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2022年5月の9件の記事

2022年5月31日 (火)

「メディアの劣化」~本当に必要な報道か?

今日(2022/05/31)も「【速報】山梨・道志村 新たに人の骨とみられるもの4つ見つかる 26日から相次ぎ発見 小倉美咲さんとの関連捜査」というニュースが流れていた。
本当に速報で流す必要のある事件なのだろうか?
自分の疑問について、然りと思った記事や発言を見付けた。

まず、青木理氏の発言。それをスポーツ報知が記事にしていた。
青木理氏、4630万円の誤送金事件に時間を割く番組に疑問「メディアの劣化という気もしちゃったりする」

 ジャーナリストの青木理氏が22日(2022/05/22)、コメンテーターを務めるTBS系「サンデーモーニング」(日曜・午前8時)に生出演した。
 番組では、山口県阿武町が誤って振り込んだ新型コロナ対策の臨時特別給付金4630万円の一部を使用したとして、電子計算機使用詐欺容疑で無職・田口翔容疑者(24)が逮捕された事件を報じた。

 青木氏は、今回の事件を「重大な問題ではあるんですけど、ちょっと僕は思うのは、テレビの情報番組、先週ぐらいからこぞってこれをやっているんです」と指摘し「ただ、コロナ対策の予備費、数兆円何使ったかよくわかりませんよ、なんていう問題も一方であったり、お金の問題で言えば。あるいは例えば公文書改ざんの問題もいまだによくわかりませんよっていう問題も、もっとやるべきことがあるのに、何かこの問題ばっかり、いろんな情報番組が時間をかけてやっているっていう状況が僕はメディアの劣化という気もしちゃったりするんですけど、いかがでしょうかね」と疑問を投げかけた。・・・(以下略)」(2022/05/22付「スポーツ報知」ここより)

そして、2022/05/29付「毎日新聞」の「松尾貴史のちょっと違和感」というコラムにも、こんな記事があった。

誤入金報道は扱いすぎ 大問題見えなくする嫉妬心

 山口県阿武町から誤って振り込まれた新型コロナウイルス対策の臨時特別給付金4630万円の一部を誤入金だと知りつつ別の口座に振り替えたとして、町内に住んでいた無職の住民(24歳)が逮捕された。電子計算機使用詐欺という容疑のようで、そういう罪が存在することを初めて知った。逮捕前から随分と長い間にわたって、テレビのワイドショーでは連日膨大な時間を割いてこの件を詳細に報じ続け、多くのコメンテーターのコメントが垂れ流され、この国のとんちんかんぶりが際立っていた。

 誤入金にしては金額が大きいとか、担当者がいかにおっちょこちょいだとか、問題の住民がいかに「がめつい」とか、いろいろと話す種はあるのだとは思うが、これがどれほどの視聴者、多くの国民に有益なことなのかを考えると、あまりにもピントがズレ過ぎていないだろうか。もっと大切で、桁違いに大きな問題は山積みなのに、なぜこの話題がこれほどまで執拗(しつよう)に取り扱われるのだろうか。

 新型コロナ対策で組まれた十数兆円の使い道がまともな説明もなされず判然としない中、その金額と比べて5桁も6桁も小さな誤入金の話題がそれこそ桁違いに長大に扱われることには大きな違和感を覚える。前首相の菅義偉氏が何に使ったのかを明らかにしない、できない官房機密費の数十億円も追及されないが、誤入金された市民の4630万円は偏執狂的に追及し続けるテレビはどこに向かっているのか。

 もちろん、それは視聴率に向かっているのだろう。この誤入金の話題は、視聴率が取れてしまうのだ。なぜ多くの人の関心事になるのか。私が思うに、これはある種の嫉妬の感情なのだ。山本夏彦氏の「嫉妬は正義の仮面をかぶってやってくる」という名言があるが、嫉妬の感情を表に出すときに「正義のふり」はすこぶる使い勝手が良いのだ。「補助金目当てに阿武町の安い賃料の住宅に移り住んで、無職でぬれ手であわの4630万円をもらうなんて許せない」というせせこましい嫉妬心が、多くのメディアや視聴者の嫉妬心に火をつけて、比べものにならないほどの税金の誤った使い方から目をそらされるという状態に陥っている。・・・(以下略)」(2022/05/29付「毎日新聞」「松尾貴史のちょっと違和感」より)

最近は、返金のメドが立ったためか、やっとニュースの項目から消えた。誤振込は、珍しいことでは無く、5000万円が振り込まれてビックリした、という人もニュースに出ていた。それが今回は、たまたま、使ってしまった、と言ったために、これだけの大騒ぎになった。いやメディアが「大騒ぎにした!」のかも。
それをやっと青木さんたちが指摘してくれた。

同じようなトンチンカンを感じるのが、山梨・道志村の骨探し。事件か事故か分からないために、警察が調べるのは仕方が無いとして、DNA鑑定で個人が特定できたのに、なぜ膨大な人力をつかって延々と未だに探しているのだろう。事件か事故かを判断するために必要なのか?
もし自分が当事者だったら、「もう結構です。充分です」と言って捜査を終了して貰うだろう。個人的な事件のために、あまりに膨大な公金を使っていることに胸が痛むのでは?それに探している人の心中如何に?

同じような話として、北朝鮮の拉致問題がある。孫の来日まで果たしていながら、繰り返しニュースに取り上げられる。政治家の思惑もあるのだろうが、聞いていて辟易する。

知床遊覧船事故もウクライナも、同じような内容の番組がダラダラと流れている。そう言えば、コロナも同じような内容の番組が多かった。

特にTVは、視聴率至上主義で、内容はどうでも、視聴率が取れるように番組が作られているという。そういう意味では、メディアを劣化させている原因は、我々自身が作っているのかも知れない。

今日は、ちょっと危険な言葉を吐いた。正反対の意見の人も多いと思う。
でも、最近我が家ではTVのニュース番組は見ないことにしている。Netニュースを覗くことで充分・・・。
同じような意見の記事を見付けてホッとするこの頃である。

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2022年5月29日 (日)

ドラマ「高校教師」のラストシーン~森田童子の「ぼくが君の思い出になってあげよう」「君と淋しい風になる」

昨日(2022/05/28)書いた『ドラマ「高校教師」~森田童子の「男のくせに泣いてくれた」と「G線上にひとり」』(ここ)の続きである。
このドラマの挿入歌に、先に紹介した2曲の他に、第7話のエンディングに「ぼくが君の思い出になってあげよう」が、第8話のエンディングに「君と淋しい風になる」が、第9話のオープニングに「君は変わっちゃたネ」が使われている。
主題歌の「ぼくたちの失敗」は(ここ)に、「君は変わっちゃたネ」は(ここ)に紹介済みなので、今日は、残った「ぼくが君の思い出になってあげよう」「君と淋しい風になる」を紹介したい。

<森田童子の「ぼくが君の思い出になってあげよう」>

「ぼくが君の思い出になってあげよう」
  作詞・作曲:森田童子

君は いつか
ぼくから離れて
ひとりで
大人に なってゆくのサ
ほんの少し
淋しくても 君は 都会の中で
ひとりで
やってゆけるサ

君が忘れた
砂ぼこりの風が吹く
この街に
ぼくはいる
淋しかったら
いつでも 帰っておいで
ぼくは
待っていてあげよう

年上のぼくが
淋しいと云ったら
君はこのぼくを
笑うかな
さびれたこの街で
もう若くはない ぼくは
君の
思い出になってあげよう


<森田童子の「君と淋しい風になる」>

「君と淋しい風になる」
  作詞・作曲:森田童子

明日になれば
どのように
ぼくは
君を愛すだろう
時は 短かく
ぼくたちは
もっと短かい
形のない愛は
いつもぼくを すりぬけて
いつか ふたりは
淋しい 風になる

明日になれば
ぼくたちは
ひとり どうして
生きるだろう
君が いない
この朝は
もっと淋しい
形のない愛は
いつもぼくを すりぬけて
いつか ひとりで
淋しい 風になる

このドラマ「高校教師(1993年版)」は、ラストシーンの議論も面白い。
視聴率33%を記録したという最終回はYoutubeの(ここ)で見られるが、主人公の2人が、最終的にどうなっったか?が謎なのである。

「高校教師(1993年版)」のwikiには、ラストシーンについてこんな記述がある。

「最終話のラストシーンについては、当時から謎とされて視聴者により議論がなされ、下記のようにさまざまな解釈がなされている。

・心中説 (2人とも死亡。最も一般的な解釈とされる)
・自殺説 (羽村のみ死亡し、走馬灯を見ている)
・居眠り説 (駆け落ち or 心中しに行く途中)
・羽村の夢・空想説
・繭の幻影・亡霊説(羽村は生きており、繭は死亡している?)

羽村の夢・空想説、繭の幻影・亡霊説については、繭が知っているはずも間に合うはずもない羽村の乗る電車に、突如として繭が現れることが理由とされる。

また心中説については、当日繭が起きたのは朝刊が届くころの時間だったのに対し、特急電車が駅を出るのは正午ごろだったため、電車には間に合ったものの、ラストシーンで小指に赤い糸を付けた繭の手が死んだようにぶら下がること、車掌が二人に声をかけても起きなかったことから、青海川駅から乗った普通列車の車内で心中したという可能性が理由である。

最終話のサブタイトルが「永遠の眠りの中で」であることからも、二人は死亡したとみられるが、どのようにして命を絶ったのかについても不明であるため、謎の残るラストとなっている。・・・」ここより)

自分は「羽村の夢・空想説」だと思うが、「ドラまる」(ここ)のサイトを見て、まさにその通りだと思った。
このサイトの解説は、実に納得する。それにしても、ここまで分析するとは、尊敬に値する!?・・・
作者も、ここまで研究して頂けるとは、本望ではないか・・・?

自分が、ラストシーンで気になった作品として、夏目雅子の映画「時代屋の女房」がある。
ちあきなおみの「アゲイン」が好きで(ここ)に挙げたが、主人公の夏目雅子が演じた、真弓と美郷という一人二役。その二人が、同一なのか別人なのか?
この映画は好きで、2~3度見たが、何度見ても辻褄が合わなかった。
まあ、映画やドラマは、ラストが尻切れトンボでも、見た人の想像に任せる、というのもアリかもしれない。

最後にジイさんには縁が無い高校教師と女生徒の恋愛について・・・。
ドラマの中でも「熱病みたい」と言われていたが、ふと中学の同級生のことを思い出した。
中学3年の時、5組あったクラスの中で、自分は3組の男のホームルーム代表だった。その2組の女性のHR代表がHさんという人。この人が、女子高のとき、ある先生に恋して、卒業と同時に結婚した、というウワサを聞いた。
42歳の時、友人から5組の女性のHR代表だったYさんが、肺がんで危ない、という連絡をもらった。そして友人とYさんの通夜に行ったとき、たまたまそのHさんと会った。通夜の帰り、駅前で、友人とHさんの3人で、居酒屋で少しだけ飲んだ。でもHさんは普通の奥さんだった。1990/1/23のことだった。
でも、有り得ない?「熱病」は、実際にあるんだ・・・と思った。

改めて覗いた森田童子の世界ではある。

(関連記事)
ドラマ「高校教師」~森田童子の「男のくせに泣いてくれた」と「G線上にひとり」 

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2022年5月28日 (土)

ドラマ「高校教師」~森田童子の「男のくせに泣いてくれた」と「G線上にひとり」

ふと森田童子のwikiを見ていて、「1993年1月、テレビドラマ『高校教師』の主題歌として、1976年発売のシングル「ぼくたちの失敗」が使われ、シングルCDは100万枚に迫る大ヒットとなった。」という記述を読んで、「高校教師」というドラマを見てみたいと思った。
それで配信で、つい11話全部を見てしまった。見始めて、何か前にも見た記憶が・・・。でも調べても良く分からない。でもやはり見覚えがある・・・。
やはり、何と!2020年4月にやはり配信で見ていたのだ!!
それが、2度目というのにストーリーが思い出せず、2度楽しんでしまった。
ドラマの内容はwikiに詳しい(ここ)。

ドラマの内容はおどろおどろしく、ここには書かない。でも、改めて眺めてみると、ドラマ全体に森田童子の歌が流れており、それが実にマッチしていた。それで今日は、その挿入歌を挙げてみたい。
まずは、第4話のエンディング、第5話、第9話の挿入歌として流れた「男のくせに泣いてくれた」。

<森田童子の「男のくせに泣いてくれた」>

「男のくせに泣いてくれた」
  作詞・作曲:森田童子

夢のように はかなく
私の記憶は
広告写真みたいに
悲しく通りすぎてゆく
淋しかった 私の話を聞いて
男のくせに 泣いてくれた
君と涙が 乾くまで
肩抱きあって眠(ね)た
やさしい時の流れは つかのまに
いつか 淋しい 季節の風を
ほほに 知っていた

君と涙が 乾くまで
肩抱きあって眠(ね)た
やさしい時の流れはつかのまに
いつか 淋しい 季節の風を
ほほに 知っていた

ドラマの中で流れるピアノソロバージョンは、何とも切ない。

<森田童子の「男のくせに泣いてくれた」ピアノソロ>


そして、第5話のエンディングで流れた「G線上にひとり」。

<森田童子の「G線上にひとり」>

「G線上にひとり」
  作詞・作曲:森田童子

夏草の上に
ねそべって
まぶしい孤独な
夢がひろがる

ひとリ目ざめて
あくびして 涙ふいた
夏の空は
ヒコーキ雲

何もいわない
六月の空は
ぼくの好きな
みずいろです

暗闇よ ぼくを呼べ
遠い記憶へ
あなたの ところへ
ぼくをつれてって

やさしい風は
ぼくをなでて
ひとりは とても
いい気持

夏草の上に
ねそべって
いま ぼくは
死にたいと思う

このドラマは1993年放送と言うから、今から30年も前。平均視聴率は21.9%、最終話は33.0%だったという。
最近のドラマは、NHKの朝ドラで16%~17%くらいで、民放のドラマは高くても10%台。よって、当時の評判の高さが分かる。そんな評判のドラマで、常に森田童子の旋律が流れた。それで20年ぶりに森田童子が見直され、同1993年にCDが再発された。でも自分が知ったときは既に廃盤になっており、ヤフオクで高値で取引されていた。現在では2016年7月発売盤(ここ)が現役で手に入るので、ラッキー。

220528koukoukyousi このドラマの主演は真田広之と桜井幸子だが、特に二宮繭役の桜井幸子は、まさに透明感や神秘性がある女優で、光った。このドラマによってブレイクしたというが、既に2009年に引退。
そして光ったのが、教師・新庄徹を演じた赤井英和。役柄が正義の熱血教師だったせいもあるが、自分は好ましく見た。しかし、関西弁の滑舌が悪く、台詞が聞き取れないことがあったのは残念。

そして教室の場面が多かったが、ロケは日本基督教短期大学で行われたという。ググってみると、この学校は千葉市稲毛区にあったが、2009年に廃校になり、現在は住宅街になっていた。30年という時間は、全てを変えていく。

ともあれ、最初に見てからたった2年しか経っていないのに、2度目を改めて楽しめるとは、新たな発見!?
否、加齢で忘れっぽいだけか・・・

他にも挿入歌があるので、それは別に・・・
なお、このドラマは2022年1月9日~3月20日まで、BS-TBSで再放送されたという(ここ)。(知らなかったが・・・)

(2022/10/31追 「週刊現代」2022/11/05号より)
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(関連記事)
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2022年5月26日 (木)

「スピードテスト」は大通信量なので4Gでは要注意

今日は、まったくの失敗談。
先日、格安SIMを別会社に切り替えたが、今日届いたSIMを取り付けたら、4Gでアッという間に契約の500MBを使い切り、速度が低速の200kbpsになってしまった!

自分はauから格安SIMに変えて6年になる。
同期4人で昼にコーヒーを飲んでダベるコーヒー会。ここでよく話題になるのがスマホ。
先日のコーヒー会で、Y君が「1GBで770円(通話料別)」だと言う。自分は同じ1GBで1300円。その時は、数百円が何だ!?と気に留めていなかったが、家に帰って何気なくそのサイトを覗いていたら、60歳以上は、1年間実質1GBで550円のキャンペーンがあると知った。
1年で9000円の節約か・・・。それに「5Gが無料」とある。それで、ついそこに申し込んでしまった。それが今日届いたSIM。

何とか4Gがつながって、さっそく「スピードテスト」で速度を測定。以前の格安SIMだと57(上り)/6M(下り)bpsが、今度は274/8Mbpsと出た。なるほど・・・と思っていたら、突然スピードが0.32 Mbpsとか0.42 Mbpsしか出なくなった。
アプリで見ると、残容量がゼロ。日次グラフを見ると、既に542MBの通信量。アッという間に、ひと月の容量を使い切っていた。

原因は「スピードテスト」での通信量。これがそんなに通信量が多いとは知らなかった。Netでググると、注意書きがたくさん出る。
「「ドコモスピードテスト」はある程度、大きな容量のデータをやり取りすることで適切な測定結果を得られるようにしているとのことで、1回の測定につき平均で25MB程度、ダウンロード速度が約60Mbps以上、アップロード速度が約30Mbps以上で約75MBという通信量になるとのこと。このため、ドコモでは最大のデータ量で測定を40回ほど実施すると、総通信量が3GBに達するとして、注意するよう案内している。」ここより)

なるほど・・・
そして「スピードテストアプリの通信量を比較!」(ここ)というサイトに実験データがあった。
220526speedtest1 結果は、何と、自分がいつも使っているGoogleで「スピードテスト」と検索すると出る測定サイト「インターネット速度テスト」が、最も通信量が多かった。
何と、5回で518MB、1回平均は103MBであるという。
注意書きには「ご利用のインターネットの速度を 30 秒以内でテストします。この速度テストで通常転送するデータは 40 MB 未満ですが、高速接続ではより多くのデータが転送されることがあります。」とある。

220526speedtest2 220526speedtest3

これらを読んで、あわてて「ドコモスピードテスト」のアプリを削除した。

まったく「スピードテスト」が、そんなに多くの通信量がかかるとは知らなかった。新しいSIMが来たので、つい「通信網がauからdocomoに替わると通信速度がどう変わるか?」を知りたくて最初に調べたが、たったそれだけで1ヶ月分を全部使ってしまうとは・・・!

でもまあ、最初だけさ・・・。今までも、毎月1GBを契約していたが、最高でも1GBを使い切った事は無い。今回も、結果として550円で1GBになるので、今までと同じ。

高速は来月まで待たないといけないが、でも5Gにしたときの速度は知りたいな~
1度だけやってみる?でも高速だとどの位の通信量がかかるか怖ろしい!?

知らぬが仏の失敗談ではありました。

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2022年5月21日 (土)

「過去と未来を知る進化生物学」古生物学者・更科功氏の話

NHKラジオ第2で放送されている「カルチャーラジオ 科学と人間」。そこで2022年1月7日から3月25日(午後8時30分~ 午後9時00分)まで放送されたのが、古生物学者・東京大学大学院講師 更科功氏による「過去と未来を知る進化生物学」。

迷っていたのだが、やはりこの番組は、(少しオーバーだが)世に残しておきたい!?お話だと思うので、下記に挙げておきます。

自分は、長くこの番組を聞いているが、このお話ほど、整理された話は聞いたことが無い。まず、今日話すポイントを挙げ、それぞれについて順番に解説して行く。それが実に分かり易い。話の内容が、まるで地図に描かれているようだ。
そして、その内容が実に興味深い。よって下記に挙げます。各解説はNetで拾えた物だけコピペしておきます。

<カルチャーラジオ「科学と人間」「過去と未来を知る進化生物学」(1)「科学の中の進化生物学」古生物学者・東京大学大学院講師…更科功(2022/01/07放送NHKラジオ第2)>

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<「過去と未来を知る進化生物学」(2)「生物とは何か(1)昔は地球も生物だった?」古生物学者・更科功(2022/01/14放送>

第2回「生物とは何か(1)昔は地球も生物だった?」。芸術だけでなく科学の分野においても活躍した天才レオナルド・ダ・ヴィンチ、彼は「地球は生物である」と考えました。また、現代の科学者ジェームズ・ラブロックは「地球は巨大なひとつの生命体」と考え『ガイア理論』を提唱しました。両者はどのような根拠があってそのような考えに至ったか解説します。

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<「過去と未来を知る進化生物学」(3)「生物とは何か(1)昔は地球も生物だった?」古生物学者・更科功(2022/01/21放送>

第3回「生物とは何か(2)台風と生物の似ているところ」。地球上の生物は自然淘(とう)汰を繰り返して進化してきました。自然淘汰は多くの生物の中で環境に適応したものが生き残って増えることです。古生物学者の更科功さんが、「自然淘汰」「散逸構造」をキーワードに、台風と生物の似ているところについてお話しします。

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<「過去と未来を知る進化生物学」(4)「生物とは何か(3)ミドリムシは動物か植物か」古生物学者・更科功(2022/01/28放送>

第4回「生物とは何か(3)ミドリムシは動物か植物か」。ミドリムシは、動物のように運動しますが、植物のように光合成もします。動物なの?植物なの?という疑問は、生物が動物か植物しかいないと考えられていた時代のもの。数多くの生物の存在が明らかになっている現在、どのように生物を分類しているのか、生物の本当の多様性とは何かについてお話します。

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<「過去と未来を知る進化生物学」(5)「植物の進化 縄文杉は何歳か」古生物学者・更科功(2022/02/04放送>

第5回「植物の進化 縄文杉は何歳か」。屋久島の縄文杉は樹齢7200年と推定されたことから有名になりましたが、アメリカには樹齢5000年という世界最高齢の樹木があります。長生きするといわれる杉ですが、平均年齢は1年にも満たないといいます。それは、どういうことでしょうか?近年の研究でわかったことを織り込みながら、植物の進化について解説します。

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<「過去と未来を知る進化生物学」(6)「動物の進化 私たちの祖先の目は3つあった」古生物学者・更科功(2022/02/11放送>

第6回「動物の進化 私たちの祖先の目は3つあった」。約5億年前、左右相称動物が一斉に出現するカンブリア爆発がおこります。これにより動物が“地球の主役”となりました。カンブリア爆発前後で動物の進化にどのような違いがあったのかについて解説。さらに、「人類の祖先の目は3つあった」ということから、進化生物学的に何がいえるか考えます

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<「過去と未来を知る進化生物学」(7)「性の進化(1)なぜ性が存在するのか」古生物学者・更科功(2022/02/18放送>

第7回「性の進化(1)なぜ性が存在するのか」。生物が自身の子どもをつくる生殖には、オスとメスのいる「有性生殖」、オスとメスがない「無性生殖」の2つがあります。無性生殖は、有性生殖の2倍の速さで増殖できますが、繁殖競争では有性生殖に勝てません。その理由とは?「ブレイ村の牧師仮説」「マラーのラチェット仮説」という2つの伝統的な説をもとに解説します。

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<「過去と未来を知る進化生物学」(8)「性の進化(2)オスとメスのかけひき」古生物学者・更科功(2022/02/25放送>

第8回「性の進化(2)オスとメスのかけひき」。生物にとって最大の脅威は細菌やウイルスによる感染症です。どうしてヒトは感染症によって絶滅しないのでしょうか?その理由こそが、オスとメスが存在するからであるという考えです。細菌やウイルスの速い進化速度に対抗するために、オスとメスがどうかけひきをしてきたのか。今回は、性が進化してきたことの一つの理由と考えられる「赤の女王仮説」について解説します。

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<「過去と未来を知る進化生物学」(9)「性の進化(3)オスとメスが逆転するとき」古生物学者・更科功(2022/03/04放送>

第9回「性の進化(3)オスとメスが逆転するとき」。生物の世界では、メスが子育てすることが多く、オスが攻撃的であることが多いのが一般的です。そういう生物が多いなかで、「レンカク」という鳥のように、オスとメスの役割が逆転している場合があります。なぜ、そのようなことがおきるのか、「オスとメスの比率」「繁殖サイクル」などをもとに考えます。

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<「過去と未来を知る進化生物学」(10)「人類の進化(1)私たちと類人猿の違い」古生物学者・更科功(2022/03/11放送>

第10回「人類の進化(1)私たちと類人猿の違い」。チンパンジー、オランウータン、ゴリラなどの類人猿と、私たち人類の系統は700万年前に枝分かれしました。人類と類人猿はどこが違うのでしょうか?また、私たち人類と類人猿を比べたとき、チンパンジーは昔から変わらず、人間だけが大きく進化したようなイメージを持つ方も多いようですが、実際はどうなのでしょうか?ヒトとチンパンジーの手足を比較しながら解説します。

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<「過去と未来を知る進化生物学」(11)「人類の進化(2)なぜ直立二足歩行を始めたのか」古生物学者・更科功(2022/03/18放送>

第11回「人類の進化(2)なぜ直立二足歩行を始めたのか」。人類が類人猿と異なる特徴のひとつに「直立二足歩行をすること」があげられます。かつて、人類の二足歩行は草原で進化したと考えられていました。しかし、1990年以降、森林の木の上を歩くことで二足歩行は進化してきたという説が有力となります。なぜ森林で直立二足歩行が進化したのか?その後、どうして地上に降りたのかについて解説します。

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<「過去と未来を知る進化生物学」(12)「人類の進化(3)牙のない平和な生物」古生物学者・更科功(2022/03/25放送>

第12回「人類の進化(3)牙のない平和な生物」。前回、人類が類人猿と異なる特徴のひとつに「直立二足歩行」を取りあげましたが、それと並んで特徴的なのが「牙のないこと」です。牙は生物最強の武器ともいわれますが、なぜ人類には牙がないのでしょうか?シリーズ最終回は、人類が牙のない平和な生物として進化してきた理由について解説します。


話は変わるが、NHKのラジオは、2025年度を目処に、ラジオ第1とラジオ第2が、ひとつに削減されるという。
「音声波の整理・削減は「2021ー2023年度NHK経営計画」において掲げている構造改革の一環。2025年度を目処に、現在の3波(R1/R2/FM)から2波(AM/FM)に整理・削減するほか、衛星放送(BS1/BSP/BS4K)も'23年度中に2Kのうち1波を削減。将来的には4Kの普及状況を見極め、1波への整理・削減も視野に入れる。」ここより)

受信料はそのままで、サービスは削減!?
こんな動きを聞くと、NHKは“その役目”が終わったかのように聞こえる。

ラジオ第2では、「朗読」という番組も消えた。何か自分が聞いている番組が次々と消えて行く・・・。
この「カルチャーラジオ」も消えて行くのだろうか?
効率化の名の下に、貴重な番組が消えて行く・・・。まさに時代の“恐怖”を感じるこの頃である。

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2022年5月10日 (火)

小川未明「野ばら」~100年前の童話、侵攻の惨禍予見?

今日(2022/05/10)の毎日新聞夕刊のトップに「日本のアンデルセン・小川未明「野ばら」100年前の童話、侵攻の惨禍予見?」という記事があった。

小川未明「野ばら」100年前の童話、侵攻の惨禍予見?
約100年前の日本で、現代のロシアによるウクライナ侵攻を思わせる一編の童話が発表された。「日本のアンデルセン」と呼ばれた児童文学作家、小川未明(1882~1961年)による「野ばら」だ。「大きな国」と「小さな国」で戦争が起き、仲が良かった両国の兵士2人が巻き込まれていく物語は、今まさに起きている惨禍を予見したかのようだ。未明をよく知る人たちは「今だからこそ、この作品を読んでほしい」と訴える。
・・・
220510ogawamimei  この作品は1920(大正9)年、大正日日新聞に掲載された。第一次世界大戦の後で、世界情勢は不穏な時期だった。未明の孫で詩人の小川英晴さん(70)は、作品が具体的な国を想定したものだったかどうかは分からないとしつつ、「いつの時代も『小さな国』は虐げられかねない立場にある。その思いがあったことは間違いない」と語る。
・・・
 昭和初期には、雑誌「婦人之友」に「男の子を見るたびに『戦争』について考えます」という文章を寄せた。世の親が健やかに育てようと心を砕いてきた子供たちが、戦争によって危険にさらされ、「互(たがい)に、罪もなく、怨(うら)みもなく、しかも殺し合って死ななければならぬ」「戦うことに於(おい)て、いかなる正義が得られ、いかなる真理の裁断が下され得るか」と、強く反戦を訴えた。未明は2人の子を病気で失った経験もあった。
・・・
大人こそ読んで
 未明が「野ばら」で描こうとしたこととは何だったのか。
220510nobara  英晴さんは「国同士で殺し合いをする理由など本来はない。突然、敵対する関係になったとき、両国の人たちがどれだけつらく悲しく、いたたまれない思いがするかということ」だと考えている。
 現代のロシア、ウクライナ両国にも、国境を越えた友人同士や親戚関係にある人たちがいる。「1人の為政者の判断で、何万人もの人が死に至ることがある」と、その責任の重さを指摘する。言葉の世界に携わる詩人の一人として、「文学が少しでも誰かを救うことができれば」と願う。・・・」(2022/05/10付「毎日新聞」夕刊p1より)

この童話は、青空文庫で読む事が出来る(ここ)。

野ばら 小川未明
 大きな国と、それよりはすこし小さな国とが隣り合っていました。当座、その二つの国の間には、なにごとも起こらず平和でありました。
 ここは都から遠い、国境であります。そこには両方の国から、ただ一人ずつの兵隊が派遣されて、国境を定めた石碑を守っていました。大きな国の兵士は老人でありました。そうして、小さな国の兵士は青年でありました。
 二人は、石碑の建っている右と左に番をしていました。いたってさびしい山でありました。そして、まれにしかその辺を旅する人影は見られなかったのです。
 初め、たがいに顔を知り合わない間は、二人は敵か味方かというような感じがして、ろくろくものもいいませんでしたけれど、いつしか二人は仲よしになってしまいました。二人は、ほかに話をする相手もなく退屈であったからであります。そして、春の日は長く、うららかに、頭の上に照り輝いているからでありました。
 ちょうど、国境のところには、だれが植えたということもなく、一株の野ばらがしげっていました。その花には、朝早くからみつばちが飛んできて集まっていました。その快い羽音が、まだ二人の眠っているうちから、夢心地に耳に聞こえました。
「どれ、もう起きようか。あんなにみつばちがきている。」と、二人は申し合わせたように起きました。そして外へ出ると、はたして、太陽は木のこずえの上に元気よく輝いていました。
 二人は、岩間からわき出る清水で口をすすぎ、顔を洗いにまいりますと、顔を合わせました。
「やあ、おはよう。いい天気でございますな。」
「ほんとうにいい天気です。天気がいいと、気持ちがせいせいします。」
二人は、そこでこんな立ち話をしました。たがいに、頭を上げて、あたりの景色をながめました。毎日見ている景色でも、新しい感じを見る度に心に与えるものです。
青年は最初将棋の歩み方を知りませんでした。けれど老人について、それを教わりましてから、このごろはのどかな昼ごろには、二人は毎日向かい合って将棋を差していました。
初めのうちは、老人のほうがずっと強くて、駒を落として差していましたが、しまいにはあたりまえに差して、老人が負かされることもありました。
この青年も、老人も、いたっていい人々でありました。二人とも正直で、しんせつでありました。二人はいっしょうけんめいで、将棋盤の上で争っても、心は打ち解けていました。
「やあ、これは俺の負けかいな。こう逃げつづけでは苦しくてかなわない。ほんとうの戦争だったら、どんなだかしれん。」と、老人はいって、大きな口を開けて笑いました。
青年は、また勝ちみがあるのでうれしそうな顔つきをして、いっしょうけんめいに目を輝かしながら、相手の王さまを追っていました。
小鳥はこずえの上で、おもしろそうに唄っていました。白いばらの花からは、よい香りを送ってきました。
 冬は、やはりその国にもあったのです。寒くなると老人は、南の方を恋しがりました。
 その方には、せがれや、孫が住んでいました。
「早く、暇をもらって帰りたいものだ。」と、老人はいいました。
「あなたがお帰りになれば、知らぬ人がかわりにくるでしょう。やはりしんせつな、やさしい人ならいいが、敵、味方というような考えをもった人だと困ります。どうか、もうしばらくいてください。そのうちには、春がきます。」と、青年はいいました。
 やがて冬が去って、また春となりました。ちょうどそのころ、この二つの国は、なにかの利益問題から、戦争を始めました。そうしますと、これまで毎日、仲むつまじく、暮らしていた二人は、敵、味方の間柄になったのです。それがいかにも、不思議なことに思われました。
「さあ、おまえさんと私は今日から敵(かたき)どうしになったのだ。私はこんなに老いぼれていても少佐だから、私の首を持ってゆけば、あなたは出世ができる。だから殺してください。」と、老人はいいました。
 これを聞くと、青年は、あきれた顔をして、
「なにをいわれますか。どうして私とあなたとが敵(てき)どうしでしょう。私の敵は、ほかになければなりません。戦争はずっと北の方で開かれています。私は、そこへいって戦います。」と、青年はいい残して、去ってしまいました。
 国境には、ただ一人老人だけが残されました。青年のいなくなった日から、老人は、茫然として日を送りました。野ばらの花が咲いて、みつばちは、日が上がると、暮れるころまで群がっています。いま戦争は、ずっと遠くでしているので、たとえ耳を澄ましても、空をながめても、鉄砲の音も聞こえなければ、黒い煙の影すら見られなかったのであります。老人は、その日から、青年の身の上を案じていました。日はこうしてたちました。
 ある日のこと、そこを旅人が通りました。老人は戦争について、どうなったかとたずねました。すると、旅人は、小さな国が負けて、その国の兵士はみなごろしになって、戦争は終わったということを告げました。
 老人は、そんなら青年も死んだのではないかと思いました。そんなことを気にかけながら石碑の礎(いしずえ)に腰をかけて、うつむいていますと、いつか知らず、うとうとと居眠りをしました。かなたから、おおぜいの人のくるけはいがしました。見ると、一列の軍隊でありました。そして馬に乗ってそれを指揮するのは、かの青年でありました。その軍隊はきわめて静粛で声ひとつたてません。やがて老人の前を通るときに、青年は黙礼をして、ばらの花をかいだのでありました。
 老人は、なにかものをいおうとすると目がさめました。それはまったくの夢であったのです。それから一月ばかりしますと、野ばらが枯れてしまいました。その年の秋、老人は南の方へ暇をもらって帰りました。

小川未明(1882~1961)
小説家・児童文学作家。本名は小川 健作(おがわ けんさく)。「日本のアンデルセン」「日本児童文学の父」と呼ばれ、浜田広介と坪田譲治と並んで「児童文学界の三種の神器」と評された。
「未明」という雅号は小川の師である坪内逍遥が付けたもので、正しくは「びめい」と読む。」

同じような話として、前に「今だからこそ読んで欲しい寓話~フランク・パブロフの「茶色の朝」」(ここ)という記事を書いた。8年前だ。

今、まさに“現実として”侵略戦争が起こるとは・・・

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2022年5月 9日 (月)

「認知症の母と支えた父の物語」映画監督 信友直子さんの話

NHKラジオ深夜便の「明日へのことば」で「認知症の母と支えた父の物語 映画監督 信友直子」(2022/05/03放送)を聞いた。そしてAmazonの配信でドキュメンタリー映画「ぼけますから、よろしくお願いします。」を見た。

もちろん自分は、信友直子さんというドキュメンタリー作家は知らなかった。しかしこの話を聞きながら、そのリアルさに引き込まれた。
誰もが突き当たる親の介護という問題。そして逆にされる側としての自身の老後、介護という問題・・・

<NHKラジオ「認知症の母と支えた父の物語」映画監督 信友直子>

この話は、(ここ)のサイトにそのテキストが載っている。この話の趣旨は・・・

「認知症の母と支えた父の物語」映画監督 信友直子
4年前に、認知症の母と介護にあたる父の日常を描いた映画「ぼけますから、よろしくお願いします。」を制作、自主上映が全国に広がりおよそ20万人が鑑賞し、自ら執筆した本も多くの人に読まれました。その後母は脳梗塞も発症、2020年夏に亡くなりました。信友さんは老夫婦の介護の日常や90歳を越えて様々な家事を始めた父の奮闘ぶりなど、新たな発見を映像にまとめて、続編の「ぼけますから、よろしくお願いします。おかえりお母さん」を制作、3月末から順時公開され,合わせて書籍の続編も出版されました。認知症の介護体験から感じたこと、映画や書籍から伝えたいことなど伺いました。・・・」

終わりの頃に話されていた次の言葉に何か感動した。
「それまで30分間の面会でしたが、6月13日にはずーっといてもいいですと言われて、「わしは挨拶はせんよ」と言っていた父が、夜に「おっかあ、今までありがとね。わしゃあ、あんたが女房でほんとによかったわ。いい人生じゃった。ほんまに幸せな人生をありがとね」と言ったんです。そして「向こうで又仲良く暮らそうや」と言ったら又母の目に涙が溜まって、凄い瞬間に立ち会ったと思いました。」

この話が映画になっていることを知り、調べてみると、近くの映画館で上映されていたことが分かったが、既に上映は終了していた。しかし、ネット配信されている事が分かり、Amazonで直ぐに見た。

映画の公式HP(ここ)には、この映画についてこう解説がある。
母、87歳、認知症。父、95歳、初めての家事。
 広島県呉市。この街で生まれ育った「私」(監督・信友直子)は、ドキュメンタリー制作に携わるテレビディレクター。18歳で大学進学のために上京して以来、40年近く東京暮らしを続けている。結婚もせず仕事に没頭するひとり娘を、両親は遠くから静かに見守っている。
220509boke_101  そんな「私」に45歳の時、乳がんが見つかる。めそめそしてばかりの娘を、ユーモアたっぷりの愛情で支える母。母の助けで人生最大の危機を乗り越えた「私」は、父と母の記録を撮り始める。だが、ファインダーを通し、「私」は少しずつ母の変化に気づき始めた…
 病気に直面し苦悩する母。95歳で初めてリンゴの皮をむく父。仕事を捨て実家に帰る決心がつかず揺れる「私」に父は言う。「(介護は)わしがやる。あんたはあんたの仕事をせい」。そして「私」は、両親の記録を撮ることが自分の使命だと思い始め−−−

大反響のテレビドキュメンタリー、待望の映画化。
 娘である「私」の視点から、認知症の患者を抱えた家族の内側を丹念に描いたドキュメンタリー。2016年9月にフジテレビ/関西テレビ「Mr.220509bokemasu_11 サンデー」で2週にわたり特集され、大反響を呼んだ。その後、継続取材を行い、2017年10月にBSフジで放送されると、視聴者から再放送の希望が殺到。本作は、その番組をもとに、追加取材と再編集を行った完全版である。娘として手をさしのべつつも、制作者としてのまなざしを愛する両親にまっすぐに向けた意欲作。」

まさか自分の母親が認知症になるとは思っていなくて撮り始めた記録。それが結果として、ある人が徐々に認知症になっていく過程が記録されてしまった。
家族でなくては撮れないシーン。そして会話。
終始存在するのは、父親の温かなまなざし。そして常に勉強している姿。左手には新聞、右手にはサインペン。そして新聞の切り抜きのためのハサミ。
戦争のために大学をあきらめざるを得なかった父親の、知的水準の高さが随所にうかがわれ、その姿が常に光って見えた。

もちろん自分は、この映画と話を、介護する側ではなく、される側の視点で見た。90を超え、腰も曲がっているにもかかわらず、スーパーの買い物袋を下げ、歩く姿。
スゴイと思う反面、自分だったら・・・と想像してしまう。
「老化はイヤだ」と幾ら思っても、それは確実にやってくる。
どんなに遅くても、筋トレは必要?散歩が重要???

何をすれば老化を遅らせられるかは、自分にとってはまだ未研究!?の分野。しかし映画の中で、主治医が、声を出すこと、話すことは脳の血液循環が良くなるので非常に良いこと。と言っていたことが頭に残った。
我が家では(ケンカをしていないときは)つまらない会話が多い。それも少しは役に立っているのかも・・・

まさに、我々がこれから立ち向かう老化について、身につまされる話と映画ではあった。
2022年3月25日から公開の続編「ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえりお母さん~」(ここ)も、機会があったら見てみたいと思う。

蛇足だが、この映画は非常に話題になった映画らしく、Netでググると色々な情報が得られる。FRIDAYのサイト(ここ)に、この映画のプロデューサーは、故大島渚監督を、女優を休業して介護した小山明子さんの息子である大島新氏である、とあった。

小山明子さんの介護の話は、自分も前に挙げて事があったな、と検索してみると「小山明子さんの介護の姿勢」(2008/07/04 ここ)の記事だった。何と14年も前の記事。

自分だけは、誰にも迷惑をかけず、ポックリ逝きたいものだが、日頃の心掛けには自信は無い・・・

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2022年5月 6日 (金)

ニール・リードの「ママに捧げる詩」

先日、久しぶりにFM放送でニール・リードの「ママに捧げる詩(うた)」を聞いた。
確か、昔このEPレコードを買ったな・・・と見ると、あった。1972年2月の発売で、自分が買ったのが1972年9月2日とある。ちょうど半世紀前だ。

<ニール・リードの「ママに捧げる詩」>

「Mother of Mine」
  Neil Reid

Mother of mine
You gave to me
All of my life
To do as I please
I owe everything
I have to you.
Mother, sweet mother of mine…
Mother of mine,
When I was young,
You showed me the right way things had to be done.
Without your love where would I be?
Mother sweet mother of mine.
Mother you gave me happiness,
Much more than words can say.
I pray to the Lord that He may Bless You every night and every day.
Mother of mine now I am grown.
And I can walk straight all on my own.
I’d like to give you what you gave to me…

Mother, sweet mother of mine…

Mother you gave me happiness much more than words can say.
I pray to the Lord that He may Bless you every night and every day…
Mother of mine now I am grown.
And I can walk straight all on my own.
I’d like to give you what you gave to me…

Mother, sweet mother of mine…
Mother, sweet mother of mine…


「ママに捧げる詩」
ボクのママ、どんなわかままも聞いてくれたママ

ママ、ありがとう、ボクの大好きなママ
ボクのママ、小さいボクに生き方を教えてくれたママ
ママの助けがなかったら、どうなってたかわからないよ
ママ、ボクのやさしいママ
口では言えないくらいしあわせをたくさんくれたママ
ボクはママのお祈りをしてるんだよ、昼も夜も
ママ、ボクはもう一人前なんだよ
ママ、ボクは恩返しをしたいんだ、ボクの大好きなママに
口では言えないくらいしあわせをたくさんくれたママ
ボクはママのお祈りをしてるんだよ、昼も夜も
ママ、ボクはもう一人前なんだよ
ママ、ボクは恩返しをしたいんだ.ボクの人好きなママに
ママ、ボクのやさしいママに   (対訳:西川利行)

EPレコードの解説にはこうある。
「・・・イギリス・ヒット・パレードに、突如11才の少年の歌が鋭く斬り込んで来たのは、1971年の暮のことでした。その動きを、たとえばNew Musical Express誌で追うと12/25第21位(初登場)1/1第16位、そして1/8には第13位に進出し、なおも上昇中です。
220506mamanisasageruuta このイギリス・ポップス界の異変の主役こそニール・リードなのです。
 スコットランドに生まれたニールは、幼いころより音楽に魅せられていましたが、彼の才能が認められたのは、1969年。さるクリスマス・パーティーで歌ったのがきっかけになりました。実に9才の時になるわけです。
 そしてクラブに招かれて歌うなど、各方面から“歌手”としての誘いが殺到するようになり、また、夏休みにはグラスゴーのキングズ・シアターで“Calum Kennedy Show”に出演するといったモテモテぶりです。
 レコード会社も目をつけないはずがありません。イギリス最大のレコード会社、イギリス・デッカ・レコード(ロンドン・レコード)が早速契約、デビュー曲のこの曲を発売したのです。これまで、デッカ・レコードは数多くのアーティストと専属契約を結んできましたが、ニールはそのうちで最年少にあたるということです。
 近くアルバムの発売も予定されており、人気スター“ニール・リード”には明るい1972年が広がっています。

 さて、このイギリスの大ヒット曲「ママに捧げる詩」は、やさしくあたたかい毋へ贈る少年の愛の歌です。
 ガット・ギターのアルペジオによるイントロにうなかされて歌うニールは、清純で敬虔な祈りを捧げます。それは、人びとに希望を与え、心に灯をともさせるのです。
 人を“人”にひきもどさせずにはおかない――そんな名曲です。」

歌詞を覗いてみると、少々恥ずかしい。
ふと、前に挙げた童謡「やさしいお母さま」(ここ)の歌詞を思い出した。
やはり、何とも恥ずかしい??

しかし、何か癒される歌ではある。

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2022年5月 4日 (水)

アルコールを卒業した日

我が人生で!!アルコールを卒業したのは、どうやら21年6~7月の頃だったらしい。
このところ「アサヒドライゼロ」を愛飲している。ノンアルコールである。ビールは飲まなくなった。
いつ頃から変えたのかな?と、前に飲んでいた発泡酒「キリン のどごし<生>」の、残っている箱の中身を調べたら、21年05月製造の賞味期限22年01月とある。この箱を買ったのは、昨年21年の7月の頃らしい。それ以来、あまり飲んでいなかったので、1月に賞味期限が切れていた。

とある事情から、アルコールを断った時期があった。Amazonで「アサヒドライゼロ」の購入履歴を見たら、最初は2019年7月28日となっていた。この頃からノンアルコールを始めたようだ。
思い出すと、初めてノンアルコールを飲んだのは「増富温泉」に行ったときだった(ここ)。
81edrtzwqpl_ac_sy550_ 見たら2009年4月6日。この時、世の中にノンアルコールのビールがあることを知った。でも正直まずかった。それを見直したのが「アサヒドライゼロ」。味がまるでビール。これならOKと、飲み始めたのが19年7月。それから「のどごし」と「ドライゼロ」をちゃんぽんに飲んでいたが、最近は「ドライゼロ」のみになっていた。
それで、いつからアルコールを飲まなくなったのかな?と思ったら、21年6~7月以来買っていなかったことが分かった。というわけ。

自分のビールの歴史は長い。キリンの小瓶を配達して貰っていた時期もあった。そもそも夕食時にご飯を食べないので、いつもおかずとビール。必ず缶ビールを一本。それが節約のために、発泡酒に替えてからも、毎日必ず一本。一度発泡酒に慣れると、ビールがうまくない。外食のときに、ビールを頼んでもうまくなかった。まことに慣れは怖ろしい。
そして今は、ノンアルコール一本やり。
そもそも自分は酔うために飲んでいるのではないらしい。食事のお茶代わり??
よって、アルコールが入っていなくもOK。

ビール1本位は、寿命にとってはかえって良いと言う。まあ肝臓の為には、飲まないで済むのであれば、飲まない方が良いのかも知れないが、自分もそろそろ後期高齢者。肝臓を大切に!?

話は変わるが、先日の新聞に鎌田實氏のコラムが載っていた。
老いを手なずける日々=鎌田實
 昨年春先から、不整脈のひとつである心房細動が時々起こるようになった。抗不整脈剤でコントロールしようとしたが、なかなかうまく治まらなかった。「心臓の老化ですね」と循環器科の主治医。元気に飛び回ってきたが、不意に足をすくわれた。これが老いの始まりか、と思った。4日間入院して、カテーテルによる心筋焼灼(しょうしゃく)術(アブレーション)という手術を受けた。
 そんな体験から、自分の「老い」について考えることが多くなった。自分では若いつもりだったが、よく考えてみれば、ずいぶん前から老眼になっている。テレビの音量も少し大きくなった。気がつかなかっただけで、「老い」はひたひたと忍び寄ってきていたのだ。
 「老いるショック」に負けないで、どうやって老いを手なずけていけるか、工夫の日々が始まった。
 まずは、心房細動が起こらないよう腹式呼吸を意識して行うようにした。ぼくは「がんばらない」なんて言いながら、実はがんばり体質。交感神経が優位に動きがちだったと思う。これを反省して、ウオーキングのときなどに腹式呼吸を組み込んだ。
 心臓の機能に問題はないと主治医から言われたので、筋トレも再開した。40キロのバーベルを担いでのスクワットや、速歩きとゆっくり歩きを3分ずつ交互に繰り返す鎌田式速遅歩きも続けている。
 今年の冬は50日以上スキー場に通い、3キロのダウンヒルを3本立て続けに滑った。スキーの腕前は、10年前よりうまくなったと自分では思っている。
 こんなふうに「老い」に負けまいと運動を続けたおかげで、心房細動は少なくなり、今ではまったく起こらなくなった。抗不整脈剤も必要なくなった。
・・・
 ある朝、体重計に乗ると、体内年齢というのが表示された。それがなんと「61歳」を示した。ごほうびをもらったような気になった。若さを保つには、自分をその気にさせてしまうことも大事だということがわかった。
・・・」
(2022/05/02付「毎日新聞」より)

鎌田さんも自分と同じ心房細動か・・・と仲間意識を持った!?しかも上の記事を読むと、アブレーション手術をしても、心房細動が起こっていたらしい。自分だけではないのだ、と安心した!?(ちなみに、今日体重計に乗ったら、自分の体内年齢は59歳!エッヘン!?)

最近、カミさんとよく話す。生老病死。年齢的に、いつ何が起きても不思議では無いね。「自分が明日の朝、コロリと死んでいたら・・・」と話すと、「そんなにうまく死ねるわけ無いじゃ無いの」と言う。

仏教では、「世の中の全ては苦である」(一切皆苦)という。言うまでも無く「苦」=思い通りにならない。
思い通りにならない人生。さて、あと残りが何年かは知らないが、体力的にも老化を感じるこの頃である。

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