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2020年10月12日 (月)

筒美京平氏が亡くなった~野口五郎の「甘い生活」

夕方のニュースで、作曲家 筒美京平さんが亡くなった事を知った。

作曲家 筒美京平さん死去 80歳 昭和を代表する歌謡曲を作曲

「ブルー・ライト・ヨコハマ」や「また逢う日まで」など昭和の歌謡界を代表するヒット曲を生み出した作曲家の筒美京平さんが、今月7日、誤えん性肺炎のため亡くなりました。80歳でした。

筒美さんは昭和15年に東京で生まれ、青山学院大学在学中にジャズに親しみ、その後、大手レコード会社で音楽ディレクターとして働きながら作曲活動を始めました。

昭和42年、グループサウンズのヴィレッジ・シンガーズが歌う「バラ色の雲」がヒットして名を挙げ、翌43年には、いしだあゆみさんが歌った「ブルー・ライト・ヨコハマ」が大ヒットし、さらには、いずれもレコード大賞を受賞した尾崎紀世彦さんの「また逢う日まで」やジュディ・オングさんの「魅せられて」など、昭和の歌謡界を代表する名曲を世に送り出しました。

1970年代以降はアイドル歌謡も多く手がけ、南沙織さんの「17才」、近藤真彦さんの「ギンギラギンにさりげなく」、小泉今日子さんの「なんてったってアイドル」など、黄金期を彩る数々の曲を生みました。

その後も世代を超えた人気楽曲を手がけて、これまでに作曲した作品数は3000曲近くにのぼり、平成15年には紫綬褒章を受章しています。

家族などによりますと、筒美さんは、自宅で病気療養を続けていたということですが、今月7日、誤えん性肺炎のため亡くなりました。
80歳でした。」(2020/10/12付NHKここより)

名前を良く知った人の訃報に接すると、ついその人の作品を挙げてみたくなる。Netで作品のリストを見ると、多数のヒット曲がズラリと並ぶ。当然自分も数十曲知っている。
その中から、野口五郎の「甘い生活」を聞いてみよう。

<野口五郎の「甘い生活」>

「甘い生活」
 作詞:山上路夫
 作曲:筒美京平

あなたと揃いの モーニング・カップは
このまま誰かにあげよか
二人で暮すと はがきで通知を
出した日は帰らない
愛があればそれでいいと
甘い夢をはじめたが
今では二人からだ 寄せても愛は哀しい
何かがこわれ去った ひとときの甘い生活よ

土曜の夜には あなたを誘って
町まで飲みにも行ったよ
なじみのお店も この町はなれりゃ
もう二度と来ないだろ
壁の傷はここにベッド
入れた時につけたもの
今ではそんなことも 心に痛い想い出
何かがこわれ去った ひとときの甘い生活よ

今では二人からだ 寄せても愛は哀しい
何かがこわれ去った ひとときの甘い生活よ

201012tsutsumi wikiを覗くと、氏の色々な記録が載っている。その中で「作曲家年間売上」のリストが面白い。
このリストの1968年~1989年の22年間に限っても、1位が10回、2位が6回、3位が2回を占めている。
氏以外でも、載っている作曲家の名前を見ると、直ぐに色々な曲名が頭に浮かぶ。

野口五郎の「甘い生活」は、1974年の第16回日本レコード大賞・作曲賞を受賞した作品との事であり、「「甘い生活」は、1974年10月に野口五郎がリリースした14枚目のシングルである。オリコンで初めての1位を獲得し、50万枚近いセールス(オリコン集計)を記録して、野口自身最大のヒット曲となった。」とのこと。

野口五郎の作品では、「私鉄沿線」「青いリンゴ」「夕立ちのあとで」など、昔よく聞いた。
そんな歌をよく聞いていたのは、1960年代終わりの大学生の頃から1970年代までで、1980年代になると、自分にフィットする歌は減って、仕事も忙しくなりほとんど聞かなくなった。

そんな時代に活躍した人が、次々に亡くなっていく。まあ年齢的に仕方が無いことではあるが、自分の生きた時代が次第に去っていくことに、少しの寂寥感を覚える秋この頃ではある。

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コメント

筒美さんは、ジャズ好きから正規の音楽教育を受けず作曲家すぎやまこういち氏に作曲法を学んだとか、やはり天才だったのですね。
ブルライトヨコハマを歌った「いしだあゆみ」
がむちゃ可愛いかったなあぁ~。
ご冥福を祈ります。

投稿: 杉ちゃん | 2020年10月13日 (火) 22:29

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