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2021年4月14日 (水)

水村美苗の「続 明暗」を読む

先日、「夏目漱石の長編を全部読んだ」(ここ)という記事を書いた。
210414zokumeian0 そこで、KeiichiKodaさんからのコメントで、水村美苗の「続 明暗」という続編が存在する事を知った。今日はその感想である。

ひと言で言って、漱石の「明暗」よりも水村版の「続 明暗」の方がよっぽど面白かった。それは筆者が「あとがき」で書いている事からも、“面白さ”は筆者の意志だったことが分かる。「あとがき」にこうある。

「『続明暗』を読むうちに、それが漱石であるうとなかろうとどうでもよくなってしまう――そこまで読者をもって行くこと、それがこの小説を書くうえにおいての至上命令であった。その時は『明暗』を書いたのが漱石であること自体、どうでもよくなってしまう時でもある。だが漱石の小説を続ける私は漱石ではない。漱石ではないどころか何者でもない。『続明暗』を手にした読者は皆それを知っている。興味と不信感と反発の中で『続明暗』を読み始めるその読者を、作者が漱石であろうとなかろうとどうでもよくなるところまでもって行くには。よほど面白くなければならない。私は『続明暗』が『明暗』に比べてより「面白い読み物」になるように試みたのである。
 ゆえに漱石と意図的にたがえたことがいくつかある。まず『続明暗』では漱石のふつうの小説より筋の展開というものを劇的にしようとした。筋の展開というものは読者をひっぱる力を一番もつ。次に段落を多くした。これは現代の読者の好みに合わせたものである。さらに心理描写を少なくした。これは私自身『明暗』を読んで少し煩雑すぎると思ったことによる。語り手が物語の流れからそれ、文明や人生について諧謔をまじえて考察するという、漱石特有の小説法も差し控えた。これは私の力では上手く入れられそうにもなかったからである。もちろん漱石の小説を特徴づける、大団円にいたっての物語の破綻は真似しようとは思わなかった。漱石の破綻は書き手が漱石だから意味をもつのであり、私の破綻には意味がない。反対に私は、漱石の資質からいっても体力からいっても不可能だったかもしれない、破綻のない結末を与えようとした。」(ちくま文庫「続明暗」p413より)

これを読むと、筆者の漱石評と自分とは、そう違っていないように思う。前にも書いたが、漱石の小説は決して面白くないのである。どうでもよい遊びが多い。それでも新聞小説! 次を読みたいと読者をワクワクさせたかどうか、自分には疑問である。

この「続明暗」を読み始めて、自分がその世界に入ってしまったことは筆者の思惑通り。
やはり、テーマは、結婚するはずの女に逃げられてしまった男の「何故だろう?」。でも、そもそも男がそれを理解出来たら、決して逃げられる事は無かっただろう。それは現在でも同じこと。

同じく「あとがき」を読むと、この小説は、1988年6月から1990年4月まで『季刊思潮』(思潮社)に掲載され,1990年9月に筑摩書房から単行本として出版されたという。

氏にとって、この小説は最初の作品だというから驚く。
氏は“続明暗を書きたいと言っただけで興味を持ってくれ、書き始めたとたんに「季刊思潮」という連載の場を提供してくれた”と言っている。
そして「今思えば、私は連載という形をとらせてもらえなければ、「続明暗」を書き終えるのはもちろんのこと、作家にもなれなかった。」と書いている。
幾らプロとは言え、筑摩書房の“人を見る目の確かさ”に脱帽である。

ネットで「続明暗」をググっていたら、出版当時であろう新聞記事が見つかった。(ここ)から拝借して挙げておく。出版当時の評として貴重である。1990年10月30日付け「長崎新聞」と2014年8月朝日新聞夕刊「人生の贈りもの」の記事との事である。
このblogの高度な論に敬意を表する。

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ともあれ、この本を教えてくれたKeiichiKodaさんに感謝。

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