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2016年12月 7日 (水)

叔父が亡くなった・・・

実にプライベートな話なのだが、ここは自分にとっての“日記”なので・・・

夕方、ポストを見ると、夕刊と一緒に従兄弟からの手紙が入っていた。メールの時代に、手書きの手紙・・・。悪い予感・・・
案の定、叔父の死を知らせる手紙だった。読むと、(2016年)11月25日に肺炎のために亡くなったとのこと。84歳。葬儀も、叔父の遺志で、家族葬として11月30日に終わったとのことだった。
今日は、供養になるかと思って、叔父の思い出を記しておきます。

自分の親父は男5人、女2人の7人兄弟だった。親父は長男。その下の弟と妹がそれぞれ夭折したため、実際には5人兄弟だった。
2014年に(夭折2人を除くと)次男が92歳で、2015年にその下の叔母が89歳で亡くなった。ちょうど1年前に、先日亡くなった叔父から「姉が亡くなった。とうとう一人になっちゃた。」という電話を貰ったのが最後となった。

この叔父は、当時大宮に住んでいた我が家に下宿して、早稲田に通った。13歳年上だった親父が、費用をみたという。貧乏なのに、弟を引き取った親父に、お袋は不満だったという。その叔父が一緒に住みだしたときに生まれたのが自分。
よって、この叔父に自分はよく背負われて子守をしてもらったらしい。もちろん自分は覚えていない。たぶん一緒に住んでいたのは、自分が物心付く前なので、ほとんど覚えていないが、「A,B,C,D・・・・」という歌を教わったことだけは覚えている。

その後、電気メーカーに就職し、経理畑を歩いた。親父は、家電製品をこの弟に頼んだ。昭和27年頃には、電気洗濯機も買った。もちろん近所でこれがある家は無かった。ラジオもレコードプレヤーも、皆この弟の社内販売で買って貰った。
そんな縁で、兄貴が同じ会社に就職した。それに続いて自分も・・・
よって、自分の人生に、多大な影響のあった叔父だった。

この叔父の家に、何度遊びに行ったか・・・。学生時代に鶴見の社宅に行った時には、夜、子供が寝てから、トランプをした。負けたお金は踏み倒した。
金沢八景に家を建ててからも、近くに出張したときは、よく寄った。夕飯を頂き、帰りには、叔母が、独身の自分を考えて、色々な物を持たせてくれた。少しだけ使ったインスタントコーヒーのビンまでくれた。

親父には3人の弟が居た訳だが、次男とは相性が合わなかった。次男特有の臍曲がりを嫌っていた。しかし、三男のこの叔父と、四男の弟は可愛がった。そしてとうとう、全員が鬼籍に入った。残っているのは、次男の連れ合い(88歳)と、四男の連れ合い(80歳)の二人だけ。
熱海の老人ホームにいる次男さんとは付き合いがないので、親戚は伊丹の叔母だけになってしまった。まさに世代交代である。

2014年の正月に、お袋が亡くなった時(ここ)、葬儀が終わった夜に、この叔父に電話で知らせた。「葬儀は身内だけの家族葬にした。葬儀の前だと色々と考えさせてしまうので、あえて葬儀が終わった今、電話をした」と説明すると、「そうだね。皆年寄りなので・・・。自分もそうしよう」と言っていた。
今日来た従兄弟からの手紙には、まさに叔父の遺志での家族葬だったという。

叔父は、叔母が乳がんで71歳で亡くなってから、3年ほど一人で生活していたが、そのストレスからか、潰瘍性大腸炎を発症し、息子の世話で老人ホームに入っていた。「車椅子になったらオシマイなので、食事に行く時は、何とか階段を使って歩いている」と言っていたが、最近はそれも出来なかったらしい。
定年退職後は、俳句に目覚め、同人誌の選者となって久しいが、「外に出られないので、句を作るのも大変」と言っていたっけ・・・
しかし、毎週末には息子(今回手紙をくれた従兄弟)が、車で家に連れて帰り、ホームへの帰りには外食、というパターンとのことで、それは、自分も頭が下がった。
親父と息子の関係は難しい。前に従兄弟と話した時、「毎週だと大変だろう?」と言うと、「もう習慣になっているので・・・。これもホームに入る時の約束なので」と笑っていた。
自分にはとても出来ない対応。毎週末が潰れる・・・なんて、なかなか出来る対応ではない。

手紙にも「今は父の最後の瞬間を枕元でみとれたことが唯一の安堵となっています。」とあった。従兄弟も安らかに送ることが出来て良かった。
さっきもらった手紙で、まさに走馬燈のように思い出す叔父・・・。今はただ冥福を祈りたい。
合掌・・・・

●メモ:カウント~970万

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コメント

拝読してしみじみと胸に染みました。
良い伯父さまであられたのですね。
お父上も面倒見の良いお兄様でしたね。
兄弟も数名以上となれば齟齬も生じますね。。

皆様長命でしたね。
それにつけても従弟の方は親孝行の鑑ですね。
感服の至りです。生前の親子関係も良かったのでしょうね。
伯父さま、奥様を早くに亡くされて寂しかったでしょうね。我が娘たちは「反対でなくて良かった」とよく言ってます。連れ合いは享年63歳でした。

【エムズの片割れより】
確かに従兄弟は、8年もの間、毎週末にホーム通い。家に帰っては、少しずつ家の整理をしていたとか・・・。
俳句の会があるときは、車で連れて行って、喫茶店で時間を潰し、連れて帰る日々。自分など、到底できません。
しかし、思い出すと、叔父と従兄弟との関係は、自分の知る限り、格別に良いとも思っていませんでした。まあ若い時は、息子と父親はそんなものですが・・・
老後に、真の姿が出るのかも知れませんね。
従兄弟も、やっと開放され、肩の荷が下りたと思います。

投稿: りんご | 2016年12月 8日 (木) 14:40

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