月二十二日には、この年のもうひとつの重要な講演があった。立川市の朝日カルチャーセンター立川での講演で、タイトルは「私の漱石」である。私は司馬さんが亡くなったあとに、週刊朝日で「司馬遼太郎が語る日本――未公開講演録」という連載を長い間続けたことがあるが、その一回目がこの講演だった。連載では「漱町の悲しみ」というタイトルをつけている。
 朝日カルチャーセンター立川社長の畠山哲明への友情から生まれた講演だった。
・・・
・・・
230209kaidou  それにしてもこの講演会は楽しかった。三百五十人の聴衆も、司馬さんの人柄によくふれることができたと思う。もっとも、講演会が終わっても、この日の司馬さんの仕事はまだ終わらなかった。
 赤坂で食事をしたあと、ホテルに戻り、記者会見にのぞんでいる。この年の文化功労者に選ばれていたのだ。
 「私の小説はすべて、二十二歳の私にあてだ手紙なんです」
 と、記者会見で語っている。二十二歳の夏、陸軍の戦車隊に所属し、栃木県佐野市で終戦を迎えた。
 「どうしてこんな馬鹿な戦いをしたのか、日本はそんなにつまらない国だったのかと絶望した二十二歳の自分に対し、日本にもこんな歴史があって、こんな男たちがいたということを伝えたかった。でももう、その義務は果たしましたね」
 と、司馬さんは語っていた。
 私はみどりさんと一緒に、記者会見場の隅で聞いた。記者会見の司馬さんはいつもにもましてまぶしく見えたが、だんだんとさびしくも見えた。さっきまで話していた漱石の悲しみが重なって見えた。
 もっとさびしかったのはみどりさんだっただろう。祝いの記者会見なのに、「もう義務は果たしました]という言葉は聞きたくはなかったと思う。みどりさんは司馬さんの『二十一世紀に生きる君たちへ』もあまり好きではない。未来を生きる小学生のため、もともとは教科書用に書かれたもので、多くの人々に愛読されている。しかし、みどりさんにとってはさびしい件がある。

 私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。

 三浦浩さんも、この部分が好きではなかった。みどりさんが書いた『司馬さんは夢の中 1』(中公文庫)によると、三浦さんは、
 「いやなことを書くひとだな。そのとき、司馬さんは、まだ七十七歳だろう」
 と、みどりさんに電話をかけてきている。
 元気で当たり前の年なのに、である。
 司馬さんは私と歩いているとき、よく後ろを振り返った。駅や空港で後ろを振り返り、 「いや、みどりがね」
 といって、みどりさんが追いつくのをよく待っていた。そのまなざしは常に優しかったことをよく覚えている。そのわりに、唐突に悲しいことを言っては、みどりさんを憂鬱にさせる。これもまた司馬さんだった。」(村井重俊著「街道をついてゆく」p72~77より)

司馬さんの、1996年の突然の死の4年半前のことだ。
上の文で「七十七歳」とあるが、正確には68歳のときだった。
この1991年の文化功労者の後、1993年には文化勲章を受章している。

まさか60代で死を予感していたとは思えないが、「私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。」という言葉や、「もう義務は果たしました]という言葉は、家族は聞きたくない言葉だっただろう。

とにかく読めば読むほど、司馬遼太郎という人が72歳で亡くなってしまったことが残念でならない。
それと、漱石が「三四郎」で広田先生をして「日本はだめになる」と言わしめた日本の将来。先の敗戦に続いて再度「ダメに」なりつつある日本を再生させるのは、上の教科書を読んだ子どもたちに託すしかないか・・・(もちろん自分たちは既に居ないが)

(2023/02/15追)
1999/9/7~2000/5/28に全国各地で開かれた「司馬遼太郎が愛した世界展」のカタログの、「初版本一覧(P180~P189)」によると、司馬遼太郎が残した作品は、初版本(単行本)レベルで115冊、延べ213巻だという。

また「司馬遼太郎記念館」の「文庫リスト」(ここ)によると、本日(2003年2月)現在の文庫の小説は69作品、141巻。エッセイなどは60作品、92巻。そして「街道をゆく」が43巻+2巻の45作品。合わせると174作品、278巻とのこと。

●メモ:カウント~1400万

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