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2022年2月の7件の記事

2022年2月26日 (土)

半藤一利の「聖断-昭和天皇と鈴木貫太郎」を読む

半藤さんの本の話ばかりで恐縮だが、やっぱりこれはメモしておきたい。
半藤一利著「聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎」を読んだ。(ここ)に書いたが、この本は、半藤さんが「一番好きな作品」として真っ先に挙げた作品だという。
それで読んでみたのだが、実に面白かった。もちろんこの作品は小説では無い。ドキュメンタリー作品である。しかし、読み始めるとまさに小説のように引き込まれる。小説を読んでいて、この先がどうなるかと、寐るのも忘れて読み終えてしまったことがあるが、それに似ている。

220216seidann 作品は、鈴木貫太郎という終戦時の首相の一代記と、昭和天皇と歩んだ終戦までの道のりを書いている。自分は鈴木貫太郎という人は、名前だけしか知らなかったが、その人の人生が良く分かった。
言うまでも無く、終戦の8月15日までの、たった130日間の首相である。しかし残る終をやり遂げた業績は、昭和天皇をして「鈴木、ご苦労をかけた。本当によくやってくれた」「本当によくやってくれたね」と言わしめた男(P523)。

二・二六事件で瀕死の重傷を負いながら、79歳で昭和天皇から首相への就任に「頼むから、どうか、まげて承知してもらいたい」と頼まれた鈴木。耳は遠いながら体力はあったという。その源泉はよく食べ、良く眠ること。特に睡眠については、特技とも言える技があったらしい。
(脱線:中学の頃?授業で当てられて自分が立って答えた。「二“てん”二六事件」。先生は「“てん”は要りません」と言った。その光景をいまだに覚えている)

半藤さんは太平洋戦争や終戦については、たくさんの作品を書いている。よって、読んでいて「またか・・・」という話があるのではと危惧していたが、それは無かった。他の作品で書いたことはスッと過ぎて、新鮮なままで読み通せた。(「日本のいちばん長い日」のプロローグは、「聖断」と完全にダブっているが・・・)

可笑しいことをひとつ見付けた。
8月15日の正午に玉音放送があったが、その直前まで大本営発表の放送があったというのだ。
「午前十時三十分、大本営は発表した。開戦いらい八百四十六回目の最後の大本営発表であった。
「わが航空部隊は八月十三日午後、鹿島灘東方二十五浬において航空母艦四隻を基幹とする敵機動部隊の一群を捕捉攻撃し、航空母艦一隻を大破炎上せしめたり」
 国民のなかにはこの発表に奇異なものを感じたものも多かっか。朝からラジオは「畏きあたりにおかせられましては、このたび詔書を渙発せられます……畏くも天皇陛下におかせられましては、本日正午おんみずからご放送あそばされます」と荘重な口調で、予告をいいつづけていたからである。」(P515より)

「十一時五十五分、東部防衛司令部、横須賀鎮守府司令部の戦況発表をラジオは告げた。
「―、敵艦上機は三波にわかれ、二時間にわたり、主として飛行場、一部交通機関に対し攻撃を加えたり。 二、十一時までに判明せる戦果、撃墜九機、撃破二機なり」
 宮中、防空壕内の枢密院会議を一時中断し、首相と顧問官たちは細い回廊に一列にならんだ。天皇は、会議室のとなり控室の御座所にあって、小型ラジオを前にした。みすがらの重大放送を聴こうというのである。
 ラジオは最後の情報を流した。
「……目下、千葉、茨城の上空に敵機を認めず」
 十一時五十九分をまわっていた。つづいて正午の時報がコツ、コツと刻みはじめた。
「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くもおんみずから大詔を宣わせ給うことになりました。これより謹みて玉音をお送り申します」
 つづいて「君が代」が流れた。一億の日本国民がいまや偉大な葬儀に列するのである。天皇が喪主であったといえる。」(P517より)

ウソで固められた「大本営発表」の、最後の断末魔であったろうか。

2日前から始まったロシア軍によるウクライナ侵攻。CNNの報道では今(2022/02/26夕)、首都キエフで市街戦になっているという。
220226kyiv 『戦争だけは絶対にはじめてはいけない』と言い残して亡くなった半藤さん。
国外のこととは言え、それがいとも簡単に破られる。ひとりの独裁者によって、数え切れない人の命が失われる。それが現実。
こんな理不尽な戦争を、もし存命なら、半藤さんは何と言うか?
75年前に終わった戦争。非戦の誓いは、日々新たにしていないと怖い世の中であると再認識した。

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2022年2月22日 (火)

西郷輝彦さん逝く~「桜花のとき」

西郷輝彦さんが亡くなったという。自分より半年だけ年長。同世代の人の訃報が聞かれるようになってきた・・・。

「西郷輝彦さん死去 75歳 放射線、抗がん剤治療など14回…壮絶がん闘病11年

 橋幸夫(78)、舟木一夫(77)とともに「御三家」と称され、人気を集めた歌手で俳優の西郷輝彦(本名・今川盛揮=いまがわ・せいき)さんが20日午前9時41分、前立腺がんのため都内の病院で死去した。75歳。「星のフラメンコ」など数々のヒット曲で一世を風靡(ふうび)し、俳優としてもTBS系ドラマ「江戸を斬る」などで活躍した。2011年に前立腺がんと診断され、オーストラリアで日本未承認の治療を受けるなど、仕事復帰を目指していた。葬儀は近親者で行う。
 「御三家」として、昭和歌謡界を席巻した西郷さんが、長い闘病の末、静かに逝った。関係者によると、90年に再婚した妻や娘に見守られ、天国に旅立った。
 西郷さんは11年に前立腺がんが判明。「周囲に迷惑をかけたくない」との意向で事務所関係者にも伝えず、前立腺の全摘出手術を受けた。17年にがんが再発。深刻な体調不良でも単独ライブに立ち続けたが、医師と相談した上で同年11月30日に治療を最優先するために活動を一時休止した。
 ホルモン治療、放射線、抗がん剤治療を14回受けるなど治療を続けたが、コロナ禍に受けた検査で前立腺がんのマーカーが上昇。21年5月、ステージ4の去勢抵抗性前立腺がんと公表し、シドニーの病院で先端治療を受けるために妻と渡豪した。
 同時期にYouTubeを開設。病状を報告し「後がないんだ」と吐露。「まだやりたいことがたくさんある。願いはただ一つ。もう少しだけ好きな仕事をさせてほしい」と語っていた。昨年8月には、日本テレビ系「24時間テレビ」にオーストラリアから中継で出演。「元気ですよ」と笑顔を見せ、「がんが消えた画像をこの目で見た。奇跡は起こります」と経過を明かした。
 西郷さんは、9歳と15歳の頃に2人の兄が他界。鹿児島県の実家の跡取りとして期待されたが、歌手を目指して家出。高校中退後の64年、17歳で「君だけを」でデビュー。彫りの深いマスクと渋みのある歌声で、ヒットを連発。「[おんぷ]好きなんだけど~」の後、「チャチャチャ」と合いの手が入る「星のフラメンコ」は50万枚を超える大ヒットとなり、代表曲となった。
 NHK紅白歌合戦に10年連続で出場。橋、舟木と「御三家」としてアイドル的な人気を博し“クラウンの救世主”と言われた。65年に地元・鹿児島で開催したチャリティーショーには、1万人超の観客が殺到。会場周辺の混乱により死傷事故が起こるほどだった。
220222saigou  役者としても73年、フジテレビ系ドラマ「どてらい男(ヤツ)」に主演し、3年半にわたる人気シリーズに。75~81年のTBS系「江戸を斬る」では遠山金四郎役で親しまれるなど、俳優としての地位を確立。87年にNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」で政宗の側近役を務め、時代劇や刑事もので引っ張りだこになった。86年に舞台「屋根の上のヴァイオリン弾き」に出演し、90年には菊田一夫演劇賞を受賞した。
 プライベートでは、人気絶頂だった72年、歌手・辺見マリと軽井沢で極秘挙式。ミュージシャンの辺見鑑孝(48)、タレントの辺見えみり(45)が誕生したが、81年、性格の不一致を理由に離婚。90年、19歳年下の元秘書の女性と再婚し、女優の今川宇宙(うちゅう、25)ら3人の子どもに恵まれた。

 ◆西郷 輝彦(さいごう・てるひこ)1947年2月5日、鹿児島県生まれ。64年「君だけを」で歌手デビュー。NHK紅白歌合戦に初出場。「十七才のこの胸に」「星娘」など青春歌謡が相次いでヒット。俳優としても活躍。主な出演作は、NHK大河ドラマ「毛利元就」(97年)、TBS系ドラマ「ノーサイド・ゲーム」(19年)など。我修院健吾のペンネームで雑誌「明星」に連載小説を執筆したこともある。」(2022/02/22付「スポーツ報知」ここより)

例によって、何か歌を挙げたいと思って自分の音源を見たら、こんな歌を紹介したくなった。あまりメジャーではないが「桜花(はな)のとき」という歌である。
まさに演歌調で、しんみりした歌。自分はこんな曲調の歌が好きだ。

<西郷輝彦の「桜花のとき」>

「桜花のとき」
  作詞:荒木とよひさ
  作曲:中川博之

桜の花の 花のひとひらが
倖せ薄い お前の肩に
春よ春よ このまま
春よ春よ 散らずに
ふたりを見捨てて 逃げないで
この世が夢の 夢の途中なら

川辺に遊ぶ 遊ぶ子供たち
大人になるな 悲しいだけの
春よ春よ このまま
春よ春よ あしたも
小指をつないだ ぬくもりを
この世が夢の 夢の続きなら

涙がもしも もしもこぼれたら
昨日のどこか 捨てればいいさ
春よ春よ このまま 春よ春よ 心の
ちいさな陽だまり 消さないで
この世が夢の 夢の桜ならば

wikiを見ると、西郷輝彦は2013年までにシングルを93作品も発表している。こんなに永く歌手として現役を張っていたとは知らなかった。
「桜花のとき」は、そのうち87作品目で1999年2月の発表だという。

話は変わるが、昨日は3回目のコロナワクチンの接種の副反応で一日ダウンしていた。
2月20日の夕方に接種を受け、翌朝発熱していなかったので、ラッキー!と思っていたら、段々と体がツラくなり、微熱と関節痛で、バッファリンを飲んだが、37.4度まで上がってしまった。まさに2回目と同じ副反応。
副反応が出るのは過去2回接種したワクチンの効果がまだ保たれている証拠。ともいう。

ワクチンの副反応にブツブツ言っている自分と、11年も前立腺がんと戦っていたという西郷輝彦。
同世代として、心が痛む訃報ではある。

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2022年2月18日 (金)

保阪正康氏が語る「半藤一利という『歴史館』」

毎回半藤さんの話で恐縮!?
引き続き?「文春ムック 永久保存版 半藤一利の昭和史」を読んでみた。
220218handou 2021年1月12日発行の、90歳で亡くなった半藤さんを追悼する、文藝春秋特別編集のムックである。

その中に、「半藤さんから受けとったもの」という何人かの著名人の寄稿があり、保阪正康さんの一文が、まさに“半藤一利さんワールド”を的確に語っているので、紹介したい。

半藤一利という『歴史館』
  ノンフィクション作家 保阪正康

 半藤さんの訃報を聞いてから、二、三日はボーツとしてしまい、仕事が手につかなかった。これまで二人で五十回以上の対談を行い、十七冊の対談本などを共に作ってきた。特にこの二十年は、半藤さんと時間を共にしてきた印象が強い。プライベートでも勉強会での付き合いが深く、ある人に私を紹介するときに「保阪君は身内だから」と言ってくれたことを今でも忘れてはいない。
 しかし、ここでは敢えてプライベートの交遊よりも昭和史研究者としての側面について、書きたいと思う。私は、訃報を聞いてから、半藤さんが、どのように昭和史と向き合ってきたのか、自分なりにまとめてみようと考えてきた。
 半藤さんの歴史観は、一つの家に例えることができる。歴史観ならぬ「歴史館」といっていい。この家には、三本の大きな柱が立ち、四本のしっかりとした梁があった。
 一つ目の柱になるのが、史料や証言を丁寧に分析する実証主義だ。歴史を皇国史観や唯物史観などの思想をベースに見るのではなく、史料や証言を集め、自分の手で一つ一つ検証していくものだった。多くの軍人たちに直接インタビューをしたり、史料の発掘に立ち会ったことはこれにあたる。いまでも読み継がれる『日本のいちばん長い日』や『聖断』などの著作は、まさにこの成果といっていいだろう。
 次の柱が、一市民、国民の目線であることを大事にしていた点だ。権力者の側に立たず、常に一般の庶民としての目線を忘れなかった。それは半藤さん自身が、昭和二十年三月十日の東京大空襲の体験者であることと大きなかかわりがある。地獄ともいうべき火の海の中を逃げた少年時代の記憶は、権力者や有力者の視点で歴史を語ることを許さなかった。
 最後に挙げたいのが歴史の連続性だ。歴史をぶつ切りではなく、親の世代から子や孫の世代まで、長きにわたって受け継がれていくものであると考えていた。半藤さんは、七十歳を過ぎてからそれまで公にしてこなかった空襲体験を語り始めた。高齢化による記憶の風化を不安に感じてのことだという。これこそ、「伝え、繋げなければならない」という使命感の表れだったのだろう。
 では、四つの梁とは何か。それは、ヒューマニズム、アンチミリタリズム、インテリジェンス、ポピュリスムを指す。
 半藤的ヒューマニズムとは、人間が平和な時代に生まれ安らかに亡くなっていくことを政治こそが保障すべきという考え方だ。アンチミリタリズムは、言うまでもないことだが、軍国主義的な事象への反対する姿勢である。
 次に挙げたインテリジェンスとは、知識や情報をベースにして物事を論理的に考える姿勢のことである。ここを失うと、歴史を自分の都合のいいように捻じ曲げてしまう。それは、かつて唯物史観と呼ばれるものであったし、近年では日本を極端に礼賛する歴史観だ。半藤さんはそのような歴史観とは距離を置いていた。
 ある時、半藤さんからこう言われた「オレもキミもネットの世界では、極左だの反日だのと言われてるらしいぞ」。我々は、皇室擁護の立場だし、そもそも共産主義とは相容れない。半藤さんは「昔は、右翼だの反動だのと言われて、今は左翼扱い。こっちは何も変わっていないのに」と憮然とするのだった。
 最後に敢えてポピュリスムという言葉を使った。これは大衆迎合という意ではなく、人々に分かりやすい平易なことばで伝えることを指す。半藤話術ともいうべき語り囗や独特の文体は、「歴史書」を読むことのハードルを下げ、昭和史を親しみやすいものとした。昭和史が大衆化したのは、その力によるところが大きい。
 今になって思うと、半藤さんは出会ったころから変わらなかった。私がノンフィクション作家になった四十年ほど前、「君の書いた『東條英機と天皇の時代』を読んだよ。開戦前夜、東條が首相官邸でただ一人泣いていたという証言を、奥さんから聞き出したのは素晴らしい」と褒められたことを昨日のことのように思い出す。半藤さんは歴史の中に「人間」を見ることに重点を置いていた。人間を描くことが、時代を理解するのに最適であると考えていたのだろう。本稿で挙げた柱にも梁にも「人間」が描かれているのだ。これこそが、「半藤昭和史」最大の特徴になるのだろう。
 私は、この数十年、昭和史を中心に歴史を調べてきたが、そこにはすでに「半藤一利」という大きな道があった。私は、その道を後から歩いて行くことができた。半藤さんが亡くなった今、微力ではあるがその道が行き止まりにならない様に切り開いていこうと決意している。それが、「保阪君は身内だから」とまで言ってくれた半藤さんへの何よりの恩返
しになると思うからだ。」(「文春ムック 永久保存版 半藤一利の昭和史」P154より)

保阪正康さん現在82歳。
最後の「半藤さんが亡くなった今、微力ではあるがその道が行き止まりにならない様に切り開いていこうと決意している。」という一文に期待したい。

このムックの最後に「決定版 半藤さんの90冊 ジャンル別ガイドブック」という90歳にちなんだ90冊の紹介がある。
「一番好きな作品は?」の問いに、半藤さんがまっさきに挙げたのが「聖断-昭和天皇と鈴木貫太郎」だったという。そして挙げたのが「ソ連が満洲に侵攻した夏」「それからの海舟」と、『やっぱりこれが一番かな』と挙げたのが「漱石先生ぞな、もし」だったという。

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自分も漱石の長編は全部読んだので(ここ)、「漱石先生ぞな、もし」に少し興味を覚え、廃刊になっているので図書館で古い本を借りてはみたが、挫折した。
そして「聖断」も読んでみようかと手配した。ついでに、東大教授の加藤陽子さんが寄稿で挙げていた「日本の一番ながい日」も、2つの映画は見たが、小説は読んでいない。
これも読んでみようか・・・

読む姿勢が悪いせいか、枕が合っていないせいか、毎晩寐ると夜中に肩が凝る。数年来だ。
老体にむち打って?最近は音楽よりも読書に励むコロナ渦の老人ではある。

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2022年2月16日 (水)

半藤一利の「世界史のなかの昭和史」を読んだ

半藤一利の「世界史のなかの昭和史」を読んだ。今までの「昭和史」と違って、読むのに苦労した。世界史は難しい・・・。

とにかく「世界史」と聞くと虫酸が走る!? 高校の時、最悪の成績だったのが「世界史」!
そもそも世界史の話は、話があっちこっちに飛ぶ。世界は広いので、あっちこっちの国の話に飛ぶのは仕方が無い。でも自分は付いて行けない。
だから読み飛ばしのチャンバラ小説が好き。なぜかというと、話が時系列的に一貫して流れているので話が分かり易い。それに引き換え、映画やTVの単発ドラマ、小説などでは、舞台が時間的にあっちこっちに飛ぶ。「今」をやっていたと思ったら、次のシーンは昔にもどったり・・・。それでワケが分からなくなる。

220216sekaisinonaka 話が本題から飛んだ。この「世界史のなかの昭和史」を読むに、半藤さんの勉強力に、今さらながら感心する。実に多くの文献が出てくる。そこからの引用が多いので、話としては難しくて、面白くない。でもそれは事実の積み重ね。
半藤さんは65歳で文藝春秋を退社し、本格的に作家へ転身したという。以来90歳で亡くなるまで25年間。その間の膨大な執筆。この25年間の時間がどれほど中身が濃かったか・・・
今の自分の自堕落な生活を顧みるに、ただただ尊敬!?

本の中身については論じないが、最後の青木理さんとの対談が面白かった。
自分が信じている歴史家?は、半藤一利さん、保阪正康さん、そして青木理さんの3人。その大御所2人の対談。2018年2月14日の対談なので、まだ安倍政権のとき。(2020年9月16日まで)
この対談で、青木さんが大御所・半藤に聞く話が面白い。
以下、気になった所を、長々とだが記してみる。

青木 ぼくは通信社の特派員として韓国に長く駐在しましたから、植民地支配の愚かな政策以前に、併合自体か許されざる所業だったと思っています。そういえば、韓国の酒場で出会った老人がこんなことを言っていたのがいまも印象に残っています。「日本はずるい」と。なぜかと尋ねれば、ヨーロッパでは侵略者であり敗戦国たったドイツか分断され、塗炭の苦しみと努力の末に統一を成し遂げて現在に至っている。周辺国との歴史問題もある程度は乗り越えている。一方のアジアでは、植民地支配から解放された朝鮮半島が分断され、いまなお統一が果たせていない。米軍基地にしても、韓国は首都ソウルにも広大な基地があるのに、日本は戦後、その大半を沖縄に押しつけた。ましてや日本の戦後復興は朝鮮戦争の特需によって跳躍の足がかりを得ている。結局のところ、戦後日本は嫌なものをすべて“周辺部”に押しつけ、本土は繁栄の果実だけを享受してきたのではないか。だから「ずるい」と。歴史の「イフ」を語っても詮無いのですが、もし日本かもう少し早くポッダム宣言を受け入れていれば、ひょっとすれば朝鮮半島か分断されなかった可能性もありますね。
半藤 あります。
青木 他方、もう少し受け入れが遅ければ、日本が分断される可能性もあった。
半藤 あります。
青木 そういう意味では、なんとも。“絶妙”なタイミングで敗戦を迎えたことになる。
半藤 日本の敗戦に関してはほんとうに絶妙、というよりは、ぎりぎりの実にいいところでパッと終わりました。本土決戦などとんでもないことですから。それに降伏したあとも、へたに本土でゲリラ戦などを一、二年もやっていれば、変なことになっていました。というくらい、日本の敗戦が鮮やかすぎたために、朝鮮半島が分断された。
 38度線に分けだのは、日本政府がマッカーサー司令部に「降伏する相手はどっちですか」と聞きにいったところ、38度線の北のほうはソ連の極東軍総司令官ワシレフスキーに、南のほうは米陸軍部隊最高司令官すなわちマッカーサーに降伏せよということで南北に分けたんです。
ベトナムも17度線で分けたのは最初、北は中国軍つまり蒋介石に、南は東南アジア連合軍最高司令官に降伏せよというふうに、ようするに降伏の仕方をマッカーサー司令部が決めたんですね。それでソ連軍はさーっと北朝鮮に入ってきた。ところがアメリカ軍はもたもたしていて、というのも朝鮮半島どころではなくて、あまりにあっさり日木か白旗をあげたので、日本本土をどう占領するかの青写貞もできていなかったから、朝鮮に行くのが遅かったんですよ。それでしょうかなくて旧日本軍が、いっぺん棄てた武器をもういちど持って警備に入った、というようなアホなことをしている。ともかくそのための分断でした。
青木 やはり、日本の敗戦受け入れ時期が現在の分断を左右したと。
半藤 でないとそんな分け方はしませんからか。スターリンが日本に宣戦布告をする前ですから。といってももう少し遅ければ日本がソ連軍の北海道敵前上陸を迎えていました。
青木 たとえばあと一,二年ゲリラ戦みたいなことをしていたら北海道はソ連で、東北以南が米国というような日本分断に?
半藤 中国地方と九州はイギリス、四国と近畿地方がとりあえず中国じゃあなかったですか。いや、近畿地方は米中の共同管理でした。アメリカで日本降伏に対する戦略を練っている陸軍・海軍・国務の三省調整委員会が相談して、具体的に計画を立てていました(ソ連:北海道、東北地方/アメリカ:本州中央、関東、信越、東海、北陸、近畿/中華民国:近畿、四国/イギリス:中国地方、九州/※東京は四カ国共同占領)。東京も四つに分けていたんです。実現はしませんでしたけれど。なぜって、この計画が成文化されたのが、なんと八月十六日のことだったんですよ。
青木 では、朝鮮半島みたいに日本が分断されることは、まったくの夢物語ではなかった。
半藤 もし日本の抗戦がつづいていれば、あり得ました。東京にベルリンのように壁ができた可能性もある。
青木 ということは朝鮮半島の分断は、一義的には冷戦体制の遺物ではあるものの、責任の一端から日木は免れ得ないですね。」(「世界史のなかの昭和史」p477より)

青木 これも半藤さんの本に教えられたことで、ナチス政権下のドイツは小選挙区と比例代表の並立性だったのですね。半藤さんも本の中で、今の日本とよく似ていると結構ストレートにかかれている。「優秀な人物をそろえる必要などはなく、どこの馬の骨であろうと、無能であろうと、いやかつて政治的な暗殺を企てた犯罪者であろうと、立候補者名簿に党公認として名を連ねさえすれば、そんな連中でも国会入りかできた」と(笑)。
半藤 日本で小選挙区制かはじまったとき、私は反対していたんです。というのは、いくらか頭にナチス・ドイツのことかあったからです、ヒトラーか出たのはこれなんだよと。でもすーっと通ってしまいましたよね。しかも比例代表制というよくわからないものまで。これはヒトラーの真似をしたわけじゃないんでしょうが。
青木 一般的に言われているのは、たとえばイギリスのような二大政党制を想定し、政権交代のある政治を目指したのが小選挙区制を入れた際の大義名分でした。
半藤 そこまではいいんですよ。ただ比例代表制という妙なものを入れたのは違うんです。
青木 あれはどちらかというと小政党を守るためという理屈でしょう。
半藤 もっぱら公明党を守るためですよね、そういう魂胆があってやったことだと思いますよ、確信があってやったことではなくて。日本の選挙区制の話になるといまでも頭にくるんです(笑)。
青木 なぜ?(笑)
半藤 いまの状態をつくったのはそれが原因だと思ってますから(笑)。はやくやめろと言いたい、ただ中選挙区制だとカネがかかってしょうかない、買収もはびこることもあって、仕方ないとも思います。でも小選挙区制だって似たようなものです。
 選挙区制の話以上に、これだけははっきり詳しくかいてやろうと思ったのか、麻生(太郎副総理)さんの「ナチスの手口を学んだらどうだ」発言です(二〇一三年七月二十八日「ドイツのワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気が付かなかった。あの手口に学んだらどうか」)。あのとき新聞はヒトラーの全権委任法のことばかり言っていました。私のところに意見を聞きにきた記者たちもそうでした。でも違うよと。全権委任法の前に、ヒトラー政権か閣議決定で長ったらしい名前の法律を勝手に決めて、大統領令というかたちでその日に出した、それがものすごい効力を発揮して、そのあとの全権委任法は民主主義的手続きのもとに議会を通ったんだよと。
青木 「ドイツ民族に対する裏切りと反逆的陰謀を取締るための大統領令」ですね。
半藤 そうです。つまり多数決による民主主義というのは、そういう巧妙な使い方をするといくらでも利用できる。そこんところをよく見ないと、あの麻生発言はわからないんです。簡単にいえば、ワイマール憲法のなかに、大統領はそういうことができるとかおいある、それを利用したんですね。ワイマール憲法はまさに民主的な憲法といわれていますから、そういうことが閣議決定でできた。日本のいまの安倍内閣は重要な政策を、閣議決定でまず通しておいて、それから議会の多数決を利用してやっている、同じじゃないかと。
青木 ええ、ぼくもまったくその通りだと思って、その部分に付箋を貼ってきました(笑)。」(p483より)

青木 半藤さんは本書でも「民草」という言葉を使ってらっしやいますね。何か特別な思いがあるのですか。
半藤 『B面昭和史』(平凡社ライブラリーでたくさん使った言葉ですが、昭和の日本の庶民のことを考えると、一所懸命に国家にくっついて、ほんとうにみんなが必死になって尽くしているんですね。といって、どこまで意識して、つまり知識などをもってついていったかを考えると、それほどきちんと認識した市民意識はなかった、むしろ風になびく草のようについていった。それで「民草」という言葉がいちばん当てはまるなと思ったんです。」(p489より)

青木 天皇については語り尽くされていますが、さらに語るとすれば、やはり戦争責任についてでしょうか、この本にかかれていることはその通りだと思いますが、でははたして天皇に戦争責任はあったのかどうか。
半藤 先ほど話しましたように、日本は明治のときに軍事国家が先にスタートしました。その軍を統帥するのは天皇なんですね。ところが内政・外交を統治する天皇と同じではいけないということで、そちらは天皇陛下であり、軍事の統帥権をもつのは大元帥陛下と、一人の人格のなかに二つの役割をもつことになったんです。これをうまく使い分けたのが帝国陸軍です。統帥権は天皇ではなく大元帥陛下にあるわけで、天皇の家来である内閣が(軍事に関して)余計なことを言う必要はない、つまりそれは統帥権干犯であるということに気がついたのが北一輝です。以来、大元帥陛下と天皇陛下は分けて考えなきゃいけない存在なのですが、これがややこしいんですよ、あるときは天皇になり、あるときは大元帥になる。昭和天皇その人はわかっていたと思います。だから二・二六事件のときは争乱の第一報が入ると、軍服を着て御座所に出てきた。これは軍事問題であるから、天皇ではなく大元帥の役割であると自ら指揮をとるんです、そういう見方をすると、天皇陛下には法的には戦争責任はないけれど、大元帥陛下にはもちろんありますよ。」(p499より)

とにかく、知らないことが多い。今さらだが、勉強になる。
改めて『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』を読み直してみようと思った。

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2022年2月12日 (土)

半藤一利の「B面昭和史1926-1945」を読んだ

半藤一利の「B面昭和史1926-1945」を読んだ。
この本が何とも面白かった。自分の愛読する読み捨てのチャンバラ小説より、よっぽど面白いかも・・・
それは講談師・半藤一利が、「さーて、お立ち会い!御用とお急ぎでない方は、ゆっくりと聞いておいで!!」と講ずるのだから面白い。
「昭和史1926~1945」が新聞の1面とすると「B面昭和史」は3面記事から見た昭和史。
しかし、どうも話がA面に行ってしまうのを、おっとっと、とB面に戻す。の繰り返しが何とも納得できる。

実はこの本の存在を知ったのはごく最近のこと。
NHKラジオ第2の「声でつづる昭和人物史~半藤一利」4(2022/01/24放送)ここ)を聞いた時に、保阪正康氏が、昭和史三部作を紹介していた。その時は、「昭和史1926~1945」「昭和史(戦後編)」そして「世界史のなかの昭和史」が三部作で、「B面昭和史」を入れて四部作と言ってよいのでは。と言っていた。
220212bmensyouwasi 「昭和史1926~1945」と「昭和史(戦後編)」はだいぶん昔に読んだが、「世界史のなかの昭和史」と「B面昭和史」は知らなかったので、早速買ってきて、今日「B面昭和史」を読み終わったということ。650ページの大作としてはスイスイ読めた。
(p594の「あとがき」を読むと、半藤さんは「昭和史1926~1945」「世界史のなかの昭和史」「B面昭和史」を昭和史三部作と言っているようだが・・・)

まあ、興味のある方は読んで頂くとして、こんな裏話もあったという。どうでも良いことだが・・・
<昭和4年の項>p58より
「スポーツに関連してもう一話、他愛もないことながら―――。わたくしは小学校一年生のはじめての運動会で、「いいですか、徒競走の号令は、“位置について、用意ッ・・・ドーン”と正式に決まっています。このドーンはピストルの音です。分かりましたね」と先生にこんこんと教えられた記憶がある。いらい、何の不忠議もなく「ヨーイ、ドン」でやってきたが、あのとき、先生がこと改めて「正式に決まっています」といった理由が急に気になったことがあった。それで十五年ほど前に調べてみた。
 結果は、「ヨーイ、ドン」がスタートの合図として正式に採用されたのが三年五月二十六日。この日、明治神宮競技場で第一回全日本学生陸上競技大会かひらかれ、そのときに決められたとわかる。わたくしが小学生になる十年ほど前で、そんなに昔ではなかったのである。
 ついでに調べてみた。明治十六年(一八八三)の東大の陸上運動会では「いいか、ひ、ふ、み」。大正二年(一九一三)の第一回全国陸上競技会では「支度して、用意」であった。なかには「よろしゅうごわすか、用意」なんて時代もあったらしい。知っていても何の役にもたたないことながら、昭和改元とともにはしまったことか多いのにびっくりさせられる。」

昭和5年生まれの半藤さんが、ものごころついて、小学校、中学校時代の半藤さん扮する「悪ガキ」の大活躍には、つい笑みがこぼれる。

途中は飛ばすが、昭和20年3月10日の東京大空襲。死者10万人、罹災者100万人、焼失家屋26万戸。こんな話もあったらしい。

<昭和20年 人道無視の無差別爆撃>p536より
「三月、五日間で攻略できるであろうと予定されていた硫黄島の激戦がなおつづいているとき、マリアナ諸島の米第20空軍司令部の不満は、爆発点に達しようとしていた。本土爆撃開始いらいすでに四ヵ月に及んでいるのに、日本上空の強い偏西風に影響されて回数22回、のべ2148機の出撃、五千トンの投弾によっても、優先的に設定された主目的11のどれ一つとして壊滅し得なかったからである。隊の士気の日ましに落ちていくのに業をにやしたカーチス・ルメイ少将は、ついに決断を下した。それまで守られてきた“爆撃の騎士道”をかなぐり捨てたのである。
―、日本の主要都市にたいし夜間の焼夷弾攻撃に主力をそそぐこと。
二、爆撃高度を五千~八千フートとす。
三、各機は個々に攻撃を行うこととす。(以下略)
作戦の根幹は焼夷弾による低空からの市街地への無差別攻撃である。
「日本の一般家屋は木と紙だ。超低空からの焼夷弾攻撃で十分効果があげられる」
とルメイは自信たっぷりに言った。
 この新戦術によるB29の大群の無差別絨毯爆撃が開始されたのが三月十日未明。それは東京の下町にたいする猛火と黒煙とによる包囲焼尽作戦であった。」
・・・・・
「いずれにしても、じつに情けないことに、その悪魔の使者ごときルメイどのに、昭和三十九年十二月にわが日本国は勲一等旭日大綬章を授与している。これを知らされたときのわたくしの怒髪が天をついたのは、いかがであろうか、無理はないことと読者は思われぬか。同時に、日本人の人の好さにホトホト愛想をつかした、いや感服したことも事実である。」

何度も出てくるが、日本人の変わり身の早さ、素直というか、お人好しさ・・・。

そしてこの本に繰り返し出てくる「民草」という言葉も初めて聞いた。
広辞苑によると、
たみ‐くさ【民草】
 民のふえるさまを草にたとえていう語。たみ。人民。青人草あおひとくさ。胆大小心録「心を殊にかなへたらんには、いやしき―たりとも、よき歌よむべし」
〇民の草葉
 人民を草にたとえた語。民草。拾遺愚草下「治まれる―を見せがほになびく田面の秋の初風」

そう、まさに民草からみた戦争への歩みが、“半藤節”で書かれている。昭和を生きた人以外はちょっと遠いことかも知れないが、「歴史は繰り返す」のだ。
そして、最後に半藤さんは言う。

<「あとがき」より>p592
「過去の戦争は決して指導者だけでやったものではなく、わたくしたち民草がその気になったのです。総力戦の掛け声に率先して乗ったのです。それゆえに実際に何があったのか、誰が何をしたのか、それをくり返し考え知ることが大事だと思います。無念の死をとげた人びとのことを忘れないこと、それはふたたび同じことをくり返さないことに通じるからです。少々疲れる努力ですが。本書か少しでもその役に立てばありかたいと本気で願っています。」

半藤さんが逝って1年余。
亡くなる前に「昭和史(戦後編)1945~1989」に対する「B面昭和史 1945~1989」も書き残して欲しかったと思った。
さて、では「世界史のなかの昭和史」を読み始めるかな・・・

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2022年2月 8日 (火)

佐伯泰英の「吉原裏同心」全36冊を読んだ

佐伯泰英の「吉原裏同心」25冊(ここ)、「吉原裏同心抄」6冊、「新・吉原裏同心抄」4冊、そして最新の「吉原裏同心36」の36冊に加え、「吉原裏同心 読本」の合計37冊を読み終えた。

以前の「佐伯泰英「居眠り磐音 江戸双紙」を読み終えた」(ここ)のが2019年3月23日だった。読み始めたのが2018年10月11日 だったので、ペースを考えると163日で59冊。1冊あたり2.76日。
今回は、途中で数冊他の本もあったが、111日で37冊。1冊当たりちょど3日。
そうか、ちょっとペースが落ちていたか・・・

220208yoshiwara この小説のあらすじは「幼なじみで、人の妻となっていた汀女と駆け落ちした神守幹次郎は、追っ手を避けながら流れ着いた江戸で、吉原遊郭四郎兵衛会所の用心棒、裏同心として雇われる。幹次郎は、遊女たちに俳句などを教えることになった汀女や会所の面々と共に、吉原に起こる様々な事件を解決していく。」というもの。

別に、吉原に興味があったわけでは無いが、この小説も読み出したら止まらなくなった。
しかし異説もある。Amazonの書評はかなり厳しいものが多い。これらに自分も納得。

そもそも「吉原裏同心」は、25巻で終結した物語。そこまではスッキリして良かった。しかし、その後に「吉原裏同心抄」「新・吉原裏同心抄」と続いたのが、結果として頂けなかった。

この続編に対して、「吉原裏同心抄」第1巻の「あとがき」に、著者はこう書いている。

「あとがき
吉原裏同心(二十五巻)『流鶯』を書き終えたとき、このシリーズは終わったと思った。
だが、完結と打てないまま迷いに迷った。
物語は終わっていた。
だが、紙の本が売れない時代少しでも力になれば、と余計なことを考えた。そして、二十六巻)に着手して、「これはやはり違う」 と改めて思い知らされた。
 そこでシリーズを改め、吉原裏同心抄としてリセットとし、新たな出立をすることにした。
 小説の主人公たちも幾多の喜怒哀楽の体験をして己の考えも変われば、他人への温情や 思いやりも生じてくる。それはまま世間の常識や考えと異なることかもしれない。
 神守幹次郎、汀女、そして加門麻の三人の男女を主軸に虚構ならでは許されるはずの新たな物語を書き続けて行こうと决めた。

 私の時代小説は、二百年以上も前の江戸を舞台にしながらも、現代を反映した物語と常々主張してきた。吉原裹同心抄もまた激動する現代を反映しながら、「こんな夢舞台があればいいのに」という読み物に過ぎない。
 吉原裹同心抄『旅立ちぬ』第一巻をお届けする。
 ともあれ読者諸氏には混乱を来すことになった。改めてお詫び申し上げるとともに、今後ともご愛読のほど伏してお願い申し上げます。
平成二十九年元旦  熱海にて」

やはり延長戦に入ったことに無理があったようだ。
これを読んだ方はお分かりと思うが、途中の巻から読み始めた人向けだろうか、これまでのスジの説明の反復が多く、続けて読んでいる者にとては煩わしく、スジそのものの矛盾もチラホラ。
そして、いわば「妻妾同居」という設定の違和感。「新・吉原裏同心抄」では、舞台が京都と江戸に分かれる、という必然性の無い設定の違和感。
そして、京都の時代背景などの、説明の冗長。(これらは飛ばして読んだが・・・)
何より、主役級の登場人物が、コロッと死んでしまったり、4冊に亘って描いてきた吉原乗っ取りの“謎”が、アッという間に「殺して解決」、という違和感。

やはり、25巻で終わっていれば良かったのに、無理をして延長線に入ったのが無理の始まりだったかも・・・

しかし、物語の舞台の吉原会所が消えるという設定のドタバタには、ビックリしたが、考えてみると、当たり前だった環境が、ある日突然消え去る、ということは、現代では有り得ること。つまり勤め先が倒産、など夢にも思わなくて組んだ30年ローンが、アッという間に崩壊!の現実。
そんな意味では、許される設定かも。しかし、読んでいる方から見ると、25巻までの“次々に起こる事件と解決”の方が安心して読んでいられた。

佐伯泰英の小説は、“読み飛ばし”の本。一度読んだら捨てる。の繰り返し。作者もそれを狙って”書き飛ばし”ているらしい。
つまりは、各所に矛盾があるので、決定版とか完本とか称して、加筆修正を繰り返さざるを得ない。
氏もそろそろ80歳。ネタの限界かも知れない。これからは、新刊書は避けて、読むとしても、昔発行の本を読んでいこう。
時間潰しの軽い本としては、まだまだ棄てがたいので・・・

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2022年2月 3日 (木)

ドラマWスペシャル 倉本聰「學」

このサイトで、今まで何曲か、名も知らぬ音楽の“探し旅?”を記してきた。
今日は、映画のその話なのである。
その映画をもう一度みたいと思ったのは、だいぶん前。でも、その映画の題が分からない。しかし映画の光景は目に浮かぶ。人間の脳とは、不思議なもの。

病気で命が短い祖父が、引きこもりの孫の再生を祈って、一緒にカナダの知り合いの家に行く。そこからキャンプと称してヘリコプターで森の中へ。山に取り残された二人。祖父は、孫に、森で一人で生きて行く術を教える。火の起こし方、食べ物の探し方・・・
そして、数日後、孫は亡くなっている祖父を発見。
それから孫は一人で山の中をさまよう。祖父から教えられた術を頼りに。それは生と死の境。
それから数か月経ったある日、心配していた知り合いが見ると、川の上流からその孫の乗った手作りの筏が・・・

自分は、見た映画はExcelのリストに記しているが、それらしい映画は幾ら探しても見つからない。
そしてGoogoleで色々検索するが、ヒットしない。キーワードは、「映画」「カナダ」「祖父」「孫」「生き残り」・・・
それが、先日、ふと祖父役は確か仲代達矢だな・・・と思い出し、「日本映画 カナダ 祖父 孫 仲代達矢」と入れて検索したら、あった!!
何とそれは「ドラマWスペシャル 倉本聰「學」」だったのだ。映画では無かった。

WOWOWのサイトにはこう紹介がある。(2012/1/1の放送)
「倉本聰、幻の脚本をドラマ化。大罪を犯し、生きる気力を失った14歳の少年が、カナダの大自然の中で、祖父とともに生きる意味を見つめ直す。主演は仲代達矢。

「北の国から」で、全国のドラマファンを魅了した脚本家・倉本聰。その後も「拝啓、父上様」「優しい時間」「風のガーデン」など、名作を書き続ける倉本聰の、幻のオリジナル脚本ドラマ「學(がく)」を放送する。カナダの壮大な自然が持つ生命力に魅了され、倉本聰が1992年に執筆したのがこの作品。
現代日本の文明社会にもてあそばれ、わけもわからずに大罪を犯し、生きる気力も希望も失った孤独な少年は、祖父に連れられ、カナダの大自然の中で、生きることの原点を見出す旅に出る。「人として生きていくこと」「自然と共存すること」を真正面から描く“人間と自然への賛歌”ともいえるこのドラマ。死期が近いことを知りながら自らの命を懸けて孫の再生に挑む祖父を演じるのは、日本を代表する名優・仲代達矢。希望を失った14歳の少年・學には新人の高杉真宙を起用。
壮大なカナダのロッキー山脈を舞台に、美しくも力強い人間ドラマをお届けします。

<ストーリー>
ニューヨーク在住のエリート商社マンを両親に持つ13歳の少年、學(高杉真宙)はパソコンだけを友達に、東京でひとり暮らしをしていた。ある日、學はパソコンを勝手にいじった近所に住む4歳の少女に激昂し、思わず突き飛ばしてしまい、少女は絶命する。恐怖に駆られた學は遺体を遺棄するが、すぐに発覚し、マスコミを騒がせる大事件となる。
世論の追及を受けた両親は自殺。學は一切の感情に蓋をするように言葉を発しなくなり、生きる気力さえ失ってしまう。そんな學を引き取った元南極越冬隊員の祖父、信一(仲代達矢)は、自らの命を懸け學を人として再生させることを決意し、ある計画を実行に移す。學を連れ、カナダの険しいロッキー山脈へと旅立つ信一。それは、あまりにも危険で無謀な賭けであった――。」(WOWOWのここより)

もう一度見ようと、ググってみると、放送予定も配信も無い。しかし、DVDが発売されていた事が分かった。
ドラマWスペシャル 倉本聰 「學」[DVD]
監督:雨宮望
時間:1 時間 56 分
発売日:2012/5/2
出演:仲代達矢, 高杉真宙, 勝村政信, 八千草薫
販売元:ポニーキャニオン

220203kuramotogaku 商品の説明
WOWOW開局20周年番組 ドラマWスペシャル 倉本聰、幻のオリジナル脚本ドラマ。
仲代達矢主演で贈る、カナダのロッキー山脈を舞台にした、少年と祖父の“命の物語"。
今だからこそ、すべての日本人に広く伝えたい感動のドラマとメッセージ!

●文明とは何か 友人とは何か 家族とは何か そして即ち 生きるとは何か
●1992年に「北の国から」と同時期に執筆された幻の脚本、初映像化。
「いわば『北の国から』のネガティブバージョン。あの作品とは違った視点から若者を描いてみたかった」

[内容解説]
倉本聰、幻のオリジナル脚本ドラマ。仲代達矢主演で贈る、カナダのロッキー山脈を舞台にした、少年と祖父の“命の物語" 倉本聰『學』。
「北の国から」で、全国のドラマファンを魅了した脚本家・倉本聰。
その後も「拝啓、父上様」「優しい時間」「風のガーデン」など、名作を書き続ける倉本聰の、幻のオリジナル脚本ドラマ。
カナダの壮大な自然が持つ生命力に魅了され、倉本聰が1992年に執筆したのがこの作品。

現代日本の文明社会にもてあそばれ、わけもわからずに大罪を犯し、生きる気力も希望も失った孤独な少年は、祖父に連れられ、カナダの大自然の中で、生きることの原点を見出す旅に出る。
「人として生きていくこと」「自然と共存すること」を真正面から描く“人間と自然への賛歌"ともいえるこのドラマ。
死期が近いことを知りながら自らの命を懸けて孫の再生に挑む祖父を演じるのは、日本を代表する名優・仲代達矢。
希望を失った14歳の少年・學には新人の高杉真宙を起用。
壮大なカナダのロッキー山脈を舞台に、美しくも力強い人間ドラマ。

[スタッフキャスト]
キャスト
風間 信一:仲代 達矢
風間 學:高杉 真宙
大下:勝村 政信
風間 かや:八千草 薫
スタッフ
原作:脚本:倉本 聰
監督:雨宮 望
音楽:羽毛田 丈史」(Amazonのここより)

そして、レンタル落ちのものを数百円で買ったDVDが本日届き、見た。

感想は特に書かないが、ずっと気になっていた映画(ドラマ)に再会できたのは良かった。
でも、憧れのまま大事にしておく、という手もあるのかも・・・

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