« 新聞で「取り上げない」というリスク | トップページ | WiMAXにつないだ話 »

2019年4月26日 (金)

人生の幕を閉じるのは結構大変~人形作家・松井美智の作品

先日、兄の四十九日法要と納骨式が終わって、2月以来の怒濤のような日々から、やっといつもの日常が戻ってきた。
つくづく人間、人生の幕を閉じるのは大変だと思った。今日は、その手続きについてのメモ、及び、今回整理した人形作家・松井美智の作品の紹介である。

まず病院。本人の意志がはっきりしていれば、治療方針は本人の意志による。その確認は、医師が直接、執拗?なまでに行う。主に延命治療についてだ。前にも書いたが(ここ)、兄の場合は、延命治療を明確に拒否していたので、何とか標準治療として治療を続けたい医師との狭間で、少し葛藤があった。リビングウィルの延命治療拒否の書類があっても、なかなかそれを拒むのは大変な努力が要る。先の福生病院での人工透析中止の事件からも、現場は影響を受けると思う。
もちろん、本人の意思が確認できない場合は、家族の同意を取ることとなる。しかし、治療について医師側からいくつかの選択肢を提示されるが、「何もしない」という選択肢は、医師側から最後の最後しか出てこない。最期が分かっていて、それを受け入れる場合(特別な延命処置はしない時)は、本人・家族側が、医師に対して明確に、そして繰り返しそれを主張し続けるしか無い。

そして、本人が亡くなった後、家族には色々な手配、手続きが残される。まず葬儀をどうするか? 本人の意志もそうだが、友人のなかには、亡くなったことを知って、「お線香を上げたい」と言ってくる人も居る。仏壇(位牌)を兄弟が引き取っている場合など、それは迷惑なことが多い。それらを一気に解決するためにも、葬儀は必要なのかも知れない。
今回の場合、兄は老人ホームに入って以来、それまでの交友関係を意識的に絶っていたこともあり、訃報を誰に伝えたら良いのかが分からなかった。
今回取ったのは、昔、兄から、とある情報のメールを貰ったことがあり、それに兄の友人関係のアドレスが同報として残っていた。それを頼りにメールで、訃報を知らせた。幸いにも、それで学生時代の友人に伝わった。
仕事関係では、兄は東京で弁護士事務所を開いており、以前修習生を受け入れたことがあった。病後、事務所をその後輩に譲ったが、その弁護士さんだけに連絡し、かつての仕事仲間にも情報は伝わって行った。
親戚関係は、今回も一切連絡しなかった。葬儀が終わった夜、電話で知らせた。親戚も皆高齢であり、事前の連絡は「葬儀に出席してくれ」という意志として捉えられてしまう可能性があったためだ。
かくして、無事に葬儀は終わった。

良く言われる本人の銀行口座の凍結については、今回意識した。幸い、銀行員が近所を回っていて、本人の死亡を気取られるという地元の信用金庫などとは取り引きが無く、相手がメガバンクだけだったので、自分が言い出すまで、凍結されることは無かった。
カードで、葬儀費を引き出し、事なきを得た。

マンションについては、不動産屋に聞くと、名義を変えてからでないと売却出来ないとのことで、不動産屋と提携している司法書士に書き換えを依頼。ついでに、遺産分割協議書の作成も依頼。これは自分でも書けるが、不動産の移転登記にも必要だというので、一緒に頼んだ。弟と一緒に実印で捺印して完成。
移転登記や、銀行の凍結解除には、法務局の「法定相続情報証明制度」を利用し、「法定相続情報一覧図」を入手した。これには、両親と兄弟の、生まれてから死ぬまでの、連続した戸籍の添付が必要だが、お袋が結婚する前に、住民票と同じように、転居する度に戸籍を変更しており、入手に手間取った。これは実費で司法書士がやってくれた。

法務局の仕事は早く、日付を確認すると司法書士からの申請の次の日には許可が下りていた。
さすがに、銀行口座の凍結解除では、遺産分割協議書とともに、この一枚が絶大な効力を発揮し、どこもスムーズに解除が出来た。

そして遺品の整理。自宅マンションの家財は、生前兄がメモで指示をしており、その指示に従って数年掛けて整理をしていたので、残った家財の整理だった。
そこで扱いが難しかったのが、兄嫁の作品だった。兄の整理のメモにも、その扱いについては書いていなかったので。
兄嫁は、人形作家・松井美智であり、数多く伝統工芸展等で入選していた。その心血を注いだ作品は、そうそう粗末に扱えない・・・。

生前、兄は「作品は展覧会の入選カタログと対にして、初めてその価値が分かる」と言っていた。それで、今回、マンションを整理するにあたり、人形の作品を全て自分の家に運んで、カタログを含めて整理することにした。運んだ作品は全部で39点。押入に無かった作品も含め、兄嫁の活動を整理した。

マンションを整理していたとき、略歴というメモを見付けた。たぶん2002年に正会員になるときに作ったメモだろう。名刺も見付かり、そこには「日本工芸会 正会員」とあった。
これをNetで色々と調べてみた。

日本工芸界のHPによると、こうある。
「日本工芸会とは、文化庁の外郭団体の一つで、秋に開催される日本伝統工芸展を主催している組織です。重要無形文化財保持者(通称:人間国宝)を中心に、北は北海道から、南は沖縄まで、さまざまな分野の工芸作家約2,700名が在籍しています。」
「正会員2名の推薦があれば研究会員になることができます。日本伝統工芸展に1回入選すれば準会員に推挙され、延べ4回入選すれば正会員に推挙されます。」
「下部組織として全国9支部(東日本・東海・富山・石川・近畿・中国・山口・四国・西部)を置いて、毎年その地方の特色を生かした支部展を開催しています。
又、伝統工芸の専門分野別の組織として全員を7部会に分け、(陶芸・染織・漆芸・金工・木竹工・人形・諸工芸)分野毎の年一回の部会展を開催しています。」ここより)

つまり、本展と言われる「日本伝統工芸展」の下に、地方組織として関東以北の「東日本支部」、そして専門分野別の「伝統工芸人形展」という3つの展覧会で兄嫁は活躍していた。
リストを作って分かったが、1997年に本展に初入選して準会員になり、2002年に正会員になっていた。そして4回で正会員になる所、11回も入選しており、東日本では15回、人形展では10回。分かっただけで、36回も入選していた。
そして兄が言っていたように、選ばれる側から選ぶ側になったときにガンになった、と・・・。
リストのように、2010年に東日本の鑑審査委員になっていたが、その翌年の2011年に亡くなった。東日本の2011年の展覧会は、4月だったので、まさに入院していた時だった。
190326hana 最も輝いたのが、2004年に朝日新聞社賞に輝いた「華」という作品で(ここ)、新聞にも載った。この作品は自分が貰うことにして、我が家に飾っている。

★人形作家・松井美智の「日本伝統工芸展 入選作品」「日本工芸会東日本支部 伝統工芸新作展/東日本伝統工芸展 入選作品」「伝統工芸人形展 入選作品」の記録PDFはここ

まさに、兄が言っていたように、人形作家・松井美智の作品について、たまたま通夜に来ていた女性3人に弟が声を掛けて、作品を貰って貰えることになった。
一人は兄の秘書として15年支えてくれた方、そして直近の秘書だった方、そして事務所の同じビルの隣の部屋の法律事務所の事務員を、兄嫁が秘書をしていた時代も含め30年近くやっている現役の方。
特に法律事務所の方は、事務所におひな様の人形を飾ってくれると言っていた。その3人の他に、自分の友人が貰ってくれた。皆、伝統工芸展について知っており、兄嫁の作品を高く評価してくれた人たちだった。

作品はどれも、展覧会から戻ってきたままの姿で保管されていた。入選すると、全国で展覧会が開催されるが、そこから作品が戻って来ても、次の作品作りにかかっており、そのまま押入に仕舞われたと思える。

貰って頂けた人には、兄が言っていたように、入選作品の写真が載った展覧会のカタログと一緒に貰ってもらえたので、作品の価値(入選作)が分かって頂けたと思う。(Netには(ここ)のような作品もあった)

自分は、人間の死には二つある、という考え方が好き。つまり、人間の死の一つ目が肉体の死、そして二つ目が、皆の記憶から忘れ去られたときの死。
今回、押入にしまわれていた兄嫁の作品が、あちこちに飾られることになった。それはすなわち、兄嫁が記憶の上で、長くここの世に生き続けると言うこと。それは、取りも直さず、兄も一緒に記憶の上では生き続けることになるのではないかと思ったから。

2011年に兄嫁の人生が終わり、その8年後に兄がそのあとを追った。
二人の人生に、改めて思いを寄せた。人形作家・松井美智が、Net上だけでも、長く記憶に止まることを祈って・・・

(関連記事)
兄嫁の見事な死にざま・・・・  
喪主として兄を送った言葉 
リビングウィルの病院現場での体験 

|

« 新聞で「取り上げない」というリスク | トップページ | WiMAXにつないだ話 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 新聞で「取り上げない」というリスク | トップページ | WiMAXにつないだ話 »