« 下重暁子の講演会「“家族という病”を考える」 | トップページ | 国や自治体はどう動く? 姫路のこども園問題 »

2017年3月19日 (日)

母の実家、宮原家の家系図を作った話

この所、母方の祖先が気になり、実家の宮原家の原戸籍を取り寄せて、家系図を作ってしまった。江戸時代以来の家系である。
NHKのテレビ番組に「ファミリーヒストリー」というのがある。その番組紹介に、「第一線で活躍する著名人をゲストに迎え、その家族史を徹底取材。本人も知らない家族の秘話を紹介します。VTRを初めて見たゲストは、何を感じ、何を語るのか。それは自らの「アイデンティティ」や「家族の絆」を見つめることにつながります。驚きあり、涙ありのドキュメントです。」とある。
別にそれをまねた訳でもないが・・・

先日、弟が伯母の七回忌をやってくれた。子供が既に亡くなっていた伯母は、我々甥しか身よりはいなかったのである。そして、弟が無縁墓化する宮原家のお墓を、墓じまいしたいと言って、住職と相談し、ほぼ無料で墓じまいできることになった。(普通は、離壇料などが必要になるが、今回は住職が事情を汲んでくれて、お骨を無縁墓に移してくれて、お墓の撤去費用は、次の人に譲るお金でまかなってくれるとのこと)
そのお墓は、お袋の実家のお墓であり、お袋の両親も眠っている。昔流に言うと、婿養子を貰って家を継いだ伯母が亡くなったことで、宮原家は断絶することになったが、信心深い?弟が、そのまま放っては置けないと、処置に動いてくれたもの。
そんなことがきっかけで、そして墓じまいするときの供養になるかな・・・とも思って、先祖代々を振り返ってみた。

伯母の納骨の時の住職の言葉を思い出した。
「人間には2つの死がある。一つは肉体が滅んだ時の死。もう一つは、自分の記憶が全ての人の頭から消え去ったとき・・・」(ここ

以下の記録は、自分のためのメモ(心の整理)である。実名で書いてしまうが、全員が亡くなっており、個人情報やプライバシーの問題はないはず・・・。

今回、先祖をたどってみようと思い立った理由の一つが、弟からお墓に7つの遺骨があると聞いたから。それらが、誰なのか・・・。お袋の実家なので、名前と家系くらいは知りたいと思ったのだ。
そして、今の機会を逃すと、永遠に宮原家の歴史は埋もれてしまう。まあ、それにどんな意味があるのか、また、それらが分かっても、それを知って喜ぶ人など、もう居ないのだが・・・・

今回の調査で手に入れた原戸籍は10通。まず、親父の原戸籍から、お袋の長崎市の戸籍住所を知り、その原戸籍から大阪市、三浦村(長崎県大村市)、また長崎市とたどって全体が分かった。その転籍はめまぐるしく、お袋の住んできた経緯が分かった。

①明治元年(1968年)2月11日
 長崎県東彼杵郡三浦村233番地(現・大村市)(戸主:宮原文右衛門)

②大正8年12月18日 ★お袋たち3姉妹はここで生まれる
 長崎市勝山町8番地(宮原文右衛門)

③大正14年7月24日
 長崎市茂田町13番地(宮原文右衛門)

④大正14年9月2日
 長崎市銭座町1丁目54番地(宮原文右衛門)

⑤大正14年11月4日
 長崎市平戸小屋町103番地(宮原文右衛門)

⑥大正15年12月13日(家督相続)
 長崎市平戸小屋町103番地(宮原傳次郎)

⑦昭和2年6月10日
 長崎県東彼杵郡三浦村(現・大村市)日泊郷769番地(宮原傳次郎)

⑧昭和3年8月25日
 大阪市西成区津村町548番地(宮原傳次郎)

⑨昭和12年5月10日
 大阪市東成区猪飼野大通1丁目50番地(宮原傳次郎)

⑩昭和17年11月19日
 長崎市岩川町40番地の46(宮原傳次郎)

⑪昭和18年8月1日 家督相続 ★お袋はここから嫁に
 長崎市岩川町40番地の46(宮原清二)

⑫昭和26年6月18日 
 静岡県焼津市焼津(本町4丁目)710番地の3(宮原清二)

⑬平成5年7月23日
 茨城県龍ヶ崎市3163番地(宮原秀子)

ここから分かることは、転居しても、今は戸籍は移さず住民票だけを移すが、昔は、転居と同時に戸籍も移したようだ。
生前、お袋に聞いた昔の思い出話として、2012年3月17日付で、こんなメモが残っていた。
「お袋の長崎時代~大阪時代のキーワード。長崎は「ひらどごや」。大阪は「きんのう小学校。仁徳天皇御陵のそば。道頓堀」「伯母ちゃんは長崎の三浦村に」。大阪では「てらまち通り。塩原ぎげい女学校学園、大野病院」。
調べたら「長崎市平戸小屋町」に「朝日小学校」があるので、その校門前に家があった? 長崎の三浦村は現・大村市。
大阪は、道頓堀と大野記念病院とは近い。しかし仁徳天皇御陵は遠い。塩原技芸学校は神戸。寺町通りは、あるにはあるが・・・」

仁徳天皇陵は堺市なので、これは大阪城の勘違いかも?でも、何となく遺跡というニュアンスは合っている。
お袋の年齢で追うと、3歳で母親(自分の祖母)が亡くなった後、4歳から7歳まで住んでいたのが長崎市平戸小屋町。そこでは、小学校前でお饅頭屋を営んでおり、お正月などは、学校にお饅頭を納めていたとか。
その後、7歳の時に大阪に出て、父親(祖父)はデパートに勤め、お袋が21歳の時まで大阪に住んでいた。この間、父親には再婚の話も多く、2度目の母親とお袋ははうまくいっていたが、亡くなってしまった。そして、3度目の母親とはウマが合わず、父親に「お母さんと自分のどちらを取るのか?」と父親に迫ったと言うから、お袋も気が強い。しかし戸籍にはどちらの母親も記載が無く、正式に再婚した形跡はなかった。
そして昭和17年4月に伯母が結婚して焼津に移り、同じ11月に父親と二人で長崎に戻っている。これは父親(自分の祖父)が胃がんを患ったため、故郷に戻った。そして昭和18年8月に亡くなるまで、お袋一人で看病し、看取ったという。お袋は、父親が大好きだったが、その看病は大変で、亡くなった時は、やっと自由になれる、と思ったそうだ。
その後、一人になったお袋は、伯母(お袋の姉)を頼って焼津に行き、縁あって親父と結婚するにあたって、伯母の夫(婿養子)の実家の小石家が、両親が居ないのは不憫だからと、いったん小石家に養女として入って、半年後にそこから嫁に行った。
その時のことをお袋から聞いたことがあったが、「お父さんが、東京からわざわざ焼津に会いに来た。それで、どうしてもと言うので、結婚してあげた」とのこと。お袋はどこまでも気が強い。
カミさんが「どんなお父さんだった?」と聞いたことがあったが、お袋は、「よう分からん人だった」と言っていたとか・・・。これらの話は、生前、自分の家にお袋が1週間泊まりに来たことがあったが、その時にカミさんが聞き取ったもの。

170319miyahara1 戸籍を追って書いてみた家系図に従って眺めてみる。一番古い人は、宮原市太郎という高祖父。生まれも亡くなった年も分からない。江戸時代のことだ。曾祖父は宮原文右衛門といい、嘉永5(1852)年9月5日生で、大正15年12月13日に74歳で亡くなっている。明治維新を15歳で迎えていることになる。曾祖母の宮原ミヨは、安政3(1856)年2月15日の生まれで、大正10年7月24日に65歳で亡くなっている。同じく明治維新は12歳で迎えている。
そして子供として、祖父の長男・宮原傳次郎をはじめとして、長女・トキ(結婚して他家に)、次女・ニワ(23歳で没)、次男・政治(分家)、三女・ツ子(生まれてまもなく養女に)の5人を生んだ。
その中で、政治という人の子供、つまりお袋の従姉妹たちとは、若い時は行き来があったようで、前に親父からの言い伝えで自分の家の家系図を書いた時に、色々名前が出ていた。しかし、それ以外の人は、今回の戸籍で初めて名前が分かった程度。

そして祖父・宮原傳次郎は、明治15年12月11日生まれで、先に書いたように昭和18年8月1日に60歳で 胃がんで亡くなった。
そして祖母のキンは、明治22年8月7日に生まれ、大正13年11月25日に35歳という若さで、はやり病(スペイン風邪?)で亡くなった。当時、伯母の秀子は7歳、お袋は3歳、妹の郁子は1歳半。幼子を残しての死は、無念であったろう。
祖母は、19歳で結婚して、35歳で亡くなるまで、1男6女を生んだ。ほぼ2年に一人である。でもなかなか育たなかった。
長女の文枝は、お袋から14も年上だった事もあり、頼りにしていたという。しかし23歳で結婚したが、25歳で亡くなってしまった。確か、かっけだったと聞いた。
長男の武は8ヶ月で亡くなっていたが、今回の戸籍を見るまでは、その存在を知らなかった。今まで、男の兄弟がいたことは聞いたことが無かった。夭逝したのでお袋の記憶になかったのかも・・・
次女のセイは、清子という名で聞いていた。結核でずっと養生しており、14歳で亡くなっている。お袋の8歳年上で、亡くなった時はお袋が6歳だったので、記憶に残っていたらしい。
三女の知恵子は、2歳で夭逝。誕生日が自分と同じなので、それを知った時に、不思議な因縁を感じた。そして四女の伯母、五女のお袋、六女の郁子が生まれる。
妹の郁子は、生後1歳半で母親を亡くしたため、4歳の時に養女に行った。
生き残った伯母とお袋の姉妹とは、没交渉だったが、仙台に住み、大人になってから交流があったと聞く。その息子も家に遊びに来ていた。
今回、戸籍を見てビックリしたのは、養子が居たと言うこと。昭和5年に当時17歳の四郎という養子を貰っている。しかし、たった3ヶ月で離縁して、元の戸籍に戻っている。
これは、跡取りとして貰ったものの、何かうまく行かずに、離縁したのだろう。そんな試みもあったのだろうが、当時はお袋は9歳。記憶には残っていなかったようで、そんな話を聞いたことが無い。そもそも生前にこんな調査をしておけば、もっと生きた情報が得られただろうに、今となっては手遅れだ。

もうひとつビックリしたのが、伯母に実子が二人も居たと言うこと。生前、お袋からは、伯母は子供が出来ず、自分がお袋のお腹の中にいた時に、「生まれたら、養子にちょうだい」と言われていた、と聞いたことがあった。それが今回分からなくなった。自分が生まれた後にも息子が生まれ、その子が2ヶ月で夭逝してしまい、その半年後に養子・清人を貰っていた。
まだ子供が産めたのに、自分を養子に、とは分からない。
伯母が、親父が亡くなった後に、お袋と一緒に住み始めたが、仏壇に確か赤ちゃんの写真があった。それが、二人のどちらかは分からないが、あれが実子だったのかと、今ごろ気付いた。
お袋の生前「伯母に実子が居たんだって?」と聞けば、直ぐに分かったのだろうが、今となっては分からない。

前に、お袋から、自分と弟との間に、堕ろした女の子がいたと聞いたことがあった。それを聞いた時は衝撃だった。若しかしたら、妹がいたかも・・・なので。

全ては、時間の経過と共に消えて行く。般若心経が教えるように、全ては「空」。
でも、何かこれらの事実は、一度は自分の心にピンで留めておきたい。そして、このblogにメモすることで何故か安心する。これも「忘れないことによる供養」なのかも知れない。
ついでに、父親系の系譜もたどりたいが、戦災で役所が焼けたこともあり、分かるかどうか・・・

“毎日が日曜日”の自分は、カミさんにバカにされながら、こんな事に時間を費やしているのであ~る。

|

« 下重暁子の講演会「“家族という病”を考える」 | トップページ | 国や自治体はどう動く? 姫路のこども園問題 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 下重暁子の講演会「“家族という病”を考える」 | トップページ | 国や自治体はどう動く? 姫路のこども園問題 »