森田童子の「ひとり遊び」と「海が死んでもいいョって鳴いている」
森田童子の「ひとり遊び」と「海が死んでもいいョって鳴いている」
森田童子の記事が掲載されるのは珍しい。
先日、「日刊ゲンダイ」に「ロフト」創業者の平野悠氏の記事があった。
「ロフト創業者が見たライブハウス50年
フラッと現れた森田童子の暗くて沈んだ歌声に恋心を抱いた
新型コロナに翻弄された2020年も12月を迎えた。ライブは<密>を避けて<配信>というスタイルに変わり、演者とファンとの間に存在していた<濃密なつながり>は分断され、音楽を熱く実体験することができなくなった。コロナ禍はいつ収束するのか? 先が見えない。夜中に一人で酒を飲みながら、森田童子の悲しい調べに身を委ねる。青春時代の思い出が走馬灯のようによぎる。あれは……本気の恋だったのだろうか?
1973年の秋というよりも、夏の終わりと言った方がいいかもしれない。その年の6月に西荻窪ロフトが北口商店街の一角にオープンした。秋口に入っても残暑が厳しく、店前の(東京)女子大通りの打ち水が、キラキラと光り輝いていた。
森田童子がふらっと現れて「すいません、私もここで歌えますか?」と聞いてきた。彼女のトレードマークとなったサングラスも掛けてなかったし、クルクルのカーリーヘアでもなかった。まるで少女のようだった。
売れていない歌い手が売り込みに行く際、さすがに真っ黒のサングラスはないだろう――ということだろうが、彼女の素顔を見たのは、この時が最初で最後だったような気がしてならない。
手渡された一本のテープを聞いた瞬間、大きな衝撃が脳天を突き抜けるように走った。「なんて暗い歌なんだ!」。そう思いながら、じっくり歌詞を読み込むと<あの政治の季節>が、まざまざと思い出された。私たちが遮二無二に闘ってきた「大学闘争時代の挫折」をこれでもか! これでもか! と突き付けられた。「どうして彼女は挫折した者にしか分からない心情を歌詞にして歌えるのか?」。不思議でしょうがなかった。同時に大きな好奇心が芽生えた。
学園紛争で高校を中退し、72年の友人の死をきっかけに自作自演で歌い始めたというが、それにしても<革命を叫びながら機動隊にやみくもに突撃していった>私自身の全共闘運動時代の原風景を想起させる歌に「この少女の過去に何があったのだろうか?」と思わないではいられなかった。
暗くて、そして沈んだ歌声。そう言われていたが、個人的にはちょっと違う。あくまで<あの独特の雰囲気>が、そう思わせたのだろう。後で知ったが、恋人が学生運動中に自殺したという。
彼女は、いつもロフトのステージの上で涙を流しながら歌っていた。
私は、森田童子に恋心を抱いていた。」(2020/12/07付「日刊ゲンダイ」ここより)
「森田童子の引退10年後「ぼくたちの失敗」がミリオンセラー
1973年に西荻窪ロフトでライブハウスデビューを果たした森田童子は、10年後の83年12月に新宿ロフトのステージに立ち、これを最後に引退した。さらに10年後。彼女の旧作「ぼくたちの失敗(76年)」のCDが、100万枚に迫る大ヒットを記録した。TBS系の金曜ドラマ「高校教師」(93年1~3月放映)の主題歌に採用されたのだ。
当時のテレビドラマの主題歌は、大半がレコード会社とのタイアップだった。
ところが「高校教師」の脚本を書いた野島伸司さんはタイアップを断固拒否。一部狂信的ファンはいたが、まだ無名の存在でしかなかった歌い手の曲を採用した。
新たにベスト盤が発売され、オリジナルアルバム7枚がCDで再発売された。森田童子の再デビューを期待する声が湧き上がり、中には「古巣のロフトで彼女のライブが実現したら凄いことになりますね」と言ってくる人もいた。が、彼女はかたくなに再デビューに背を向け、その素顔をさらすことはなかった。
彼女は、私が恋心さえ抱いた最初で最後の女性ミュージシャンだった。
ロフトのステージで森田童子は、決して上手じゃなかったギターを弾きながら、ボロボロと涙を流しながら歌っていた。
客席には小汚いジーパンをはき、ヨレヨレのコートの襟を立て、小脇に文庫本を抱える<孤独でネクラな雰囲気を醸し出している男>ばかり。
ライブ中、いつも会場はシーンとしていた。
あの狂おしい政治の季節が終わり、世間は<可愛らしい夢><小さな幸せ><素晴らしき人生>を渇望していた。彼女は<憂鬱><絶望><孤独><自殺>といったキーワードを掲げた曲を愚直に歌い続けた。挫折感に打ちひしがれ、時代に置いていかれる焦燥感にさいなまれた<学生運動崩れ>の男性ファンは、森田童子の世界観にグイグイ引きずり込まれた。
暗くて沈んだ歌声と評されるが、か細くて透明感のある歌声だったと私自身は思っている。
67年の羽田闘争で京大生・山崎博昭さんが命を落としたことを契機に高校生だった彼女は学生運動に深入りし、そして恋人だった大学生のO氏が自殺してしまう……。
80年代に入るとメッセージソングは絶滅危惧種となり、ロフトのブッキング担当者に「森田童子なんか入れたら業界の笑いものになります」と言われ、絶句したことを鮮明に思い出す。
♪地下のジャズ喫茶 変われないぼくたちがいた 悪い夢のように時がなぜてゆく だめになったぼくを見て 君もびっくりしただろう 春のこもれ陽の中で 君のやさしさに埋もれていたぼくは 弱虫だったんだヨネ♪」(2020/12/14付「日刊ゲンダイ」ここより)
「「ワラシ」森田童子の引退ライブは葬式のように静かだった
1983年12月。森田童子は新宿ロフトでのライブを最後に引退した。その10年前の73年。彼女は西荻窪ロフトで初めてライブハウスのステージに立った。今でもファンたちは、西荻窪ロフトを「聖地」と呼んでいると聞いた。私が、デビューから引退までを見届けた唯一のミュージシャンとなった彼女は2018年4月、静かに65歳の生涯を閉じた。
私が「ワラシ」と呼んだ森田童子は、とても不思議な女性だった。リハーサルを終え、本番までの間に西荻窪ロフトの隣の喫茶店に行き、2人でおしゃべりすることがあった。
一緒にアルコールを飲んだことは一度もないから……飲めなかったのだろう。定かではないが。
いつも彼女にこう問うた。「君の歌を聴いているとそれなりに想像はつくが、君の過去に一体何があったんだ?」。いつもニコニコするばかりでワラシは、何も答えようとはしなかった。政治的な話もしなかった。彼女の心情は、ステージから類推するしかなかった。
それでも少しずつ、口を開いてくれるようになった。マネジャーの話題になったことがある。
後に彼女のダンナとなるマネジャーのMさんとレコード会社は「明るくて万人受けする曲」を作ってメジャーの仲間入りを狙っていたが、ワラシはかたくなだった。
新宿ロフトでの引退ライブ。初期の曲をメインに選び、いつものように客席は静かだった。
彼女が「この曲を最後に歌手生活に終わりを告げることにします」と話しても、店内はまるで葬式のようにシーンとしていた。選曲自体、最後のこだわりだったと思う。
ライブの後、いつものようにレコード即売会を開いた。ファンの差し出すレコードすべてに長いメッセージを丁寧に書き込んでいた。これも見慣れた光景だった。
亡くなる前年の17年のころから体調を崩し、入退院を繰り返していたと聞いた。76年リリースの「ぼくたちの失敗」が93年にテレビドラマのテーマ曲に採用され、瞬く間に100万枚の大ヒットになっても、ワラシは素顔も本名も明かさず、ひっそりと生きていた。
森田童子の歌声はか細く、柔らかく、幻想的だった。彼女がステージで流す涙が、あまり話題にならなかったのは、ステージの暗く落とした照明のせいだったのか……。」(2020/12/21付「日刊ゲンダイ」ここより)
平野悠「ロフト」創業者
1944年8月10日、東京都生まれ。71年の「烏山ロフト」を皮切りに西荻、荻窪、下北沢、新宿にロフトをオープン。95年に世界初のトークライブ「ロフトプラスワン」を創設した。6月、ピースボート世界一周航海で経験した「身も心も焦がすような恋」(平野氏)を描いた「セルロイドの海」(世界書院)を刊行。作家デビューを果たした。 」(追:2020/12/14付「日刊ゲンダイ」ここより)
上の記事の「♪地下のジャズ喫茶 変われないぼくたちがいた・・・」は「ぼくたちの失敗」(ここ)の歌詞である。
改めてwikiの森田童子の項を読んでみると、こんな記載があった。
「2003年1月、10年ぶりにドラマ『高校教師』の新作が放送され、再び『ぼくたちの失敗』が主題歌として使用された。
これにともない発売された2003年版のベスト盤『ぼくたちの失敗 森田童子ベストコレクション』に、「海が死んでもいいョって鳴いている」(アルバム『ラスト・ワルツ』収録)の歌詞を一部変更して、新規に歌唱・録音された「ひとり遊び」が収録され、それが最後の作品となった。「ひとり遊び」は森田の自宅で、自らのピアノ、ギター、ハーモニカの演奏で20年ぶりに録音された。」
「ひとり遊び」は全曲集めたはずの自分の音源集に入っていない。思い出した。2003年盤はCCCDであり、リッピングが出来なかったのだ。その後、このアルバムは2016年に復刻された。
<森田童子の「ひとり遊び」>
「ひとり遊び」
作詞・作曲:森田童子
チィチィよ
ハァハァよ
あなたのいい子で
いられなかったぼくを
許して下さい
ぼくはひとりで
生きてゆきます
声を出さずに
笑うくせ
悲しきくせは
下唇をかむ
窓にうつした
ぼくの顔
初めてタバコを
吸いました
悲しき嘘も
知りました
夕べあなたの
夢を見ました
ぼくの声に
驚いて
目を覚ましました
僕は夢の中で
泣いていたようです
海がぼくと死んでも
いいヨって呼んでます
すさんでゆくぼくの
ほほが冷たい
誰かぼくに話しかけて
下さい
チィチィよ
ハァハァよ
あなたのいい子で
いられなかったぼくを
許して下さい
ぼくはひとりで
生きてゆきます
20年ぶりの録音。前にこのCDを聞いたとき、とにかく残念だった。そもそも20年も現役を離れていて、現役時代と同様の声が出るわけがない。しかも自宅での録音とかで、まともな音質で録音出来るわけも無く・・・
こんな企画を立てたレコード会社を恨めしく思ったもの。よって、この録音は忘れることにしていた。
でも、森田童子も2年半前に亡くなった。それで改めて聞いてみた、というわけ。
上のwikiにもある通り、この「ひとり遊び」は、アルバム「ラスト・ワルツ」の収録曲「海が死んでもいいョって鳴いている」が原曲である。
それも聞いてみよう。
<森田童子の「海が死んでもいいョって鳴いている」>
「海が死んでもいいョって鳴いている」
作詞・作曲:森田童子
チィチィよ
ハァハァよ
あなたのいい子で
いられなかったぼくを
許して下さい
ぼくはひとりで
生きてゆきます
初めてタバコを
吸いました
悲しき嘘も
知りました
夕べあなたの
夢を見ました
声を出さずに
笑うくせ
悲しきくせは
下唇をかむ
窓にうつした
ぼくの顔
ぼくの声に
驚いて
目を覚ましました
僕は夢の中で
泣いていたようです
海が死んでも
いいョって鳴いてます
すさんでゆくぼくの
ほほが冷たい
誰かぼくに話しかけて
下さい
チィチィよ
ハァハァよ
あなたのいい子で
いられなかったぼくを
許して下さい
ぼくはひとりで
生きてゆきます
とにかく森田童子の歌は暗い。悲しい・・・。
wikiによると、
「イラストレーターとしても活躍したマネージャーだった前田亜土と結婚」「夫の前田亜土は2010年に没している」
「2018年4月24日未明、心不全のため自宅で死去。65歳没。同年6月1日発行の日本音楽著作権協会(JASRAC)会報に訃報が掲載されたことで死去が明らかになった。音楽活動休止後は主婦として暮らしていたが、音楽関係者の話として体調を崩して2017年から入退院を繰り返し、退院後間もなくして逝去したという。」
森田童子の音楽はごく一部のファンしか聞かないだろうが、たぶん、自分も含めた“その一部の人”によって、長く聞き継がれるであろう森田童子の歌である。
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