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2022年2月16日 (水)

半藤一利の「世界史のなかの昭和史」を読んだ

半藤一利の「世界史のなかの昭和史」を読んだ。今までの「昭和史」と違って、読むのに苦労した。世界史は難しい・・・。

とにかく「世界史」と聞くと虫酸が走る!? 高校の時、最悪の成績だったのが「世界史」!
そもそも世界史の話は、話があっちこっちに飛ぶ。世界は広いので、あっちこっちの国の話に飛ぶのは仕方が無い。でも自分は付いて行けない。
だから読み飛ばしのチャンバラ小説が好き。なぜかというと、話が時系列的に一貫して流れているので話が分かり易い。それに引き換え、映画やTVの単発ドラマ、小説などでは、舞台が時間的にあっちこっちに飛ぶ。「今」をやっていたと思ったら、次のシーンは昔にもどったり・・・。それでワケが分からなくなる。

220216sekaisinonaka 話が本題から飛んだ。この「世界史のなかの昭和史」を読むに、半藤さんの勉強力に、今さらながら感心する。実に多くの文献が出てくる。そこからの引用が多いので、話としては難しくて、面白くない。でもそれは事実の積み重ね。
半藤さんは65歳で文藝春秋を退社し、本格的に作家へ転身したという。以来90歳で亡くなるまで25年間。その間の膨大な執筆。この25年間の時間がどれほど中身が濃かったか・・・
今の自分の自堕落な生活を顧みるに、ただただ尊敬!?

本の中身については論じないが、最後の青木理さんとの対談が面白かった。
自分が信じている歴史家?は、半藤一利さん、保阪正康さん、そして青木理さんの3人。その大御所2人の対談。2018年2月14日の対談なので、まだ安倍政権のとき。(2020年9月16日まで)
この対談で、青木さんが大御所・半藤に聞く話が面白い。
以下、気になった所を、長々とだが記してみる。

青木 ぼくは通信社の特派員として韓国に長く駐在しましたから、植民地支配の愚かな政策以前に、併合自体か許されざる所業だったと思っています。そういえば、韓国の酒場で出会った老人がこんなことを言っていたのがいまも印象に残っています。「日本はずるい」と。なぜかと尋ねれば、ヨーロッパでは侵略者であり敗戦国たったドイツか分断され、塗炭の苦しみと努力の末に統一を成し遂げて現在に至っている。周辺国との歴史問題もある程度は乗り越えている。一方のアジアでは、植民地支配から解放された朝鮮半島が分断され、いまなお統一が果たせていない。米軍基地にしても、韓国は首都ソウルにも広大な基地があるのに、日本は戦後、その大半を沖縄に押しつけた。ましてや日本の戦後復興は朝鮮戦争の特需によって跳躍の足がかりを得ている。結局のところ、戦後日本は嫌なものをすべて“周辺部”に押しつけ、本土は繁栄の果実だけを享受してきたのではないか。だから「ずるい」と。歴史の「イフ」を語っても詮無いのですが、もし日本かもう少し早くポッダム宣言を受け入れていれば、ひょっとすれば朝鮮半島か分断されなかった可能性もありますね。
半藤 あります。
青木 他方、もう少し受け入れが遅ければ、日本が分断される可能性もあった。
半藤 あります。
青木 そういう意味では、なんとも。“絶妙”なタイミングで敗戦を迎えたことになる。
半藤 日本の敗戦に関してはほんとうに絶妙、というよりは、ぎりぎりの実にいいところでパッと終わりました。本土決戦などとんでもないことですから。それに降伏したあとも、へたに本土でゲリラ戦などを一、二年もやっていれば、変なことになっていました。というくらい、日本の敗戦が鮮やかすぎたために、朝鮮半島が分断された。
 38度線に分けだのは、日本政府がマッカーサー司令部に「降伏する相手はどっちですか」と聞きにいったところ、38度線の北のほうはソ連の極東軍総司令官ワシレフスキーに、南のほうは米陸軍部隊最高司令官すなわちマッカーサーに降伏せよということで南北に分けたんです。
ベトナムも17度線で分けたのは最初、北は中国軍つまり蒋介石に、南は東南アジア連合軍最高司令官に降伏せよというふうに、ようするに降伏の仕方をマッカーサー司令部が決めたんですね。それでソ連軍はさーっと北朝鮮に入ってきた。ところがアメリカ軍はもたもたしていて、というのも朝鮮半島どころではなくて、あまりにあっさり日木か白旗をあげたので、日本本土をどう占領するかの青写貞もできていなかったから、朝鮮に行くのが遅かったんですよ。それでしょうかなくて旧日本軍が、いっぺん棄てた武器をもういちど持って警備に入った、というようなアホなことをしている。ともかくそのための分断でした。
青木 やはり、日本の敗戦受け入れ時期が現在の分断を左右したと。
半藤 でないとそんな分け方はしませんからか。スターリンが日本に宣戦布告をする前ですから。といってももう少し遅ければ日本がソ連軍の北海道敵前上陸を迎えていました。
青木 たとえばあと一,二年ゲリラ戦みたいなことをしていたら北海道はソ連で、東北以南が米国というような日本分断に?
半藤 中国地方と九州はイギリス、四国と近畿地方がとりあえず中国じゃあなかったですか。いや、近畿地方は米中の共同管理でした。アメリカで日本降伏に対する戦略を練っている陸軍・海軍・国務の三省調整委員会が相談して、具体的に計画を立てていました(ソ連:北海道、東北地方/アメリカ:本州中央、関東、信越、東海、北陸、近畿/中華民国:近畿、四国/イギリス:中国地方、九州/※東京は四カ国共同占領)。東京も四つに分けていたんです。実現はしませんでしたけれど。なぜって、この計画が成文化されたのが、なんと八月十六日のことだったんですよ。
青木 では、朝鮮半島みたいに日本が分断されることは、まったくの夢物語ではなかった。
半藤 もし日本の抗戦がつづいていれば、あり得ました。東京にベルリンのように壁ができた可能性もある。
青木 ということは朝鮮半島の分断は、一義的には冷戦体制の遺物ではあるものの、責任の一端から日木は免れ得ないですね。」(「世界史のなかの昭和史」p477より)

青木 これも半藤さんの本に教えられたことで、ナチス政権下のドイツは小選挙区と比例代表の並立性だったのですね。半藤さんも本の中で、今の日本とよく似ていると結構ストレートにかかれている。「優秀な人物をそろえる必要などはなく、どこの馬の骨であろうと、無能であろうと、いやかつて政治的な暗殺を企てた犯罪者であろうと、立候補者名簿に党公認として名を連ねさえすれば、そんな連中でも国会入りかできた」と(笑)。
半藤 日本で小選挙区制かはじまったとき、私は反対していたんです。というのは、いくらか頭にナチス・ドイツのことかあったからです、ヒトラーか出たのはこれなんだよと。でもすーっと通ってしまいましたよね。しかも比例代表制というよくわからないものまで。これはヒトラーの真似をしたわけじゃないんでしょうが。
青木 一般的に言われているのは、たとえばイギリスのような二大政党制を想定し、政権交代のある政治を目指したのが小選挙区制を入れた際の大義名分でした。
半藤 そこまではいいんですよ。ただ比例代表制という妙なものを入れたのは違うんです。
青木 あれはどちらかというと小政党を守るためという理屈でしょう。
半藤 もっぱら公明党を守るためですよね、そういう魂胆があってやったことだと思いますよ、確信があってやったことではなくて。日本の選挙区制の話になるといまでも頭にくるんです(笑)。
青木 なぜ?(笑)
半藤 いまの状態をつくったのはそれが原因だと思ってますから(笑)。はやくやめろと言いたい、ただ中選挙区制だとカネがかかってしょうかない、買収もはびこることもあって、仕方ないとも思います。でも小選挙区制だって似たようなものです。
 選挙区制の話以上に、これだけははっきり詳しくかいてやろうと思ったのか、麻生(太郎副総理)さんの「ナチスの手口を学んだらどうだ」発言です(二〇一三年七月二十八日「ドイツのワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気が付かなかった。あの手口に学んだらどうか」)。あのとき新聞はヒトラーの全権委任法のことばかり言っていました。私のところに意見を聞きにきた記者たちもそうでした。でも違うよと。全権委任法の前に、ヒトラー政権か閣議決定で長ったらしい名前の法律を勝手に決めて、大統領令というかたちでその日に出した、それがものすごい効力を発揮して、そのあとの全権委任法は民主主義的手続きのもとに議会を通ったんだよと。
青木 「ドイツ民族に対する裏切りと反逆的陰謀を取締るための大統領令」ですね。
半藤 そうです。つまり多数決による民主主義というのは、そういう巧妙な使い方をするといくらでも利用できる。そこんところをよく見ないと、あの麻生発言はわからないんです。簡単にいえば、ワイマール憲法のなかに、大統領はそういうことができるとかおいある、それを利用したんですね。ワイマール憲法はまさに民主的な憲法といわれていますから、そういうことが閣議決定でできた。日本のいまの安倍内閣は重要な政策を、閣議決定でまず通しておいて、それから議会の多数決を利用してやっている、同じじゃないかと。
青木 ええ、ぼくもまったくその通りだと思って、その部分に付箋を貼ってきました(笑)。」(p483より)

青木 半藤さんは本書でも「民草」という言葉を使ってらっしやいますね。何か特別な思いがあるのですか。
半藤 『B面昭和史』(平凡社ライブラリーでたくさん使った言葉ですが、昭和の日本の庶民のことを考えると、一所懸命に国家にくっついて、ほんとうにみんなが必死になって尽くしているんですね。といって、どこまで意識して、つまり知識などをもってついていったかを考えると、それほどきちんと認識した市民意識はなかった、むしろ風になびく草のようについていった。それで「民草」という言葉がいちばん当てはまるなと思ったんです。」(p489より)

青木 天皇については語り尽くされていますが、さらに語るとすれば、やはり戦争責任についてでしょうか、この本にかかれていることはその通りだと思いますが、でははたして天皇に戦争責任はあったのかどうか。
半藤 先ほど話しましたように、日本は明治のときに軍事国家が先にスタートしました。その軍を統帥するのは天皇なんですね。ところが内政・外交を統治する天皇と同じではいけないということで、そちらは天皇陛下であり、軍事の統帥権をもつのは大元帥陛下と、一人の人格のなかに二つの役割をもつことになったんです。これをうまく使い分けたのが帝国陸軍です。統帥権は天皇ではなく大元帥陛下にあるわけで、天皇の家来である内閣が(軍事に関して)余計なことを言う必要はない、つまりそれは統帥権干犯であるということに気がついたのが北一輝です。以来、大元帥陛下と天皇陛下は分けて考えなきゃいけない存在なのですが、これがややこしいんですよ、あるときは天皇になり、あるときは大元帥になる。昭和天皇その人はわかっていたと思います。だから二・二六事件のときは争乱の第一報が入ると、軍服を着て御座所に出てきた。これは軍事問題であるから、天皇ではなく大元帥の役割であると自ら指揮をとるんです、そういう見方をすると、天皇陛下には法的には戦争責任はないけれど、大元帥陛下にはもちろんありますよ。」(p499より)

とにかく、知らないことが多い。今さらだが、勉強になる。
改めて『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』を読み直してみようと思った。

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