「人は健康のために生きるのではなく、生きるために健康であるべき」
今朝(2020/10/10)の朝日新聞にこんな記事があった。なるほど・・・と納得した論だった。
「(異議あり)「健康になれ」人生も社会も窮屈にさせる 「不健康でもいい」と唱える医師、大脇幸志郎さん
健康であることはいいことだ。だが医師の大脇幸志郎さんは、甘い物や酒を我慢するなど人生の楽しみを犠牲にしてまで、健康である必要はな いという。そもそも健康にいいとされることには、「迷信」と言えるものも少なくないと指摘する。コロナ禍でより強まる「健康至上主義」の風潮は、私たちを窮屈にさせるだけだと言うのだが――。
■暮らしの歴史・文化を軽視する「現代の宗教」、本当に大事なもの選んで
――「健康」に気をつけるのがよくないことですか。
「素朴に考えれば、健康で長生きできた方がいいに決まっています。ところが健康を追求するあまり、犠牲にしていることがあるのでは、という両義的な視点が必要です。たとえば糖尿病患者は『食べ物に気をつけるように』と言われますが、その人にとっては、非常につらい選択かもしれない。生活をつまらなくしてまで、健康第一の生き方でいいのでしょうか。人はだれしも、健康より大事なものを持っています」
――太く短く生きた方がいいということですか。
「平たく言うとそうですし、同じ人でも『太く短く』と言っていたのが、いよいよ具合が悪くなると『もっと健康に気をつけておけばよかった』と変わるものです。そうなったときに『そら、みたことか』と責めてはいけません。健康に対する考え方は、人生そのときどきによって変わります。健康は大事だけど、常に一番ではないかもしれない。でも今の世の中は、『不健康でもいい』とは言いづらい空気があります」
――たとえば?
「たばこがいい例です。かつては成人男性なら吸って当たり前という雰囲気でした。それがこの20~30年で、とにかく悪で、できる限り排除すべき対象となりました。そこまで厳しくすることが、本当にいいことなのでしょうか。もちろん受動喫煙を防ぐなど、たばこが嫌な人の権利は尊重されるべきです。ただ、自分の体を傷めても太く短く生きたいという考え方も、同様に尊重されるべきです」
――でも、たばこの吸い過ぎは社会にとっても悪では。
「確かにがんになるので医療費の無駄遣いだという批判があります。一方で、長生きすれば医療費や介護費が増えるという主張もあります。健康になった方が医療費が抑制されるかどうかは、そこまで自明なことではありません」
「他方、喫煙の文化は長い歴史があります。それを突如、切り替えろというのは無理がある。いまの規制は人間には習慣や癖というものがある、ということを軽視しすぎていると思います。健康至上主義が是となると、たばこの次は酒、その次は砂糖と、いつまでもベストを目指し続けることになりかねません」
――つまり、今のたばこ規制は行き過ぎていると。
「はい。規制が過剰かどうかを判断する目安の一つに、効果の程度があります。健康にいいと勧められていても、効果がはっきりしない迷信のようなものもあります」
*
――「迷信」ですか。
「人の考えには、事実に裏付けられたことと、その事実から連想されるイメージが結びついています。その連想を私は『迷信』と呼んでいます。たとえば現代は、科学技術を駆使すれば健康になる、というイメージがあります。でも人間ドックを受けたら健康になる、と思うのは迷信です。複数の論文を評価した結果、無差別に健診対象を広げても、寿命を延ばさないというエビデンスが出ています」
――集団にとっては利益がなくても、がんが見つかった人にとってはメリットでは。
「それは、宝くじを買うかどうか、という問題と一緒です。当選する人は確かにいますが、全体としては外れる人の方が多い。それなのに『宝くじを買いなさい』と強制されたら、どうでしょう」
――でも病気になったら、家族に迷惑をかけませんか。
「そこは綱引きなのだと思います。たとえば私の父は糖尿病と診断され、長いこと病院にも行きませんでした。私はこのままだと目や腎臓が危ないと説明しましたが、父がビールを飲むのを止めませんでした。父の楽しみを奪いたくなかったからです。一方で母の立場に立つと、身内が病気になるのは困ります。綱引きになった場合、どちらが正解ということはなく、その間で手をうつしかないんです」
「ただ、赤の他人が『自己犠牲で健康になれ』と命令するのはおかしいと思います。それが現代では当たり前になってしまっているのですが、歴史上も国家による健康の強制は珍しくありません」
*
――どういうことですか。
「ナチス時代のドイツは、健康をとても大切にしました。たばこで肺がんが増えることを初めて統計で証明したのはナチス・ドイツの研究者で、たばこの広告が規制されました。国民を健康にすれば、国が強くなるという思想からでした」
――今の日本では?
「コロナ禍での『新しい生活様式』は、まさにその類いのものだと思います。お国のために健康に気をつけてください、それがあなたにも利益があるのですと。それは正しいことかもしれない。でも長い歴史を通じて生まれた生活様式は文化そのもので、各自がリスクを冒しても譲れないものを持っています。人はただ生きていればいいという生き物ではなく、そこを無視した政策は机上の空論です」
「政策に至る議論が透明化されているか、その政策に連続性があるかどうかの視点は大事です。感染対策を呼びかける一方で、『Go To』しろと短期間に政策が変わりましたが、振れ幅が大きいと社会は疑心暗鬼になります」
――そういう意味では、批判の多いトランプ大統領の政策も一貫していることになりませんか。
「トランプ氏の政策や振る舞いには許容できない問題が多くあります。ただ、トランプ氏を批判する意見にも問題があります。彼が入院したときに『マスクをつけていなかったからだ』と非難の声が上がったのは、被害者バッシングそのものです。トランプ政権は衆愚政治だと批判されていますが、反トランプ側も『感染が怖い』という思考停止に陥り、トランプ氏個人を攻撃しています。その光景を目の当たりにして、とても冷たい気持ちになりました」
――そもそもなぜ、こんなに健康が重視されるようになったのでしょう。
「健康主義は、新興宗教のようなものだからです。伝統的な宗教が力を失った現代は、人の生死にかかわる『健康第一』という宗教が、信仰を集めてしまうのです」
――この風潮にとらわれないためにはどうすれば。
「今の生活の中で大事にしているものは何かを振り返ってみることだと思います。たとえば家族のためにコロナの感染予防をすると決めたなら、他人にうつさないための対策はどの程度やればいいかと軸ができてくる。その上で目的にかなう情報はどれかを選んでいけばいい。人は健康のために生きるのではなく、生きるために健康であるべきなのです」
◇
おおわきこうしろう 36歳 1983年、大阪府生まれ。医学部を卒業後、「医師に向いているのか」と悩み2年間フリーターに。出版社勤務、医療情報サイト運営を経て医師。著書に「『健康』から生活をまもる」、訳書に「健康禍 人間的医学の終焉と強制的健康主義の台頭」。
■健康増進の歴史
厚生労働省の資料によると、健康増進の考え方は、1946年に世界保健機関(WHO)が「健康とは単に病気でない、虚弱でないというのみならず、身体的、精神的そして社会的に完全に良好な状態を指す」と定義したことに始まるという。
50年代のWHOの健康政策は感染症予防に重点が置かれたが、70年代以降は予防から健康増進へと焦点が移っていった。
日本も戦後すぐは結核など感染症対策に重点が置かれたが、50年代に入ると脳血管疾患やがん、心疾患など「生活習慣病」が死因の上位を占めるようになった。厚生省(当時)は78年に「自分の健康は自分で守る」という自覚と認識を持つのが重要とする「国民健康づくり対策」を開始。その後、健康寿命を延ばすことを目標とする「健康日本21」推進のため、2003年に健康増進法が施行された。
08年に始まった「メタボ健診」は、生活習慣病予防のために保健指導を必要とする人を拾い出すための健診だが、その効果を疑問視する論文もある。
■取材を終えて
私は肉は好きだけど野菜は嫌い、運動もほとんどせず、どちらかと言えば健康に無関心なタイプだと思ってきた。それが大脇さんの話を聞くうちに、知らず知らずのうちに甘い物や酒を自制していることに気づいた。そして家族にも「甘い物を控えたら」と言っていることにも。他人への不寛容は、窮屈な社会を生む。たばこについてはゼロ寛容だったのだが、その考え方は危ういのだと反省した。(アピタル編集長・岡崎明子)」(2020/10/10付「朝日新聞」p15より)
特に我々老人にとって、健康は最重要課題。だから同期会などでは、まさに“病気自慢大会”になる事が多い。また、誰々が何という大病に罹った・・・という話を聞くと、興味津々でその話を聞く。体も老化していくので(部品の経年劣化)、その反動として段々と病気に見舞われるのは当然の摂理。しかし、病気の話を聞くと、自分もそのうち・・・?と思ったり、はたまた、今回は自分で無くて良かった!?と思ったり??
それにしても、世の中の健康志向は凄まじい。近所でも、健康のために日課で散歩している人がどれほどいるか・・・。(自分はサボっているのだが・・・)
逆に、“タバコで死んでも仕方が無い”とうそぶきながら堂々とタバコを吸っている人も多い。
現役時代、事務棟にコミュニケーションルーム(休憩室)なるものがあった。たまに行ってみると、そこはタバコの煙でモウモウ。窓には大きな換気扇が唸っていた。
タバコを吸わない人からは、「タバコを吸う時間だけ不公平だ」という文句もあった。しかし愛煙者は「他の部所の人とコミュニケーションを図る貴重な時間だ」と反論していた。
もちろん自分はタバコは吸わなかったが、どう見ても不公平観はあったように思う。
前にも書いたが、自分と親しかった叔父は、タバコと酒の大好き人間だったが、肝臓のがんで68歳で逝ってしまった。ガンが見つかった時、仕方が無い、本望だ、と思っていたかどうかは知らない。逆に、同じタバコ人間でも90歳近くまで生きた親族もいる。
つまりは、いつ何で死ぬかは誰も分からない。だから、上の話になってくる。
結論は、氏の言う通り「人は健康のために生きるのではなく、生きるために健康であるべきなのです。」なのだろう。
「死んでも良いので健康になりたい」という笑い話がある。
何のために生きたいのか?何のために長生きをしたいのか?
つまり、したいことが無くなったら、人生の潮時なのかも・・・!?
自分も、「何歳まで生きたい」をいう発想を改めて、「**と**をしたいので、それまでは生きたい」と考えを変えようか・・・。
しかし幾ら希望しても、自分で死の時期は選べない。いつ何時、何が起こるか分からない。それが人生の妙かも・・・ね。
言われて、そうだよね!と思った氏の意見ではある。
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