「安倍政権の傲慢さ、噴出」~柳田邦男氏のコラム
とうとう世論に負けて?稲田防衛相が辞任するという。金田法相といい、山本地方創生相といい、あまりに国民を愚弄する大臣に辟易する。民進党も野田幹事長に引き続き、蓮舫代表が辞任。今日は辞任ラッシュだ。
さて、先日の衆参の予算委員会の閉会中審査も、各紙で評価が様々。そんな時、やはり信頼出来る人の意見を聞きたくなる。
自分の場合、それは半藤一利氏であり、保阪正康氏であり、そして「マッハの恐怖」以来のファンである柳田邦男氏なのである。
その柳田邦男氏が先日の毎日新聞の「深呼吸」というコラムで、こんな記事を書いていた。
「(深呼吸)安倍政権の傲慢さ、噴出=柳田邦男
この国の倫理、転落の危機
安倍政権の閣僚の暴言や曲解発言の問題点については、これまでもこの欄で継続的に書いてきた。だが、南スーダン国連平和維持活動(PKO)に派遣された陸上自衛隊部隊の日報の廃棄などをめぐる稲田朋美防衛相の発言、学校法人「森友学園」に対する格安での国有地売却問題や、学校法人「加計(かけ)学園」の獣医学部新設問題をめぐる安倍晋三首相や関係閣僚、官僚の発言は、安倍政権の内実と体質を“集大成”するように露呈した「3点セット」となった。
なぜ、かくも重大な問題が同時多発的に顕在化したのか。そこには、単なる偶然ではなく、そうなる必然というべき要因があったと思う。それは、首相自身をはじめ、安倍政権を忠実に支える閣僚や、内閣官房をはじめとする官僚たちの、問題に対する姿勢や言葉そのものの中にある。特徴別に列挙すると、次のようになろう。
(1)「記録文書はない」「文書は廃棄した」「記憶にない」と言って、事実を不透明にする。文書の探し方はおざなりで、批判されると調べ直して「ありました」と説明はするが、意味づけはあいまいにする。
特に、法的に保存を義務づけられていない報告文、連絡文(加計学園問題における文部科学省の内部文書はその象徴)などは「備忘メモ」などと呼び、内容の信ぴょう性を否定する。事案の全体的経緯の中での意味づけこそが重要なのに、そういう検証は棚上げしてしまう。
国会での官僚の答弁も、事実関係の解明を期待する国民を裏切るものばかりだった。森友学園への国有地売却をめぐり、答弁に立つ度に「記録がないので経過は分かりません」と、録音テープを再生するかのように全く同じ言葉を繰り返したのは、後に国税庁長官に栄転した財務省の佐川宣寿理財局長だ。
「権力者に仕え、出世コースを歩む高級官僚の精神性」という点で、私はすぐにある人物を想起した。ナチス・ドイツのユダヤ人ホロコーストの責任者だったアイヒマンである。彼はイスラエルの法廷で「私は上官の命令に従っただけだ」と証言し、無罪を主張した。
(2)厳しい批判や暴露的文書に対し、攻撃的な決めつけの言葉を浴びせて「印象操作」をする。安倍首相は論理的な思考が苦手なのか、すっかりこの言葉が気に入ったようで、相手からの批判をすぐに「印象操作」と決めつける。
ところが自らは、国会で質問者に「日教組!」とやじったり、東京都議選における秋葉原での街頭演説で、群衆の「帰れ、帰れ」の大合唱に対し「こんな人たちに私たちは負けるわけにはいかない」と叫んだりする。
「こんな人たち」と蔑視する言い方は印象操作ではないか。加計学園問題をめぐり、文科省の内部文書が報道された時、菅義偉官房長官が「怪文書」と決めつけたのも同様である。
(3)批判的な質問に対しては、事実関係についてまともに答えず、一般論を述べてはぐらかす。加計学園問題に関する国会審議で、安倍首相も山本幸三地方創生担当相も、国家戦略特区の政治的意義や官僚の壁を破ることばかりを論じ、疑惑の焦点となる事実関係には触れない。菅氏は記者会見で、加計学園問題の事実関係に関する質問に対し「わが国は法治国家ですから」と、まるで答えにならない言葉を繰り返した。
(4)批判する相手を人格攻撃することで社会から排除し、批判を封じようとする。秋葉原演説における安倍首相の「こんな人たち」発言は批判者を低く見る言い方だ。加計学園問題を告発した前川喜平前文科事務次官に対し、菅氏が「地位に恋々としがみついていた」などと前川氏の人格をおとしめるような発言をしたのも、権力者の傲慢さをむき出しにしたものだ。
安倍政権下における政治家や官僚による、これまでの戦後史の中では見られなかったような政治倫理観の衰退と言葉(表現力)の壊れ方を見ると、この国の指導層の人間性が劣化しているのでは、とさえ思えてくる。
そう言えば、安倍首相の宿願だった道徳の教科化が、2018年度から始まる。文科省の新学習指導要領には、道徳の目標として「物事を多面的・多角的に考え(中略)、道徳的な判断力、心情、実践意欲と態度を育てる」と書かれており、学習内容には「公正、公平、社会正義」などが挙げられている。しかし、道徳の教科化を実現した首相自身の言動を、もし道徳の模範とするなら、こんなふうになるだろう。
社会人になって、自分にとって都合が悪いことが生じたら「記録はありません。記憶にもありません」と言えばよい。批判されたら、強くて攻撃的な「決めつける」言葉を返せ。厳しく追及されたら、まともに答えずに一般論でごまかせばよい。相手を排斥するには、人格攻撃をして社会的な信用を失わせるのが手だ--。
このように書くと、誰もが「そんなばかな」と言うだろう。だが、教育の理念と世の中の現実は、このように大きくずれている。それをどうするのか。はっきりしているのは、この国のあり方が権力者の傲慢さによって揺さぶられ、倫理的に転落の危機に直面している--という現実だ。この国をこれからどうするのか、国民一人一人が真剣に考えることが求められている。」(2017/07/22付「毎日新聞」ここより)
国会の議論を見ていても、どちらがウソを付いているかは、国民の誰もが知っている。そんなバレバレのウソが、政治の世界ではまかり通っている。むしろそれが当たり前になっている。そして、それが通ってしまい、異常と認識されないまま動かそうとしている政府と官僚。
いや、誰もが分かっていながら、ボス(安倍首相)を守るために、そして自分の立場を守るために、ウソを言わされているのだろう。
それらの日本の異常事態を、上の柳田邦男氏の記事は整理してくれている。
自分は毎日新聞を読んでいないので、この「深呼吸」というコラムを読んでいない。上の記事で興味が湧き、今までの記事も読んでみようと、ググってみたが、なかなかヒットしない。唯一読めたのが、2ヶ月前のこの記事。
「(深呼吸)民主主義の落日=柳田邦男
核心はぐらかす虚構の言語
戦後の歴代政権の中で、安倍政権ほど重要な政治案件をめぐって閣僚級の人物や官僚による欺瞞的な言葉の乱発や重要文書の内容否定、存在否定が常態化した時代はなかったのではなかろうか。
私のように、少年時代に空襲を体験するなど、戦時下の空気を生々しく知る世代は、最前線の部隊の全滅を「玉砕」と美化されたり、敗退を「転進」とごまかされたりしたので、権力側の虚構の言語による世論操作に対しては敏感になっている。
しかし、安倍晋三首相をはじめ閣僚級の政治家による問題発言は、日報を書かなければならないほど続出している。一体、これはいかなることなのか。
安倍政権下での言語状況の問題点は、次の6点に分類できるだろう。
①発言の言葉自体の問題。いわゆる「問題発言」だ。メディアはしばしば「失言」「不用意発言」と書くが、むしろ「本音発言」と書くべきだ。
稲田朋美防衛相と今村雅弘復興相(当時)の発言についてはこの欄でも詳述したが、それ以外の問題発言のうち、最近の2例を記録しておく。
▽山本幸三・地方創生担当相
文化財を観光資源として活用することをめぐって「一番のがんは文化学芸員。一掃しないと駄目だ」と発言した。
▽古屋圭司・自民党選対委員長
沖縄県うるま市長選で野党系候補が給食費の無料化を公約に掲げたことについて、フェイスブックで「市民への詐欺行為にも等しい沖縄特有のいつもの戦術」と非難した。
②懸案の法案や政治問題について、国会審議でも記者会見でも、核心をつく質問に対してきちんと答えず、はぐらかす。学校法人森友学園問題の審議での安倍首相の答弁や、「共謀罪」法案審議での金田勝年法相の答弁は、まさにそれだ。
③法案の責任者なのに、理解不足で答えられない。「共謀罪」法案審議で野党が金田法相に対して質問しているのに、金田法相は「私の頭脳ではちょっと対応できない」と、法務省の刑事局長に答弁させる。
④重要問題の真相を明らかにするうえで不可欠な公的文書について「作成していない」 「廃棄して存在しない」などと言って提出しない。南スーダンでの国連平和維持活動(PKO)に派遣されていた陸上自衛隊の日報について、防衛省ははじめ「廃棄して存在しない」としていたが、後になって「電子データにあった」と訂正。森友学園問題では、異例の国有地格安売却の経緯を示す財務省近畿財務局の文書は「廃棄した」といって提出されなかった。
⑤重要問題の真相解明にかかわる文書が公表されると、徹底的な調査もせず、文書の正当性や内容について信頼性を否定する姿勢で対処する。森友学園問題でも学校法人加計学園問題でも、政府の対応は全く同じ構図だ。加計学園問題について、内閣府側が獣医学部認可は「総理のご意向」などと伝えた文部科学省内の文書を菅義偉官房長官が「怪文書」と呼んだのは、真相解明の要求を門前払いする意図からだろう。
⑥権力側に不利な文書を公表したり発言したりすると、その人物に対し人格を否定するような言葉を公的な場で投げつけて、文書や発言の信頼性を損なわせようとする。安倍首相は森友学園の龍池泰典前理事長について「非常にしつこい」と発言。加計学園問題では、文科省の内部文書について「省内の文書で間違いない」と語った前川喜平前事務次官について、菅官房長官が「(同省の天下りあっせん問題が表面化した際)地位に恋々としがみついていた」と記者会見で批判した。 権力のトップやその代弁者が、公的な場で特定個人を人格攻撃するというのはただ事ではない。攻撃される側は権力者と対等に議論する機会を与えられず、圧倒的に弱いからだ。
「政治は言葉なり」と言われてきた。
政治家は自らの政治理念や政策提案について、有権者が理解し納得できるように言葉を尽くして説明し、反対意見や批判に対しても虚偽や隠蔽のない姿勢で、問題をはぐらかすことなく、とことん核心部分の議論をすることこそ、真の政治であるという意味だ。
ところが、今の日本の政治は、重要な政治課題に関して、閣僚級の政治家も官僚も、説明責任を果たす言語表現力に欠けるばかりか、核心をはぐらかし、低劣な問題発言を続発させる。
さらに深刻なのは、政策や行政のプロセスに関する文書をどんどん廃棄していることだ。文書の廃棄は、後世において政策の意思決定過程を検証するのを不可能にする。歴史に対する犯罪だ。
安倍政権下でなぜこのようなおごりがまかり通るのか。それを支えるのは、衆院で自民・公明・維新の3党で議席の3分の2を占める圧倒的な数の力であり、自民党内の財政運用を総裁が一手に握れるように党規を変え「安倍1強」の基盤を築いたことであり、全省庁の幹部人事を首相が意のままに決められる制度の新設(2014年の内閣人事局設置)だ。
1人の人物への極端な権力の集中は、独裁国家への門戸を開く危険をはらむ。その状況下で憲法改正の日程が突如浮上してきた。私たちは、昨今の政治の動向の根底に流れるものを、しっかりととらえなければならない時代にいる。」(2017/05/27付「毎日新聞」ここより)
こんな今の日本の姿は、一刻も早く終わらせないといけない。
終わらせることが出来るのは、国民だけ。
もし現状で良いと考える人は、まさに国会答弁をしている人たちと同じく、自分の子どもや孫に、
「社会人になって、自分にとって都合が悪いことが生じたら「記録はありません。記憶にもありません」と言えばよい。批判されたら、強くて攻撃的な「決めつける」言葉を返せ。厳しく追及されたら、まともに答えずに一般論でごまかせばよい。相手を排斥するには、人格攻撃をして社会的な信用を失わせるのが手だ--。」
と教えることが出来る人。
そう教えることが出来ない人は、現状の政治に対して、自分には関係無い、と逃げるのではなく、NOを突きつける行動が求められる。
<付録>「まんがイラスト ぼうごなつこのページ」(ここ)より
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