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2021年6月 1日 (火)

なかにし礼の「兄弟」を読む~森田童子は姪だった

先日、NHKラジオ深夜便で「特選:母を語る~なかにし礼さんを偲(しの)んで」作詞家…なかにし礼(2001/08/07放送)」(2021/05/06再放送)を聞いた。
なかにし礼の「赤い月」を読んだのが3年前。終戦時の満州からの逃避行の自伝である。
母親の信念による逃避行で、何とか生き延びて日本に帰ることが出来た。その体験が、氏の人生に大きな影響を与えていたらしい。

<NHK「母を語る~なかにし礼」(2021/05/06再放送)>


そして「石狩挽歌」が生まれたことで有名な、兄との葛藤を描いた自伝小説の「兄弟」。
210601kyoudai兄は10億円近い借金をして、その大半をなかにし礼が兄に代わって返済したという。その返済能力も大変なものだが、会社を作っては潰して借金を作る、の繰り返しに付き合ったなかにし礼は、理解に苦しむ。
それほどまでに借金を作る兄の心の背景には「墜落願望」があったという。(文春文庫「兄弟p337)失敗することが分かっていて実行する。墜落したいために。女と博打と会社の倒産。なぜ繰り返して兄の借金を肩代わりするのか。
210601sekihi その解は、母親にあった。シベリア抑留で体を壊して死んだ父親。それから2年も経たないのに、母親は恋をする。そしてまも
なく脳溢血で半身不随。47歳の時だったという。それから老衰で73歳で亡くなるまでの25年間、母親の面倒をみたのは兄嫁だったという。
家の家長として兄夫婦は、母親を離さなかった。その負い目が借金返しに駆り立てた。そして母親が亡くなったとき、気が付く。

「――そうだったのか、俺は兄貴の顔の上にいつも母の仮面をかぶせて見ていたのか――
 私は、兄の魔法の金縛りから解き放たれた気がした。
 毋が脳溢血で倒れて、その毋の面倒を兄夫婦がみるようになってから今日までの二十五年間、私はずうっと兄に対して負い目を感じていた。毋の面倒をみることがいくら長男の務めであったとしても、身体の不自由な毋の世話をすることは並たいていのことではないということは、側で見ていて分りすぎるほど分った。その負い目の気分が私の中に兄に人質を取られているような弱味を形づくっていた。兄の顔を見るたび、私は無意識に母を連想し、優しい気持になっていた。毋を悲しませたくない、毋を幸せにしてやりたいという焦りに似た思いが私の目をくらませ、いつか知らぬ間に私の目には、兄の顔と毋の顔が重なって見えるようになっていたのだ。
 ところがどうだ。母が死んだら、兄のつけていた仮面が割れたではないか。背負っていた後光も消えたではないか。素面となった兄の顔はつまらないものだった。安っぽくて薄っぺらで、どこからどう見ても陰気な影だらけで、笑顔さえなにやら薄気味悪かった。
 ――これが兄の実像か。こんな男のために俺は何億という金を献上したのだろうか。こんな男のために俺は骨身を削るような犠牲を払ったのだろうか――。
 私はあまりのバカバカしさに情けなくなった。と同時にこの時初めて、私に数々の苦労を強いて平然としている兄というものが、得体の知れぬ酷薄な存在であることを実感したのだった。私は恐怖で箸を持つ手が震えた。
 ――兄の側にいたら殺されてしまう。兄から逃げなくては、一日でも一刻でも早く――」(文春文庫「兄弟」p355より)

この兄貴の賭けの最初であるニシン漁を歌った「石狩挽歌」を聞いてみよう。

<北原ミレイの「石狩挽歌」(新録音)>


「石狩挽歌」
  作詞:なかにし礼
  作曲:浜 圭介

海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると
赤い筒袖(つっぽ)の やん衆がさわぐ
雪に埋もれた 番屋の隅で
わたしゃ夜通し 飯を炊く
あれからニシンは どこへ行ったやら
破れた網は 問(と)い刺し網か
今じゃ浜辺で オンボロロ
オンボロボロロー
沖を通るは 笠戸丸
わたしゃ涙で ニシン曇りの 空を見る

燃えろ篝火 朝里(あさり)の浜に
海は銀色 ニシンの色よ
ソーラン節で 頬そめながら
わたしゃ大漁の 網を曳く
あれからニシンは どこへ行ったやら
オタモイ岬の ニシン御殿も
今じゃさびれて オンボロロ
オンボロボロロー
かわらぬものは 古代文字
わたしゃ涙で 娘ざかりの 夢を見る


さて本題だが?自分の好きな森田童子は、何となかにし礼の姪だという。つまり、この兄の次女が森田童子。
これはNetでググっているうちに見付けた。今まで素性が全く分からなかったが、(ここ)にこんな記述がある。

「森田童子の本名は前田美乃生・旧姓は中西美乃生
死亡日は推定 平成30年4月16日
一週間後の24日に孤独死による変死体で発見される
死亡時の年齢は65歳
住所は東京都国分寺市本多2丁目~~
この建物は昭和57年3月に新築
自宅購入にあたり前田美乃生さんは夫と連名で住宅ローンを組んだ
夫の前田亜土こと本名・前田正春は平成21年10月31日に死亡している
正春の死後、2015年に自宅には公明党の掲示板とホームセキュリティの監視カメラ
が導入された
これは森田童子こと前田美乃生が夫・正春の死後、精神的に不安定になったからではないかという説が出されている
この家は有限会社海底劇場音楽出版の登録上の本店でもある
森田童子の作品の原盤権を管理している会社だ
森田童子となかにし礼との関係は、なかにし礼の実兄・正一の次女が森田童子で、なかにし礼の姪にあたる
森田童子には姉と弟がいる。
前田夫妻には子供がいなかった。
それで国分寺市の不動産は姉と弟が共有名義で相続、海底劇場音楽出版の役員は弟が引き継いだ
詳しくはなかにし礼の小説「兄弟」自伝「翔べ!わが思いよ」を読み、謄本を参照すること」ここより)

亡くなった人の個人情報、人権は生きている人とは違うが、よくぞ調べたもの。

そして自宅を訪ねた人もいる(ここ)。国分寺駅から徒歩8分。

自分もストリートビューで見たが、現在はまったく別の3階建ての家が建っている。
最も古い2010年2月は、夫の前田亜土さんが亡くなった頃のもの。玄関の灯りが点いている。そして2015年にはツタが伸び始めて、2017年にはツタが2階までびっしり。そして2018年6月には2階をツタが埋め尽くしていた(ここ)。しかし2019年5月にはツタがきれいに取り除かれていた。そして2020年10月には別の家に。

森田童子が亡くなったのは2018年4月。夫を亡くして心を病んでいたのかも・・・

小説「兄弟」によると、昭和43年の暮れに110坪の家を中野に建てた。部屋数は15。「そこに兄の家族5人と母、そして私と4人の弟子が住んだのだが、それでもまだ部屋はあまった」とある。
そのとき、兄の子どもは「長女の智子は20歳、次女の美以子は15歳、長男の哲雄は12歳」(文春文庫「兄弟」p285より)
この次女の美以子が森田童子だという。そして彼女は1970年17歳のときに、学園闘争で友人が捕まったのを機に高校中退、19歳までその中野の家で、なかにし礼と4年間一緒に住んだが、兄がゴルフ場開発の失敗から6億の借金を抱え、なかにし礼の会社も連鎖倒産。それを機に兄一家と絶縁したという。
森田童子は20歳頃から歌を歌い出し、1975年、22歳でデビュー。1983年、30歳で結婚のため活動休止。その国分寺の家は1982年3月に結婚のために建てたらしい。
なお芸名の由来は「笛吹童子」からだという(ここ)。

生きとし生けるものは必ず死ぬ。なかにし礼も森田童子も、それぞれの人生を世の中に刻んで去っていく。
そしてその跡には、また誰かが別の人生を刻んでいく。
時が流れていくのを、改めて感じた「兄弟」という小説ではあった。

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コメント

有難うございました。童子の世代です。伊藤

投稿: 伊藤 光春 | 2021年6月 1日 (火) 18:49

森田童子さんの歌をどのように知ったのか、随分古い事で記憶には無いのですが、札幌市厚生年金会館でのコンサートの際、チケット販売のお手伝いなどさせて貰った事がありました。石狩挽歌のなかにし礼さんのお兄様のお子様が童子さんだったとは、全く知りませんでした。驚きです。
結婚生活が幸せだったのだろうなと、何となく想像しています。そうであって欲しいと。もう過去の事でも。。

【エムズの片割れより】
時の流れには、あらがうことが出来ませんね。
ふと「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。」を思い出しました。
森田童子さんも、当然ですが現役の時が一番輝いていた。
2003年に無理に録音した「ひとり遊び」は残念な出来でした。
やはり引退した人を無理に引っ張り出すべきでは無いと・・・

投稿: 橋本ヒロミ | 2021年7月23日 (金) 22:32

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