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2018年1月 4日 (木)

映画「クワイ河に虹をかけた男」が語るもの

スカパー「日本映画専門チャンネル」で放送された「クワイ河に虹をかけた男」を見た(2017/12/29放送)。
太平洋戦争中、タイで日本軍の犯した数々の罪に対し、ひとり贖罪の訪問を続けた夫婦のドキュメンタリーである。

スカパーの解説にこうある。
「クワイ河に虹をかけた男
太平洋戦争下、日本陸軍によって建設されていたタイとビルマ(ミャンマー)を結ぶ泰緬鉄道。「死の鉄道」と呼ばれた鉄道の建設時に、タイ側の拠点に陸軍通訳として派遣され、戦後、その贖罪と和解に生涯を捧げた永瀬隆を追い続けたKSB瀬戸内海放送製作のドキュメンタリー映画。
180104nagase 多くの連合国軍捕虜やアジア人が動員された建設工事で、永瀬は強制労働、拷問、伝染病死など悲劇の全容を目の当たりにする。戦後、鉄道建設犠牲者の慰霊と、復員時に日本軍12万人全員にタイ政府が「米と砂糖」を支給してくれた恩義に報いようと、一般人の海外渡航が自由化された1964年から妻の佳子と二人三脚で巡礼を始める。1976年にはクワイ河鉄橋で元捕虜と旧日本軍関係者の和解の再会事業を成功させ、86年にはクワイ河平和基金を創設するなど、「ナガセ」の名は欧米でも知られる存在となる。タイ訪問を135回も続けた彼が目指した”和解”とは―。」(
ここより)

この番組についてはWIKI(ここ)に詳しい。
「このシリーズは第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)時における泰緬鉄道建設の現場に大日本帝国陸軍の通訳として居合わせ、捕虜への苛烈な虐待と労働強要の現場を目にするとともに、戦後においては連合軍が行った捕虜墓地捜索隊に参加し、のちにタイのカーンチャナブリー県において泰緬鉄道建設犠牲者の慰霊と、同域周辺の社会活動(奨学金など子どもが中高等教育を受けるための補助制度の創設、無医村群に対する無料巡回医療活動の支援、寺院に対する孤児院創設および同施設運営の支援など)に身を投じた英語教師である永瀬隆の半生、特に最晩年の20年間に密着したドキュメンタリー作品群からなる。・・・」(ここより)

そして「泰緬鉄道」とは・・・
(ナレーター)<太平洋戦争の初戦の勝利で、日本はアジア太平洋の広大な地域を手に入れました。ビルマを占領した日本軍はインド攻略をうかがいます。しかし、ミッドウェイ海戦を境に連合軍に制海権を奪われ、海上輸送路は早くも危機に。代わって陸上輸送路を確保しようと1942寝円6月、タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の建設を命じました。建設工事にはシンガポール、ジャワ方面で投降したイギリス、オーストラリア、オランダなどの連合国捕虜6万2000人と、現地労務者25万人を動員しました。ルートの大半は山岳地域のジャングルでした。食糧や医薬品の不足に加え、赤痢やコレラ、マラリアなどの疫病が蔓延します。全長415キロの鉄道は1943年10月、着工から僅か1年4ヶ月で完成。しかし、捕虜1万3000人、アジア人労務者数万人が犠牲になり、「死の鉄道」をして悪名をとどろかせることになったのです。>

この映画で、印象に残った言葉をメモしてみる。
(ナレーター)<1946年タイから復員する日本軍はビルマ方面から撤退してきた部隊を含めて12万人に膨れあがっていました。タイ政府はそのひとりひとりに、はんごう1杯の米と中蓋1杯のザラメ砂糖を支給してくれました。>
(永瀬)「4年も5年も日本軍の下で苦しんだタイの政府、人民は自分の国を占領同様にした国の兵隊が敗れて帰るときに、その兵隊たちが腹が減るだろういうて、そこまで心配してくれとるんですよ。僕はこんな国はないと思うんですよ。」
<この秘話を永瀬さんに教えたのはバンコクの終戦司令部で共に仕事をした永井明雄海軍少佐でした。>
「タイの政府といろいろと交渉しよったのね。連合軍の方に対してですね、こっそり日本国にお米をやったり砂糖をやったりということは、ちょっと考えられないからって、そこは秘密にしとった。その海軍の永井少佐と私しか知らない。」
<永井少佐は全ての日本軍の帰国を見届けたあと、乗り込んだ最後の引き揚げ船から行方不明になります。米と砂糖の話は永瀬さんに託した遺言でした。>
「永瀬、お前はこのタイ国の政府、あるいはタイ国人民の温かい心を絶対に忘れてくれちゃ困る。覚えててくれ」と。ほんとうに「海ゆかば水漬(みづ)くかばね」で、兵隊さんは海の底へ沈んでる。こっち「山へ来れば草むすかばね」になって、草むらの下へうずもれたままになって。ほんとうに私はこのことを皆さんに訴えたいです。泰緬鉄道でも、インパール作戦からの撤退兵がひどい恰好して帰ってくるのを見てるからね、やはりあれてと同じようなことがこっちでも起きたんだと。日本の政府が戦後処理をあまりになおざりにしてる。日本の兵隊さんの遺骨でも放っておくような国柄でしょう。だから加害者として向こうの犠牲者に対してもそういう点が、戦後処理ができてないですよ。」
<永瀬さんが墓地捜索隊の体験を語ります>「・・・まだ行方不明者もあるわけですよ。それを懸賞金をつけてまだ捜してるんだよ。英国大使館が。私はこういう遺骨の問題は、勝ち負けの問題じゃないと思うんだよな。日本は負けたっていうことをいいことにして何にもしないんだ。だから結局本当に負けてるんだと思うな。」

そして妻の佳子さんが肝硬変で倒れたときの永瀬さんの言葉・・・
「私も去年の12月にあれが病気になってから、もうなんかね、心の支点を失ったようでね、なんか私自身も体があんまり芳しくないよね。」

戦争での体験は、戦後口にしない人がほとんど。それを永瀬さんは、捕虜虐待の目撃の体験や、復員の際のタイ政府の温かなもてなしに対し、ただ一人で生涯をかけて贖罪と和解の活動をした。特に奨学金制度で成長した人は、永瀬さん夫婦を「お父さん」「お母さん」と慕っていた。そしてこの作品には、二人の夫婦愛も描かれていた。

本来は国が行うべき活動。しかし国は何もしない。それでひとりで活動・・・。
しかし、その永瀬さんの活動は、日本国内ではほとんど知られていない。

このような国の方針に反する活動?のドキュメンタリーは、民放テレビしか作れないのかも知れない。
20年にも亘って取材した監督の熱意あればこその作品(事実)。
この作品を多くの日本人が見て、戦争の悲惨さを再確認する手段は無いものだろうか・・・
平和憲法が犯される危険性のある今の日本だからこそ・・・

最後に、満田康弘監督の「本作をご覧になる方へのメッセージ」を・・・
「この映画を最初に岡山で自主上映・・・先行上映をしたときに、オーストラリア人の女性が来られて、やっぱり海外の方に見て貰いたいっていうことを申し上げたんですけれども、まず日本でしょうって言われて、やっぱりこの泰緬鉄道の歴史っていうのは日本人の人にあまりにも知られていないし、まずこういう歴史的事実があったということを知って頂きたいし、その上でいかに戦争の後始末をするっていうことが大変なことか、どれだけの傷を残してそれを修復するのにどれくらいの努力が必要なのかっていうことも分かって頂けるんじゃないかなと、そういうふうなことを見て頂ければなと思っています。」

★この作品を録画したブルーレイをお貸しすることが出来ます。

映画「戦場にかける橋」は、2018/01/08(月) PM1:00~ NHK BSプレミアムで放送

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