ホスピスで聖書の言葉を伝えるチャプレン藤井理恵さんの話
先日、NHKラジオ深夜便の「明日へのことば」「人生の最期に寄り添って~藤井理恵さん(淀川キリスト教病院 チャプレン)」(2017/03/04放送)を聞いた。
NHKの解説にこうある。
「“チャプレン”とは教会・寺院に属さずに施設や組織で働く聖職者のことです。
藤井理恵さんは会社勤務時代、同僚の自死をきっかけに牧師となることを決意しました。大学院で神学を修めたあと、終末期医療を行うホスピスの草分けといわれる病院で“チャプレン”として勤務を始めました。
多くの患者の声を聞き、最期をみとる中で感じたこと、忘れられないことばの数々をお話しいただきます。」(ここより)
お話を少し聞いてみよう。
<NHKラジオ深夜便~藤井理恵さんの話>
この話の中で、死に逝く人に話した聖書の言葉を、幾つか紹介していた。
「詩篇23~4
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」
「ヨハネによる福音書
わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
「コリント人への第一の手紙4:7
いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。」
失うことを恐れている自分の能力は、そもそも神さまから頂いているもの。それを自分の物のように思って、自分の存在価値の裏付けにしてしまう。それが自分の物だと思っている時は、自分の思い通りにならない事に対して辛くなる。だからいったん手放すことが大切。
そして、最後にマザーテレサの言葉が紹介されていた。
「マザーテレサの祈り」
主よ、私は思い込んでいました。私の心が愛に満ちていると。
でも心に手を当ててみて、気づかされました。
私が愛していたのは他人ではなく、他人の中の自分を愛していた事実に。
主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は思い込んでいました。私は何でも与えていたと。
でも、胸に手を当ててみて、わかったのです。
私の方こそ与えられていたのだと。
主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は信じ切っていました。自分が貧しいことを。
でも、胸に手を当ててみて、気づかされました。
私は思い上がりと妬みとの心に膨れ上がっていたことを。
主よ、私が自分自身から解放されますように。
石川康輔訳「マザー・テレサの祈り」(ドンボスコ社刊)(ここより)
そして自分の最大の関心事?「死に際し、宗教の力は大きいのは、なぜ?」に対しては、こんな言葉。
「人間は、生きている時は横の関係(人とのつながり)の中で生き、その中で苦しみの答を見付けていくことがある。しかし、横の関係だけでは癒されない苦しみもある。その時は、縦のつながりの中で答を見付けていくことができる。限界を感じた時は、限界を超えたことにつながりたいと思う。死の恐怖を持っている人は、死を超えた希望があることを見付けたい。それは、私の場合は神さまとの関係の中で生まれてくる。」
ホスピスの草分けだという淀川キリスト教病院のチャプレンとして、26年、330人を看取った経験でのお話なので、なかなか深いものがある。
淀川キリスト教病院のチャプレンといえば、7年ほど前に同じラジオ深夜便で放送された「旅立つ人、看取る人 淀川キリスト教病院 名誉ホスピス長 柏木哲夫」(2010/1/18放送)を紹介したことがあった(ここ)。
さて、自分がなぜこのような番組が気になるか・・・。それはもちろん自分も死が怖いから・・・
死が怖くなった時に、宗教がその支えになるとは、良く聞く。しかし、それが何故かは良く分からなかった。しかし、このお話の中にその一つの解が示されていた。
幸いなことに、まだ自分は余命を告げられていない。しかし、いずれその時が来るだろう。その時は、この話をもう一度じっくりと聞きたい。それで、ここに録っておくのである。
(気弱な自分は、やはり突然死がいいかな~~~)
仏教については、前に一通り勉強した。キリスト教についても、何か本を読んでみようかな・・・
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