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2020年7月27日 (月)

弘田三枝子が心不全で死去 73歳~「私が死んだら」

夕方、こんなニュースがサイトに載った。

弘田三枝子さんが死去 73歳「ヴァケーション」「夢みるシャンソン人形」など
 歌手の弘田三枝子さん(本名・竹永三枝子)が21日に亡くなったことが27日、分かった。73歳。心不全だった。
 所属事務所によると、弘田さんは20日に千葉県内の自宅で倒れ、病院に搬送。21日に亡くなったという。倒れる前日まで変わりなく元気だったといい、すでに親族で密葬を執り行った。
 弘田さんは61年11月に「子供ぢゃないの/悲しき片思い」でレコードデビュー。その後「ヴァケーション」「想い出の冬休み」「悲しきハート」などカバーポップスでヒット曲を連発した。
 62年に「第13回NHK紅白歌合戦」に出場し、9年連続で出場。その後も「夢みるシャンソン人形」、アニメ「ジャングル大帝」の「レオのうた」、「人形の家」など大ヒットを連発する。
 今年はデビュー60周年で、記念曲やコンサートなどを予定していたが、新型コロナウイルスの影響で延期されていた。」(2020/07/27付「デイリースポーツ」(ここ)より)

弘田三枝子の歌は、前に「人形の家」を採りあげたことがあった(ここ)。

wikiを覗いてみると、生まれは1947年2月5日。自分より半年上なだけ。まさに同世代。

自分の知っている歌手が亡くなると、ついその人の歌を挙げたくなる。自分の持っている弘田三枝子の音源を開くと「私が死んだら」という歌があったので、今日はそれを挙げてみる。(この歌をどう捉えるかは自由)

<弘田三枝子の「私が死んだら」>

「私が死んだら」
 作詞:なかにし礼
 作曲:川口真

もしも私が死んだら あなた
きっと涙を流して あなた
見えなくなった 私の眼も
涙を流すでしょう
 白い絹をまとい 白い花にだかれ
 ひとり眼る私だけれど
 誰よりもきれいと 誰よりもきれいと
 あなたに言われたいの

もしも私が死んだら あなた
やさしい唄をうたって あなた
冷たくなった 私の耳に
くちびるをよせながら
 あなただけを愛し あなただけに生きて
 そして死んだ私だけど
 可愛い女だと 可愛い女だと
 思ってくれるかしら

 あなたのうしろから 歩いてゆけなくて
 胸が痛む私だけど
 はなしはしないよと はなしはしないよと
 両手に抱きしめて

200727hirotamieko wikiによると、この歌は、1969年12月10日発売で、昭和44年度日本レコード大賞歌唱賞受賞曲だという。歌唱力も認められていた。

それにしても、まだ73歳なのに、心不全で倒れ、翌日には帰らぬ人となる。本人もまだ死は予期していなかったのでは無いか。
最近、救急車のサイレンの音を聞くと、「また心不全だな」とツイ思ってしまう。癌や脳の病気と違って、心臓の病気は、アッという間に死に至る事がある。
でも73歳はまだ早いと思うが、ある程度歳を取った後は、心不全で急に亡くなるのは、本人にとってラッキーかも知れない。

先日来、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を患う51歳の女性が京都で死亡した、いわゆる嘱託殺人が報じられている。医師二人が関与したという。
本人は死にたい。しかし自分では出来ない。だから誰かに頼む・・・。
自分がこの病気を知ったのは、もう13年も前のこと(ここ)。そんな病気があること自体がショックだった。
その後、何度かALSについて採りあげてきた(当サイト左下の検索欄で「ALS」で検索)。

前にNHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」(ここ)を見たが、もし自分だったら、同じ道を選ぶかも知れない。

自分と同年代の弘田三枝子が亡くなった報を聞くと、我々にも、その時がいつ訪れてもおかしくない歳なんだな、と思う。
さーて、それでどうする??

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コメント

こんちわ!、相変わらず曇り空で蒸し暑い天気です。

昨日(26日)コロナ渦で、もう来ないかもと思う「夏をテーマにした曲」を聴いてました。

「砂に書いたラヴレター(パットブーン)」
「夏の日の恋(パーシーフェイース)」
「サマーホリディ(クリフリチャード)」
そして「ヴァケーション(弘田美枝子)」

今朝、新聞を開いてビックリ!!

弘田美枝子が心不全で亡くなられたと・・・。73歳まだ若いです。

「V・A・C・A・T・I・O・N ♪たのしいな♪」聴いた翌日に訃報記事にビックリしました。

【エムズの片割れより】
我々のちょっと下の世代では、知らない人が多いんですね。

投稿: 杉ちゃん | 2020年7月28日 (火) 14:57

弘田三枝子が「子供ぢゃないの」と「悲しき片想い」(シングル盤のA面とB面)でレコードデビューしたのは1961年(昭和36年)、彼女が14歳のときですが、レコードでデビューする前、毎週日曜日の民放のTVに「雪村いずみショー」という番組があり、雪村いずみのほか、彼女(と雪村いずみの弟)がレギュラー出演していて、これらの曲をはじめて聴いたのはこの番組だったと思います。パンチのある声、大きなジェスチャーで歌う姿を見て衝撃を受けました。そのうち、これらの歌が街中に流れるようになると思ったら、彼女が歌う曲がつぎつぎとヒットしていきましたが、その中でも、たぶん「バケーション」が彼女の最大のヒット曲だったでしょう。このころはアメリカン・ポップスの全盛時代で、彼女よりちょっと前の世代にはザ・ピーナッツ、坂本九、森山加代子、さらに前の世代には江利チエミ、雪村いずみ、ペギー葉山、そして同世代には伊東ゆかり、中尾ミエ、梓みちよ、九重佑三子といった人たちがいましたが、私は断然弘田三枝子が好きでしたね。若いころ、1、2度ですが、彼女のリサイタルにも行ったことがあります(確か一つは新宿のコマ劇場だったか?)。彼女がファンだというジャズ・ボーカリストのエラ・フィッツジェラルドが来日したときも、新宿の厚生年金ホールだったと思いますが、聴きにいったこともあります(このとき、ロビーでこのコンサートを聴きに来ていた坂本九、九重佑三子といった人たちを見かけました)。私は「弘田三枝子スタンダードを唄う」というLPのアルバムを出したとき購入し、いまでも持っています。「マック・ザ・ナイフ」(エラ・フィッツジェラルドが得意にしていた曲)や「アレキサンダース・ラグタイム・バンド」等が入ったレコードです。私は「人形の家」以降の彼女よりも、ポップスを唄っていた若いころの彼女が一番好きですね。
10年ぐらい前に彼女がテレビ東京の「ミューズの晩餐」という音楽番組(MCは俳優の寺脇康文とバイオリニストの川井郁子)にゲストとして招かれたときの映像を録画してあったのを思い出したので、もう一度観てみました。その中で米軍キャンプで歌を歌っていた時代(レコードデビューする前の時代)のことを語っていましたが、彼女の先輩たちである江利チエミやペギー葉山もそうですが、彼女や伊東ゆかりは米軍キャンプでポップスの修行した最後の世代なのかもしれません。彼女の歌が歌い方も身振りもバタ臭いのはこうして「本場」で修業したせいかもしれません。彼女が亡くなって、昭和は遠くになりきりという気分がしみじみとしますよ。

投稿: KeiichiKoda | 2020年8月 2日 (日) 09:36

ご存じかも知れませんが、
BSテレ東で7日21時から急逝した弘田三枝子さんの追悼番組が放送されます。
番組名は「緊急追悼企画 ありがとう!弘田三枝子さん」です。

投稿: classical.s | 2020年8月 2日 (日) 13:34

clasicals様ありがとうございました。紹介いただいた番組、それから以前録画しておいた「あの年この歌時代を刻んだ名曲たち1962年弘田三枝子/ヴァケーション」(2016/4/30、BS東京放送)という番組も一緒に観てみました。昭和36年以降40年代の初めぐらいにかけて彼女がアメリアカン・ポップス等を歌って、一番活躍していたころの歌番組あるいはドラマ等からの映像を観られるかと期待していたのですが、そうした番組は残念ながら残っていないんですね。いくつかのお宝映像は紹介されたものの、大部分は彼女が晩年(?)に歌った「懐メロ」映像でした。たぶんNHKだと、毎年の「紅白歌合戦」に出演したときの映像等が残っているんでしょうが。。。2016年の番組では彼女をリスペクトする歌手たちのリストがあげられていましたが、とくに都はるみ、竹内まりあ、山下達郎、桑田佳裕ほか、多数の人たちの名前が挙げられていました。とくに桑田氏は「ミコ・・・」という弘田をモデルにした歌まで作っているんですね。
昔NHKのバラエティー番組に「夢であいましょう」という番組があり、この番組の「今月の歌」から坂本九「上を向いて歩こう」、梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」等の中村八大・永六輔コンビによる大ヒット曲がたくさん生まれたことは皆様よくご存じだと思いますが、弘田三枝子にもこのコンビによる「今月の歌」「ブルー人ブルース」とい曲があるのですが、残念ながら、坂本九や梓みちよの歌のようにはヒットしませんでした。

投稿: KeiichiKoda | 2020年8月10日 (月) 18:22

弘田三枝子はレコードデビューする前に、米軍キャンプでポップスやジャズの修行(?)をしたと書きましたが、上で引用した「あの年この年時代を刻んだ名曲たち」という番組を収録したBD(ブルーレイディスク)の中にNHKEテレの団塊スタイル「いつもそばに歌があるペギー葉山」(2015/10/30放送)という番組がはいっていたので、観てみました。この団塊スタイルという番組は国井雅比古アナウンサーと女優の風吹じゅんがMCをつとめ、私の家内が好んで観ていた番組でしたが、たまたまペギー葉山がゲストのときの回を録画してあったのです。ペギーさんもキングレコード専属の歌手となる前に米軍キャンプで歌の修行をした一人ですが、弘田さんより14-5歳先輩なので、番組の中では「進駐軍クラブ」という言葉を使っていたことが印象的でした。青山学院高校の2年生の夏に、友人の紹介で、友人の父親が「進駐軍クラブ」でバンドリーダーをしていたバンドで歌手として歌うようになったのがきっかけだったようです。ほかに、大ヒットした「南国土佐を後にして」を歌うようになった経緯とか、ニューヨークのブロードウェイのミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」を観て感激し、このミュージカルのなかで歌われる有名な「ドレミの歌」を自身の手で訳詞した話とか、たいへん興味深い内容の番組でした。ペギーさんがこの番組放送のとき夫の根上淳さんが亡くなってから10年ぐらい経った81歳でしたが、まだ現役で、たいへんお元気で、番組ではスポーツジムで自転車を漕ぐ姿なんかも紹介されました。しかし、この元気なペギーさんがこの番組の放送から1年とちょと後には他界されることになるとはとても思えませんでした。
ペギーさんのことを書いたのには、もう一つ理由があります。私は0歳から小学校入学直前まで茨城県取手市で子供時代を過ごしたのですが、取手市を出てからは1度も子供時代を過ごした取手市を訪れたことがなかったので、一昨年の今頃(2018年8月)に思い立って、昔住んでいたあたりを訪ねてみることにしたのです。といっても、私が住んでいた家が取手市の、あるお寺の近所にあったこと、私の記憶の中にある近所の情景、近所に住んでいたいくつかの家族の苗字を微かに覚えているという程度の心細い状況でした。しかし、さすが現代はITの時代なので、ネットでお寺の場所を検索するとすぐにわかり、最初に向かったのがこのお寺でした。お寺に着くと、境内で働いていた人から、このお寺の墓所にはペギー葉山・根上淳夫妻のお墓があるというまったく意外なことを聞き、お参りをしました。ペギーさんはクリスチャンの家に育ったということは知っていたし、お二人の住まいも東京でしたから、お墓が取手市のお寺にあるというのはまったくの驚きでした。

【エムズの片割れより】
そうですか。取手に縁がありましたか・・・
自分は、小5(S33)から高3(S41)まで、隣町の竜ヶ崎でした。

投稿: KeiichiKoda | 2020年8月16日 (日) 07:00

いつだったか、エムズさんは竜ケ崎出身であること、竜ケ崎市の実家(?)のことを書いておられたことを覚えています。私は竜ケ崎市には行ったことはないのですが、竜ケ崎市には遠い親戚もあります。
私の、2018/8/28の取手市への「センチメンタル・ジャーニー」のことですが、新し道路ができたり、私の頭の中にあるイメージとはずいぶんと違っていました。幸い、当時住んでいたわが家の近所に住んでいたという家族も3家族ほど見つかり、ある人からは我が家のことはその人の亡くなった母親からよく聞いていたともいわれました。とくに、私の家の隣家で、よく遊んでいた私と同年代の子供のいる家族も(彼の代になっていましたが)そこに住んでいたことです。海外勤務などを経て、定年後にここに戻ってきていたのです。ちょっと残念だったのは、その人の母親で私の母親とも親しくしていた人が2,3年前までは健在だったことです。私が、この「ジャーニー」を数年前にしていれば、我が家のことをよく知っている人からその後のことについてもっと詳しい話が聞けたでしょう。

【エムズの片割れより】
自分の色々な意味での“故郷”は、何カ所かありますが、前に一通り回りました。
竜ヶ崎の実家は、アパートに変わり、何もかも昔を偲ぶものはありません。
もう、再びそれらを巡る体力も気力も無いかも・・・

投稿: KeiichiKoda | 2020年8月17日 (月) 10:49

上でペギー葉山さんのことを書き、取手市の、あるお寺にはペギー葉山・根上淳さん夫妻の墓があることに触れました(2020/8/16)。ペギーさんのご主人の根上淳さんには外国人(西欧人)の血が流れていることは知っていましたが、詳しくは知りませんでした。本日(2021/5/24)の日経新聞の文化欄にそれに関する興味深い記事が載りましたので、ついでなので簡単に紹介します。記事は「西洋音楽導いた熱血教師ー明治中期に来日したR.ディットリッヒ波乱の生涯を伝記に」という見出しで、平沢博子氏(音楽学者)が1888年設立間もない東京音楽学校(現芸大音楽学部)にウィーンから赴任したルドルフ・ディットリッヒについて書いています。ディットリヒは現在のポーランドで生まれ、ウィーン学友協会音楽院でブルックナー等に学んだ音楽家で、バイオリンやオルガンを弾く。邦楽を基にしたピアノ曲もウィーンで楽譜を出版している。日本には6年間滞在したが、その間妻を亡くした。日本の音楽にも興味を持ち、森菊という女性から三味線を習い、親しくなり、2人の間に生まれたのがバイオリニストの森乙、そしてその長男が根上淳だそうです。ディットリッヒは6年間の日本滞在後母子を残してウィーンに帰ったが、子供が成長するまで送金を続けた由。平沢さんは「ルドルフ・ディットリヒ物語」を論創社から2019年に刊行したが、出版を心待ちにしていたペギーさんの生前には間に合わなかった、と。

【エムズの片割れより】
色々な歴史があるんですね。

投稿: KeiichiKoda | 2021年5月24日 (月) 20:00

「色々の歴史」のついでに追記をもう一つ。上の記事の中にディトリッヒは「(ウィーンへの)帰国後もバイオリニストの幸田延らの日本からの留学生に会うと墓は大丈夫かと問うたそうだ」とあります。なお、この「墓」というのは日本滞在中に亡くなった妻のペリーネのことです。2019年のウィーンフィル・ニューイヤーコンサートを放送するにあたって楽友協会側はらららクラシックというEテレの番組のためにウィーンを訪ねていた番組MCの高橋克典をウィーン楽友協会の内部に案内しましたが、そのとき日本から楽友協会音楽院への日本からの留学生第1号としてNobu Kodaのサインがはいった修了証書がでてきたのを覚えています。Kodaと、少なくともローマ字表記では私と同じ名前なので記憶にあったのです(笑)。Nobu Kodaは日経記事にある幸田延のことで、のちに東京音楽学校の教授になり、滝廉太郎などを指導することになるのです。

投稿: KeiichiKoda | 2021年5月26日 (水) 05:55

上のコメントで書いたルドルフ・ディットリッヒという根上淳の祖父にあたる音楽家の話の中に幸田延(こうだのぶ)という音楽家の名前が出てきますが、この人についてもう少しコメント。最近出版された「日本のピアニスト」(本間ひろむ著、光文社新書)という本を読んでいたら、「日本のクラシック音楽界は幸田延から始まった」という文章(見出し)に出会いました(38-42ページ)。なんと、幸田延はあの有名な作家幸田露伴の妹だそうで、幼少のころ、音楽取り調べ係の外国人教師ルーサー・ホワイティング・メーソンに才能を見出され、12歳のとき永井繁子に師事(永井繁子とは岩倉使節団と一緒に渡米した5人の少女(津田梅子、山川捨松等)の一人で、ヴァッサー・カレッジで3年間音楽を学んだ本格派)。幸田は1889年には日本人初の音楽留学生としてボストンのニューイングランド音楽院に学び、1年後にはウィーン学友協会音楽院で5年間、バイオリンとピアノのほか、和声から作曲法、対位法、声楽まで幅広く学んだ。たぶんこのとき冒頭のディトリヒにも出会ったのでしょう。1899年東京音楽学校の教授になった幸田はピアノ、バイオリン、作曲、和声学、声楽の各分野を担当し、作曲家の滝廉太郎、山田耕作、声楽家の三浦環等を育てた、ということです。幸田延のことはピアニストの中村紘子が著書の一つのなかで、幸田延は(日本の)最初のピアニストであり、最初のバイオリニストであり、最初の作曲家であった旨を述べているそうですが、日本のクラシック音楽界というのは幸田延からはじまったといってよいようです。

【エムズの片割れより】
wikiで改めて読みました。
日本の音楽の元祖は山田耕筰だという思い込みがあったのですが、その先生だったんですね。

投稿: KeiichiKoda | 2022年11月 1日 (火) 10:21

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