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2018年3月24日 (土)

東京大空襲「戦争孤児11人の記憶」~星野光世さんの話

先日、NHKラジオ深夜便で「“戦争がうんだ子どもたち”の物語 元戦争孤児の会会員 星野光世」(2018/03/15放送)を聞いた。
死者10万人以上、被災者100万人という昭和20年(1945年)3月10日の「東京大空襲」などで、両親を亡くし、孤児となった人たちの体験談である。その悲惨さは、決して忘れてはならない日本の歴史である。番組を少し聞いてみよう。

<戦争がうんだ子どもたちの物語 星野光世>

戦争孤児については、古希の自分たち以上の年代は、少なくてもその存在は知っている。しかし、今の若い親たちは、どの位知っているのか・・・。50代以下の人たちは、既に過去の話で忘れ去られているのではないか。それに警鐘を鳴らしたのが星野さん。
180324hoshino この放送で紹介されていた星野光世著「もしも魔法が使えたら 戦争孤児11人の記憶」という本を、さっそく近くの図書館で借りてきた。易しい文章とたくさんの鉛筆画で描かれている世界は残酷な現実であり、これらをもたらす戦争を決して繰り返してはならない、と教える。

星野さんは、「はじめに」でこう語る。
「はじめに
 ある大学教授が、ひとりの学生に「真珠湾って、どこにあるか知っているかね?」と尋ねたときのこと。少し考えてからその学生は、「三重県です」と答えたといいます。
 この記事を、数年前に何かで読みました。
 大勢の若者の命が戦場で散っていったあの戦争。310万人という犠牲者を出し、日本中をガレキの山と化したあの戦争も、今では忘れ去られようとしています。
 「おじいちゃん、おばあちゃんが子どものころ、この日本の国でこういうことがあったんだよ」
 戦争に翻弄されながら生きてきた大勢の戦争孤児の実態を、今、書き留めておきたい……。そんな思いから、絵を学んだことのないわたしですが、この本作りを思い立ちました。
  戦争が始まると、その国の子どもたちの身の上にどんなことが起こるのでしょうか。先の戦争で生じた、12万3500人あまりという戦争孤児(1948年厚生省調査・沖縄県を除く)は、その後、どんな道を歩んできたのでしょうか――。
  ここに登場する子どもたちのお話は、作り話ではありません。わたしたち孤児の体験をもとにつづった本当の話です。戦争で親が死んでしまったあと、子どもたちはどのように生きてきたのでしょうか。必死に生きた、その姿を追ってみました。  星野光世」

この本に書かれている体験は、短いものでは1頁数行しかない。しかし全ての作品に共通していることは、両親を失った子どもたちは、両親の実家などに引き取られるが、そこでのイジメと、奴隷のようにこき使われる姿。もちろん学校にも行かせて貰えず、「人買い」に売られていく子どもたちも。
東京に逃げても、上野駅で浮浪児となり、生きる為に食べ物を盗み、自治体による「狩り込み」でトラックに乗せられて行った先は、田舎の山の中。そこに捨てられて死んでいった子どもたちはどの位居たのか・・・

何とか生き延びたとしても、浮浪児だったという辛い過去を引きずって生きるしかない人生。
この星野さんではないが、別の終戦時15歳だった女性は、体験談をこんな言葉で結ぶ。
「・・・・ わたしは23歳で結婚しました。
 45年間添い遂げ、夫は17年前に旅立ちました。とても優しい人でした。
 でもわたしは、その優しかった夫に、浮浪児だった過去を最後まで打ち明けることができませんでした。夫の心変わりが怖かったのです。
 「お父さん、ごめんなさい。結婚する前、東京の上野で、浮浪児生活をしていた過去を、とうとう隠し通して……」
 呼吸が止まった瞬間、わぁっと泣き伏し、優しかった夫に謝りました。」

ふと、今の日本、世界を思い浮かべる。すると、これらの話が過去の話では無い事に気付く。中東などでは、今でも爆弾が落ち、人が死に、子どもが運良く助かっても、その後の過酷な人生が待っている。そして日本でも、親に捨てられ、施設で育つ子も多い。いかに、両親がそろって普通に食事が取れる生活が恵まれているか・・・

しかし今の日本は、70年も守ってきた平和憲法が「自民党憲法改正推進本部が安倍晋三首相の9条改正案に沿った方向で取りまとめる方針を決めたことについて、23日に開かれた同党総務会では、「拙速」との批判が相次いだ。
 前日22日の推進本部全体会合では、反対論も残る中で細田博之本部長が今後の対応を自らに一任するよう求めて押し切った。」(
2018/03/24付「朝日新聞」より)だって・・・・。
国民の最も大切な財産である平和憲法の改定を、自民党の誰かに「一任」だって・・・。そんなころ出来るワケがないのに・・・
一方、東京都では、デモなどの市民活動や報道への規制の懸念がある都迷惑防止条例の改正が成立。数の力で、自由が制限されつつある。

おっと話がそれた。
悲惨な体験談と優しい絵。子どもたちへ、と作った本だが、ママさんたちに多く読まれているという。たぶん良書として近くの図書館にあるはず。ぜひ一度手に・・・
著者の言うように、自分も「おじいちゃん、おばあちゃんが子どものころ、この日本の国でこういうことがあったんだよ」ということを子どもたちに伝えていきたいと思った。

最期に、著者の体験談を少し読んでみよう。
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疎開したおわん
   星野光世(終戦時11歳)

 わたしは、東京都本所区で生まれました。今の墨田区です。本所区菊川町で、家はおそば屋さんでした。お店は、ちょうど深川区(今の江東区)との境で、目の前を都電が走る繁華な街でした。場所にも恵まれ、店はいつも忙しく活気づいていました。
 家族は両親ときょうだいが4人。いとこのお兄さんたちが3人、お店で働いていましたので、わたしは大家族の中で育ちました。
 お正月には、妹とふたりで家の前で羽根つきをしました。
 わたしは回転象さんが大好きでした。デパートへ連れていってもらったときは、いつも乗せてもらいました。本物の象さんのように大きな木造の象さんです。デパートのおねえさんに乗せてもらうと音楽が流れ、上下に浮き沈みしながら、ゆっくり回る象さんです。これに乗るのが、わたしはとても楽しみでした。
 今のようにテレビもゲームもない時代です。子どもたちは毎日真っ暗になるまで外で遊びました。よく見かけたのは、男の子たちが真剣にベーゴマやメンコ打ちをする姿です。お侍さんの格好をして、チャンバラごっこもやっていましたね。
 女の子たちは、夢中になってお手玉やまりつきをして遊びました。
 やはり戦争中です。まりつきの歌も兵隊さんを歌った威勢のいい軍歌でした。そのほか、「カイセン・ドン」「かごめかごめ」「どこ行き?」「見ーえた見えた」など暗くなるまで夢中で遊びました。

 1941年12月8囗、真珠湾攻撃。ついに日本はアメリカを相手の戦争に突入しました。

 子どもたちは、戦争とは兵隊さんが、はるか遠い戦場で戦うものだと思つていましたが、そうではなかったのです。日本軍は中国や東南アジアなどで戦争をしていました。やがてアメリカは、わたしたちの住む街や村へ飛行機から爆弾を落とし、日本の国内が戦場となったのです。

 アメリカは、3年の歳月と30億ドルともいわれる莫大な費用をかけて、日本に爆弾を落とすためB29という爆撃機を完成させました。全長約30メートル、全幅が約43メートルという巨大な爆撃機です。このB29は、焼夷弾という爆弾を積み、日本に向けて飛び立ちました。日本の大きな都市は、B29による爆撃の危機にさらされることになったのです。
 この爆撃=空襲を避けるために、大都市に住む3年生から6年生までの小学生を、安全な農山村へ移動させる「学童疎開」が始まりました。
 学童疎開は、ふたつにわかれていました。
 縁故疎開……田舎の親戚や知人を頼って家族で移動すること。
 集団疎開……学校ごとに集団で地方へ移動すること。
 疎開ができない、残留組をどうするかという問題もありました。体が弱い、お金がないなどの理由で学童疎開に参加できない児童もいたのです。

 学童疎開が始まると、子どもたちの姿が都会の街から消えてしまいました。
 子どもたちの安全を考えた、この学童疎開が、やがて多くの戦争孤児を生みだす原因となりました。都会に残った親が空襲で亡くなり、疎開をしていた子どもだけが残されてしまったからです。

 戦争が日増しに激しくなり、わたしは中和国民学校のお友だちといっしよに集団疎開に行くことになりました。疎開先は千葉県君津郡小糸村にある天南寺というお寺です。
 いよいよ集団疎開に行く朝を迎えました。8月の暑い囗でした。
 家の前で、母が「学校まで送っていこうか?」 といってくれました。
 「いい、こなくても。そんな大きなお腹をして」と断ったその言葉が、母と交わした最後の言葉になってしまいました。そのとき、わたしの母は、もうすぐ赤ちゃんが生まれる大きなお腹をしていたのです。
 天南寺でのわたしたち5年女子の担任は、湯沢とき子先生。若いピチピチした先生でした。
 先生は、まずわたしたち児童を4つのグループに分け、「小隊」と名付けました。その小隊をふたつずつまとめて「中隊」とし、最後に総括して「一個大隊」と呼びました。
 さすが戦争中、軍隊と同じ呼び方です。

 そんなある日のこと、お寺の庭に、空から燃えかすのようなものが大量に降ってきました。わたしたちはみんな境内に出て、あとからあとから降ってくる燃えかすを見上げていました。大きいものから小さいものまで、空を覆うほどの大量の燃えかすです。
「これはいったい、なんだろう?」
 わたしたちは何もわからないまま、空から降ってくる大量の燃えかすを、ただ眺めていました。

 その日から、いく日が過ぎたでしょうか。ひとりの男の人がお寺にやってきました。顔半分にやけどを負って、焼け焦げた服を着たその人は、わたしたちの仲間、山田和代さんのお父さんでした。
 和代さんのお父さんは、わたしたちの生まれ育った東京の街が3月10日の空襲で、すべて燃え尽き、焼け野原になってしまったことを話してくれました。
 あの日、お寺の庭に大量に降ったものは、東京から飛んできた街の灰だったのです。
180324sensoukoji  背中に火が燃え移って倒れる人。
 焼夷弾の直撃を受けて火だるまになる人。
 道路が逃げ惑う人であふれる中、アメリカ軍は容赦なく焼夷弾を落としました。

 道路は黒焦げの死体で埋め尽くされ、防火用水の中には、火に追われた人たちが頭からつっこんで、真っ黒に燃え尽きていたそうです。

 3月10日からしばらくすると、千葉に疎開しているわたしたちのもとへ、空襲で生き残った家族や親戚が、子どもを迎えにくるようになりました。
 伊藤雅子さんのところへは、親戚のおじさんが迎えにきました。雅子さんは、ご両親もたったひとりのお姉さんも空襲で亡くなり、ひとりぼっちになってしまいました。
 雅子さんの立派なお家に何度か遊びに行きましたが、勉強やピアノを教える芳子さんという若いきれいなお付きの人がいました。お嬢様だった雅子さん……、おじさんに連れられてお寺をあとにする後ろ姿がいまだに忘れられません。
 鈴木弘子さんのところはお母さんが迎えにきました。最高に幸せです。
 でも、かわいかっていた妹が空襲で亡くなったと聞かされ、お母さんのひざに泣き伏しました。その夜、お母さんはお寺に泊まられました。夜のお別れ会で弘子さんはお得意の「松づくし」を上手に歌いました。
 弘子さんの家は、本所の酒屋さんでした。遊びに行ったある日のこと、「お母さんが弘法大師を尊敬していたので、わたしは弘子という名前になったのよ」と、命名の由来を話してくれました。

 生徒の半数くらいがいなくなったころ、わたしのところへ母方の伯父が迎えにきました。
 伯父は、わたしの顔を見るなり、「お父ちゃんもお母ちゃんも死んじゃったよ」というのです。
 でも、そう聞かされても、不思議と悲しみもわかず、涙も出ないのです。それはきっと、両親が亡くなって、親戚と寂しそうにお寺を去っていく仲間たちを何人も見ていたからかもしれません。
 そのとき、わたしが感じたことは「ああ、とうとう自分の番がきた」、それだけでした。

 わたしの家では、父と母と兄と妹の4人が亡くなりました。
 わたしが集団疎開したあと、東京には父と旧制中学に通っていた兄のふたりだけが残りました。兄は体が大きく親分肌で、よくケンカをして父から叱られていました。
 母はふたりの妹と弟を連れ、千葉の実家に疎開しました。しかし、父が病気で入院したため、まだ赤ちゃんだった下の妹をおぶって上京し、数日後、大空襲に遭遇したのです。
 あの夜、猛火の中をどの方向に逃げたのか、どこで息が絶えたのか、4人の遺体は見つかっていません。

 残されたのは、11歳のわたしと、8歳の妹と、4歳の弟の3人だけです。

 このとき妹は、「これからは何かあっても、お姉ちゃんから離れるまい」と決心したそうです。
 わたしは、まず弟と妹のいる千葉の母の実家に連れていかれました。

  2か月後には、妹と弟といっしょに新潟の父の実家に移ることになりました。その途中、乗りかえの両国駅からわが家のあったところまで連れていってもらいました。
 1945年5月でした。
 3月10日の大空襲から、わずか2か月しかたっていません。集団疎開先のお寺で思った、あれほど帰りたかった東京の家は、むざんなガレキの山になっていました。
 ふと足元を見ると、わたしが2階の机で使っていた電気スタンドが、燃え尽きずにみどり色のまま転がっていました。

 初潟の父の実家での生活は苦しいものでした。大黒柱の叔父は兵隊に取られており、年老いた祖母と、幼い子ども3人を抱えた若い叔母が、わずかな田畑で農業をやっていたのです。
 その貧しい暮らしの中、わたしたち3人が増えたので、それはもう大変でした。
 三度の食事はお湯の中にご飯粒がほんの少し浮いているだけ。ご飯を食べるのに箸がいらない、ただ飲むだけのご飯でした。そのうえ、わたしは祖母から毎日怒られていました。
 3人きょうだいで、わたしがいちばん上でしたから、朝から晩まで、わたしのことばかり怒るのです。とっても怖いおばあさんでした。

 ある日、隣村の叔父が「今夜ひと晩だけ、叔父さんの家に泊まりにこないか」と、わたしたち3人を迎えにきました。この叔父は、東京の家にときどききていましたのでよく知っています。わたしたちは喜んで叔父についていきました。
 隣村といっても、険しい山をいくつも越えて、夕方やっと叔父の家に着きました。そこには、すごいごちそうが用意されていたのです。わたしたちはびっくりしました。お砂糖もない時代でしたが、大きなお皿におはぎが山盛りです。妹も弟も大喜びです。
 久しぶりにお腹いっぱい食べて、ホッとしていたとき、わたしは叔母に呼ばれました。叔母は、わたしの父の妹です。
 叔母は、突然こういいました。「今日からおまえたちは、ここの家の子になるんだ」と。
 わたしは、この言葉に強いショックを受けました。ひざに抱かれている赤ちゃんを含めて、叔母の家には6~7人の子どもたちがいたからです。
 ここの家の子になれといわれても、こんなに大勢子どもがいるのにわたしたちを本当に育ててくれるのだろうか。
 それなら、なぜひと晩だけといって、わたしたちを連れ出したのか。
 わたしたちは、だまされて叔母の家に連れてこられたのです。
 まただまされて、どこへ連れていかれるかわかりません。
 知らない遠いところへ連れていかれ、きょうだい3人バラバラにされ、二度と会えなくなってしまうかもしれない。「そうなってからではもう遅い」と思いました。
 学校へ行かれなくてもいい、ご飯が食べられなくてもいい、このままこの家にいたら、今よりも、もっともっと苦しみが襲ってくるに違いない。
 「そうだ、この家から逃げるしかない!」
 わたしは、眠れないふとんの中で心を決め、翌朝すきを見て妹と弟を連れ、叔母の家を逃げ出しました。夢中で走りました。
 「ここまでくれば大丈夫、もう誰も追いかけてこない」
 暗い森の中を走り抜けると、そこはまぶしいほど明るい山頂でした。8月だというのに、さすが新潟、あちこちに雪がいっぱい残っています。ふと足元を見ると清水がポコポコ湧き出ています。
 「あっ、昨日叔父さんと水を飲んだところだ!」妹と弟が叫びました。
 ……そうです、道は間違っていなかったのです。まずはホッとして、3人で蕗(ふき)の葉をコップがわりに冷たい清水を飲みました。そのとたん、今までこらえていた悲しみが、ドーツと噴き上げてきました。
 逃げてはきたものの帰る家がない。
 すがりたい父も母も、もういない。
 「お父ちゃん、お母ちゃん、どうしてわたしたちを残して死んじゃったの……」
 どうしたらいいかわからない苦しさに、とうとう泣けてきました。
 妹も声をあげて泣きだしました。
 何もわからない4歳の弟の目にも、涙がいっぱいでした。
 両親の死を聞かされたときも、ガレキの山となったわが家を目の前にしたときも泣くことのなかったわたしが、このときばかりは、両親のいない悲しみがこみ上げてきて、ついに泣いてしまったのです。
 ……やがて、わたしたちは気を取り直し、また山を下り始めました。
 知らない山道をさ迷いながら、夕方やっと祖母の家まで戻ってきました。

 「なんだ、おまえたちは!」
 祖母は大声でどなりました。
 いなくなったはずの3人が目の前に立っていたので、びっくりしたのだと思います。どんなに怒られても、わたしたちは祖母の家しか帰る場所がなかったのです。黙ってうなだれている3人を見て、祖母は「逃げてきた」と察したのか急に声を落とし、優しくなりました。
 「そうか、お父ちゃんの生まれた家がいちばんいいのか。さあ上がれ」
 わたしたちを部屋に上げると、「朝から何も食べていないんだろう」といいながら白いご飯を出してくれました。

 ふと見ると、祖母はわたしたちに背を向けて泣いているのです。
 わたしは胸がいっぱいになりました。
 逃げてきた3人を、ひとこともとがめず、涙で受け入れてくれたのです。怖かった祖母も、本当は心の優しい人だったのです。辛く当たっていた祖母自身が、わたしたち以上に辛い思いをしていたのかもしれません。

 1945年8月15日、やっと戦争が終わりました。
 日本は戦争に負けたのです。

 戦争が終わって2か月ほど過ぎたころ、兵隊に行っていた叔父が帰ってきました。しかし、生活はすぐには楽にならず、わたしたち3人は別れて暮らすことになりました。わたしと妹のふたりが、1年間だけという約束で母の郷里の千葉へ戻ることになり、弟ひとりがそのまま新潟に残ったのです。

 千葉に旅立つその日。わたしと妹は、朝暗いうちに起こされ、眠っている弟を置いたままそっと家を出ました。
 最初は1年間という約束だったのですが、2年たち、3年が過ぎ、結局そのまま10年が過ぎてしました。
 「あのとき、弟も連れていくと、なぜいえなかったのか」
 年を追うごとに、わたしの後悔の念は募りました。
 4歳だった弟は、歳月が過ぎるとともに、わたしと妹のことは忘れてしまい、育ててくれた叔父、叔母を本当の親だと信じて育ち、いっしょに育ったいとこたちをきょうだいだと思って育ったのです。

 わたしと妹が引き取られた伯父の家は米作りの大農家で、おじさんや、おねえさんたちが住み込みで働いていました。当時は今のように機械化されておらず、なんとしても人手が欲しかったのです。
 わたしは中学2年のころから、農繁期になると1か月近く学校を欠席して農作業を手伝い、義務教育すら思うように受けられませんでした。しかし、両親が亡くなった時点で学業をあきらめていたわたしは、通学している友人を見ても、うらやましいとも思わず、ひたすら農作業に精を出しました。
 大自然の中で思いっきり汗を流したおかげか、弱々しかったわたしの体は見違えるほど丈夫になりました。農作業がわたしに合っていたのかもしれません。
 20歳になるころから、ぽつぽつ農家から結婚話がくるようになりました。
 自然を相手にする農業は大好きでしたが、わたしはこのまま農村で一生を終えたくありませんでした。
 「どうしても生まれ故郷の東京が恋しい……」
 今まで農業を手伝ってきたのは、戦争で親が亡くなったあと育ててもらった「恩返し」です。お嫁に行く年齢になれば、そこで初めて「自分の人生を生きる」自由が許される。わたしはその日のくるのを待っていました。
 しかし周囲は猛反対。当時まわりには、東京へ出て働く農家の娘はひとりもいなかったのです。ずいぶん反対されました。

 上京にいちばん反対したのは、わたしたち姉妹を育ててくれた伯父でした。伯父には実の子がいません。わたしをそばに置いておきたいという思いは痛いほど伝わってきます。
 ある日の夕方、薪をくべて風呂を沸かしていると伯父がきて、いいました。
 「おまえは、小さいときから体が弱かった。こうして空気のきれいな田舎で暮らしているから丈夫でいられるんだ」
 なんとしても東京行きを断念させようと、伯父は必死でした。しかし、わたしの心は固かったのです。そんなわたしに伯父は「大海のボート」といい放ちました。
 伯父の言葉にそんな自分の姿を思い浮かべました。どこへやどりつくの、いつ転覆するかわからない前途多難な航海、その運命にあえて挑戦しようとするわたしに、伯父は「日本一の強情っ張り」といってさじを投げたのです。
 戦争で両親を亡くして親戚の家を転々とし、どこにも行き場のないわたしたちを温かい心で救ってくれた優しい伯父。その伯父の思いを叶えて、地元で嫁いで喜んでもらいたい気持ちも一方にはありました。
 しかしわたしは、どうしてもこのままこの地で一生を終えたくなかったのです。

 とうとう、わたしは自分の初心を貫きました。
「東京へ行ってもいい」といわれたときのことは、今も忘れられません
「バンザーイ」
 両手を思いっきり伸ばし大空に昇っていきたい……。
 そんな心境でした。
 今日は最後の草刈りです。
 鎌と砥石を持って――。

 上京する日がやってきました
 新潟の叔父が千葉まで、わたしを迎えにきてくれました。
 途中、母方の祖母の家に挨拶に寄ると、米寿を過ぎた祖母は、わたしの手をしっかりと握り、「働けよ、働けよ」と力を込めて何度も繰り返すのです。ほかのことは何もいいません。おそらく、長年苦労した人生の中から出た言葉が、わたしに贈る、この「働けよ、働けよ」という言葉だったに違いありません。
 その夜、叔父といっしょに東京の錦糸町駅に降り立ったとき、まばゆいばかりのネオンの美しさにびっくりしました。
 しかし、その美しさに陶酔する心の余裕はわたしにありませんでした。「そうだ、この東京のネオンを、心から『きれいだな』と思えるようになるまでがんばろう」と固く心に誓いました。

 上京して最初に向かったのは葛飾に住む伯父の家です。この伯父は、父の姉のご主人です。建築業を営んでいて、新潟の叔父の長男はそこで働いていました。部屋に上がり挨拶をすると、伯父は開口一番、「空襲で両親が亡くなったとき、わたしは兵隊に行っていてなんの力にもなれず、本当に申し訳なかった」とわたしに謝ったのです。
 わたしはびっくりしました。今まで親戚から冷たくされることが多かった中で、伯父の温かいこの言葉がジーンと胸にしみました。
 葛飾の伯父と新潟の叔父は、実の父親のように力になってくれました。

 上京して初めての仕事は、伯父のお世話で、葛飾区内のお肉屋さんの店員でした。初めての就職、やっと自由になれた身。しかし、それまでの田畑を相手の仕事から連日大勢のお客を相手の仕事に変わり、ただただ一生懸命に働く毎日でした。当時はまだ、スーパーマーケットなどない時代でしたので、小売店はとても忙しかったのです。
 葛飾の伯父も新潟の叔父も、ときどきお店に顔を出してくれました。お肉屋さんのご主人から、「あなたは親がいなくても、いいおじさんたちがいていいなあ」といわれたことがあります。
 初めてのお給料日がきました。
 住み込みで1か月3000円。ご主人から初めてお給料袋を渡されたときにいわれた言葉が忘れられません。
 「人間は一生の間に、お金がいくらあっても足りないときが必ずくるんですよ。貯金しておきなさい」と。
 こうしてわたしの東京での生活はスタートしたのです。

 心がへなへなとくじけそうになったときに、力をくれたのは、上京する際に渡された一通の封書でした。千葉の同じ集落に住んでいたいとこ、源作兄さんからの贈り物です。
 源作兄さんは、もともと東京の深川に住んでいて、本所のわたしの家にときどききていました。戦後、朝鮮から引き揚げてきて、わたしの両親が空襲で死んだことを知ったそうです。
 封書の中の便箋には、漢詩のような格言が書かれていました。
 難しくて、わたしには大まかにしか理解できなかったのですが、「世の中を生きていくうえで、どんな事態にぶつかっても、心を鍛えながら乗り越える力を与えてくれる格言」だとわかりました。
 詩の末尾に「結果は自然にくる」と書き添えてありました。そして最後に「貴妹の上京に際し、右の詩を贈る。健康を祈る」と結ばれていました。
 贈られたこの詩が、心がくじけそうになったとき、どんなに力になってくれたかわかりません。今もって、わたしは源作兄さんを「心の兄」と慕っています。

 うれしい再会もありました。
 新潟の叔父から連絡があり、置いてきてしまった弟と会わせたいというのです。4歳だった弟も、義務教育を終え東京に就職が決まったとのことでした。
 11年ぶりに見る弟。
 「こんなに大きくなって……」
 がっしりした体格は母親ゆずり、幼いころの面影も少し残っています。
 4歳のとき、目ざめた弟は突然姿を消した姉たちを探して、大声で泣きわめいたに違いありません。しかし、弟は長年の別離などまるでなかったかのように、すぐにわたしになついてくれました。目に見えない血のつながりに導かれるように、その溝はすぐに埋まったのです。
 住み込みでの店員などを経て、わたしは墨田区内の建設事務所に勤めることになりました。この事務所仲間の紹介で、茨城県出身の星野光江さんとふたりでアパート暮らしを始めました。一字違いの名前は偶然です。四畳半ひと間に流し台つきで1か月3500円の部屋代でした。1960年ごろのことです。
 光江さんは生まれてすぐに母親が亡くなり、母親の顔を知らずに育ったそうです。性格はとても穏やかで仏様のような人と聞いていましたが、本当にそのとおりの人でした。光江さんとの暮らしは、わたしが28歳で結婚するまで4~5年続いたでしょうか。

 わたしは生まれながら新潟に縁があるようです。父も新潟生まれで、結婚相手も新潟の農家出身のいす作りの職人さんでした。
 結婚式はごく簡素に、夫の郷里の新潟で挙げました。夢だった花嫁衣裳ではなく、実際は振袖でしたが、わたしはとてもうれしかったのです。式のあと、夫側の親戚が「あの嫁さん、どこの馬の骨や……」と小さな声でささやいていたという話を聞きました。結婚のときに、このような心ない言葉を浴びせられたのは、わたしだけではなく何人もいたということを、ほかの戦争孤児の証言記録などから知りました。
 誰が好き好んで孤児になったというのでしょう。蔑まれるべきは、残された子どもではなく、親を奪った「あの戦争」ではないでしょうか。
 17~18歳のころだったでしょうか。「どんな結婚を望んでいるの?」と聞かれたわたしは、
 相手は「何もない人、裸一貫の人がいい」と答えたことがありました。たとえ苦労をしても自分の力で自由に生きたいわたしは、ゼロからスタートしたかったのです。
 夫は無欲の人でした。打算的なところがまったくない珍しい人です。何度も大病はしたけれど心はつねに晴天そのもの。すべて自分の思いを貫き通し、自由に生き、今から10年前に亡くなりました。
 亡くなったあと、夫を漢字一文字で表すと……と考えたことがあります。浮かんだのは
 「無」の文字でした。
 夫は、「無」の字がぴったりな、本当に無欲の人でした。
 わたしは、書家に「無」と書いてもらい、新しく建てたお墓に彫っていただきました。

 今から20年ほど前、葛飾に住むいとこのお姉さんから宅配便が届きました。直径10センチ、長さ25センチほどの筒状の包みです。
 「いったいなんだろう?」
 開けてみると、中からは幾重にも重なったおわんと、添え書きが出てきました。
 「地下をかたづけていたら『本所 わん』と書かれた箱が出てきました。戦時中あなたのご両親がわが家に預けたのだと思います。おわんは漆塗りです。ご両親の形見だと思って大事にしてください

 葛飾のいとこのうちは当時、田んぼの中にポツンと建っていて、本所のわたしの家より安全でした。太平洋戦争中、日増しに激しくなる空襲を避けるため、父が店用のおわんを「疎開」させていたのでしょう。

 50年ぶりに手にする両親の形見。
 すべて燃え尽きて、何もかもなくなってしまったわけではなかったのです。
 疎開して生き残った、わたしたちとおわん。わたしは、このおわんを妹と弟にも分けて送りました。
 ちょうど3月10日も近い、春の日のことでした。」(
星野光世著「もしも魔法が使えたら~戦争孤児11人の記憶」より)

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コメント

昭和15,6年生まれの人までは、あの空襲警報の不気味なサイレンの音を覚えていると思います。地の底から響くようなウーウっと鳴る音は忘れられません。急いで防空壕に入る。中は真っ暗でカビの臭いがする。どうやら両親が疎開をしないと危ないと思ったらしく、私たちは親せきを頼って山里に疎開をしました。その10日後に浜松大空襲があり市街地はほとんど焼き尽くされました。山の間から真っ赤な炎が見えました。父と姉と兄2人が家に残っていましたから、母は次の日実家を見に行きました。
家は焼けていたけれども皆、逃げて無事でした。姉は猛火の恐怖でもう死んでもいいから逃げないといって座り込んでしまったと言いました。兄が無理やり手を引っ張って逃げたそうです。もし疎開しなかったら私たちは生きていなかったと思います。親は食べ物がない苦労を2,3年味わったと思います。皆栄養失調でした。孤児になった人たちはどんなにひもじい思いをしたことかと思います。皆、栄養失調でしたから、軽い病気でも体力がないために死ぬ子供が多かったですね、
大人も結核患者がいっぱいいました。何とかこの年まで生きてこられましたが、ひとたび戦争が始まればもう生き物は生きていられないでしょうね。兵器が違いますからね。地球上で一番愚かで獰猛な生き物は人間だと思っています。地球がブラックホールに吸い込まれる前に、人類は殺し合いで亡くなってしまうと私は考えています。科学は発達しても人を殺す快感を持った人が政治家になればひとたまりもありません。戦争屋がいる限りこれは真実になっていくかも.。空想科学小説ではなくなります。何人かの顔が浮かんできませんか。

【エムズの片割れより】
上の本でも、防空壕から先に出された子どもだけが生き残って、脱出が遅れた両親が亡くなった話が出て来ます。
白萩さんも、防空壕の体験者でしたか・・・
ふと、親父が「戦争のことを考えると、他のことは何でもない」と言っていたのを思い出しました。
戦争は悪だと、皆が思っているのに、なぜ世界から戦争が無くならないのか?
戦争好きなリーダーが居る限り、無くならないのかも・・・。人類の破滅まで・・・

投稿: 白萩 | 2018年3月25日 (日) 09:38

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