小川未明「野ばら」~100年前の童話、侵攻の惨禍予見?
今日(2022/05/10)の毎日新聞夕刊のトップに「日本のアンデルセン・小川未明「野ばら」100年前の童話、侵攻の惨禍予見?」という記事があった。
「小川未明「野ばら」100年前の童話、侵攻の惨禍予見?
約100年前の日本で、現代のロシアによるウクライナ侵攻を思わせる一編の童話が発表された。「日本のアンデルセン」と呼ばれた児童文学作家、小川未明(1882~1961年)による「野ばら」だ。「大きな国」と「小さな国」で戦争が起き、仲が良かった両国の兵士2人が巻き込まれていく物語は、今まさに起きている惨禍を予見したかのようだ。未明をよく知る人たちは「今だからこそ、この作品を読んでほしい」と訴える。
・・・ この作品は1920(大正9)年、大正日日新聞に掲載された。第一次世界大戦の後で、世界情勢は不穏な時期だった。未明の孫で詩人の小川英晴さん(70)は、作品が具体的な国を想定したものだったかどうかは分からないとしつつ、「いつの時代も『小さな国』は虐げられかねない立場にある。その思いがあったことは間違いない」と語る。
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昭和初期には、雑誌「婦人之友」に「男の子を見るたびに『戦争』について考えます」という文章を寄せた。世の親が健やかに育てようと心を砕いてきた子供たちが、戦争によって危険にさらされ、「互(たがい)に、罪もなく、怨(うら)みもなく、しかも殺し合って死ななければならぬ」「戦うことに於(おい)て、いかなる正義が得られ、いかなる真理の裁断が下され得るか」と、強く反戦を訴えた。未明は2人の子を病気で失った経験もあった。
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大人こそ読んで
未明が「野ばら」で描こうとしたこととは何だったのか。 英晴さんは「国同士で殺し合いをする理由など本来はない。突然、敵対する関係になったとき、両国の人たちがどれだけつらく悲しく、いたたまれない思いがするかということ」だと考えている。
現代のロシア、ウクライナ両国にも、国境を越えた友人同士や親戚関係にある人たちがいる。「1人の為政者の判断で、何万人もの人が死に至ることがある」と、その責任の重さを指摘する。言葉の世界に携わる詩人の一人として、「文学が少しでも誰かを救うことができれば」と願う。・・・」(2022/05/10付「毎日新聞」夕刊p1より)
この童話は、青空文庫で読む事が出来る(ここ)。
「野ばら 小川未明
大きな国と、それよりはすこし小さな国とが隣り合っていました。当座、その二つの国の間には、なにごとも起こらず平和でありました。
ここは都から遠い、国境であります。そこには両方の国から、ただ一人ずつの兵隊が派遣されて、国境を定めた石碑を守っていました。大きな国の兵士は老人でありました。そうして、小さな国の兵士は青年でありました。
二人は、石碑の建っている右と左に番をしていました。いたってさびしい山でありました。そして、まれにしかその辺を旅する人影は見られなかったのです。
初め、たがいに顔を知り合わない間は、二人は敵か味方かというような感じがして、ろくろくものもいいませんでしたけれど、いつしか二人は仲よしになってしまいました。二人は、ほかに話をする相手もなく退屈であったからであります。そして、春の日は長く、うららかに、頭の上に照り輝いているからでありました。
ちょうど、国境のところには、だれが植えたということもなく、一株の野ばらがしげっていました。その花には、朝早くからみつばちが飛んできて集まっていました。その快い羽音が、まだ二人の眠っているうちから、夢心地に耳に聞こえました。
「どれ、もう起きようか。あんなにみつばちがきている。」と、二人は申し合わせたように起きました。そして外へ出ると、はたして、太陽は木のこずえの上に元気よく輝いていました。
二人は、岩間からわき出る清水で口をすすぎ、顔を洗いにまいりますと、顔を合わせました。
「やあ、おはよう。いい天気でございますな。」
「ほんとうにいい天気です。天気がいいと、気持ちがせいせいします。」
二人は、そこでこんな立ち話をしました。たがいに、頭を上げて、あたりの景色をながめました。毎日見ている景色でも、新しい感じを見る度に心に与えるものです。
青年は最初将棋の歩み方を知りませんでした。けれど老人について、それを教わりましてから、このごろはのどかな昼ごろには、二人は毎日向かい合って将棋を差していました。
初めのうちは、老人のほうがずっと強くて、駒を落として差していましたが、しまいにはあたりまえに差して、老人が負かされることもありました。
この青年も、老人も、いたっていい人々でありました。二人とも正直で、しんせつでありました。二人はいっしょうけんめいで、将棋盤の上で争っても、心は打ち解けていました。
「やあ、これは俺の負けかいな。こう逃げつづけでは苦しくてかなわない。ほんとうの戦争だったら、どんなだかしれん。」と、老人はいって、大きな口を開けて笑いました。
青年は、また勝ちみがあるのでうれしそうな顔つきをして、いっしょうけんめいに目を輝かしながら、相手の王さまを追っていました。
小鳥はこずえの上で、おもしろそうに唄っていました。白いばらの花からは、よい香りを送ってきました。
冬は、やはりその国にもあったのです。寒くなると老人は、南の方を恋しがりました。
その方には、せがれや、孫が住んでいました。
「早く、暇をもらって帰りたいものだ。」と、老人はいいました。
「あなたがお帰りになれば、知らぬ人がかわりにくるでしょう。やはりしんせつな、やさしい人ならいいが、敵、味方というような考えをもった人だと困ります。どうか、もうしばらくいてください。そのうちには、春がきます。」と、青年はいいました。
やがて冬が去って、また春となりました。ちょうどそのころ、この二つの国は、なにかの利益問題から、戦争を始めました。そうしますと、これまで毎日、仲むつまじく、暮らしていた二人は、敵、味方の間柄になったのです。それがいかにも、不思議なことに思われました。
「さあ、おまえさんと私は今日から敵(かたき)どうしになったのだ。私はこんなに老いぼれていても少佐だから、私の首を持ってゆけば、あなたは出世ができる。だから殺してください。」と、老人はいいました。
これを聞くと、青年は、あきれた顔をして、
「なにをいわれますか。どうして私とあなたとが敵(てき)どうしでしょう。私の敵は、ほかになければなりません。戦争はずっと北の方で開かれています。私は、そこへいって戦います。」と、青年はいい残して、去ってしまいました。
国境には、ただ一人老人だけが残されました。青年のいなくなった日から、老人は、茫然として日を送りました。野ばらの花が咲いて、みつばちは、日が上がると、暮れるころまで群がっています。いま戦争は、ずっと遠くでしているので、たとえ耳を澄ましても、空をながめても、鉄砲の音も聞こえなければ、黒い煙の影すら見られなかったのであります。老人は、その日から、青年の身の上を案じていました。日はこうしてたちました。
ある日のこと、そこを旅人が通りました。老人は戦争について、どうなったかとたずねました。すると、旅人は、小さな国が負けて、その国の兵士はみなごろしになって、戦争は終わったということを告げました。
老人は、そんなら青年も死んだのではないかと思いました。そんなことを気にかけながら石碑の礎(いしずえ)に腰をかけて、うつむいていますと、いつか知らず、うとうとと居眠りをしました。かなたから、おおぜいの人のくるけはいがしました。見ると、一列の軍隊でありました。そして馬に乗ってそれを指揮するのは、かの青年でありました。その軍隊はきわめて静粛で声ひとつたてません。やがて老人の前を通るときに、青年は黙礼をして、ばらの花をかいだのでありました。
老人は、なにかものをいおうとすると目がさめました。それはまったくの夢であったのです。それから一月ばかりしますと、野ばらが枯れてしまいました。その年の秋、老人は南の方へ暇をもらって帰りました。
小川未明(1882~1961)
小説家・児童文学作家。本名は小川 健作(おがわ けんさく)。「日本のアンデルセン」「日本児童文学の父」と呼ばれ、浜田広介と坪田譲治と並んで「児童文学界の三種の神器」と評された。
「未明」という雅号は小川の師である坪内逍遥が付けたもので、正しくは「びめい」と読む。」
同じような話として、前に「今だからこそ読んで欲しい寓話~フランク・パブロフの「茶色の朝」」(ここ)という記事を書いた。8年前だ。
今、まさに“現実として”侵略戦争が起こるとは・・・
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