キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」~人生の終末の向き合い方
先日の朝日新聞に、こんな記事があった。
「(時代の栞)「死ぬ瞬間」 1969年刊、エリザベス・キューブラー・ロス 人生の終末の向き合い方
■希望を尊重、寄り添う医療へ
重い病で人生の終わりが迫った時、大切なものは何か。
緩和ケアや遺族ケアに影響を与えた「死ぬ瞬間」で、米国の精神科医、E・キューブラー・ロス博士は、住み慣れた家で愛する家族と過ごすことを挙げ、鎮静剤よりも本人が好きな「1杯のワイン」がもたらす恵みを説いた。 「ハッとしました」。1975年に外科医からキャリアを始めたケアタウン小平クリニック(東京都小平市)の山崎章郎院長(71)は振り返る。「生きる医療をとことんまで。それが当時の当たり前。死に寄り添う医療は私たちには無かった」
70~80年代前半、日本の医療界には「死は敗北」の考えが根強かった。がんは告知せず、家族と共に苦しいうそを通した。臨終の間際、静かな別れよりも心臓マッサージが優先された。
だが、死にゆく人の声を聴き、どの患者も「なんらかの希望を持っていた」ことに意味を見いだす博士の姿勢に、「医療には穏やかな最期を支える役割もある」と気づく。本がきっかけで山崎さんはホスピス医になり、今は在宅ケアに力を注ぐ。思いをつづった「病院で死ぬということ」(90年)は共感を呼んだ。
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61年に整った国民皆保険の制度で窓口負担が減り、病院に行きやすくなった。73年には「一県一医大構想」が掲げられ、地域の医療体制づくりも進み、病院の数は右肩上がりに。76年には医療機関で亡くなる人の数が在宅死と逆転。医療技術が高度化し、何本もの管をつけて生きる状態を「スパゲティ症候群」と揶揄(やゆ)する声もあがった。
「生かされる医療」に強く反発する人らが76年、「安楽死協会」(のちの日本尊厳死協会)を立ち上げる。翌年、医療界にも「死の臨床」を研究する団体ができた。先駆けになった英国のホスピスを学ぶ動きも活発になる。
80年代には日本でホスピスが相次いで誕生。90年に緩和ケア病棟への入院に公的保険が適用されると全国へ広まった。2006年のがん対策基本法も後押しになった。
「中でも大きな変化は患者の声が届きやすくなったことと、自己決定への理解では」と日本尊厳死協会の江藤真佐子事務局次長(54)。30年前は会員が延命治療を断る「リビング・ウィル」を示しても、受け入れない病院も多かった。「本人の意思が前提となる終末期のガイドラインができたのが大きい。今は断られる方が少ないのでは」
ただ、どんなに環境が整っても、死に向き合うのは容易ではない。「今、『死ぬ瞬間』を読んでみたい」と、昨年に夫を見送った関東地方の女性(64)はいう。
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夫が進んだ肺がんだとわかったのは4年前。手術はできなかった。標準の抗がん剤治療の後、医師は「薬も検査もやめてもいい」と言った。女性もホスピスに相談した。
だが、夫は通院して治療を続けるという。「意思を尊重しよう」。そう強く思ったのは認知症を患った実母の介護経験からだった。
限界まで自宅でみた後、断腸の思いで施設に託したが、母親は意思表示も難しくなっていた。寝たきりで、口から食べられなくなり、管で胃に栄養を送る処置を受けた。
「本人はこの状態を望まないはず」と、栄養を減らして先細るように逝かせられないか相談したが受け入れられなかった。「結局、みとる側の都合を押しつけただけでは」。疑問を抱え、12年間施設にいた母親をみとった5カ月後の夫の病気だった。
医療・介護の専門家と連携し、やれるだけの在宅ケアをした。ただ、夫は療養中、弱音を吐かず、病気や死への思いも語らなかった。「言わないから、私も聞けなかった。結局、夫は死とどう向き合っていたんでしょう」
04年に78歳で旅立ったロス博士の埋葬に立ち会った東京の開業医、堂園凉子さん(72)によれば博士の口癖は「期待してはダメ。でも希望を持って」だった。「死は、怖くも哀れでもないと先生は教えて下さいました。私たちも、穏やかに『これでよかった』と思えるような支えをもっとご本人やご家族に届けられるといいのですが」(権敬淑)
■よい最期はよく生きた先にある
淀川キリスト教病院名誉ホスピス長・柏木哲夫さん(79)
戦後の日本は、豊かになる中で「強さ」や「生産性」を重んじ、その対極にある「弱さ」や「無」「死」をタブー視する価値観が広がりました。弱さや死は身近で人間的なことなのですが。
そんな考えを変えたくて、大阪市の淀川キリスト教病院では1973年から、日本で初めて、チームによる末期患者のケアを検討し始めました。84年、同病院に西日本初のホスピス病棟ができましたが、初年度は3割が病名を告知されていませんでした。真実をどう伝えるかから模索をしました。
ロス博士が示した「死の受容」段階は、患者に接する中でぼんやりと感じていたことでしたが、分析を読むことでより明確になり、現場で大変役に立ちました。
今、病院で亡くなる方は約7割で少し減り、代わりに老人ホームなど施設で亡くなる方が増えています。自宅での最期を望む方は多いですが、高齢の単身世帯も増え、現実には壁がある。在宅ケアをかなえるには、現実的な新しい支援の仕組みと、今以上に公的な予算が必要になると思います。
これまで2500人をみとりました。私自身は誕生日に死を思い、遺言を上書きします。結婚記念日には、がんはどこまで治療するか、最期はどこで迎えたいかを妻と話し、お互いの理解を更新します。誰もが死なざるを得ませんが、まずは今をよく生きる。その延長によい死もあると思います。
<「死ぬ瞬間」 1969年刊、エリザベス・キューブラー・ロス>
■本の内容 誰でも尊厳ある死を迎える権利があると考える精神科医の著者らが病気で死が迫る200人以上に面談し心理を分析。死の受容は「否認と孤立」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」の5段階があるとした。みとる家族の心理や医療の問題点にも触れた。
■終末期医療に関連する流れ
1967年 英国に先駆的なホスピス誕生
71年 「死ぬ瞬間」日本で翻訳出版
73年 大阪の淀川キリスト教病院で「末期患者のケア検討会」開始
76年 「安楽死協会」設立(83年に「日本尊厳死協会」に改称)
77年 「日本死の臨床研究会」できる
81年 静岡の聖隷三方原病院に日本初ホスピス
86年 世界保健機関(WHO)ががんの疼痛(とうつう)治療法示す
87年 厚生省(当時)に末期医療の検討会
90年 緩和ケア病棟入院に公的保険
92年 厚生省「脳死臨調」答申
95年 東海大病院安楽死事件で地裁判決
97年 臓器移植法施行
2001年 オランダで安楽死法制化
06年 富山の射水(いみず)市民病院の人工呼吸器外しが事件化。医師は不起訴処分に
07年 厚労省「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」
19年 東京の公立福生病院での人工透析中止が議論に」(2019/05/01付「朝日新聞」夕刊p3より)
目の前に「死の瞬間」「続 死の瞬間」という2冊がある。だいぶ前にカミさんに借りて、すっと読まないまま、本棚の鎮座したまま。発行年月を見ると両方とも昭和60年4月。
黄ばんだ本は、あまり開く気になれない。というより、読み始めても、なかなか進まず、放り出した本だ。
しかしカミさんは、昔から一度は読んでおく本だと言っていた。
2011年3月の東日本大震災以来、伯母、義姉、母、義母、そして兄を送った。自分にとって、死は近い存在になった。
カミさんにとってもそれは同じらしく、よく「自分が死んだら」を口走る。別に大きな病気を抱えているわけでは無い。あまり「自分が死んだら」を連発されると、聞いている方は、その言葉が軽くなる。よって、「いちいち覚えていられないので、メモにしておけ」と言っている。。でもまだそのメモは見ていない。
でも、死を他人事として無視しているより、常にいつ死ぬか分からない。という前提で暮らすこと良いことかも知れない。
つまり、悔いを残さず生きているという事。
死は分からないから怖い、と言われる。近しい人を看取り、死が近い存在となってくれば、怖くなくなるかも!?
生前整理とともに、こんな哲学書も、一度は目を通そうか・・・。
でも当分無理だな・・・
このところ忙しくて遠ざかっているチャンバラ小説に飽きたら、再度挑戦したい「死の瞬間」ではある。
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