次郎長、大親分の実像
今の時代、清水次郎長と言っても、知っている人は少なかろう。でも、大分前だが、次郎長の記事があったのだ。
「(文化の扉)次郎長、大親分の実像 「義侠心」何度も物語化/世に尽くした後半生
子分・客分のためならば、一肌脱いでやせ我慢。博奕(ばくち)と喧嘩(けんか)にめっぽう強く、一度怒れば泣く子も黙る。幕末に「海道一の大親分」として名をはせた清水次郎長(しみずのじろちょう)(1820~93)。今年は生誕200年。その光と影を、お聞きくだせえ。
次郎長は駿河(するが)(静岡県)の清水で船頭の次男に生まれた。養子先が米穀商。数え15歳で家出し、米相場で大もうけする商才があった。だが、20歳を過ぎて人を殺し、無宿者に。喧嘩の仲裁で名を上げ、追っ手から逃げつつも敵対勢力を倒していく。
静岡ローカルな渡世人(とせいにん)が全国区に飛躍したのは、波乱の半生が講談や浪曲、映画などを通じて広く伝わったからだ。武士出身で、一時は次郎長の養子になった天田(あまだ)五郎が1884(明治17)年に「東海遊侠(ゆうきょう)伝」をまとめ、それを元に、講談師の三代目神田伯山(かんだはくざん)が「清水次郎長伝」として読み、大正年間の東京で人気を博した。
昭和に入ると、広沢虎造(ひろさわとらぞう)が浪曲で一世を風靡(ふうび)。子どもが「バカは死ななきゃ治らない」とうなるほど、多くの名ゼリフも広まった。戦後も映画や小説で繰り返し描かれた。子分も多士済々。特に森の石松は、眼帯や吃音(きつおん)などのキャラが盛られ、次郎長をしのぐ人気者となる。
石松や苦しいときに世話を受けた長兵衛が殺されると、裏切った都田(みやこだ)の吉兵衛(きちべえ)や保下田(ほげた)の久六(きゅうろく)に復讐(ふくしゅう)する。問題が起きたら官僚を切り捨てる政治家とは違い、義侠(ぎきょう)心が厚くてドラマにしやすかった。講談師の神田愛山(あいざん)さん(66)は、次郎長伝の本質は「怒りの美学」とみる。「我慢を重ね、最後に庶民の怒りを晴らす。フロイトのいうエス(本能的な欲求)を発散させてくれたんです」
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上野(こうずけ)(群馬県)の国定忠治(くにさだちゅうじ)に大前田英五郎(おおまえだえいごろう)、下総(しもうさ)(千葉県)は笹川(ささがわ)の繁蔵(しげぞう)に飯岡(いいおか)の助五郎(すけごろう)と、江戸後期の関東には名だたる博徒があちこちに。次郎長伝では悪役の黒駒の勝蔵も、甲斐(かい)(山梨県)の大親分だった。幕末の動乱期、飢饉(ききん)などで庶民の格差が広がり、貧農の子らが現代で言えば「反社会勢力」になっていった時代だった。
次郎長は清水を出奔後、寺津(てらづ)(愛知県西尾市)に足場を構えたことがあった。次郎長ら侠客(きょうかく)を研究する歴史学者の高橋敏(さとし)さん(80)によると、寺津の位置した幕末の三河国は小藩が分立し、警察力が弱体化していたという。東海に地の利を得ていた次郎長なら、「バカじゃ親分はつとまらないずら」と言うだろうか?
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清水港で1868(明治元)年、幕府の軍艦咸臨丸(かんりんまる)が新政府軍の軍艦に攻撃される事件が起きた。次郎長は港に浮かぶ遺体を埋葬し、「賊軍も死んだら罪はない」と言い放ったと伝えられる。それに感銘を受けた幕臣山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)と親交を深め、社会事業に乗り出していく。富士山の裾野を開墾し、英語塾を開き、茶の輸出に力を注ぎ、石油の開発にも携わる。まるで商社マンみたいだ。
もっとも、次郎長は咸臨丸事件の直前に街道警固(かいどうけいご)役を命じられ、帯刀も許された。いまなら警察署長にあたる。3人目の妻は武士の娘だ。アウトローから足を洗う流れに乗ったらしい。
でも、やんちゃな気性がたまに出る。数え65歳のとき、全国一斉の博徒刈り込みで逮捕されると「牢から出たら県令のヤツぶっ殺す!」と叫んだとか。懲役7年だったが、鉄舟らの助けもあって1年で仮出獄した。
やや出来過ぎだが、人生をやり直した無法者の物語、時代に合わせて語り継げないか……。ちょうど時間となりました。(井上秀樹)
■人の心を動かす力 作家・諸田玲子さん
私の祖母の祖母は、次郎長のめいで養子でした。清水で経営していた遊郭が旅館になっていて、子どものころは静岡市内の自宅から訪ねたことがあります。私も大学は英文科ですし、若いころは次郎長の映画や小説に興味はありませんでした。
小説を書くようになって、清水の情景が浮かんできました。これまで、子分だった小政(こまさ)の『空っ風』から養女けんの『波止場浪漫』まで、周りの人物を描いてきました。時代の変化に乗り切れずに非業の死を遂げた侠客や子分たちが多いなかで、次郎長は激動期をしたたかに生き抜いていきます。
次郎長が切った張ったの親分から地元の名士に転身できたのはなぜでしょう。同じ駿河出身でアユタヤ朝(タイ)で活躍した山田長政の銅像を建てようとしたように、私利私欲じゃない。温暖な土地柄や生まれ育ちもありますが、つまりは人の心を動かす力です。天性の明るい気質が慕われたんだろうな。人間としての痛快さがわかってきたいまなら、次郎長を主役にした小説を書けるでしょうか。
<訪れる> 静岡市清水区では次郎長の生家が現存し、晩年に開業した船宿「末廣」も復元されている。フグを食べて毒にあたった梅蔭禅寺には次郎長やおちょう、子分らの墓があり、愛用のサイコロなどを展示。清水港には「次郎長堤」と呼ばれる石積みが残る。」(2020/09/07付「朝日新聞」より)
前に「広澤虎造の浪曲」(ここ)という記事を書いた。広澤虎造と言えば、直ぐに「旅行けば 駿河の道に茶の香り」というフレーズを思い出す。そんな次郎長の話である。(上に記事から虎造の浪曲の一部を下記に)
<広澤虎造の「次郎長伝」>
静岡県には、意外と思い出がある。大宮に住んでいた小学校低学年の頃、母の姉である伯母が住んでいた焼津に行くのが、夏休みの何よりの楽しみだった。
電車に乗るのが嬉しく、できるだけ長く乗っているように、鈍行に乗って、着く駅ごとの駅名をメモしていたことを思い出す。
その後、社会人になって、当時、日立に勤めていた父の弟である叔父が清水に住んでおり、出張の帰りに途中下車して、その社宅に寄ったことがある。叔母と従姉妹と一緒に三保の松原に行った。天気が良く、富士がよく見えた。
あれから半世紀。何もかもが変わったが、たぶんあの景色は変わっていないだろう。しかし、たぶんもう行く機会も無い。
老人以外は読まないだろう次郎長の記事を読みながら、ふと昔の静岡のことを思い出した。
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広澤虎造の浪曲
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