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2022年9月 3日 (土)

司馬遼太郎の「国盗り物語」「関ヶ原」を読んで再認識したこと

相変わらず、コロナ渦にかまけて、運動もせず、自室にこもって司馬遼太郎の戦国物に逃げている最近だが、今までの自分の常識がくつがえる?記事を読んだので、今日はその話。

220903siba 司馬遼太郎が面白く、中古本を数十冊買い集めている。ついでに、司馬遼太郎のガイドブックのような本も買って、何を読むかの指針にしているが、先日買った「KAWADE夢ムック 司馬遼太郎の「戦国時代」」(2002年8月刊)の「司馬遼太郎「戦国物全長編」を読む」に面白い記述があった。

まず「国盗り物語」の斎藤道三の親子二代説。この話は、先日KeiichiKodaさんから教えて頂いたが(ここ)、詳しい記述があった。

「「国盗り物語」
下剋上のダイナミズム 磯貝勝太郎
・・・
 司馬遼太郎が述べているように、斎藤道三についての史実を伝える資料はきわめて少ない。歴史家の桑田忠親の研究によると、道三は明応三年(一四九四)、山城の国乙訓郡西ヶ岡(現在の京都市)の北面の武士、松浪左近将監基宗の子であったという。だが、『洞堂軍記』には、京都の傘張り職人の子として生まれたと書いてあり、『江濃記』には、山城の国の西ヶ岡から浪人して美濃に流れてきたと記されている。桑田忠親が道三を京都の西ヶ岡の松浪基宗の子である、と指摘されたのは、太旧牛一の『信長公記』に典拠している。
 ところが昭和四十七年ごろ、注目すべき資料が発見されている。『六角承禎条目』である。これは横浜市春日力氏所蔵の永禄三年(一五六〇)七月二十一日付、平井兵衛尉以下五人宛の文書で、『岐阜県史』編纂委員によって発見されたのである。『六角承禎条目』によると、道三の父は、新左衛門尉という、もと京都の妙覚寺の法華坊主であったが、美濃に流れてきたとき、西村と称し美濃守護職の土岐家の執権、長井利隆に仕えて、長井氏と改めたあとで、その国の実力者に成長したという。そして、その子の道三は、父の死後、土岐頼芸を国主にしたのち、ほどなく頼芸を追放し、美濃を奪ってしまったというのである。
 この『六角承禎条目』の長井新左衛門と松浪基宗とが同じ人物であったとすれば、“美濃の国盗り”は、父親の新左衛門とその子の道三との二代にわたるものであり、京の油問屋の奈良屋を奪い取り、灯油の行商人となったのち、美濃に流れてきたという興味深い物語は、作り話ということになる。『国盗り物語』の道三は、妙覚寺の法蓮房、松浪庄九郎、西村勘九郎、長井新九郎など、生涯に十三回、姓名を変えており、変えるたびごとに身分が上がっているが、『六角承禎条目』に記されていることが史実であるならば、妙覚寺の法蓮坊から長井氏と改名するにいたるまでは、父親の略歴にあたり、父親の代に、すでに、美濃を乗っ取る謀略がすすめられていたのである。その子の道三は、美濃で生まれたか、もしくは、幼少のころ、父に連れられて、美濃に来ていたことになり、“美濃の国盗り”は父子二代によるものであったと推定される。
 したがって、道三が油問屋の奈良屋とその後家のお万阿を手中にしたあとで、永楽銭の真ん中の四角い穴から油を流し込むという至芸を売り物とする灯油の行商人となり、その後、美濃に流れてきたというのは伝説、逸話のたぐいにすぎない。『六角承禎条目』が『岐阜県史・資料編』に収録、刊行されたのは昭和四十八年である。『国盗り物語』が刊行されたのは昭和四十一年なので、司馬遼太郎は『六角承禎条目』をふまえて、『国盗り物語』を書くことはできなかったが、流布している伝説、逸話のたぐいを使って、作者ならではの道三を筆端に躍動させている。『国盗り物語』の道三は、史実上の彼と異なっていても、文学作品の価値がいささかもそこなわれることはない。・・・」(司馬遼太郎の「戦国時代」P51より)

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んで、我々は「薩長同盟を締結できたのは龍馬がいたからだ」「大政奉還の立役者だった」と思い込んでいるが、実態はぜんぜん違う。という話もあるが(ここ)、同じように、「国盗り物語」を読んで、それが史実だとつい思い込んでしまう。
それだけ司馬遼太郎の小説の影響が大きいという事。たぶん、吉川英治の「宮本武蔵」も同じでは無いか・・・

次に、秀吉の正室、北政所について・・・

「「関ヶ原」
石田三成の冤(ぬれぎぬ)を雪(そそ)ぐ 横田淳
・・・
 「関ヶ原」で豊臣家から政権を奪い取った徳川家は、その行為に正当性を与える必要があった。江戸開幕後、朱子学(儒学)を導入して封建社会の秩序を創りあげていく徳川政権にとって、「関ケ原」の過去はどうしても都の悪いものであった。家康が戦ったのは「主家」豊臣家であってはならなかった。その名を騙る「悪」でなければならなかったのだった。三成は徳川政権から敵役に指名され、その御用史家によって「奸人」に仕立て上げられることになる。徳川政権が「関ケ原戦犯」の三成を赦すことはなく、その歪められたイメージは二百数十年の歳月をかけて語り継がれ、“事実”となっていった。」(司馬遼太郎の「戦国時代」P103より)
・・・
「三成のスタート以前から大坂では、着々と家康討伐計画が進められていたに違いない。三成が最初に挙兵計画をうち明けた人が吉継である、このことが事実ならば、三成は挙兵計画の発起人ではなく、そのひとり、あるいは一流に過ぎなかったといえよう。
 さらに驚くべきことは、北政所の動きである。家康を支持し、加藤清正・福島正則などのいわゆる尾張系の大名を家康に荷担させ、実の甥にあたる小早川秀秋には裏切りを命ずるなど、徳川方の勝利に重要な役割を果たしたといわれる北政所は、七月七日に豪姫が行った必勝祈願の式典に側近の「東殿局」を代参させ、また伏見城攻撃が開始されている二十三日に宇喜多秀家が豊国社に参詣すると、秀家に祈祷を依頼しているのである。秀家は秀吉に家康討伐の義挙を報告し必勝を祈願したに違いなく、北政所の行動は大坂方の家康討伐を肯定、さらには秀家にそれを指示していたとすら推察できるのだ。北政所は大坂方を支持していたのだった。
 北政所の家康支持説は、秀吉の正室ですら家康を支持したと、その行為を正当化する作用と、秀吉が没してわずか数年であまりに無節操に「利」に奔った豊臣家恩顧の諸侯を、北政所の指示・助言を理由に救済するために創りあげられた虚構だったのだ。・・・」((司馬遼太郎の「戦国時代」P106より)

司馬遼太郎も「城塞」で、徳川家康が冬の陣、夏の陣で行った豊臣家を滅ぼす手段は、「犯罪行為」とまで言っている。
勝った者がそれまでの歴史を書き換え、自己を正当化する。これは鎌倉幕府の「吾妻鏡」が「源氏に厳しく北条に甘いという特徴を持つ」というのと同じ。
しかし、後世の人は、それ以外の史料がないので、それらを信じるしか無い・・・

司馬遼太郎の作品を読むと、随所に引用文献が出てくる。色々なエピソードも、ほとんどが各史料に基づいており、その調査能力には感心する。
しかし、もちろん筆者の考えでそれらは小説として色付けされ、それがベストセラーとして広く読まれることによって、「歴史」となってしまう。

歴史的な事実というのは、発見された史料によって、色々な説が出てくる。BS-TBSの「関口宏の一番新しい古代史」でも、色々な説が紹介されていた。
その意味では、上記もある一説であり、これを否定する説も多いのかも知れない。

話は変わるが、世を騒がせている安倍元首相の国葬問題。
これも勝った者(自民党)が、勝手に歴史を作ってしまう一例なのだろうか?

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コメント

別のところで、「関ケ原」と「城塞」は10年ぐらいまえに、続けて読んだことを書きましたが、そのすぐあとに読んだのが池波正太郎の「真田太平記」(新潮文庫で全12冊)です。前者の司馬さんの2つの作品と池波さんの「真田太平記」は時代的にも対象的にも重なっている部分が多く、たとえば、後者の第7巻は「関ケ原」、第10巻が「大阪入場」、第11巻が「大坂夏の陣」というタイトルになっています。私は、両者をほぼ同時期に読んだので、一つ一つのエピソードがどちらの本に書かれていたか、思い出せないくらいですが、池波さんの本も抜群に面白い歴史小説であったことは間違いありません。大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当し、「真田四代と信繁」という本(平凡社新書)を書いた慶應大学の丸島和洋氏はこの新書のあとがきで、高校時代にNHKのTVドラマ「真田太平記」(の再放送)とその原作にはまったのがきっかけとなって、本格的な真田研究に進んだ、と書いています。エムズさんも、お時間があったら、ぜひ池波さんの「真田太平記」も読んで、司馬さんの本と比較してみてください。

【エムズの片割れより】
そうですか。やはり池波正太郎の「真田太平記」は良いですか・・・
ぜひ読んでみたいと思います。
しかし、司馬遼太郎を買い集めたため、その後かな??
アドバイスありがとうございました(^o^)

投稿: KeiichiKoda | 2022年9月 5日 (月) 10:36

小さな書庫と呼んでいる部屋の本箱の中に
司馬遼太郎、、池波正太郎、、並んでいますが、私は全く開いたことが有りませんでした。いつもエムズの片割れ様とkeiichikoda様とのやり取りを楽しく拝見させてもらっています。お二人の言葉に触発されてまいりました。後ればせながら私も老境も終盤に差し掛かりましたが、ページを紐解きたいと思います。気になっていた(内心)本たちですので。(夫には内緒一から蘊蓄を話し出しますから)
宜しくご指針下さいます様にお願いいたします。

コメントにもなりませんが一言述べさせてもらいました。

エムズの片割れ様
 秋風が感じられました頃から、ボイストレーニングに通いたいと思っています。耳鼻科は違うところに参ります。喜寿が迫って参りました。これからでも何かを始めますのに遅いという事はありませんですわね。
エムズの片割れ様もどうぞお身体ご自愛くださいます様に。手術も恙無くと祈っております。

【エムズの片割れより】
自分は音楽を卒業?して、今は本に凝っていますが、ウチのカミさんは、若いときからずっと読書好き。
しかし、自分とはジャンルも何もかも全く別です。
同じ系統なら二人で読めるので、本の効率も良いのですが、まったく別の世界を生きています。
そう言えば、TVドラマも全く合わない・・・
最近では、居間のTVでNHKを見せてくれません。
自分も最近NHKニュースは見なくなりましたが・・・

ご主人の本の世界をぜひ覗いて見て下さい。
ウチの弟は、若い頃は戦国の小説に凝りました、今は全く読まないとか・・・
自分はまったくその逆。
まあ長い人生、色々ですね。

投稿: ふるかわ かずえ | 2022年9月 5日 (月) 12:33

私は司馬遼太郎は卒業して(笑)、いまは別の本を読んでいます。司馬遼太郎の本は歴史好きの中学生の孫に送って、読ませています。先日も「国盗り物語」と「項羽と劉邦」を送りました。たぶん、勉強の邪魔をするといって息子の嫁からはにらまれているかもしれません(笑)。別の本とは、定年後に読もうと買い込んであった萩原延壽『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』(朝日新聞社)という全14巻からなるアーネスト・サトウの評伝です。昔、岩波文庫で読んだことのある『一外交官の見た明治維新』の著者のあのアーネスト・サトウです。まだ第1巻を読み終えたにすぎないので、残りを読むのが楽しみです。私の手元にあるこの本の最後の第14巻に、朝日新聞(2001/11/11)に載った本書の書評の切り抜きが挟んでありました。本書は朝日新聞の1976年から90年まで中断はあるが1947回にわたって連載したものを加筆修正したものなので、朝日新聞の購読者の方ならご記憶にある方がおられるかもしれません。第14巻の第1刷が2001年10月20日、著者の萩原氏は8日後の28日には他界している。この本がどういう本かということを上記の2つの書評から引用しておきましょう。「アーネスト・サトウは1862年、イギリス外務省の通訳生として19歳で日本にやってきた。そして82年に帰国するまでイギリスの対日外交の最前線にあった。著者は、サトウ日記を中心に、パークス公使、ウィリス医官らの公文書、私文書をふんだんに用いて、イギリスから見た維新期の日本を、生き生きと描き出している」(北岡伸一)。「『遠い崖』が歴史読み物として面白いのは、公刊された書物よりも、アーネストサトウが残した日記を中心に、公文書、半公信(公式報告と私信の中間の性格を持つ手紙)、さらには故郷の親族に宛てた手紙など、埋没していた膨大な資料をもとに、幕末から明治にかける動乱の時期の日本を描き出すからである」(北上次郎)

【エムズの片割れより】
アーネスト・サトウは、名前だけ知っていましたが、改めてwikiを読みました。
それにしても、KeiichiKodaさんは世界が広いですね。
自分は難しい本はNGです(^o^)

投稿: KeiichiKoda | 2022年9月 8日 (木) 09:02

エムズさんは司馬遼太郎の「覇王の家」はお読みになりました?この本は徳川家康を描いた本です。NHKEテレに「100分de名著」(NHKEテレ)という番組がありますが、今月はこの本を取り上げるようです。講師は作家の阿部龍太郎氏です。第1回は8/7(月)の22:25-50です。この番組は、いつもではありませんが、興味ある本がとりあげられるときは、わたくしも視聴しています。いま、大河ドラマでも徳川家康が主人公なので、これに合わせて取り上げたのでしょう。興味がおありでしたら、ご覧ください。お知らせまで。

【エムズの片割れより】
「100分de名著」は前に良く見ましたが、最近はサボっていました。
さっそく、予約しました。ありがとうございます。
「覇王の家」はだいぶ前に読みました。
今は「坂の上の雲」の復習で、NHKのドラマSPをオンデマンドで見ています。
また書きますが、相変わらず司馬遼太郎にはまったままです。

投稿: KeiichiKoda | 2023年8月 3日 (木) 15:23

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