「人生は、一冊の本である」~落合恵子の言葉
今朝、居間に降りて行くと、カミさんがテレビで良い言葉を見付けたという。 それで朝食のときに、一緒に見たのが、フジテレビの「テレビ寺子屋」(2019/09/01 05:10~05:40放送)という番組。作家・クレヨンハウス主宰の落合恵子さんが「泣きかたをわすれていた」とテーマに語っていた。その最後の方で、紹介していた自著の言葉がこれ・・・。
主人公の言葉で語られているが、落合さんの生きる土台になっているという。
「人生は、一冊の本である。そう記(しる)した詩人がいた。もしそうであるなら、今日までわたしはどんな本を書いてきたのだろう。七十二年の、わたしを生きた年齢という本を。もしそれに色があるとしたら、何色に染まっているのだろう。単色ではないだろうが、どの色が勝っているだろう。わたしは考える。
確かなことはひとつ。若いと呼ばれる年齢にいた頃、気が遠くなるほどの長編と思えた人生という本は実際には、驚くほど短編だったということ。
ひとは誰でも平凡な、けれどひとつとして同じものはない本を一冊残して、そして死んでいく。書店にも図書館にも、誰かの書棚にも古書店にも置かれることはない、一冊の本。誰かがそのひとを思い出す時だけ、頁が開く幻の本。そのひとを思い出すひとがこの世から立ち去った時、一冊の本も直ちに消えるのだ。」(落合恵子著「泣きかたをわすれていた」P207~208より)
そしてこう語っていた。
「長編小説だと思っていた人生が、とても短かった。だから空しいか?そうではない。あと何ページ残っているか分からない。もしかしたら、次のページで終わるかも知れない。だからこそ、今と今の私を大切にしたい。それ以外に何も無いだろう。そんな思いがとても強くあります。」
これは、自分の好きな「人間は2度死ぬ。一度目は肉体的な死。二度目は、皆の記憶から忘れ去られた時の死」という言葉と同じ。
この言葉は、以前にも当サイトに何度か書いている。ふと、この言葉の語源をググってみた。すると、この言葉は、永六輔さんの残した言葉らしい。
(ここ)にこんな紹介があった。
「これは、2016年7月7日、肺炎で永眠した放送作家でタレントの永六輔が遺した言葉。お別れ会で、次女の麻理さんが語っていたのを、古舘伊知郎が聞いて感銘を受け、紹介したものだった。」とのこと。
その言葉がこれ・・・
「人って言うのは二度死ぬんだよ。
個体が潰えたら一度目の死。
そこから先、まだ生きているんだ。
死んでも、誰かが自分のことを思ってくれている。
誰かが、自分のことを記憶に残している、時折語ってくれる。
これがある限りは、生きている。
そして、この世界中で、誰一人として自分のことを覚えている人がいなくなったとき、二度目の死を迎えて人は死ぬんだよ。
自分はいま生かされている。
それは、一緒に姉と生きてる。
死んだ父・母とも一緒に生きてると本当に思い込んでる。
それがしゃべりの原動力になっている……」(ここより)
誰も明日のことは分からない。明日終わるかも知れない自分の人生。それは仕方が無いこと。
だからいつ“その時”が来ても後悔しないような生き方をするしかない。
我々は、日々それを実践できているだろうか?
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