「半藤一利さんを悼む」ノンフィクション作家・保阪正康
半藤一利さんが亡くなった。自分が知ったのは、1月13日の未明、たまたまYahoo!ニュースで知った。
「作家の半藤一利さんが死去 昭和史研究で著書多数、90歳
「日本のいちばん長い日」などの著作で知られる作家の半藤一利(はんどう・かずとし)さんが12日午後、東京都世田谷区の自宅で倒れているのが見つかり、死亡が確認された。関係者への取材で分かった。90歳。東京都出身。
東京大を卒業して文芸春秋に入社。「週刊文春」「文芸春秋」編集長を歴任、1994年から著述に専念した。
編集者として坂口安吾らを担当し、歴史研究に開眼。終戦時の軍部関係者らを集めた座談会「日本のいちばん長い日」は、雑誌「文芸春秋」の記事となった後に単行本化され、映画化された。
憲法9条と平和の大切さを次世代に説き続け、2015年に菊池寛賞を受けた。」(ここより)
「自宅で倒れているのが見つかり」という状況から、死因は急性心不全?とか想像したが、老衰だったとのこと。
「作家、半藤一利さんの死因は老衰 直前まで家族と会話
12日死去した作家半藤一利さんの死因は老衰で、東京都世田谷区の自宅で息を引き取ったことが13日、妻の末利子さんの話で分かった。
末利子さんによると、数日前から歩行が困難になり、死の直前まで30分ほど末利子さんと会話していたという。かかりつけ医が連絡を受けて自宅に駆けつけ、死亡診断を行った。
数日後に家族葬を行う予定という。」(ここより)
死の直前まで普通に話されていたとのこと。
以前にTVで見た東海テレビ制作の「人生フルーツ」を思い出す。取材相手の建築家の津端修一さん(90)が、昼寝に行った後、そのまま亡くなった(ここ)。何とも理想的な死にざまに、羨ましく思ったもの。
半藤さんも同じだったらしい。うらやましい!?
新聞に色々な人の追悼の辞が載っているが、やはりいわゆる同僚?であった保阪正康さんの辞が心に残る。
「昭和史の誤りを克服、継いでいかねば 半藤一利さんを悼む
ノンフィクション作家・保阪正康
半藤さんとはこの20年、対談や共著など仕事を通じて日常的に話をしてきたが、「自分は『絶対』という言葉を原稿で使わない」と言っていた。旧制中学のときに敗戦を迎え、「お国のために死ね」という時代から民主主義へと社会の価値観ががらっと変わるのを体験したからだ。「大東亜戦争」など戦前の価値観にもとづく言葉も使わないようにしていた。相対的にものを見る視点を明確に持っている半藤さんの生き方を尊敬していた。
僕より9歳上の半藤さんは、昭和史の取材で旧日本軍の将官・佐官、つまり決定する側の人たちによく会っていた。一方、僕はそれより下の佐官・尉官に会っていた。半藤さんと「この人に会ったか」「会ったよ」などと話をしていると、軍が起案して決定するプロセスが浮かび上がってきた。お互い、歴史を演繹(えんえき)的にではなく、鈍重ではあるけれども、帰納的に見ていこうという姿勢で一致していた。学問の殻に閉じこもらず、人がどう生きたかを見つめていこう、と。抽象的な概念を嫌い、自分の手で触ったものだけを信用する人だった。
■人間観察学に魅了
一緒に取材することもあり、半藤さんの「人間観察学」に魅せられた。瀬島龍三氏に取材した後、「瀬島がうそをつくときの顔、わかるか?」。千人単位の人に会い、戦争体験も数多く聞いている半藤さんは、頭の中で考えたことを言っている人は、声の調子や目の動きなどからすべて分かる、と言っていた。「証言の垂れ流しは罪」と肝に銘じて、精査して信用に足るものだけを使っていた。
東大では勉強そっちのけでボート部の活動に明け暮れた。全日本選手権の決勝で慶応に敗れてヘルシンキ五輪(1952年)出場を逃したことは本当に悔しかったようで、「50センチの差で五輪に行けなかった」といつまでたっても言っていた。
半藤さんといえば、文芸春秋の人だ。昭和28(1953)年に入社してすぐに「坂口安吾の原稿をとってこい」と言われ、群馬の安吾の家で酒を飲んで寝泊まりしたことから編集者としての歩みが始まる。司馬遼太郎や松本清張らを担当した。文春では役員も務め、「文春リベラリズム」を具現化した人でもあった。それは戦後のブルジョア民主主義であり、社会のリーダー的役割を担った。文春には右派の流れもあるが、それとは一線を画し、一つの系譜をつくり今につながっている。
記憶に残るエピソードといえば、1989年にベルリンの壁が崩壊した後、奥さんと一緒に壁を見に行ったそうだ。壁の前に立ったとき、体が自然と能の舞を始めた。すると、周りに人だかりができて、終わったら拍手が起きた、と。「恥ずかしくなかったの?」と僕がきいたら、「うれしくてね」。東西冷戦が終わったという感慨の大きさをうかがい知った。
平成のころ、2人で天皇皇后両陛下(現上皇ご夫妻)にお会いしたことも思い出深い。天皇とすでにお会いしていた半藤さんから、「雲の上から声がかかったけど一緒に行くか?」と誘われ、ご進講ではなく歴史に関するお話をしに何度か皇居へうかがった。天皇は歴史に深い関心を持たれていて、半藤さんが天皇のご質問に真摯(しんし)に答える姿が印象的だった。そのような場で半藤さんは「象徴としての天皇」を心から理解したのだと思う。そして、昭和天皇を神格化した軍事指導者の政治的無責任さを痛感したはずだ。
■憲法100年もたそう
2人で進めていた運動がある。九条の会の護憲とは少し違い、より現実的に今の憲法を100年もたそう、というもの。お互い講演のときに呼びかけようと約束していた。組織や事務局があるわけではないが、みんなの思いを広げようと。そういう試みだった。
僕も人の死を悲しむような年ではないが、半藤さんを失い、大木が倒れたように感じる。歴史の分野においてアカデミズムとジャーナリズムの枠を取っ払い、相互乗り入れを実現した先駆的な存在だった。
「死んだらダメだよ。言論界の地図が変わるから」と言っていたのに。半藤さんは、近代日本が犯した多くの誤りを書き残していかなきゃいけないと遺言のように言っていた。いろんな国に迷惑をかけたことの歴史的総括をやっておかないと日本は信用されない、と。半藤さんに触れた人たちは、昭和史の誤りを克服していく方法を、継いでいかなければならない。(談)
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ほさか・まさやす 1939年生まれ。「昭和史を語り継ぐ会」主宰。著書に『近現代史からの警告』など。」(2021/01/15付「朝日新聞」P27より)
自分も半藤一利さんには心酔しており、当サイトにもその話題をたくさん採りあげてきた。当サイトの検索ツールで「半藤一利」と入れてみると35の記事が見つかる。それほど自分も気にした人だった。
思い出すのは、2010年5月15日に三鷹であった講演会に行ったこと(ここ)。
半藤さん、当時70歳。特に、白内障の手術の直後だと言っていたことが印象に残っている。
しかし、お年のせいか、最近はなかなかメディアで見られなくなっていた。それで最近は、保阪正康さんの話をよく聞くようになった。
上の記事は、まさにその保阪さんの送別の辞である。
この頃は、いわゆるフェイクが多くなり、何を信じて良いか分からない時代になってきた。この人の話は信用する。という人が少ない。もちろん政治家の弁などまったく×だが・・・
いわゆる、信じられる言論人が少なくなってきたことは寂しい。
残された保坂さんや、前川さんに、世を正すため、過去と同じ過ちを犯さないため、どんどん発言していってほしいものだ。
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コメント
今朝、TBSTVのサンデーモーニング、風をよむのコーナーで、半藤一利さん逝く が取り上げられていました。
以下は、同番組のスタッフノートから、そのインタビュー(抜粋)採録です。
https://note.com/tbsnews_sunday/n/n94178d55a8db
2014年、安倍政権が憲法9条の解釈を変更し、集団的自衛権の行使を可能とする閣議決定をして以降の、安保法制を巡る動きを、半藤さんは「歴史の転換点」と受け止めたのです。
作家 半藤一利さん「30年後、50年後になったら『ものすごい転換点だったね、あの時が』と、後の人が言うんじゃないかというぐらい、重大な日だと思っています」「あれ(解釈改憲の閣議決定)ができるならば、こういうことが、いくらでもできるならば、憲法なんて要らなくなっちゃいますよ」
昭和史の研究を通じて、日本人が、なぜ、あの戦争の泥沼に、踏み込んでいったのかを、問い続けた半藤さん。ひときわ強く警鐘を鳴らした、教訓がありました。
作家 半藤一利さん「昭和史をずっと見てきますと、私たち日本国民の中にはものすごい攘夷の精神というものがありまして。敵を追っ払う、協調ではなく、すぐ攘夷の精神をむき出しにするんですよ。そういう意味で“熱狂”しやすい。私たちは熱狂する時代を、自分たちで作っちゃいかん。常に冷静にみる、誠実であれということだと思います」
大衆が生み出す“熱狂”が、戦争に結びつく全体主義、軍国主義の原点になってきたというのです。
【エムズの片割れより】
サンデーモーニングは、毎週見ているのですが、今朝は途中まででTVを切っていました。
それで、今改めてタイムシフトで見ました。
まさに巨星墜つですね。残念です。
投稿: かうかう | 2021年1月17日 (日) 16:09
昭和史研究家・半藤一利氏追悼ムック、最期の著作が連続刊行。絶筆原稿の写真公開も
2021年2月1日 14時00分
株式会社文藝春秋
株式会社文藝春秋(本社:東京都千代田区、 中部嘉人社長)は、 1月12日に亡くなられた作家、 昭和史研究家であり、 文藝春秋OBでもある半藤一利氏の追悼ムック『半藤一利の昭和史』を2月17日に刊行します。 また、 半藤氏による最期の著作となる随筆集『歴史探偵 忘れ残りの記』(文春新書)を2月19日に発売します。 それらに先立ち、 2月10日発売の月刊誌「文藝春秋」では、 著書刊行にあたり半藤氏が著した絶筆原稿の写真を掲載します。
追悼ムック『半藤一利の昭和史』 5つの読みどころ
1.単行本未掲載も! 渾身の論考&東大生への白熱講義
・「なぜ明治は勝利し昭和は敗れたのか」は、 「文藝春秋」2008年2月号に寄せられた原稿用紙で60枚近くに及ぶ力作です。 昭和天皇と明治天皇の時代を比較、 なぜ日露戦争に勝利した日本が、 太平洋戦争で大敗を喫したのか。 伊藤博文、 児玉源太郎、 小村寿太郎ら「チーム明治」が率いた明治と、 東條英機、 近衛文麿らが道を誤った昭和。 時代を超えたリーダー論としても必読。 半藤昭和史のエッセンスがここに!
・「東大生が半藤さんに聞いた昭和の歴史」はは単行本未収録。 東京大学教養学部、 平成生まれの立花隆ゼミの学生たちとの対話です。 自らの体験を踏まえ、 昭和という時代をわかりやすく語りかける半藤さんと、 鋭い質問をなげかける学生たち。 歴史のバトンが受け渡される瞬間の記録です。
2.豪華メンバーが特別寄稿「半藤さんから受けとったもの」
長年の盟友でベストセラー『昭和の怪物 七つの謎』で知られる保阪正康さん、 高校の後輩でもあり親交の厚かった作家宮部みゆきさん、 対談集も出している池上彰さん、 佐藤優さん、 『それでも、 日本人は「戦争」を選んだ』の著者で東大大学院教授の加藤陽子さんなど、 半藤さんの膨大な仕事から、 私たちが受け継ぐべきものは何かを語っていただきます。
3.朝日新聞の倉庫に眠っていた7万枚から 半藤さんが精査したとっておきの秘蔵写真
盧溝橋事件、 上海炎上、 南京陥落、 三国同盟締結、 南部仏印進駐、 広島原爆ほか、 昭和の戦争の決定的瞬間を、 半藤さんの解説付きで大公開!
4.半藤一利×磯田道史 「歴史の巨人」二人が 「近代日本のルーツ」幕末を語り尽くした!
「昭和の始まりは幕末にあり」とは半藤さんのことば。 博覧強記の二人が「近代日本の根っこ」を鮮やかに論じる熱中対談です。 目からウロコが4、 5枚はがれます。
5.絶筆 最後に託された肉筆原稿
『歴史探偵 忘れ残りの記』(文春新書)のために、 まえがきとあとがきをいただきました。
〈わたくしは、 ゴルフもやらず、 車の運転もせず、 旅行の楽しみもなく……ただただ昭和史と太平洋戦争の“事実”を探偵することに若いころから妙にのめりこんできて、 一人でコツコツと続けて、 いつの間にか九十歳の老耄(おいぼ)れとなってしまった〉――。 最後まで現役だった半藤さんの「あとがき」の原稿を写真と活字で掲載。
このほかにも、 半藤さんによる「70人の昭和人物列伝」、 「絶対オススメ 半藤一利の書いた90冊」など読みどころは満載です。
商品情報
『半藤一利の昭和史』
出版社:株式会社文藝春秋
発売日:2月17日
特別定価:本体1,500円+税
最期の著作 『歴史探偵 忘れ残りの記』(文春新書 )の概要
2月刊行を前に、 昨年末から年明けにかけて半藤さんが最期までゲラに目を通していた書籍は、 軽妙洒脱で視野の広い半藤さんの人柄と足跡が偲ばれる内容となっています。
本書は1999年から2020年まで文藝春秋営業部が書店向けに配布していたパンフレット「新刊のお知らせ」の巻頭に掲載されていたコラム(一部は『歴史のくずかご』として刊行済み)を中心に編集されたもので、 半藤さんはあとがきで「むずかしいことをやさしく/やさしいことをふかく」書いたと記しています。 そのため、 より自由に筆の赴くままにテーマを選ぶことが出来た、 半藤さんらしい内容となっています。 目次も以下のように多岐に及んでいます。
第1章 昭和史おぼえ書き/第2章 悠々閑々たる文豪たち/第3章 うるわしの春夏秋冬/第4章 愛すべき小動物諸君/第5章 下町の悪ガキの船出/第6章 わが銀座おぼろげ史
書名にある「忘れ残りの記」とは吉川英治氏の著書から拝借したもので、 これも半藤さんご自身の希望によるものです。
文春新書担当編集者より
本書の企画が動き出したのは、 2020年初夏のことです。 当初は、 文藝春秋の営業部が毎月作成する「新刊のお知らせ」のコラムを1冊にまとめる予定でしたが、 半藤さんから「本になっていない原稿がいろいろあるので、 読んでみてくれないか」と、 雑誌や新聞の切り抜き、 自ら製作した小冊子などが次々と送られてきました。
そこからいくつかのテーマごとにまとめたものが本書です。 半藤さんは原稿のひとつひとつに細かく手を入れ、 目次からタイトルまで、 多くのアイデアをいただきました。
編集部から「今回収録できなかったお原稿がたくさんあるので、 第2弾、 第3弾と出しましょう」とご提案したところ、 「編集部がよいのであれば、 お願いします」とご快諾くださいました。 年が明け、 「原稿のことはお任せします」と言付けをいただき、 一週間もしないうちに訃報が届きました。 書斎の机には本書のゲラが置かれていたそうです。
前島篤志文春新書編集長のコメント
昭和史の語り部として知られる半藤さんですが、 著者として、 また社の大先輩として接すると、 驚かされるのは、 その”芸域”の広さでした。 若き日には落語家に入門し、 短歌を詠んでは「昭和万葉集」に収められ、 版画をこしらえては仲間と展覧会を開き、 日本舞踊では名取にもなる。 しかし、 それらは単なる趣味ではなかったかもしれません。 その関心の広さ、 面白そうなことには首を突っ込む姿勢こそ、 半藤さんの人間観、 歴史眼を豊かにしたものだったのではなかったか。 半藤さんは一流の人物鑑定家でもありました。 本書は、 そんな半藤さんの、 知を愉しみ、 人生を味わう方法のエッセンスが詰まった一冊です。
商品情報
『歴史探偵 忘れ残りの記』(文春新書)
出版社:文藝春秋
発売日:2月19日
定価:本体850円+税
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166612994
月刊 「文藝春秋」は追悼特集。 グラビアも掲載
第164回芥川賞受賞作「推し、 燃ゆ」の発表号である月刊誌「文藝春秋」(2月10日発売)では、 追悼特集「さようなら、 半藤一利さん」を掲載します。 グラビアで絶筆原稿の一部を紹介するほか、 保阪正康、 磯田道史両氏に寄稿をお願いしました。 半藤氏は昭和52年(1977年)4月から昭和54年8月まで「文藝春秋」編集長を務めました。
商品情報
「文藝春秋」3月号
出版社:文藝春秋
発売日:2月10日
特別定価:1,000円(税込)
https://bunshun.jp/list/magazine/gekkan-bunshun
関連情報
追悼 「歴史探偵」半藤一利 「あの戦争」の真実を語り継いできた文春新書の11冊
https://books.bunshun.jp/articles/-/6043
追悼 「歴史探偵」半藤一利 読み継いでいきたい昭和史に学ぶ文春文庫厳選13冊
https://books.bunshun.jp/articles/-/6040
昭和5年生まれ。 東京大学文学部卒。 昭和28年株式会社文藝春秋入社。 「漫画讀本」編集長、 「文藝春秋デラックス」編集長、 「週刊文春」編集長、 「文藝春秋」編集長、 「くりま」編集長などを歴任。 専務取締役、 常任顧問を経て平成6年退社。 『ノモンハンの夏』で山本七平賞、 『漱石先生ぞな、 もし』で新田次郎文学賞、 『昭和史』で毎日出版文化賞特別賞。 ほか著書多数。 平成27年には菊池寛賞を受賞した。 令和3年1月没。 90歳。
プレスリリース > 株式会社文藝春秋 > 昭和史研究家・半藤一利氏追悼ムック、最期の著作が連続刊行。絶筆原稿の写真公開も
種類
【エムズの片割れよろ】
情報をありがとうございます。
早速予約しました。
投稿: かうかう | 2021年2月11日 (木) 20:58
日経新聞の2/23のコラム「春秋」に滝廉太郎作曲・武島羽衣作詞の、有名な「花」についてちょっと面白い記事があったので、紹介しようと思ったのですが、エムズさんの「童謡・唱歌」のコレクションの中にはこの歌ははいっていないんですね。そこで、ここへ投稿することにしたのですが、もちろん、半藤一利さんと関係があります。この歌は「春のうららの隅田川、のぼりくだりの船人が櫂のしずくも花と散る、・・」とはじまりますが、半藤さんが作家の田辺聖子さんと飲んだ時に「花」を歌うと、田辺さんから「この歌詞は源氏物語由来のことはご存じだっしゃろか」と問われた由。半藤さんは源氏のどこなのかを尋ねるのはシャクだったので、難解な源氏物語と格闘することになった。亡くなる2年ほど前に「このほど探し当てることができた」と遺作となった「歴史探偵忘れ残りの記」に書いているらしい。源氏物語の中にある「春の日のうららにさして行く舟は/棹のしずくも花と散りける」という歌だそうです。
わたしの手元にある金田一春彦・安西愛子編「日本の唱歌(上)明治編」(講談社文庫)の144ページには「花」が収められていて、この歌について両編者の解説も載っているのですが、この歌の歌詞が源氏物語由来だということには言及はなく、もしかしたら国文学にたいへん造詣の深い金田一氏もご存じなかったのかもしれない。
【エムズの片割れより】
ヘェ~! そうなんですか・・・
とても自分など(難しくて)付いて行けませんョ!
そういえば、「花」は挙げていなかったかな?
投稿: KeiichiKoda | 2021年2月28日 (日) 09:33