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2021年1月の10件の記事

2021年1月29日 (金)

心あたたまる「一筆啓上賞」大賞

今日の朝日新聞の夕刊に、「一筆啓上賞」の記事があった。

「私にリアルオバQって…」日本一短い手紙、大賞決まる
 福井県坂井市の丸岡文化財団は29日、日本一短い手紙のコンクール「一筆啓上賞」の入賞作品を発表した。第28回は「笑顔」をテーマに、国内外から5万2805通の応募があった。シンガー・ソングライターの小室等さんや俳人の夏井いつきさん、作家の宮下奈都さんら5人が審査し、大賞に次の5編(年齢は応募時)を選んだ。

 《「お母さん」へ》「貴女は親切ね。優しくていいお母さんに育てられたのね。」私は、お母さんの娘ですよ。=川崎市の女性(68)

 《「夫」へ》結婚式で白無垢(むく)綿帽子の私に、満面の笑みで「リアルオバQ」って言ったの忘れないから=新潟市の女性(49)

 《「自分」へ》説教中、親を笑顔で見つめたらもっと怒られました。もう私は天使ではないようです。=横浜市の男性(15)

 《「おかさん」へ》手紙読むのが楽しみと笑顔見せ言うてくれたけ、切手十枚また買うた。途中で逝くなや。=盛岡市の女性(63)

 《「こどもたち」へ》迷ったら、笑顔がうまれる方へ、進んで下さい。=栃木県那珂川町の女性(52)(八百板一平)」(2021/01/29付「朝日新聞」夕刊p10より)

それぞれが面白い。
「貴女は親切ね。優しくていいお母さんに育てられたのね。」は、やはり親の影響は大きいということ。良くも悪くも親の育て方が、子に移る。TVで子供の貧困や、育児放棄の番組を見るに付け、そう思う。

「結婚式で白無垢(むく)綿帽子の私に、満面の笑みで「リアルオバQ」って言ったの忘れない」は、自分でも思い出がある。自分の結婚式のとき、披露宴会場に入るときに、しみじみカミさんの姿(顔)を見た。うっかり言ったのが「これはキレイだ」。それに対してカミさんは「まるで女優さんの厚化粧みたい」
そしてある悪友MTが言った。「(エムズ)にはもったいない!」。この「もったいない」が半世紀を経てもいまだに頭に残っている。

「説教中、親を笑顔で見つめたらもっと怒られました。もう私は天使ではないようです。」は愉快だな。当然女の子が作ったかと思ったら、どうも男性みたい・・・
でも、我が家でも女の子を育ててみたかった・・・。少なくても思春期までの!?

「手紙読むのが楽しみと笑顔見せ言うてくれたけ、切手十枚また買うた。途中で逝くなや。」を読んで、大学に入って下宿生活を始めた時のことを思い出した。当時18歳。毎月、お袋が現金書留で下宿代と生活費を送ってくる。もちろん中には手紙が。自分はそれを当然と思っていた。
帰省したあるとき、「たまには返事を書いたら」と言われた。自分は、「着いた」という返事を書くという常識を持っていなかった。当然だと思っていた。心に響いたお袋のひと言であった。

「迷ったら、笑顔がうまれる方へ、進んで下さい。」も良いね。明るい方へと進むことが出来たら、本当に明るくなれるかも・・・・
でも今の時代、どこを見ても暗い道ばかりなのかも・・・!?

コロナに負けず、明るい道を探しましょう!

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2021年1月27日 (水)

初めて「Zoom」を使った日~同期会の新年会:タケキャブの効果

とうとう自分も、ウワサの「Zoom」なるものを使ってしまった。

年が明けてから、同期会の幹事たちからZoomでの新年会の誘いメールが来た。考えてみると、今まで年に2回開催していた同期会も、コロナ渦の影響で、昨年の正月(2020/01/21)が最後となっていた。
それを流行の「Zoom」なるものを使ってやろうという試み。まず届いたのが「伝助」なるツール。なかなか便利。自分の都合に合わせて日時に〇×△を入れると、瞬時に合計が表示される。何日の何時が、希望者が多いかが一目で分かるツール。

いつも先頭を切って参加する自分だが、今年は様相が違う。年初来の逆流性食道炎による胃のもたれ、そして最近の胃痛で気分が落ち込んでいるから、とてもPC遊びをする気になれない。それでそれらを無視していた。
そもそも自分の胃は持病。2005年7月30日の胃のバリウム検査で、胃の噴門部から逆流していることを指摘されたのが始まり。そして翌2006年4月にピロリ菌を退治。それからしばらくしてから胃酸が出過ぎるようになり、制酸剤のオメプラゾール類が手放せなくなっている。

しかし今回は、その薬が効かず、胃痛になったらしい。でも、一昨日に行った行き付けの診療所で貰ったタケキャブが効きそうで、気分を良くしている。
実はこのタケキャブなるプロトンポンプ阻害薬(PPI)は、2015年発売の、今まで飲んでいるオメプラゾールとはまったく原理が違う新薬とのこと。
実はこの薬、一昨年(2019年)の5月に貰って飲んだことがある。飲み出して2日後、風呂を出たらお腹いっぱいに蕁麻疹?の発疹。これは、てっきり薬の副作用だと思い、タケキャブを止めてしまった。
医師の話では、もし飲めるなら、タケキャブが良いのだが残念。とのこと。本当は、オメプラゾールを他の同種の薬に変えて貰おうかと思って行ったのだが、前に飲んだネキシウムも名前だけ違うが、同じ薬だという。

新薬タケキャブは、医師との話の中で、2回目に飲んで副作用が出ないケースもあるが、医師としては勧められないという。そりゃそうだ。
それで、今回再チャレンジしてみたいので、自己責任で1週間分だけ出して貰うことにした。それで、副作用が出る事を前提で恐る恐る飲んでみた。最初は半錠。次も半錠。それで何でも無いので、1錠。また1錠。都合3日で3錠飲んだが、何の副作用も起きていない。制酸の効き目はやはりオメプラゾール以上の感じがする。

考えてみると、最近もときたま風呂を出た後、太ももに持病の蕁麻疹が発生する事がある。自分の蕁麻疹は、暖めると出るらしい。
つまりは、昨年5月にタケキャブを飲んだとき、偶然にも、お腹にポツポツが出たので持病の蕁麻疹を副作用と勘違いしたのかも知れない。

でも、最新薬のタケキャブが飲めるようになって、気持ちが楽になった。これで治まれば良いが、もし効かないようだと、機能性ディスペプシアも疑うと言っていた。

ま、そんな訳で、今日の「Zoom新年会」を覗いてみる気になった。もともと参加する気は無いので、マイクもカメラも無い愛用の古いノートPCで210127zoom アクセス。すると声だけは聞こえてくる。参加しても顔が出ないので、「これは誰だ?」「覗くと言っていた(エムズ)ゃないか?」と責める!?
しかたなく、ipadをつなぐと、絵も音も出るようになった。
まったく、不参加のつもりが、つい参加することに・・・

初めて使ってみた「Zoom」だが、やはり便利。ipadには9画面しか写らないが、スライドすると他も見える。PCなどでは全員が一度に映るようだ。画素数の問題か、調べてみないと分からない。それに、言葉を発する人の画に緑の枠が出るので、誰が話しているかが分かる。それに、相手を画面いっぱいにすると、話す相手によって画面が切り替わる。なるほど、声と連動しているようだ。

皆、色々な壁紙を用意していたが、自分はまさに普段の通り。(たまたま背景が壁だったので、部屋の雑然がバレ無くて済んだ)もちろん片手にビールも無い。乾杯は手元にあった麦茶のペットボトルで。
参加者は延べ14人ほど。名古屋に引っ越したK君は、引っ越して以来の7年ぶりの参加とか言っていた。(ついでにそのK君。「ずっと「エムズの片割れ」を読んでいるが、*月*日以降更新していないじゃないか!」と言われてしまった。壁に耳あり障子に目あり!?)

とにかくNetは距離が無関係。どんなに離れていようが。それを証明してくれた。
いつもそうだが、入社して51年にもなる同期会。元気な人しか出て来ないのは通例。
まだ働いている人が3~4人いる。まだまだ現役。もっとも自分にはとっくにその気は無し・・・。
でも、この「Zoom」で仕事の打合せ、会議となると、違和感がある。
今の現役の人は大変だ。これに慣れて毎日やらなければならない・・・
でも、引退組には便利。会場に行かなくて済むし、顔と声が聞こえれば、それで充分。
ともあれ、「Zoom」による会を初めて体験した今日であった。

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2021年1月23日 (土)

NHK「患者が“命を終えたい”と言ったとき」を見て

NHKスペシャル「患者が“命を終えたい”と言ったとき」(2020/12/26放送ここ)を見た。
たまたまレコーダーの録画番組を整理していて見たのだが・・・
死に対するなかなか深い問いかけをする番組だった。

この番組について、NHKのサイトにはこう解説がある。
「2020年、ALSを患う女性がSNSで知り合った医師に自らの殺害を依頼し薬物の投与を受けて亡くなるという事件が明るみになった。「苦しむ210123nhkinochiwooetai 姿を見せたくない」「延命して家族に負担をかけたくない」―そうした患者の訴えに医師たちは今どう向き合っているのか。がんの終末期やALSなど神経難病の現場ではどこまで患者の希望に寄り添うべきか、どんな言葉をかければいいのか、医師たちが模索している。命をめぐる葛藤の記録。」ここより)

ガンの末期患者の「鎮静」の問題、そしてALS患者の人工呼吸器装着の本人の判断。どれも家族にとっても医師にとっても難しい。
鎮静薬で眠らせることで苦痛を取り除く「鎮静」。眠ったまま死を迎える事もあるという。
しかし鎮静をするには要件があり、①耐え難い苦痛がある ②他に苦痛をとる手段がない ③死期が迫っている ④本人の同意 などだそうだ。
TVに出ていたがん患者は、「早く取って下さい。痛み。痛くて痛くてたまんないよ」と訴え、モルヒネなどあらゆる手段を取っても苦痛が続くために、鎮痛が行われたという。

一方、ALSの患者は、「家族に苦労をかけてく無い」と人工呼吸器装着の装着を拒んでいた。Netで見ると、人工呼吸器装着を付けると、10年以上生存する場合もあるという。やはりその間の家族に与える苦労は、並大抵では無く、3/4の患者が装着を拒否して、そのまま呼吸不全で亡くなっているという。

話は変わるが、新年を迎えてから、どうも胃の調子が悪い。自分の持病なのだが、胃のもたれ。それが1週間ほど前から胃痛を感じるようになり、先日医院に行ったら、逆流性食道炎だという。ピロリ菌を退治してからひどくなった胃酸過多による自分の逆流性食道炎。
胃酸を抑える薬は手放せないが、その薬を飲んでいても、今回はひどくなった。
しかも、貰った薬を飲んでも簡単には効かない。薬は2週間分なので、2週間は症状が出ても仕方が無いのかも知れない。しかし、胃の痛みの苦痛は、今まで味わったことがないほど。そして、食べた物が胃にストンと入らず、食道で止まっているような感じも辛い。食べること自体が怖くなってしまう。Netで、“食べて良いもの”を探して節制しているが、今回の体験で思い知ったのは、痛みのツラさ。
特に夜中に痛むのだが、痛み出すと、他のことは考えられない。当然顔はむっつり。
実は今日も未明から痛みだし、昼頃から治まった。痛みが治まっている間は、まったく普通なのだが、痛み出すと神経がその事だけに囚われてしまう。

ふと10年前に胃がんで亡くなった義姉を思い出した。がんの胃痛は、自分のこんなものとは比較にならなかっただろう。それを耐えて亡くなった・・・。

今回の自分の胃痛も、治るまで何度か起こるのかも知れない。それでこれだけの苦痛。
誰も死ぬが、がんの痛みだけはゴメンだ。しかし自分では選べない・・・。
どんな病気で死ぬにせよ、苦痛まみれで死ぬことだけはイヤだね。その時点で、当然だが単に命を永らえるためだけの延命は、もちろん拒否。そして、とにかく痛みだけは、どんなに死期が早まろうが、取って欲しいもの。
痛みに苦しみながら、数日命を長らえて何の意味があるか・・・。

初めて?の胃痛の後で見た番組だったので、なおさら心に響いたテーマの番組だった。

●メモ:カウント~1320万

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2021年1月18日 (月)

(喪の旅)言葉をたどる、妻がどんどん近くなる 歌人・永田和宏さん

先日の朝日新聞に「喪の旅」として、歌人の永田和宏さんの記事があった。

(喪の旅)言葉をたどる、妻がどんどん近くなる 歌人・細胞生物学者、永田和宏さん

 竹林が茂る京都市左京区の自宅1階。鎮痛剤のモルヒネがきいて、しばらく眠っていた妻が目を覚ました。2010年8月11日のことだ。

 不思議そうに家族を見まわす妻。口元がかすかに動き、何かをつぶやき始めた。

 傍らにいた夫の永田和宏さん(73)は見逃さなかった。「歌だ」。すぐさま原稿用紙に書きとめた。10分ほどで数首ができあがり、おしまいはこの歌だった。

 《手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が》

 その翌日に妻は逝った。戦後を代表する歌人の河野裕子(かわのゆうこ)。00年に乳がんが見つかり、再発、転移に見舞われた。闘病は10年に及んだ。

 死へ近づく時間の残酷さ、残していく家族への思い……。妻は薬袋やティッシュペーパーの箱にまで薄い鉛筆で歌を残した。最後まで歌人を貫いた、64年の生涯だった。

    *

210118nagata  ふたりは学生の歌会で知り合った。妻は在学中に新人の登竜門、角川短歌賞を受賞して華々しく活躍。1972年に結婚した。永田さんは塔短歌会の主宰として、夫婦で短歌界をリード。長男と長女も歌人になり、「歌壇のサザエさん一家」と呼ばれる仲のよさだった。

 歌人であり、細胞生物学者でもある永田さん。正月から大学の研究室につめ、ほぼ休みのない生活を続けていた。それでも永田さんが家に帰ると、ふたりでよくしゃべった。ささいなことでも、妻は身をよじってコロコロと笑った。

 感情をぶつけあってけんかもした。でも永田さんの仕事が一段落つくと、「飲もうか」と夜明けまで酒盛りになった。仕事の構想も話すほどに盛り上がった。「あなたの話、どんどん大きくなるわね」。おだて上手な妻。いっしょにいると自信がわいた。

 お互いを歌の対象にした相聞歌はそれぞれ500首にもなる。永田さんの創作欲は妻亡き後も変わらなかった。

 《あほやなあと笑ひのけぞりまた笑ふあなたの椅子にあなたがゐない》

 朝起きてきて、ひとりテーブルにつく。あ、いつも自分の右斜め前に座っていた彼女がいない。台所に一番近い椅子はからっぽ。こみあげる喪失感をこの歌にこめた。

 時間が忘れさせてくれる。まわりの励ましには違和感を覚えた。

 《わたくしは死んではいけないわたくしが死ぬときあなたがほんたうに死ぬ》

 「忘れないで、何度でも思い出してやらんと。生きていてやらんといかん。河野のことを僕以上に知っている人間はいないんだから」

 永田さんはその後、講談社エッセイ賞や現代短歌大賞を受賞する。「すごいわね!」と、妻がいたらどんなにほめてくれただろう。見てもらえないのが悔しかった。

 そのひとの前だと自分のいいところが出てくる。それがひとを愛することなんだ。妻がいなくなり、しばらくして気づいた。「そのひとを失うと、輝いていた自分もなくなってしまうようで悲しいんだ」

 《ゐてほしいとおもふのはもうゐないとき 鍵をまはして戸を開けるなり》

    *

 昨年から、新潮社の月刊PR誌「波」に「あなたと出会って、それから……」を連載している。妻の実家に残されていた10冊以上の日記と、交際していた5年間にかわした300通余りの手紙から妻の言葉をたどる。妻の中に入っていく作業。不思議なことに妻がどんどん近くなる感じがしている。

 伴侶とは時間を共有するひとだろう。妻と「今」は共有できない。でも、妻が残した言葉をかみしめながら、記憶のかなたの時間をいっしょに生きることはできる。そんな自負がうまれた。

 本当におれでよかったのか。聞いてみたい。

 きれいやなあ。もっと言ってやればよかった。

 「やってやれなかった分を何かで返したい。それが今の自分を生かしている」

 《書くことでからうじて乗り越えてきたのだらうきみの死なによりわが寂しさを》

 昨年12月19日、京都産業大で名誉教授として最終講義をオンラインで開いた。おしまいに映し出したスライドは、着物姿で笑う妻の写真と生前最後に詠んだ、あの歌だった。やわらかい声でしめくくった。

 「私の人生は河野裕子に出会ったことがすべてでした。本当に幸せな人生だった」 (河合真美江)

 ◇10年余、喪の旅をしてきた永田さんに今回話をうかがいました。たとえひとり旅でも妻の残した短歌という道連れがあり、いまも歌で語り合う夫婦旅のようでした。亡きひとへの思いを深める旅。ご一緒しませんか。」(2021/01/13付「朝日新聞」p19より)

当blogでは、永田和宏さん、河野裕子さんについて、何度か採りあげている。当サイトの左上の検索で「永田和宏」と打ってみると、11の記事が検出される。「河野裕子」では14の記事だ。
最初の記事は2008年9月17日(ここ)。ラジオ深夜便で初めて永田さんを知った。河野さんが亡くなる2年前。

それから何度か、ご夫妻の話題を書いてきたが、上の記事はご夫婦の総括的な話のような気がする。

一歩引いて眺めると、結婚、人生、家族・・・。短歌という天性の才能に恵まれていたとは言え、なかなかここまでの家族にはなれない。

最近、コロナ渦もあり、自分の人世を俯瞰することが多い。18年生きた愛犬も亡くなり、この26日には四十九日を迎える。
お骨は庭に埋めて、犬の置物を置くとカミさんは言っている。
多くの家で、ペットも家族。幾らペットと言え、亡くなるのは悲しい。前にも書いたが、我が家の愛犬「メイ子」の晩年は、一般的な犬に比べて、手間を掛けなかった。その点は感謝。

コロナ渦では、検査で陽性と判定され、病院に連れて行かれて、帰ってきたときはお骨。という話も聞く。それではあまりに悲しい。
人間に限らず、生き物には必ず死による別れが訪れる。そんな事は百も承知。
だが、今さらながら、生き死にが身近に感じられるこの頃である。

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2021年1月15日 (金)

「半藤一利さんを悼む」ノンフィクション作家・保阪正康

半藤一利さんが亡くなった。自分が知ったのは、1月13日の未明、たまたまYahoo!ニュースで知った。
作家の半藤一利さんが死去 昭和史研究で著書多数、90歳
 「日本のいちばん長い日」などの著作で知られる作家の半藤一利(はんどう・かずとし)さんが12日午後、東京都世田谷区の自宅で倒れているのが見つかり、死亡が確認された。関係者への取材で分かった。90歳。東京都出身。
 東京大を卒業して文芸春秋に入社。「週刊文春」「文芸春秋」編集長を歴任、1994年から著述に専念した。
 編集者として坂口安吾らを担当し、歴史研究に開眼。終戦時の軍部関係者らを集めた座談会「日本のいちばん長い日」は、雑誌「文芸春秋」の記事となった後に単行本化され、映画化された。
 憲法9条と平和の大切さを次世代に説き続け、2015年に菊池寛賞を受けた。」ここより)

「自宅で倒れているのが見つかり」という状況から、死因は急性心不全?とか想像したが、老衰だったとのこと。

作家、半藤一利さんの死因は老衰 直前まで家族と会話
 12日死去した作家半藤一利さんの死因は老衰で、東京都世田谷区の自宅で息を引き取ったことが13日、妻の末利子さんの話で分かった。
 末利子さんによると、数日前から歩行が困難になり、死の直前まで30分ほど末利子さんと会話していたという。かかりつけ医が連絡を受けて自宅に駆けつけ、死亡診断を行った。
 数日後に家族葬を行う予定という。」ここより)

死の直前まで普通に話されていたとのこと。
以前にTVで見た東海テレビ制作の「人生フルーツ」を思い出す。取材相手の建築家の津端修一さん(90)が、昼寝に行った後、そのまま亡くなった(ここ)。何とも理想的な死にざまに、羨ましく思ったもの。
半藤さんも同じだったらしい。うらやましい!?

新聞に色々な人の追悼の辞が載っているが、やはりいわゆる同僚?であった保阪正康さんの辞が心に残る。

昭和史の誤りを克服、継いでいかねば 半藤一利さんを悼む
 ノンフィクション作家・保阪正康

 半藤さんとはこの20年、対談や共著など仕事を通じて日常的に話をしてきたが、「自分は『絶対』という言葉を原稿で使わない」と言っていた。旧制中学のときに敗戦を迎え、「お国のために死ね」という時代から民主主義へと社会の価値観ががらっと変わるのを体験したからだ。「大東亜戦争」など戦前の価値観にもとづく言葉も使わないようにしていた。相対的にものを見る視点を明確に持っている半藤さんの生き方を尊敬していた。

210115handou  僕より9歳上の半藤さんは、昭和史の取材で旧日本軍の将官・佐官、つまり決定する側の人たちによく会っていた。一方、僕はそれより下の佐官・尉官に会っていた。半藤さんと「この人に会ったか」「会ったよ」などと話をしていると、軍が起案して決定するプロセスが浮かび上がってきた。お互い、歴史を演繹(えんえき)的にではなく、鈍重ではあるけれども、帰納的に見ていこうという姿勢で一致していた。学問の殻に閉じこもらず、人がどう生きたかを見つめていこう、と。抽象的な概念を嫌い、自分の手で触ったものだけを信用する人だった。

 ■人間観察学に魅了
 一緒に取材することもあり、半藤さんの「人間観察学」に魅せられた。瀬島龍三氏に取材した後、「瀬島がうそをつくときの顔、わかるか?」。千人単位の人に会い、戦争体験も数多く聞いている半藤さんは、頭の中で考えたことを言っている人は、声の調子や目の動きなどからすべて分かる、と言っていた。「証言の垂れ流しは罪」と肝に銘じて、精査して信用に足るものだけを使っていた。

 東大では勉強そっちのけでボート部の活動に明け暮れた。全日本選手権の決勝で慶応に敗れてヘルシンキ五輪(1952年)出場を逃したことは本当に悔しかったようで、「50センチの差で五輪に行けなかった」といつまでたっても言っていた。

 半藤さんといえば、文芸春秋の人だ。昭和28(1953)年に入社してすぐに「坂口安吾の原稿をとってこい」と言われ、群馬の安吾の家で酒を飲んで寝泊まりしたことから編集者としての歩みが始まる。司馬遼太郎や松本清張らを担当した。文春では役員も務め、「文春リベラリズム」を具現化した人でもあった。それは戦後のブルジョア民主主義であり、社会のリーダー的役割を担った。文春には右派の流れもあるが、それとは一線を画し、一つの系譜をつくり今につながっている。

 記憶に残るエピソードといえば、1989年にベルリンの壁が崩壊した後、奥さんと一緒に壁を見に行ったそうだ。壁の前に立ったとき、体が自然と能の舞を始めた。すると、周りに人だかりができて、終わったら拍手が起きた、と。「恥ずかしくなかったの?」と僕がきいたら、「うれしくてね」。東西冷戦が終わったという感慨の大きさをうかがい知った。

 平成のころ、2人で天皇皇后両陛下(現上皇ご夫妻)にお会いしたことも思い出深い。天皇とすでにお会いしていた半藤さんから、「雲の上から声がかかったけど一緒に行くか?」と誘われ、ご進講ではなく歴史に関するお話をしに何度か皇居へうかがった。天皇は歴史に深い関心を持たれていて、半藤さんが天皇のご質問に真摯(しんし)に答える姿が印象的だった。そのような場で半藤さんは「象徴としての天皇」を心から理解したのだと思う。そして、昭和天皇を神格化した軍事指導者の政治的無責任さを痛感したはずだ。

 ■憲法100年もたそう
 2人で進めていた運動がある。九条の会の護憲とは少し違い、より現実的に今の憲法を100年もたそう、というもの。お互い講演のときに呼びかけようと約束していた。組織や事務局があるわけではないが、みんなの思いを広げようと。そういう試みだった。

 僕も人の死を悲しむような年ではないが、半藤さんを失い、大木が倒れたように感じる。歴史の分野においてアカデミズムとジャーナリズムの枠を取っ払い、相互乗り入れを実現した先駆的な存在だった。

 「死んだらダメだよ。言論界の地図が変わるから」と言っていたのに。半藤さんは、近代日本が犯した多くの誤りを書き残していかなきゃいけないと遺言のように言っていた。いろんな国に迷惑をかけたことの歴史的総括をやっておかないと日本は信用されない、と。半藤さんに触れた人たちは、昭和史の誤りを克服していく方法を、継いでいかなければならない。(談)
     *
 ほさか・まさやす 1939年生まれ。「昭和史を語り継ぐ会」主宰。著書に『近現代史からの警告』など。」(2021/01/15付「朝日新聞」P27より)

自分も半藤一利さんには心酔しており、当サイトにもその話題をたくさん採りあげてきた。当サイトの検索ツールで「半藤一利」と入れてみると35の記事が見つかる。それほど自分も気にした人だった。
思い出すのは、2010年5月15日に三鷹であった講演会に行ったこと(ここ)。
半藤さん、当時70歳。特に、白内障の手術の直後だと言っていたことが印象に残っている。

しかし、お年のせいか、最近はなかなかメディアで見られなくなっていた。それで最近は、保阪正康さんの話をよく聞くようになった。
上の記事は、まさにその保阪さんの送別の辞である。

この頃は、いわゆるフェイクが多くなり、何を信じて良いか分からない時代になってきた。この人の話は信用する。という人が少ない。もちろん政治家の弁などまったく×だが・・・

いわゆる、信じられる言論人が少なくなってきたことは寂しい。
残された保坂さんや、前川さんに、世を正すため、過去と同じ過ちを犯さないため、どんどん発言していってほしいものだ。

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2021年1月12日 (火)

「カミさんからの(超自然現象の)SOS?」~コロナ禍で

今日は不思議な体験をした。距離が離れているのに、カミさんのSOSの声が聞こえたのである!!荒い呼吸音に「胸が苦しい!」という声。

昼過ぎ、買い物に行って、車を駐車場に入れ、ちょっとカーナビの設定が変わってしまったので、カミさんが降りて家に入った後、カーナビの取説を出して調整をしていた。しばらく経って、小さいカミさんの声が聞こえた。しかも呼吸が苦しそう。
おかしいな、スマホはズボンのポケットだし、カーオーディオは点けていない。どこからの声か分からないが、苦しそう。「今の体温は36.4度。今の症状は・・・胸が苦しい!」との声。自分は、心臓の持病を持っているカミさんの体調にはいつもピリピリしているので、心当たりは充分にある。

よって理屈なんてどうでも良い! あわてて、車を降り、家に脱兎のごとく入って、居間に。でも倒れていると思ったカミさんは居ない。
キッチンに居た。「体温は36.4度だが心臓が苦しいって?」「エッ!知らないよ」????「確かに聞こえたよ」「何も言っていない」
オカルトか? 「確かにSOSの声が聞こえた」「そんなバカな。イヤな予感がするネ・・・」

ふと、そういえばカーナビの設定をしていたので、ドライブレコーダーに音声が入っているかも知れない。と気が付き、ドライブレコーダーのメモリを外してきて、PCに聞いてみた。すると確かに苦しそうな呼吸音と一緒に音声が入っている。決して空耳では無かったのだ・・・それがこれ(ゾー・・・)

カミさんに聞かせると、これは自分の声では無いという。
超自然現象とすると、何かの予言か? 気持ち悪い・・・

「テレビの音ではないの」と言われて、その時刻、つまり昼の12:16のテレビ番組をタイムシフトで順番に見ていった。すると最後のTV朝日の番組に「あった!!」
それがこれ・・・

210101212165ch1 210101212165ch2 210101212165ch3

なるほど、合点がいった。実は、カーポートが、隣の家の和室に近い。ほんの2~3m。だからTVを点けると、障子とガラス窓を通して、よくTVの音が我が家の方にも漏れていた。
今回は、タイミング良く、TVを点けた途端に流れた音が、苦しそうな息の音から始まったので、とてもTVの音とは気が付かなかったのだ。
だから、理屈なんかは飛んで行って、脱兎のごとく駆け付けたというわけ。

しかし、お互い、原理が分かってホットした。これが本当に超自然現象だったとしたら、今後悪い事が起こる前兆に聞こえてしまい、気が重くなるところだった。

車に戻って、カーナビの設定を続けたときの音声には、はっきりと隣家のTVの音が入っていた。なるほど・・・

ばかばかしい話はこれ位にして、上の話は深刻だ。
コロナに罹っても、検査の順番が回ってこない。自宅待機をしろと言われても、何の手助けも来ない。ただ電話が来るだけ。
家族が居る人はまだ良い。このTVの人のように、一人暮らしの人は、どうしろというのか?
たまたま持っていた食材が無くなったら、餓死しろというのか?
外にも出られない。体調が悪いと、電話でSOSも呼べない。幾らSOSの電話をしても、そもそもつながらないという。

特に一人暮らしの人にとっては、一旦コロナに罹ったら地獄が待っているようだ。
上の人の例では、まだ30代だというのに、子ども達に遺書まで書いたという。

我々老人は、上の人を助けにも行けないが、とにかく自身が罹らないように頑張るしか無い。
とにかくお寒い、日本政府のコロナ対策ではある。

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2021年1月 9日 (土)

「アフガンの砂漠を緑の大地に変えた」ペシャワール会現地代表・中村哲氏の話

先日、NHKラジオ第2「カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス「声でつづる昭和人物史~中村哲」を聞いた。
中村哲氏が2019/12/04に現地で襲撃され、亡くなってから1年が経った。当時の新聞にはこうある。

アフガンで銃撃、中村哲医師が死亡 現地で人道支援
 アフガニスタン東部ナンガルハル州の州都ジャララバードで4日朝、同国で人道支援に取り組んできたNGO「ペシャワール会」(事務局・福岡市)の現地代表で、医師の中村哲さん(73)の乗った車が何者かに銃撃された。州政府によると、中村さんや運転手ら計6人が死亡した。
210109nakamuratetsu  長く医療支援や灌漑(かんがい)工事を続けてきた中村さんは10月、同国から名誉市民権を授与されたばかりだった。2008年に日本人スタッフ(当時31)が殺害される事件があったため、警備員を付けて活動していた。

 同国では政情不安定化を狙って武装勢力が国際NGOや外国機関を攻撃する事件が後を絶たない。4日正午時点で犯行声明は出ていない。

 州政府幹部によると、中村さんは地元病院で応急処置を受けたが、腹などに複数の銃撃を受けて死亡したという。

 同会によると、同日午後1時前に現地スタッフから中村さんが負傷したという連絡が入った。現地時間の同日朝、アフガン東部で進めている灌漑(かんがい)工事の現場に車で向かう途中、銃撃を受けたという。」(2019/12/04付「朝日新聞」ここより)

この中村哲氏についての放送であった。

<NHK「声でつづる昭和人物史~中村哲」(1) 2020/12/21放送>

「医師の中村哲さんはペシャワール会の現地代表を務め、およそ35年間に渡り医療支援や生活用水の確保に当たってきました。しかし昨年12月、乗っていた車が銃撃され、病院に搬送後亡くなりました。今回は1994年3月7日に放送された「人生読本」を紹介します。中村さんは、1980年代に行ったハンセン病患者の治療センター設立や当時の医療事情を語り、上から目線でなく地元の人たちの生活実態に沿った支援が大事だと訴えています。」ここより)

<NHK「声でつづる昭和人物史~中村哲」(2) 2020/12/28放送>

「中村哲さんは現地で医療支援をするうちに水の大切さに気付き、灌漑用水路の建設に取り組むことになります。今回は2011年9月3日に放送された「関西発ラジオ深夜便」を紹介します。この中で中村さんは、飢餓や難民をなくすためには、まず生きるために必要な水を確保することが大切だと訴え、「水問題を解決して農業中心の自給自足の生活が出来れば難民もなくなる。そのために用水路を整備して水の確保に努力してきた」と話しています。」ここより)

上の2011年9月3日に放送された「関西発ラジオ深夜便」の録音が残っていたので、全編を聞いてみよう。

<「ヒンズークシに魅せられて」NGOペシャワール会現地代表 中村哲(2011/9/3放送)>

この放送の内容の抜粋は(ここ)にある。

Netでググっていたら、朝日新聞に中村氏のインタビュー記事があった。

(インタビュー)アフガン復興を支える NGO「ペシャワール会」現地代表・中村哲さん

 米軍などが「対テロ戦」を掲げ、タリバーンが支配するアフガニスタンを空爆してから15年。タリバーン政権は倒れたものの、いまだ混乱は収まらず、治安も悪化したままだ。この国の復興を、どう支えていけばいいのか。NGO「ペシャワール会」の現地代表として民生支援を続ける医師の中村哲さんに聞いた。

 ――1980年代から90年代は医療支援でしたが、今は灌漑(かんがい)事業が中心です。お医者さんがなぜ用水路を引くのですか?

 「農業の復興が国造りの最も重要な基盤だからです。2000年からアフガニスタンは記録的な干ばつに襲われ、水不足で作物が育たず、何百万という農民が村を捨てました。栄養失調になった子が泥水をすすり、下痢でいとも簡単に死ぬ。診療待ちの間に母親の腕の中で次々に冷たくなるのです」

 「医者は病気は治せても、飢えや渇きは治せない。清潔な水を求めて1600本の井戸を掘り、一時は好転しました。しかし地下水位は下がるし、農業用水としては絶対量が足らない。そこで大河から水を引き、砂漠化した農地を復活させようと考えたのです。合言葉は『100の診療所より1本の用水路』でした」

 「道路も通信網も、学校も女性の権利拡大も、大切な支援でしょう。でもその前に、まずは食うことです。彼らの唯一にして最大の望みは『故郷で家族と毎日3度のメシを食べる』です。国民の8割が農民です。農業が復活すれば外国軍や武装勢力に兵士として雇われる必要もなく、平和が戻る。『衣食足りて礼節を知る』です」

 ――自身で重機を操作したこともあるとか。

 「03年から7年かけて27キロの用水路を掘り、取水堰(せき)の改修も重ねました。お手本は、福岡県朝倉市にある226年前に農民が造った斜め堰です。3千ヘクタールが農地になり、15万人が地元に戻りました。成功例を見て、次々に陳情が来た。20年までに1万6500ヘクタールを潤し、65万人が生活できるようにする計画ですが、ほぼメドが立ちました。政権の重鎮らが水利の大切さにやっと気づき、国策として推進しなければと言い始めました。現地の人たちの技術力を底上げする必要を感じています」

 ――工事はだれが?

 「毎日数百人の地元民が250~350アフガニ(約450~630円)の賃金で作業し、職の確保にもなります。元傭兵(ようへい)もゴロゴロいます。『湾岸戦争も戦った』と言うから『米軍相手か』と聞くと『米軍に雇われてた』とかね。思想は関係ない。家族が飢えれば父親は命をかけて出稼ぎします」

 「最近は、JICA(国際協力機構)の協力も得て事業を進めていますが、基本は日本での募金だけが頼り。これまで30億円に迫る浄財を得て、数十万人が故郷に戻れました。欧米の支援はその何万倍にもなるのに、混乱が収まる気配はない。これが現実なのです」
    ■    ■
 ――現地の治安は?

 「私たちが活動しているアフガン東部は、旧ソ連が侵攻したアフガン戦争や、国民の1割にあたる200万人が死んだとされる内戦のころより悪い。この30年で最悪です。かつて危険地帯は点でしたが、今は面に広がった。地元の人ですら、怖くて移動できないと言います。ただ、我々が灌漑し、農地が戻った地域は安全です」

 ――反政府勢力タリバーンが勢いを盛り返しているようです。

 「タリバーンは海外からは悪の権化のように言われますが、地元の受け止めはかなり違う。内戦の頃、各地に割拠していた軍閥は暴力で地域を支配し、賄賂は取り放題。それを宗教的に厳格なタリバーンが押さえ、住民は当時、大歓迎しました。この国の伝統である地域の長老による自治を大幅に認めた土着性の高い政権でした。そうでなければ、たった1万5千人の兵士で全土を治められない。治安も良く、医療支援が最も円滑に進んだのもタリバーン時代です」

 「欧米などの後押しでできた現政権は、タリバーンに駆逐された軍閥の有力者がたくさんいるから、歓迎されにくい。昼は政府が統治し、夜はタリバーンが支配する地域も多く、誰が味方か敵かさっぱり分からない。さらに(過激派組織)イスラム国(IS)と呼応する武装勢力が勢力を伸ばし、事態を複雑にしています」

 ――アフガンは世界のケシ生産の9割を占めるといわれます。

 「我々の灌漑農地に作付け制限はありませんが、ケシ畑はありません。小麦の100倍の値段で売れますが、ケシがもたらす弊害を知っているから、農民も植えないで済むならそれに越したことはないと思っている。先日、国連の麻薬対策の専門家が『ケシ栽培を止めるのにどんなキャンペーンをしたんだ』と聞くから、『何もしていない。みんなが食えるようにしただけだ』と答えたら、信じられないという顔をしていました」
    ■    ■
 ――戦争と混乱の中でよく約30年も支援を続けられましたね。

 「日本が、日本人が展開しているという信頼が大きいのは間違いありません。アフガンで日露戦争とヒロシマ・ナガサキを知らない人はいません。3度も大英帝国の侵攻をはねのけ、ソ連にも屈さなかったアフガンだから、明治時代にアジアの小国だった日本が大国ロシアに勝った歴史に共鳴し、尊敬してくれる。戦後は、原爆を落とされた廃虚から驚異的な速度で経済大国になりながら、一度も他国に軍事介入をしたことがない姿を称賛する。言ってみれば、憲法9条を具現化してきた国のあり方が信頼の源になっているのです」

 「NGO(非政府組織)にしてもJICAにしても、日本の支援には政治的野心がない。見返りを求めないし、市場開拓の先駆けにもしない。そういう見方が、アフガン社会の隅々に定着しているのです。だから診療所にしろ用水路掘りにしろ、協力してくれる。軍事力が背後にある欧米人が手がけたら、トラブル続きでうまくいかないでしょう」

 ――「平和国家・日本」というブランドの強さですか。

 「その信頼感に助けられて、何度も命拾いをしてきました。診療所を展開していたころも、『日本人が開設する』ことが決め手になり、地元が協力してくれました」

 ――日本では安保法制が転換されました。影響はありますか。

 「アフガン国民は日本の首相の名前も、安保に関する論議も知りません。知っているのは、空爆などでアフガン国民を苦しめ続ける米国に、日本が追随していることだけです。だから、90年代までの圧倒的な親日の雰囲気はなくなりかけている。嫌われるところまではいってないかな。欧米人が街中を歩けば狙撃される可能性があるけれど、日本人はまだ安心。漫画でハートが破れた絵が出てきますが、あれに近いかもしれない。愛するニッポンよ、お前も我々を苦しめる側に回るのか、と」

 ――新法制で自衛隊の駆けつけ警護や後方支援が認められます。

 「日本人が嫌われるところまで行っていない理由の一つは、自衛隊が『軍服姿』を見せていないことが大きい。軍服は軍事力の最も分かりやすい表現ですから。米軍とともに兵士がアフガンに駐留した韓国への嫌悪感は強いですよ」

 「それに、自衛隊にNGOの警護はできません。アフガンでは現地の作業員に『武器を持って集まれ』と号令すれば、すぐに1個中隊ができる。兵農未分離のアフガン社会では、全員が潜在的な準武装勢力です。アフガン人ですら敵と味方が分からないのに、外国の部隊がどうやって敵を見分けるのですか? 机上の空論です」

 「軍隊に守られながら道路工事をしていたトルコやインドの会社は、狙撃されて殉職者を出しました。私たちも残念ながら日本人職員が1人、武装勢力に拉致され凶弾に倒れました。それでも、これまで通り、政治的野心を持たず、見返りを求めず、強大な軍事力に頼らない民生支援に徹する。これが最良の結果を生むと、30年の経験から断言します」

     *

 なかむらてつ 1946年、福岡県生まれ。九州大学医学部卒。84年からパキスタンで医療支援を始め、その後、アフガンで活動。03年にマグサイサイ賞。」(2016/01/30付「朝日新聞」ここより)

これだけアフガニスタンの復興に命をかけていた日本人なのに、殺された。偶然ではなく、狙い撃ちされて、だ。
何故だろう?
Netでその理由をググると「水利権トラブルに巻き込まれた可能性も」や「ガニ大統領から「名誉市民権」を授与されたのが遠因」という見方もあるようだ。

ともあれ、偉大な日本の真心が失われた。その言葉を世に残しておくことが次につながるのではないか、と思い、自分の持っている音源を探したら、2006年9月16日にNHKラジオ深夜便で放送された番組が見つかったので、それもアップしておく。時に中村氏59歳。

<NHKラジオ深夜便「難民と真珠の水」ペシャワール会ジャパン・中村哲(2006/9/16放送、2008/05/27再放送)>


話は変わるが、2016年9月10日(2019年12月7日再放送)にNHK「ETV特集「武器ではなく 命の水を」~医師・中村哲とアフガニスタン~」が放送された。この番組は1998年から中村氏の活動を追ったドキュメンタリー番組。その録画が残っていたので、改めて見た。時に中村氏69歳。
読むより、聞くより、やはりTV画像の番組はインパクトが強い。医師という門外漢が、熱意だけで大規模治水工事の道を切り拓いていく。そして現地人の自立を促して、施設が現地人で補修され、永久化されていく。(★この番組は、BDへダビング可能です)

210109tuuhanseikatu 最後に、「通販生活 2021春号」にも、中村哲さんの記事があったので挙げておく。
凡人には足下にも寄れないこんな日本人もいる。我々が出来ることは、ただペシャワール会への寄付だけ(ここ)。

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2021年1月 6日 (水)

「人間を考える~この道に生きる~」作家…落合恵子を聞く

先日、NHKラジオ第2の「カルチャーラジオ 日曜カルチャー「人間を考える~この道に生きる~」作家…落合恵子」(2020/12/27再放送・初回2020/09/06)を聞いた。
再放送なので、以前にも聞いたが、改めて採りあげてみたい。

NHKのサイトにはこう解説がある。
「カルチャーラジオ 日曜カルチャー「人間を考える~この道に生きる~」作家…落合恵子
作家の落合恵子さんが「この道に生きる」と題して講義します。落合さんは45年前に子どもも大人も楽しめる絵本の専門店「クレヨンハウス」を立ち上げました。以来、書店という枠を超えて幅広く情報発信してきた落合さんに、これまでの活動を振り返ってもらいながら、さまざまな壁にぶつかる度に貫いてきたという自身の信念についてお話しいただきます。」ここより)

<「人間を考える~この道に生きる~」作家…落合恵子>

落合恵子さんの話は、今までも何度か採りあげている。(当blogの左上の「検索」で落合恵子と入れる)
つまりは、自分はかなりこの方の生き方に共鳴している証左だと思う。
特に「人生は、一冊の本である」という言葉が好き。
これについては、改めて落合さんがお話をされているので、良かったら聞いて下さい。

落合さんも75歳。誕生日が1月15日とのことで、あと一週間余で76歳である。
そのせいか、もし自分が居なくなったら・・・ということで、既に色々な手を打っているという。

話は飛ぶが、先日テレビ東京の新春ドラマスペシャル 「人生最高の贈りもの」(2021/01/04放送、ここ)を見た。
テレ東のサイトにはこうある。
「東京・豊島区。鬼子母神堂の裏手に佇む小さな洋館に、元大学講師の翻訳家・笹井亮介(寺尾聰)は暮らしている。妻に先立たれ一人暮らしとなった今は、家事も料理も完璧にこなすが、仕事は自由奔放。〆切を守らない亮介に、担当編集者・野村(勝地涼)はいつも隣で頭を抱えていた。さらに近所に住む原口光代(キムラ緑子)は、亡き妻から「主人をよろしく」と頼まれたのを口実に、毎日勝手に家に上がり込んでいる。
一方、亮介の一人娘・ゆり子(石原さとみ)は、長野県安曇野ののどかな町で、亮介の元教え子で教師の夫・田渕繁行(向井理)と暮らしていた。ところがある日、ゆり子が父のもとに帰ってくる。連絡もなく突然の帰省に驚く亮介は理由を尋ねるが、ゆり子は一切語ろうとしない。わかったのは家にいる期間を決めていないということだけだった。これまで「父と娘」の会話をろくにしてこなかったため、二人の間にはぎこちない雰囲気が漂う。こうして始まった父と娘の2人暮らし。緊張しつつも温かく穏やかに過ぎていくが…実は娘の人生に残された時間はわずかだった。娘が胸に秘めていた決意とは?そしてそんな思いを知った時、父は・・・。」

相変わらず寺尾聰は渋い。不妊治療の検査の過程で見つかった娘の末期ガン。残された時間を半分に分け、前半をそれまで苦手でほとんど付き合いの無かった父親と過ごしたいと、実家に戻ってくる。母親との思い出はたくさんあるが、子育てを母に任せっきりだったため、父親との思い出はほとんど無いので、それを作りたいという。母親だけで無く、自分も先に逝ってしまうと残された父親が可愛そう・・・

自分は、このようないわゆるヒューマンドラマが好き。
上の落合さんの話もそうだが、70歳を過ぎると、人生そろそろ店仕舞いの時期が迫ってきている。
どう終わりを迎えるか・・・

話はまたまた飛ぶが、2020/11/18に女優・木内みどりさんが69歳で亡くなったが、まさに“「病院で死にたくない」生き方と逝き方を貫いた 女優・木内みどりさん”だったという。これについては長尾和宏氏のブログ(ここここ)に詳しい。
生前(2015年5月)、木内さんから当サイトにコメントを頂いた事がある(ここ)。
「死刑弁護人」のDVDの事だった。社会的にも色々と発言をされていたとのこと。

色々な人生があり、様々なオワリの形がある。
あまりに早過ぎたが、木内さんのオワリの姿はある意味、理想。
新型コロナでの感染者や死者が激増し、それが身近に迫ってきているこの頃、巣ごもりをしながらも、つい人生の終わり方について色々と考えてしまう年初ではある。

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2021年1月 3日 (日)

映画「パラサイト 半地下の家族」を見て

映画「パラサイト 半地下の家族」をWOWOWで見た。(地デジでも2021/01/08 20:00~日テレで放送予定。ここ

何度も書いているように、自分はミーハー。世間で評判になると「見てみようかな」となる。
この映画も同じ。「史上初の外国語映画が作品賞を受賞!」という評判に「見てみようかな・・・」。

ここ)に、受賞についてこうある。
「韓国映画の『パラサイト 半地下の家族』が、『1917 命をかけた伝令』や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』、『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』、『アイリッシュマン』といった候補作品を破り、2020年アカデミー作品賞を授賞した。

ポン・ジュノ監督は、監督賞、脚本賞も獲得。
210103parasite ついにやった。ポン・ジュノの巧みで辛辣な社会派スリラー『パラサイト 半地下の家族』が、2020年アカデミー賞で作品賞を獲得するという歴史的快挙を遂げた。

『パラサイト 半地下の家族』は、外国語映画としては初めて作品賞を受賞。韓国映画が作品賞にノミネートされたのは初めてのことで、それ自体が既に歴史的だった。同作は昨年のカンヌ国際映画祭でデビューし、韓国映画として初めてパルムドール(最高賞)を受賞している。

キャストとクルーがセレモニーでトロフィーを受け取ると、プロデューサーのクァク・シンエイは感謝の気持ちを表し、このような歴史的な出来事がオスカーに必要とされている変化の先駆けとなるのではないかと述べた。「私は今、歴史的にとても素晴らしい瞬間が起こっているような気がします」・・・」ここより)

そして、日テレの解説にはこうある。
パラサイト 半地下の家族
全世界が熱狂し、かつてない社会現象を巻き起こした衝撃作!
本編ノーカットで地上波初放送!

210103parasite1 2020年の米アカデミー賞で、作品賞、監督賞をはじめ4部門受賞&カンヌ国際映画祭の最高賞パルムドールを受賞!全世界が熱狂した超一級のエンターテインメントが金曜ロードSHOW!でしか見られない新吹き替え版で地上波初放送だ!物語の主人公は、半地下の家で暮らす4人の家族。彼らは、それぞれ身分を偽って裕福な家庭に就職することになるのだが…。監督は韓国が誇る鬼才、ポン・ジュノ。一家の父を演じるのは韓国の名優、ソン・ガンホ。そして今回の新吹き替え版では、家族の就職のきっかけを作る長男・ギウの声を神木隆之介が担当。平凡な幸せを手に入れたい一心で、誰も予想のできない衝撃の結末へと突き進んでいく家族たちの姿を、あなたの目で確かめてください!」ここより)

「パラサイト」とは「寄生」。物語は、半地下の4人家族が、ある裕福な家族に順々に「寄生」していくことで始まる。そして事件が・・・

見た後の自分の感想は「奇想天外?」。こんな奇抜な物語が、なぜ高評価を得たか?だ。キーワードは格差社会での「におい」?
半地下生活者やホームレスの人の持っている独特の臭いが、物語の底辺にある。幾ら着飾っても、これだけは消せない。そして・・・

確かにストーリーは明快で分かり易い。だからと言って・・・!?

「【徹底検証】パラサイトはなぜアカデミー賞作品賞を受賞できたのか?」ここ)というサイトでは、その理由としてこんなポイントを挙げている。
・他の部門と違って作品賞は、順位をつけて投票する特殊な集計システムのためサプライズが起こりやすいし、もちろん「パラサイト」が作品としてストレートに面白かったというシンプルな要因も大きい。
・「パラサイト」にとってアカデミー賞への最大のステップとなったのが、SAGアワード(全米映画俳優組合賞)の最高賞にあたるキャスト賞を受賞したこと。今年のアカデミー賞は演技部門ノミネート20枠のうち、19枠を白人が占めたことで、再び「白すぎるオスカー」との批判が上がっていた。多様性を求める声が、SAGでの「パラサイト」への投票につながった可能性も大きい。
・2020年1月19日のSAGでのポン・ジュノのスピーチがこれまた心がこもっていたものだから、アカデミー賞の投票締切(2020年2月4日)まで迷っていた会員に与えた影響もあるだろう。
・作品自体が字幕をあまり読まなくてもわかりやすい作りだったことも、ヒットの要因だろう。
・2家族の設定を含め、登場人物のキャラがじつに明快だし、映像で〝感じさせる〞語り口のうまさが、「パラサイト」には備わっている。
・やはり国をあげての国際市場への売り込みが、ついに実を結んだからか。・・・

これを読むと、作品の内容よりも、受賞はロビー活動の成果のようにも取れる。
ともあれ、面白い映画だが、秀作かと言われると、ヒューマンドラマが好きな自分としては「??」が感想の映画だった。

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2021年1月 1日 (金)

2021年正月~また年賀状の話

明けましておめでとうございます。
210101gantan 元旦は年賀状が華?(我が家は、元旦でも年賀状以外のイベントが無いのが正直な所!)
前にも書いたが、 “賀状卒業”を少しずつ始めたのが17年。それから5年。徐々に減らして、今年出した賀状は、ほんの十数枚。
今年貰った賀状で特徴的なことは、貰った賀状のうちの3通が、相手から賀状卒業のコメント付だったこと。
つまりは、もう虚礼は止めよう、というのが世の流れらしい。
210101gantantv しかし、幾ら“今年をもって卒業”のコメントを付けても、相変わらず頂いてしまう相手もある。仕方なく、また「なお諸先輩にならい、賀状でのご挨拶は今年限りとさせて頂きたく、よろしくお願いいたします。」というコメントを付けて返信する。
相手の台帳からなかなか消えないようだ。

新聞を見ても、年賀状の発行枚数は、ピークに比べ半減しているという。

(世論調査のトリセツ)年賀状離れ…大切だとは思うけど
 2021年用の年賀はがきの当初発行枚数は19億4198万枚。統計が残る中では、04年用をピークに減り続けて、半分以下になりました。昨年12月の世論調査(電話)で「年賀状を何枚くらい出しますか」と尋ねると33%、つまり3人に1人が「出さない」と答えました。

210101gajyou  調査方法などが異なるため単純な比較はできませんが、「出さない」人の割合は、1995年12月調査(面接)では9%、05年12月調査(電話)は16%でした。年賀状を1枚も出さない人は、四半世紀でずいぶん増えました。

 一方、51枚以上出す人を合計すると、95年は32%、05年は35%いましたが、昨年は17%。比較的たくさん出す人も減っています。

 昨年の調査結果を年代別にみると、「出さない」は18~29歳では57%を占めました。30代、40代も35%。新年のあいさつを電子メールやSNSで済ませる人が多いのか、若い世代で年賀状離れが顕著です。70歳以上も28%が「出さない」と答えました。

 一方、「年賀状のやりとりは人とのつきあいに必要だと思いますか」と聞くと、58%が「必要だ」と答え、「必要はない」の34%を上回りました。

 05年の75%と比べると減りましたが、18~29歳でも49%、30代以上のすべての世代で半数以上が「必要だ」と答えました。年賀状を「出さない」人でも、36%は「必要だ」。「出さない」人にも、人付き合いの中での年賀状の役割は感じている人が一定程度いることが分かります。

 コロナ禍の中で迎える新年。帰省を控える人も多いようです。「会えないからこそ年賀状ぐらい出しておこうか」と、その役割を見直す年になるかもしれません。年賀状は、きょう25日までに投函(とうかん)すれば元日に届くそうです。(風間裕之)」(2020/12/25付「朝日新聞」夕刊p9より)

我が家で、最後まで残る賀状の宛先は、たぶん親戚だろう。これはまさに“生きてますか?”の確認。
その親戚(ほとんどが従兄弟)も少ない。
会社関係は、もうほとんど縁が切れた。

話は飛ぶが、相変わらず現役時代(サラリーマン時代)の夢を良く見る。カミさんに言わせると、ある部分の記憶力が良く、いまだに記憶が残っているせいだという。しかし、自分が思うに、現役時代の人間関係が、どれだけストレスになっていたか、の反動では無いかと思っている。
賀状でも縁が切れた現在、ストレスだった昔の良くない記憶が消えるのはいつだろう?

反対に、何の損得も無い同期とのダベリングが一番楽しい。その貴重な会も、コロナでなかなか開けない・・・
とにかく、今年の最大のテーマは、コロナ渦が治まること。それがすべての大前提。

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