「自分の葬式は必要ですか?」
先日の朝日新聞にこんな記事があった。
「(be between 読者とつくる)自分の葬式は必要ですか?
人生の旅路の最後を飾る「お葬式」。親や配偶者ら近しい人を見送り、葬儀に参列する機会を重ねると、「自分の葬式」について思いをはせることもあるのでは? 近年は、本人の意思や家族の事情に応じた葬送の多様化が指摘されていますが、自分のことであっても、なかなか思い通りにはいかないのも現実のようです。
■思い通りにはならない
自分の葬式はいらない。そう考える人は56%にのぼった。その理由は、お金、しがらみなど様々だ。
「焼いて墓に入れてもらうだけで十分。つまらぬことに金をかけたくない」(東京、71歳男性)、「嫌な思いをさせられた親族・知人が葬式に来ることを拒否できない」(広島、46歳女性)、「故郷では自宅葬がほとんど。家族は悲しみよりも疲れ果てる」(埼玉、57歳女性)。
高齢で見送ってくれる家族がすでに無い人や、「子どもがいない」「最期まで『おひとり様』だと思う」という回答も目立った。「親は田舎の共同体によって手厚く見送られたが、私は都会で一人で生きているから葬式はいらない」(東京、65歳女性)
とはいえ、葬式は人生劇場の緞帳(どんちょう)を下ろすセレモニー。残された人が心に区切りをつける儀式でもある。
「母は生きた証しを残したいと言っていたそうだ。家族にみとられ、たくさんの参列を得て葬式をした。それで私も気持ちの整理がついた」(兵庫、57歳男性)、「認知症の大変な在宅介護で早く亡くなって欲しいと思っていた祖母が亡くなったとき、思いがけず大泣き。自分でも驚いた」(神奈川、47歳女性)。
葬儀には「遠い親戚や離ればなれの古い友だちと会える機会」(埼玉、53歳男性)という側面も。弔問者から故人の意外な一面を聞いて感動したという経験も寄せられた。
ただ、葬儀がいると回答した人の中でも、「簡素」「簡略化」という言葉が目に付いた。静かな幕引きを望む気持ちと、家族に負担をかけたくないという思いがにじむ。
近年、葬儀費用は減る方向にはあるが、日本消費者協会が今年公表した葬儀のアンケート結果では、3年以内に葬儀を経験した人のうち回答があった491人の葬儀費用の全国平均は195万7千円。これに対し、beモニターの皆さんの間では、100万円以下の希望が圧倒的だった。
簡素化の流れもあって一般化してきた家族葬にも、思わぬ誤算が付きもののようだ。
「実父母共にささやかに家族葬で執り行ったが、戒名代や御礼を含めたら計250万円ほどになった」(埼玉、68歳男性)、「父を見送ったとき、後で訃報(ふほう)を知った人が次から次へと家に来て大変だった」(京都、54歳女性)。
約4割の人は、葬式の希望を何らかの形で家族に伝えていた。「家族に任せるという選択肢が最も当事者を困らせる。自分の経験でも、生前に親が決めておいてくれれば余計な神経を使わなくて済んだのにと悩んだ」(千葉、80歳男性)。一方、当事者に尋ねるのははばかられる問題でもある。「親にそろそろ考えてもらいたいが言いだしづらい」(兵庫、50歳女性)
また、伝えても思い通りになるとは限らない。「色々書いて妻に渡してあるが、見たくないようで、反応がなく困っている」(富山、85歳男性)、「冠婚葬祭にお金を使うことが嫌いな父は葬儀不要と言い残して逝ったが、体面を気にする母は相当のお金をつぎ込んで立派にしてしまった」(京都、49歳女性)。
いずれにせよ、自分の葬式をシミュレーションすることに、限界があるのは確か。
「必要ないと回答したが、『死んでしまえばそれまでよ』という感覚に基づくもの。本当に必要ないかはわからない」(千葉、58歳男性)、「葬式も墓もいらないが、世間のしがらみでそうもいかないだろうな」(静岡、59歳男性)。(権敬淑)」(2017/09/02付「朝日新聞」b10より)
「自分の葬式は必要ですか?」のアンケート結果が、YESが44%に対して、NOが56%で、NOの方が多いという。まさに現代的な結果だ。
自分も古希を迎え、自身の葬式や墓について、そろそろ考えておく時期が来たようにも思う。
葬式は、まさに「残された人が心に区切りをつける儀式でもある。」 よって、その形態は残された人による。
自分も現役の時は、普通の葬式が当たり前と思っていた。40年前に亡くなった祖母の葬式には、会ったことがない親戚が集まり、弔問外交のような、まさに親戚の顔合わせになった。
それはそれで意味はあったのかも知れない。しかし、現代は親戚のつながりも薄くなり、それぞれ歳も取った。親戚の葬儀もしんどい。よって、内輪だけの家族葬が増える。
現役のとき、葬儀は義務。部下が多くなればなるほど、それぞれの両親の葬儀など、数が多くなり、正直、香典が辛かった。同僚の兄弟の訃報まで回ってきた。だから20年前の親父の葬儀の時は、それなりの人が弔問に来てくれた。でもそれも皆、義務。
果たして義務で仕方なく来てくれる弔問客が有り難いか??
だから皆、現役を離れて歳を取ると、それらは避け、家族葬が多くなるのも分かる。
しかし最近も、たまに昔の会社関係の訃報が来ることがある。しかし、もはや行くことは少ない。
もちろん自分も呼ぶ気は無い。
お墓も、自分は要らないと思っても、それは家族の問題。死人に口無しで、もはや任せるしかない。上の記事にもあるように、本人の意志とは,無関係に行われることもある。
先日、NHKのETV特集「青春は戦争の消耗品ではない 映画作家 大林宣彦の遺言」(2017/09/02放送ここ)を見た。末期ガンを宣告された映画の大林宣彦監督の1年である。大林監督は、抗がん剤を飲みながら、最後の作品を撮った。
余命、6か月、3ヶ月と宣告されようが、自分の仕事をやり遂げる。我々凡人とは違う。(現在は、抗がん剤が効き、余命未定とか)
結局、平時と“その時”とは違う。平時に幾ら墓は不要、と言っていても、余命を宣告されると、頭にお墓が浮かび、「自分はあそこで眠るんだ」と、お墓の存在が心の平安をもたらすかも知れない。
この問題は、自分の余命が分かった時に考えることにしよう。そして、もし突然死のときは、もう任せるしかなかろう。
所詮、上の記事のように「思い取りにはならない」のだから。
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コメント
先月、私の実家の跡を取った次兄の葬儀がありました。本人は無宗教なのですが、親の墓がお寺にあるので仏式で行いました。すこし病んでいる間に葬儀一式全部自分でお金を払い、葬儀屋と相談して身内と我が家で働いていた人だけが参列しました。兄妹が多いので、人数は50人ぐらいだったと思います。生花なども兄妹一同や孫一同も全部次兄が払ってありました。
その2年前に長兄の葬儀がありましたが、無宗教の葬儀でした。それでもやっぱり50人ぐらい参列しましたが、懐石フルコースの料理でとても楽しいお葬式になりました。あんまり楽しかったので喪主の甥がもう一回やろうと1月後にお別れ会をやりました。お金は全部長兄持ちでした。長兄も次兄も親が早くに亡くなったので私たち5人の弟妹を自分の子供の様に思っていたのだと思います。お葬式が楽しいなんて思いもよりませんでした。二人とも86歳で亡くなりました。良いお葬式だったと思います。
(お葬式が楽しいなんておかしいでしょうか?)
【エムズの片割れより】
素晴らしい!!目から鱗・・・!
お二人のスタンスが、自分の心に重く残りました。
出来たら自分も同じようにしたいものです。
お兄様がまだ生きて居られたら、「爪の垢」を送ってくれるようにお願いしたのに・・・
投稿: 白萩 | 2017年9月 9日 (土) 18:34
誰のための葬式かと考えさせられますね。
白萩様の次兄様のお葬式とても感動的です。
楽しいお葬式は故人も望むところだったと思いますよ。コメントを拝読して 羨ましいと思いました。そのような葬式をして貰えた故人も 送った側もほんとうにお幸せ。中の良いご兄弟であったことが偲ばれます。年に不足はなし
もう一回とは粋な計らいですね。
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投稿: りんご | 2017年9月 9日 (土) 21:07