DECCAの名プロデューサー、ジョン・カルショーの回想録を読んで
自分は学生の頃に(1960年代末)最もクラシックを聴いていたと思う。下宿でひとり、STAXのヘッドホンで。
レコード芸術という雑誌を読んでいたが、DGG(ドイツ・グラモフォン)のカラヤン/ベルリン・フィルの広告が多かった。カラヤンの全盛期だったのかも知れない。
しかし自分はロンドン・レコードが好きだった。最も音が良いと思っていたので・・・。
特に、ショルティ/ウィーン・フィルが好きだった。
「ワルキューレ」のレコードを買ったのが1969年、大学3年の時。
学生時代からDGGのレコードはあまり好きではなかった。音が良くないのと、カラヤンの「運命」の冒頭の「タタタ・ター」がせっかちなのが嫌いだった。
最近、CD時代のデジタル録音よりも、アナログ時代の録音に凝っている。出来れば当時のアナログテープの音源を元にしたハイレゾ音源を探して・・・
前に「ジョン・カルショーの録音」(ここ)という記事を書いた。もう11年も前で、このblogを始めて18日後だった。
そのカルショーが、最近また気になりだして、その回想録を読む気になった。ジョン・カルショー著「レコードはまっすぐに~あるプロデューサーの回想」という本。
この本が、中古でも結構高い。それで近くの図書館で検索してみたら、何と在庫していた。こんなレアが本があることにビックリ。それで先日借りてきて読んでみた。
もちろん回想録なので、舞台裏の話がどっさり。今日はその「ヘエー」をメモしてみる。
まず「ロンドン・レコード(現在はDECCAレーベル)」の音の良さだが、そのルーツが、英DECCAの、戦時中のドイツ潜水艦の音の聞き分けレコードの技術から来ていたことを、今更ながら知った。
その部分を、著書から抜き書きしてみる。カルショーがまだデッカに入社する前の話である。
「だから、いっぱしの通気取りの感覚で言うと、当時のデッカには、権威などほとんど感じなかった。そのため、私がまだ軍服を着ていた一九四五年に、デッカが「フル・フリクエンシー・レンジ・レコーディング」〔全周波数帯域録音〕、略して「ffrr」という新しい録音技術の広告を出したときには、とても疑わしく思った。どうせ、会社が存続するための新たなカラクリにすぎないと思ったのである。
しかし私は、すぐに考えを変えた。ロンドンを訪れたときに、『ザ・グラモフォン』の編集長セシル・ポラードが、新しいレコードの一枚を聴かせてくれたからである。
それは、天の啓示だった。
戦争中に政府のためにデッカが行なった研究がもたらした成果だということは、どうでもよかった。この研究は、音楽のためではなく、イギリスとドイツの潜水艦の音の相違を示すのに使われるレコードのために、必要とされたものだった。そこで、既存のすべてをはるかに上回る録音技術が求められ、そしてこの技術の応用が、ffrrの開発につながったのである。これはデッカの主任エンジニア、アーサー・ハッディという男――のちに私は、彼の間近で長い年月を働くことになる――が開発したものだった。
ffrrは、一九二〇年代の電気録音の開発以来、最大の技術革新をデッカが成し遂げたことを意味していた。ところが、当時のデッカには有名な演奏家がいなかった。そのため初期に発売されたレコードは、欲求不満のたまる代物になった。これまでのどんなレコードも比較にならないほど音質が優れているのに、演奏の方には問題が多かったのだ。・・・」(ジョン・カルショー著「レコードはまっすぐに」p63より)
自分は「ffrr (Full Frequency Range Recording)」というロゴは知らない。自分の時代にはステレオになっていたので「ffss(Full Frequency Stereophonic Sound; 全周波数立体音響)」というネーミングだった。
やはり、DGGやEMIと音が違うと思っていたが、そんな歴史があったのだ。
そして、「ワルキューレ」は「SONIC STAGE」が売りだった。あたかも音でオペラのステージが再現されている録音・・・。自分は、「さすが“SONIC STAGE”は違う」と感心していたもの・・・。
それについて、こんな記述があった。
「一つだけ例を挙げよう。サロメが予言者の切断された首に口づけする最後の場面で、ワイルドは黒雲が月を隠し、サロメの声だけが聞こえるように求めている。レコードでは、月を隠すことはできな。しかしビルギット・ニルソンの声の距離感を変化させることで、恐ろしい雰囲気を適切に伝えることは可能だ。そこでそうすることにした。これは聴覚上で大きな効果を発揮した。そこで私たちは、今度も批評家たちをペテンにかけることにした。
《ラインの黄金》のとき、私は何食わぬ顔で言ってみた――終景のラインの乙女たちの声は、虹の架け橋の下から、聴こえてくるはずだと。
この言葉をほとんどの批評家が取り上げ、驚きとともに引用したのだが、もちろん、これはあり得ない。ステレオは左右と中央を示し、遠近の距離感も表現できるが、高低を示すことなどできるはずがない。
この嘘がばれずに済んだので、《サロメ》でも新しい嘘を試すことにした。オペラ録音に関して、まったく新しい録音法を開発したと言ってみたのだ。実際は、シュトラウスの管弦楽のテクスチュアを表現することに非常な注意を払った、というだけなのだが。
私たちはそれを「ソニック・ステージ」と名付けた。デッカの美術部は「シネマスコープ」と類似性のある(控えめに言えば)紋章をこしらえた。
あとで、やり過ぎたかなと気になりだしたが、そうと確信したときにはもう手遅れで、宣伝を止めることはできなかった。そしてそれはとても効きめがあった。大きな技術的進歩として歓迎されたのだ。しかし実のところは、過去三年間のウィーンでの他のオペラ録音とほとんど何も相違はなかった。シュトラウスの管弦楽法が違うだけである。
今は、あんなことはやらなければよかったと思っている。あまりにも幼稚な手口だからだ。しかしこれは、自分の偏見をひけらかすことに固執する批評家たちへの遠回しな復讐だった、とだけは言える。そのような強すぎる偏見のために、しばしばバランスを取りにくくなったのだ。・・・」(同p398より)
レコードにあった「SONIC STAGE」というロゴは、自分は実に大切にしていた。それが今ごろ「新しい嘘」と言われてしまうと立つ瀬がない。
でも、周囲をだませたということは、やはり実力の成果だったのだろう。英デッカ録音の左右に広がった音場は、他社に追従を許さなかった。
そしてカラヤンが、DECCAの専属からDGGの専属に移った事情は、まさに「ヘエー」。自分は昔から、カラヤンとウィーン・フィルとの不仲を信じていたが、この本にはその話は無かった。これは自分の勘違いらしい。
カラヤンがDGGに移った経緯とは・・・
「第33章 二つの《カルメン》
いつしかカラヤンとデッカの関係が順調でなくなっていたことに、はっきりと気がつくようになった。
スタジオでの彼はとても幸福そうに見え、自分がつくったレコードに満足していた。しかし、一九六二年末までに私たちが完成した《ニーベルンクの指環》の四作品のうちの二つが、やがては史上初の全曲録音となるという事実を受け入れるのは、彼にとって容易なことではなかったのである。
彼は、ドイツ・グラモフォンが彼との契約を高い金額で申し入れていることを承知していた。そこには《ニーベルンクの指環》のライバル盤の録音も含まれていたのだ。彼が受諾をためらった理由はただ一つ、アメリカでのDGGの販売力が比較的弱かっかためだった。彼はアメリカでの活動を拡大したいと望んでいたのである(ザルツブルクでの彼の《ニーベルンクの指環》をニューヨークのメトロポリタン歌劇場に移す交渉が進行中で、《ラインの黄金》の初日が一九六五年に予定されていた)。
だが彼がデッカに幻滅してしまった大きな要因は、印税の支払いに関することだった。そしてこれは、彼一人の主張ではなかったのである。
ほとんどの契約では、印税額は年に二度、六月三十日と十二月三十一日に計算されるように決められていた。実際の支払いは海外での収入の全額が入金されてからになるので、三月三十日と九月三十日前後に行なわれた。ロンドン本社と直接契約している音楽家の場合には、この支払いは金額の多寡に関わりなく、期日どおりにきっちりと行なわれていた。しかし多くの音楽家はイギリス・ポンドを好まず、スイス・フランでの受け取りを好んだ。それは、いくつかある理由のうちのどれか一つによるものだった。
スイス・フランは誰が見ても安定した通貨であり、変動の幅は小さかった。また、何人かの音楽家はスイスに「会社」を設立していた。そして巧妙な方法をいくつか用いて、その会社が得た収益――つまりは音楽家の印税――に対する税金がまったく、あるいはほとんど発生しないようにしていたのだ。また、外国からの金銭(イギリスから振り替えられた印税など)をスイス銀行の無記名による番号のみの口座に入れるのは簡単にできるが、そうすると税金目的で追跡するのは、ほとんど不可能になるのだった。
ローゼンガルテンはただ一人、この業務によって過大な幸福を手にしていた。
彼の小さな組織には印税の計算や照合をする能力はなかったが、音楽家がスイス・フランでの支払いを望んだ場合、販売数の計算書をつけてロンドンからチューリヒへ年に二度金銭を振り替えることには、何の違法性もなかった(少なくとも、音楽家が非イギリス人の場合)。
ローゼンガルテンのしかけた罠は、ロンドンからスイス銀行の音楽家の口座に直接支払うことを絶対に認めなかった点にあった。彼の説明は大方を納得させるように思えた。ロンドンが音楽家に不利になる計算違いをする場合にそなえて、自分で金額をチェックして音楽家の便宜を図りたい、と言うのである。
大概の音楽家は強欲にその金銭に執着したから、このことをひたすら歓迎した――そして、そのために支払いが不定期に遅れるのは仕方がないということになった。
まず初めに、必要な金額がロンドンのデッカからチューリヒに振り替えられる。続いて印税の計算に関する書類が、ローゼンガルテンに郵送される。
しかし、彼がミスをすぐにチェックすることは期待できなかった。実際にはチェックする気などまるでなく、やりはしなかった。彼は書類を一枚ずつオフィスの戸棚にしまう。その間に金銭の方は彼自身の口座か、彼が持つ多数の会社の一社の口座に入金される。そしてそこで、莫大な額の利息が生じることになる。言うまでもなく、長く口座に留まればそれだけ利息が増え、ローゼンガルテンはより幸せになる。
音楽家が印税の告知を長期間受け取っていないと気がつくまでに数か月かかることはよくあったし、何年もかかることさえときにはあった。彼が誤ってロンドン本社に抗議すると、ロンドン側は彼の希望どおりに完璧に行なったこと、つまり期日どおりにチューリヒへ金額を振り替えたことを正当に主張できた。
そこで音楽家(あるいはそのマネージャー)はローゼンガルテンに連絡する。するとこのときは、彼は多少の時間差はあっても即座に支払う。そして、元の計算書から発見した計算違いの多さのために、遅延が生じたという言葉をそえる。
音楽家たちは本心から、音楽家の不利益になると彼が主張する計算違いを不思議にも発見できる、彼の用心深さに感謝していた。このことが続いている間、音楽家もマネージャーも誰一人、ただ一つの重要な質問をしたという話を聞かなかった。つまり、どのくらいの期間スイス銀行に預けられていて、その利息はいくらになったのかという質問を、である。
これもまた、彼らの強欲さのためだった。トップ・クラスのクラシックの音楽家たちの何人かは、一年間に印税で五十万ポンドを稼ぐ(一握りの大は、さらにそれ以上だ)。
彼らが六か月毎の支払いをチューリヒに要求するのを「忘れている」と、彼らは突然、一年間分の収入をまとめて受け取ることになる。請求するだけでこんな高い金額が手に入ったという喜びのために、いったいそのお金はどこに暫定的に預けられていたのだろうとか、どのくらいの利息を(この場合はローゼンガルテンが)得たのだろうとかいうことを、彼らは気にしなくなってしまうのだ。
一人の音楽家の合計だけでも、かなりの額になる。そして、法律で禁じられていたイギリス大を除いて、大多数の音楽家がローゼンガルテンの事務所をその精算所としたため、この活動だけでもその金額は天文学的なものになった。そして、まったく法に触れてはいなかったのである。
だが、カラヤンと彼の弁護士は大多数の音楽家たちよりも頭が回った。最初の数回の遅延によって、相手のやり囗をつかみ始めたのだ。カラヤンが要求すると、しばらくの間は印税が期日どおりに入金された。しかしまたズレが起きるようになると、当然ながらカラヤンは、請求をくり返すことに苛立ちを覚え始めた。何と言っても、結局は自分の金なのである。
計算書のチェックが必要という主張では、ごまかされなかった。カラヤンは自分の会計士や弁護士にチェックさせることを完璧にできたからである。ローゼンガルテンの方は、カラヤンに印税をわたさざるを得ないにしても、一時間でも早くするのは嫌たった。カラヤンの収入がとても大きかったからで、少しの抵抗もせずにそれだけの金をあきらめることは、ローゼンガルテンの性格ではできなかった。
そんな最後の抵抗の中には、休暇中のローゼンガルテンがカラヤンの計算書を携えて行ってその正確性をチェックしているので、すぐに支払うことはできない、などという途方もない言い訳まで含まれていた。
これが、どこか他へ移籍しようというカラヤンの決意につながったのである。他にも理由はあるが、この印税のことが問題の中心たった。・・・・」(同p454より)
この暴露話は、今でも通じる。今でも有り得る・・・。いわゆる「役得」だが、会社のオーナーなので、さすがに規模は大きい。
「トップ・クラスのクラシックの音楽家たちの何人かは、一年間に印税で五十万ポンドを稼ぐ」とあるので、今のレートで計算してみた。1960年代のレートは「1ポンド=1008円」で「消費者物価指数は現在の4~5分の1」だったらしいので「当時の1ポンド=現在の4000~5000円程度」(ここ)とのことで、50万ポンドは、現在価値で、何と20~25億円!
さて、この本の最後に「訳者あとがき」があり、そこに「デッカのその後」がある。
「著者の急逝で未完となり、デッカ退社前後のことが書かれていないのは残念だが、補足の意味で、カルショーの上司としてデッカのトップに君臨した二人、サー・エドワード・ルイスとモーリス・ローゼンガルテンとデッカーレコードのその後について、少し述べておこう。
奇しくも同じ一九〇〇年に生まれたルイスとローゼンガルテンは、二人とも後継者を用意したがらなかったことが本書の中でも述べられている。結局は後進に譲らぬまま、最期を迎えたようだ。
デッカが傾き始めたのは、重要な収入源となっていたロック・グループのローリング・ストーンズが、一九七〇年に専属を離れたあたりからである。その中で、まずローゼンガルテンが一九七五年十一月に亡くなり、さらに一九八〇年一月にルイスが後を追う。
そしてルイスの死の直後にデッカはポリグラムに売却され、傘下の一レーベルという地位に転落するのである。カルショーが第二十章の結尾で苦々しげに触れている「崩壊」とは、この前後の状況を指している(さらにそのポリグラムも、一九九七年にユニバーサルに買収されている)。
結局、デッカはルイスとローゼンガルテンの「個人商店」でしかなく、彼らと運命を共にしてしまったのである。カルショーが本書を書き進めていたのは、まさにその断末魔の声を聞きながらであった。古巣に対して深い愛着を抱きつつも、ときにそれを読者に忘れさせるほどの非難の言葉を連ねてしまうのは、そうした、憤懣やるかたならぬ時期の只中にあったからであろう。訳者が言うのも変だが、そのあたりはどうかご理解いただければと思う。
そしてカルショー自身、ルイスの死とデッカの売却から、わずか三か月後にこの世を去ることになる。エリック・スミスが書く通り、オーストラリアでウイルス性肝炎に罹患した彼は、一九八〇年四月二十七日に五十五歳で亡くなったのである。
ルイスやローゼンガルテンとは違った意味で、カルショーもデッカと運命を共にしてしまったように思えてならない。
ただ春の夜の夢のごとし。しかしカルショーのレコードは、今も聴かれ続けている。・・・」(同p512より)
この本の最後に、カルショーのレコードリストがあったので、下記しておく。
*ジョン・カルショーの録音リスト(ここ)
全体として、自分は少々勘違いしていた。良い音は「カルショーがプロデューサーだったから」だと思っていたが、どうもそれは違う。彼はプロデューサー、つまり演奏者を決める立場。録音は「レコーディング・エンジニア」だった。つまり、カルショー以外のプロデューサーの録音でも、DECCAの録音であればそう差は無いのかも・・・
それにしても、この本は500頁を越す大作。それはカルショーが付けていた詳細な日記が元になっているらしい。そうでなければ、これだけの詳細は書けない。
話は飛ぶが、ひょんなことから、自分も会社生活の回顧録を、2年ほど前に本にした。その時の思い出だが、回顧録は非常に難しい。第一にアドバイスを貰ったのが、「活字になると、それが“事実”として残る」ということ。つまり、自分の記憶違いも、いったん“本という存在”に変わると、世に事実として固定化されてしまう。ということ。
それに、書き方によっては、他人の名誉を傷付ける可能性があるということ。
それによって、草稿を削りに削って、本になったのはその数割だった。
政治家が、引退した後に回顧録を書いて、よくベストセラーになる。もう怖いもの無し、で書いているのかも知れない。
回顧録の難しさを感じつつ、学生時代に聞いた音を思い出しながら読んだ一冊であった。
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コメント
カルショーの回想録が図書館にありましたか。
私も市の図書館を検索してみましたが、残念ながらありませんでした。しかし、カルショー著のニーベルングの指環 「リング・リザウンディング」がヒットしたので、ネットで予約しました。
ところで、DVD 「ニーベルングの指環 メイキング」をご存知でしょうか?私は、以前LDで所有していましたが、処分する時にDVDにダビングしてあります。その後DVDでも市販されています。大変貴重な映像で、BBCが制作したものです。カルショーが録音を総括しているのが良くわかります。輸入盤は「GOLDEN RING」の題名です。
【エムズの片割れより】
読んでいて、「あれ?リングの話が少ないな」と思っていたら、他に「リング・リサウンディング」という本に書いていたのですね。
これはそのうちに・・・
当地の図書館では「リクエスト」すれば、在庫無しの本も、他の図書館から取り寄せてくれます。
「ニーベルングの指環 メイキング」ですか・・。
前にテレビで、録音スタジオに、ホンモノの馬がパカパカ入ってきて、楽団全員がビックリ!!というジョークをカルショーがやった場面を見たことがありましたが、その映像でしょうかね・・・
投稿: classical.s | 2017年8月30日 (水) 19:25
こちらの図書館も他の図書館のCDや本を最寄りの図書館で受け取れます。全てネットで手続き可能です。今回予約した本も別の図書館にあったものですが、翌日には最寄りの図書館に配達してもらえます。便利になりましたね。最近はSACD(ハイブリッド)も増えてきました。
「ニーベルングの指環 メイキング」はそれだと思います。録音場所はソフェインザールです。馬はカルショーがやったのではないと思いましたが...ブリュンヒルデが愛馬と共に猛火の中へ躍り込む最期の場面ということで、ニルソンのためにスタッフが用意したと記憶しています。
投稿: classical.s | 2017年8月30日 (水) 21:42