司馬遼太郎の「空海の風景」が面白かった
司馬遼太郎の「空海の風景」が面白かった。面白い、というより“良かった”と言うべきか?
言うまでも無く、「空海の風景」は「中央公論」の1973年(昭和48年)1月号から1975年(昭和50年)9月号に連載された小説。
しかし、自分が今まで読んだ小説とは少し違う。文庫の解説(p412)にこうある。
「書きあげられた『空海の風景』は、まさしく小説にちがいなかったが、伝記とも評伝ともよばれうる要素を根柢に置いているがゆえに、空海を中心とする平安初期時代史でもあれば、密教とは何かに関する異色の入門書でもあり、最澄と空海の交渉を通じて語られた顕密二教の論でもあり、またインド思想・中国思想・日本思想の、空海という鏡に映ったパノラマでもあり、中国文明と日本との交渉史の活写でもあるという性格のものになった。」
まさにこの通りの「小説」なのである。
しかし読んでいると引き込まれる。いつもの“司馬節”に・・・
「街道をゆく」もそうだが、読んでいくと、まさに木の幹をから枝が分かれるがごとく世界が広がって行く。まさに勉強になる。
話は飛ぶが、昔現役の頃「電気工事施工管理技士」という国家資格を得るために受験勉強をしたことがある。その時、数十年ぶりに机に向かった。試験勉強のためのテキストを読むと、まさに今まで乱雑に頭に放り込まれていた知識が、体系的にスッキリと頭の中で整理されていく実感があった。
その時の事を思い出した。
この「空海の風景」も同じで、自分の仏教、密教、空海、最澄、桓武天皇等々の断片的な知識が、頭の中で結合していく・・・
信義真言宗という名もそうだ。我が家の菩提寺は信義真言宗だという。昔の過去帳を見ると、浄土系のお寺から、自分の祖父の時代に今の所に移したらしい。過去帳の法名、戒名で分かる。
その信義真言宗の始まりも、この本に出て来たので、和歌山の根来寺について、つい勉強してしまった。
空海の真言宗については、(天下り)会社に勤めていた2006年、事務所が品川の近くの高輪台に移転した。そこに通っていた約2年間、昼休みに良く近所を散歩した。そこに高野山東京別院というお寺があり、よく行ったものだ。当時は、当サイトにも書いたが、仏教に興味があり、色々と仏教関係の本を読んでいた。
空海の舞台の長安(西安)に旅行したのが2009年5月(ここ)。
大雁塔や青龍寺にも行った。その光景がまだ頭に残っているので、この物語を読んでも、非常に身近に感じられた。特に青龍寺は、ツアーのコースには入っていなかったが、別途料金を払って、連れて行ってもらった。もちろんこのお寺は、1000年もの間、土に埋もれていたので、当時の面影はないが、でも行っておいて良かった。
1984年(昭和59年)公開の映画「空海」も前にDVDを借りて観たことがある。空海は北大路欣也、最澄は加藤剛だったが、この本を読むと、“やり手”空海の北大路と、“マジメ人間”最澄の加藤は、まさにはまり役だった事が分かる。
wikiで「空海の風景」を読むと、2002年に「NHKスペシャル 空海の風景」がNHKテレビで放送された、とある。これも見たいな、と思ってググったら、何とYoutubeで見ることが出来た(ここ)。
広告で時々中断するが、全編を見ることが出来、いやはやスゴイ時代だ。
「街道をゆく」と同じで、本に出てくる場所が、TV画面に出てくるので、実に理解しやすい。
本番組の制作スタッフによる歴史紀行「『空海の風景』を旅する」という本も出ているという。これも買って読むしか無いな・・・
話は戻るが、司馬遼太郎がこの本の制作意図?をあとがきで書いている。これを読みながら、自分が5点満点の6点を付けた「空海の風景」の話のオワリとする。
「千数百年も前の人物など、時間が遠すぎてどうにも人情が通いにくく、小説の対象にはなりにくいものだが、幸いにして空海はかれ自身の文章を多く残してくれたし、それに『御遺告』という、かれの死後ほどなく弟子たちが書いた空海の言行が、多少は真偽の問題があるとはいえ、まずまず空海に近づくためのよすがにはなりうるのである。この点では、上代人としての空海は右の事情からの例外であるといえる。
しかし、何分にも遠い過去の人であり、あたりまえのことだが、私はかれを見たことがない。その人物を見たこともないはるかな後世の人間が、あたかも見たようにして書くなどはできそうにもないし、結局は、空海が生存した時代の事情、その身辺、その思想などといったものに外光を当ててその起伏を浮かびあがらせ、筆者白身のための風景にしてゆくにつれてあるいは空海という実体に偶会できはしないかと期待した。
この作品は、その意味では筆者自身の期待を綴って行くその経過を書きしるしただけのものであり、書きつつもあるいはついに空海にはめぐりあえぬのではないかと思ったりした。もし空海の衣のひるがえりのようなものでもわずかに瞥見できればそこで筆を擱こうと思った。だからこの作品はおそらく突如終ってしまうだろうと思い、そのことを期待しつつ書きすすめた。結局はどうやら、筆者の錯覚かもしれないが、空海の姿がこの稿の最後のあたりで垣間見えたような感じがするのだが、読み手からいえばあるいはそれは筆者の幻視だろうということになるかもしれない。しかし、それでもいい。筆者はともかくこの稿を書きおえて、なにやら生あるものの胎内をくぐりぬけてきたような気分も感じている。筆者にとって、あるいはその気分を得るために書きすすめてきたのかもしれず、ひるがえっていえばその気分も、錯覚にすぎないかもしれない。そのほうが、本来零であることを望んだ空海らしくていいようにも思える。
昭和五十年十月 司馬遼太郎 」(「空海の風景」p407より)
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