向井が死んだ・・・・
今日は、実に個人的なことである。昔の友人が亡くなった。
昨夜(2017/03/09)、パソコンで何となく遊んでいたら、高校時代の同窓会の面倒を見てくれている女性からメールが飛び込んできた。その短い文面を見て絶句。
「向井氏は先週 心不全で逝去、家族密葬したそうです。」
最近、これほどのショックを受けた事はない。言葉を失った。ただ「エエッ!? 絶句・・・・」とメールを打ち返すのが精一杯だった。
同時に、向井との様々な光景が浮かんだ・・・
お線香を挙げる代わりに、69歳で逝った彼について、思い出を時系列的にメモしてみる。これが少しでも供養になれば、と思って・・・
彼の経歴は(ここ)に載っている。
「空甫(からっぽ) 本名 向井稔 1947年(昭和22年)茨城県生まれ 1972年(昭和47年)千葉大学医学部卒業 1972年(昭和47年)千葉大学付属病院第二外科入局 2000年(平成12年)栃木県厚生連塩谷総合病院長 2002年(平成14年)同 退職 現在に至る」
また彼のblog「空っぽの部屋(虚静恬淡に生きる)」(ここ)によると、自己紹介として「ペンネームは空甫(からっぽ)です。ヴェジタリアンの仏教家族、4人のブログです。2014年10月、大津へ。」とある。
自分と彼とは、中学・高校の同窓。でも、同じクラスになったことはない。
我々の出身は、茨城県の龍ヶ崎市。中学は愛宕中学校だった。その頃のことは前に書いた(ここ)。中学での彼についてのエピソードを一つ思い出した。中学3年の時、自分のいた3組の担任の男のMD先生と、4組だった向井が、廊下で取っ組み合いをしたのだ。“がたい”がしっかりしていた向井は、体の小さかった担任の先生と、互角の勝負だった??
今流に言うとそれは相撲だったかもしれない。今とは違う時代だったので、そのことが後々問題になることもなく終わった。当然向井にも言い分があったのだろうが、もう忘れた。
この龍ヶ崎市の愛宕中から土浦一高に進学したのは、3人だった。上の経歴のように、向井は千葉大医学部を経て、外科の医者になった。そしてIK君は、東北大工学部の教授になった。そして自分は平凡なサラリーマンになった。
高校の3年間、一緒に龍ヶ崎駅からローカル電車に乗って、佐貫駅で乗り換え、常磐線で土浦に通った。
そんな変化の無い通学風景が変わったのが、高校2年の時に、EG君が同じ龍ヶ崎から通うようになってから。彼は親の転勤に伴い、近くの高校に転校してきたが、2年のときにその高校の教師の勧めで我々の高校に編入してきたのだ。
カメラが趣味で多才なEG君と一緒に通学するようになってから、世界が変わった。話の世界が広がった。彼は、父親が国家公務員だったせいで、日本中を転勤しており、話題が豊富だった。その後、彼は山口放送のアナウンサーとなった。
高校時代、その彼のカメラで撮った写真が何枚も残っている。もちろん向井も写っている。
そんな彼が、医学部を目指していると知ったのは、高校3年になってからだった。思い出すのは、一緒に千葉大を見に行ったこと。それはちょうど、ケネディが暗殺された日だった。改めて調べてみると、それは1963年(昭和38年)11月23日の祝日だった。高校1年の時。
つまり彼は高校1年の時から千葉大医学部に狙いを定めていた。
そして彼は現役で千葉大の医学部に進む。合格した後や大学に入ってから、何度も彼の家に遊びに行ったことがある。
彼の家は、祖母と母との3人住まいの家だった。離婚した(またはシングルマザー?)母親は、東京の高級旅館などに、新鮮な野菜などを届けるいわゆる行商をしていた。祖母が母親役、母が父親役だったらしい。そんな彼が医学部に合格した時、地元龍ヶ崎の医学界で大いに話題になったと聞いた。
そして彼は大学で野球を始めた。体格的にはがっちりしており、まさにスポーツマンだった。
大学1年の時は、自分の大学の下宿にも遊びに来ていた。一緒に海に行ったりもした。EG君の家にも龍ヶ崎組の皆で遊びに行った。しかし、時間と共に交流は徐々に薄れていった。
そして久しぶりに再会したのが、自分が仕事で千葉に出張して泊まった夜だった。1976年3月2日(28歳)の夜、ホテルから唐突にも電話をして呼び出して、そして飲んだ。
その後、連絡を取ったのが1977年1月11日(29歳)だった。当時自分は新婚で、カミさんの体調が悪くなり千葉の実家に帰っていた。千葉大に診察に行ったというので、状況を調べて貰うべく、病院の向井に電話した。担当医も分からないのに、手を尽くして調べてくれて病状を教えてくれた。
次に会ったのが、1982年8月14日(35歳)だった。それは龍ヶ崎の中学の同窓会だった。久しぶりに2次会まで一緒に飲んだ。そしてEG君の結婚式で会ったのが1982年12月5日だった。
その山口のEG君から、「久しぶりに上京するので一緒に会おう。出来たら向井君も誘って夫婦で・・・」と電話があった。それで久しぶりに向井に電話をして、3組の夫婦が新宿で会って会食したのが1990年8月24日(43歳)だった。
彼は車で新宿まで来ていた。当時は千葉大ではなく、放射線医学総合研究所に勤めていた。
彼の専門は放射線。その後、鴨川市立国保病院外科から栃木県厚生連塩谷総合病院長になって、退職した。
この時だったか、その前に会った時かは忘れたが、奥さんと母親がなかなかうまく行っていないと聞いた。その時、「自分は迷いなく妻を取る」と言っていたのを覚えている。龍ヶ崎の母親とは、ほとんど交流が無くなったようだ。
この時に会った3組の夫婦のうち、EG君の奥さんも2013年に亡くなったとのことで、二組がひとりになってしまった。
彼と、再び交流が始まったのが、2002年9月(55歳)だった。医者を辞めた、という転居通知を貰ってからだ。消印は熊本だったが、住所は無く、住居を定めないで転々とする、と書いてあった。記されたアドレスにメールをして、メールによる文通が始まった。
最初にもらったメールを今回見付けたので、読んでみると「下の娘のアレルギーがひどく、寒さに耐えるのが難しいというのが大きな異動の理由です。私も突発性気胸になり5日ほど入院しました。その時の検査で陳旧性の心筋梗塞があったりしたものですから、私たち家族で南へ行こうということになりました。」とあるので、今回の心不全の原因はこの時からあったらしい。
そして「家も2年半前に処分したので、地位も名誉も家も無くなりました。こんな心地良さは初めての経験です。身の心も仏教徒になってきたようです・・・・・?」とあった。
近くの大学病院で、カミさんが腰痛の検査の結果、「子宮筋腫手術」を勧められたのが2002年12月だった。それで向井にメールで、「前に向井から、病院の名前では無く、良い医者に当たるかどうかが全て、と聞いたが、手術の上手な医者がいたら紹介して」と頼んだ。
すると直ぐに電話がかかってきて、こんなアドバイスを貰った。
「結論を言うと切らない方が良い。食事と運動で様子を見る。ピーマンとトマトジュース。塩分の無いジュース。油にも注意。良い油を使う。大豆、豆腐も食べる。納豆は毎日食べる。気持ちよく生きる事。よっぽどの事が無い限り切ってはダメ。切らなくて良いというDRがいると言うことは、まともな人がまだ居ると言うこと。良性疾患は切らなくて良い。90%の病気は自然と治る。メールの医師は怪しそう。婦人科で切って下さいと言っている。定期検診を受けたらよい。信用できそうな先生を選んで。切るのは何時でも切れる。切らなくて良い食道ガンの方法を考えて教授と喧嘩になった。それで外で10年過ごしたため、患者さんに色々教わった。それで人間が変わった。漢方も気をつける。短期間だけ飲んで止めるのか漢方。薬は長期に飲んではダメ。薬は対症療法。体質を変えて行かないといけない。更年期障害なんて無い。生理が止まっても子供になるだけ。病気ではない。頑張り過ぎた人に多い。ちょうど子供が言うことを聞かなくなる年代になるため、なぜ言うことを聞かないのかと精神的に落ち込む事が原因。それで精神的に参って体調を崩す。ホルモン剤など絶対飲んではダメ。食事と運動。遺伝子組み替えは絶対に避ける。ハイテクなど要らない。副作用を出してはそれの薬を飲んでまた副作用。薬ばかり増える。西洋医学は行き詰まっている。新人の医師もどの病気には何の薬と決まっているのでバカでも勤まる。子宮筋腫は経過観察をしてもらう。精神的に散歩がストレス発散に良い。油ものは避ける。オリーブ油を使う。精神科は薬付けが好き。あと水に気をつける。水道水は飲まない。浄水器を付ける。人間は80%水で出来ている。悪い水で体が汚れる。体の具合を悪くする薬は無い。良くするのが薬。医療が商売になって訴訟防止になっている。患者に教わったりしてこの10年で人間が変わった。自分の家族にどういう治療をやるか。西洋医学は否定されている。ガンの遺伝子治療など何も効かない。」
スピリチュアルな話も含めて、この手術は見送ったが、結果的には正解だった。
その後、自分の緑内障の相談をしたり、2004年7月には心房細動、2004年9月には前立腺炎の相談をしたりで、色々教わった。
そんな向井から「般若心経」を勧められたのが2004年2月(56歳)だった。写経は15年やっていた が、写仏も始めたとかで、写真を送ってくれた。
そして、 「仏教の輪廻思想を理解したとたん、死生観が変わりました。死生観が変わると、それだけで気持ちが良くなります。不思議ですね。これも、長い間の医者生活で学んだものも大きいと思いますが。」という言葉が後押しをして、我々夫婦も般若心経の勉強を始めた。
当blogは、2006年6月に始めたが、当初は仏教の話題が多かった。これは、多分に向井からの影響が強かったもの。
2004年8月には、熊野三山の牛王符を送って貰い、今でも我が家の玄関に飾って、遠出をする時には「無事に帰れますように」と頭を下げている。
そんな向井が到達した世界が、医食同源。
「医食同源。これが病気の根本治療です。薬は単なる副作用を伴う対象療法ですからね。
私の医学は根本からひっくり返りました。精進料理、つまりヴェジタリアンがこれほど体によいとは誰も教えてくれませんでしたので。西洋医学も東洋医学も薬漬けですからね。
私達も肉、魚、卵をほとんど断った食事をしています。そしてもう2年が過ぎましたが、大豆を取っている限り心配ないようです。体は至って元気です。乳製品は取っています。
精進料理は、病気からも遠ざかりますが、心が穏やかになれます。すっかり負けるが
勝ちの気持ちです。」
さすがに我が家はヴェジタリアンにはなれなかったが、夫婦共に様々な影響は受けている。
そして最後に貰ったメールが2007年1月(59歳)だった。日本中を転居している生活らしく、そのうち郵便も届かなくなった。(写真は2006年の年賀状)
それ以降、高校の同級生ルートにもたずねてみたが、消息は分からなかった。そして2年ほど前の2014年10月(67歳)に、高校3年の時の恩師の喜寿を祝う会に出て来て「最近、大津に転居した。龍ヶ崎の実家のお母様が91歳でひとりなので、今回見に来た。」と言っていたとのこと。
そして今回、同じルートで得た情報が、「亡くなった」とのこと・・・
残念ながら、ここ10年ほどは、我々とは没交渉だったが、それまでに受けた影響は、仏教や医食同源など、我が夫婦にとっては大きかった。もちろん般若心経や観音経を勉強したのも・・・。
それにしても、あまりに早い死に、「なぜ?」と茫然となったが、医師を辞めたきっかけとなった「検査で陳旧性の心筋梗塞があった」という言葉を今日見付け、何か納得した。
それにしても、御遺族の悲嘆は、想像に難くない。ご家庭での回転の中心を失った悲しみは、あまりにも大きい。
昨夜の訃報を聞いて、色々思い出してしまい、つい長々と向井の思い出を綴ってしまった。(同じ歳の友人の死は、会社の同期の1人に続いて、まだ2人目なので、自分にとってショックが大きい)
今はただ、向井の冥福を祈るだけ。
向井から教わった「般若心経」を、空海の筆とともに唱えよう。(ここより)
<「般若心経」~高野山金剛峯寺の専修学院生による>
そして自分なりのおくり方だが、最後にカザルスの「鳥の歌」を向井君におくりたい。
<カザルスの「鳥の歌」>
合掌
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コメント
エムズの片割れ様
「向井が死んだ」を読ませて頂きました。
カミさんへ勧められた手術への対応の仕方に始まり、西洋医学に対する考え方、医食同源に至るまで、何度も何度も頷き学ばせていただきました。よき友をお持ちでしたね。
そしてカザルスの「鳥の歌」。国連での「ピース、ピース」と話すカザルスの姿。
ここで思わず涙が・・・。
「空甫」さんへ 合掌 fumippe
【エムズの片割れより】
これは決して他人さまに読んで頂くような内容では無く、ただ自分の記憶のメモでした。
コメントを頂いて恐縮です。
投稿: fumippe | 2017年3月11日 (土) 00:47
エムズの片割れ様
「空甫」さんへの哀悼の思いが切々と伝わりました。よき友人でしたね。
エムズ様ともどもの喪失感に触れる思いがいたしました。~涙~涙
カザルスの鳥歌~彼を送るにふさわしい曲に思えます。
追記
空甫さんの家族のドラマにも胸を突かれました。母親にとっては、行商をして支えた自慢の息子。それでも嫁姑の確執で「妻を選ぶ」と言った空甫さんに亡夫の姿が重なりました。
妻を選びながらも空甫さんの胸中には複雑な思いが去来していたのでは~
空甫さん合掌
【エムズの片割れより】
恐れ入ります。
投稿: りんご | 2017年3月11日 (土) 08:36
人は生きている間に必ず予期しない死に出会います。
元気で活動的で病とは縁のない高校から仲良くなった友人の死は何年か納得する事ができませんでした。「喉の病気で慶応病院に来ている。道を歩いていたら若い男にお茶飲まない?と誘われた。マンザラでもなかった」と書いた葉書が届いた後、3人の幼子を残して癌で亡くなってしまいました。31歳の時でした。31歳は死とは縁のない年です。その時のショックは私の体調を狂わせるほどでした。最近は何人もの同級生が亡くなっていきます。認知症になっていく人もいます。死に対して慣れてきたように思います。「死は眠りの続き」という言葉を聞きました。エムズ様のお友達も眠って楽しい夢を見ているのかも知れません。私は素敵な彼と素敵なバーでカクテルを飲む夢を見たいと思っています。死もまた楽しです。
【エムズの片割れより】
「死は眠りの続き」とは良い言葉を聞きました。
記事に書いたテレビドラマ「Woman」ではありませんが、最もあってはならないのは、幼子を残しての母親の死ですね。
最近、戸籍を調べているのですが、自分の母方の祖母が、末の娘(叔母)が1歳半の時に、36歳で亡くなっています。お袋が3歳半のとき。
意外と近くに居ました。
投稿: 白萩 | 2017年3月11日 (土) 23:55
昨夜は「死もまた楽し」などと書きましたが、やっぱりまだちょっとこの世に未練が残っていますね。それは残していく息子たちの心配があるからです。親なら幾つになってもそれが一番の悩みかも。子供さんたちが立派に自立されている方々が羨ましく思います。親という責任は逃れられないことですね。少しずつ身辺整理を考えないと今朝は考えています。
でも、まあ、何とかなるという横着な気持ちも残っています。明日、明日と言っているうちに明日が今日になるのでしょう。それが大半の人間かと思います。
【エムズの片割れより】
記事にも書きましたが、先日、我々夫婦の最大の課題が前進しました。
まさに「求めよ、さらば与えられん」でした。
投稿: 白萩 | 2017年3月12日 (日) 10:55
向井先生のお話、興味深く拝読致しました。病気時には、余計な医学的介入を排し、生命が本来持つ「自然治癒力」を最大限に引き出す事を心掛けよ、と言う事でしょうか。私も長年医業に携わってきましたが、全くの同感です。日頃患者さん達には、私の経験も加味しつつ、次の様に話しています・・・病気では死にません。寿命までは生きますので安心して、しっかり生きて下さい。生活習慣に注意し、こまめに水分を摂り、足腰鍛えて転倒しないように、最期までまでしっかり歩きましょう・・・。向井先生もやや若すぎたとは存じますが、最期までしっかり生きておられた事と存じます。合掌。
【エムズの片割れより】
最初に「とにかく切って(開腹手術)はダメだ」と言われた時はビックリしました。外科医からそんなことを言われるとは・・・
でも、長年外科医をしてきた“答”が、先の言葉になったのだと思い、重く受け止めました。
投稿: 諸行無常 | 2017年3月12日 (日) 20:28
50年以上も交流のあった お友達をなくされた悲しみと驚きが本当に伝わってきます。
この年になりますと わがみに引き当てて考えたり感じたりします。
45年前のパブロ・カザルスの鳥の歌の演奏は東西冷戦の幕引きに寄与したと思います。最近では 井上 鑑さんの鳥の歌プロジェクトによる合唱やナターシャ・グジーさんの歌声は心に響きます。
もとい! 誠実に生きた 向井さんのご逝去に ただ ただ 合掌。
【エムズの片割れより】
人生を医師として生きたはずが、最後は西洋医学を否定・・・
交流があったとは言えない関係でしたが、医師から仏教へ、という人生のハンドルの切り方に、何がそうさせたのか、我々凡人には分かりませんでした。
投稿: todo | 2017年3月12日 (日) 21:58