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2016年10月 8日 (土)

歴史の年月日~旧暦と新暦の誤差

藤沢周平の小説は、前々から読もうとたくさん買い込んでいたのだが、一向に進まなかった。しかし、意を決して?「三屋清左衛門残日録」をやっと今日、読み終えた。
よって今日の頭の中は、江戸時代である!?

大分前だが、読売新聞にこんな記事があった。
歴史の年月日 正確な表記を 笠谷和比古
◇西暦の年と和暦の月日 奇妙な合体
 みなさんは歴史の本やムックなどを見ていて、出来事が起きた年月日の表記が食い違うという経験をしたことはないだろうか。

 ■関ヶ原合戦はいつ?
 誰もが知っている関ヶ原合戦をあげてみよう。これは和暦(旧暦)で「慶長五年九月一五日」の出来事だった。慶長五年は西暦だと1600年に相当する。そこで、合戦の日を「一六〇161008rekisi 〇年九月一五日」と表記する例がある。正しい西暦年と和暦の日付を合わせたものだ。権威ある歴史辞典にもそう記されているが、誤っている。和暦と西暦では日付がずれるので、西暦で書くのであれば1600年10月21日が正解である。
 赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件を、1702年とするものと1703年とするものとがある。この事件は「元禄一五年一二月一四日」に発生しており、元禄一五年は西暦では1702年に当たる。ところが、西暦の方が早く年が改まるために、和暦で年の瀬に起こった討ち入り事件は、正確な西暦だと1703年1月30日の出来事なのだ。従って、討ち入りを1702年とすれば間違いである。
 討ち入り事件を「一七〇三年一二月一四日」と記したケースもある。日付は和暦に従っている。やはりおかしい。赤穂浪士は1703年12月まで、史実より10か月以上、隠忍自重したことになってしまう。

 ■疑似西暦
 このように「一七〇三年一二月一四日」がまずいので、「一七〇二年一二月一四日」と表記した例も目にした。だが、先に述べたように討ち入りは西暦1703年の出来事なので、完全な間違いである。
 関ヶ原合戦の「一六〇〇年九月一五日」や討ち入りの「一七〇三年一二月一四日」「一七〇二年一二月一四日」は、西暦の年に和暦の月日をくっつけた疑似西暦だ。はっきりインチキ西暦と言ってもいいと思う。ところが、気を付けて歴史本などを読んでみれば、この疑似西暦がはびこっている。
 疑似西暦の横行で、歴史を学ぶ人は混乱するし、国民の歴史認識はゆがめられている。もう一つ、顕著な例を紹介したい。有名な「慶応三年一二月九日」の王政復古の宣言である。
 慶応三年は1867年に相当するが、和暦一二月の出来事なので、赤穂浪士の例と同じように西暦年が改まる。西暦1868年1月3日が正しい。だが、疑似西暦で「一八六八年一二月九日」や「一八六七年一二月九日」と記される。どちらも誤りで、前者だと王政復古が実際より遅れ、後者だと早まる。
 ところで、疑似西暦によって「一八六八年一月三日」と表記される大きな戦がある。明治維新の鳥羽・伏見の戦いだ。王政復古の宣言の正しい西暦1868年1月3日を頭に入れている人が、鳥羽・伏見の疑似西暦を目にすると、王政復古と鳥羽・伏見の戦いとは同じ日に起こっていた――ということになってしまう。

 ■表記の改善を
 疑似西暦を野放しにしていると、このようなトリックにからめ取られてしまいかねない。トリックとも気づかないままに、もはやどれが正しい西暦で、どれが疑似西暦であるかの判別もつかないまま、戸惑うことになるだろう。
 歴史家として多くの本や資料に当たる中で、懸念し続けてきた問題である。早くこの病弊から脱却するために、表記が少し長くなっても、一部で実行されているように、せめて、関ヶ原合戦なら「慶長五(一六〇〇)年九月一五日」、王政復古なら「慶応三(一八六八)年一二月九日」とする書き方が適切だと、呼びかけたい。
     ◇
 かさや・かずひこ=1949年神戸市生まれ。国際日本文化研究センター名誉教授。日本近世史、武家社会論。著書に『歴史の虚像を衝(つ)く』『関ヶ原合戦と大坂の陣』『武士道』など。」
(2016/09/21付「読売新聞」p21より)

旧暦と新暦では、日にち単位では、まったく相容れないものらしい。そして、12月、1月の出来事は、1年ずれてしまうという。なるほど、原理的には良く分かる。
討ち入りは、12月の雪の日、という記憶なので、正確な西暦での1月30日と言うよりも、「元禄一五年(1702年)一二月一四日」の方が妥当だろう。

ふと、「そもそも旧暦って何だ?」と思って、少しググってみた。
ここ)によると、
「旧暦を含む太陰太陽暦では、月が新月になる日を月の始まりと考え、各月の1日としました。それから翌日を2日、その次の日を3日と数えたのです。そして、次の新月の日がやってくると、それを次の月の1日としました。
新月から新月までは平均して約29.5日の間隔ですので、12ヶ月間では約29.5日×12ヶ月=約354日であり、太陽暦の1年より約11日短いため、そのままではだんだんと季節とずれていってしまいます。そこで太陰太陽暦では、暦と季節のずれが大きくなってきて、ひと月分に近くなると、閏(うるう)月というものを入れて、ずれを修正しました。例えば、3月の次に閏月が入るとその月は「閏3月」と呼ばれ、その年は13ヶ月間あるということになります。閏月は平均すると19年に7回ぐらいの割合で入ります。」

閏月の入り方は、結構難しい。まあ分かった事は、19年で新暦と旧暦はほぼ一致すること、そして、新暦では4年に一度2月29日を挿入するが、旧暦では、ほぼ3年に一度、閏月を挿入してズレを直す・・・。
閏月の入れ方、つまり「月の数は12個ですので、判定には中気のみを使います。二十四節気は季節の目印ですから、そこから外れた月=中気を含まない月がうるう月となります。」は良く理解できないので、追而・・・・

前にも何度か書いたが、高校時代、自分は歴史が大キライだった。特に世界史は授業の度に眠くて眠くて、通信簿もメロメロ。
しかし“老後”は、一番興味があるのが歴史。世界史は、相変わらず何を読んでも頭に入らないが、日本史だけは、いっぱしの日本人として、一通り勉強しておこうと思っている(ここ)。

書斎の背中の本棚に、今まで買った本が鎮座している。順番に、読みながら棄てていこうと思っているのだが、なかなか進まない。しかし、もう「毎日が日曜日」の身分。(自分への)言い訳は効かない。ぼちぼちと・・・読むさ。

161008oyako <付録>「ボケて(bokete)」より

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コメント

中気とは「雨水」「春分」「穀雨」「小満」「夏至」「大暑」「処暑」「秋分」「霜降」「小雪」「冬至」「大寒」の節気(季節の区分)をいいます。
これらが各月に入って、12ヶ月を形成するのです。
ただ、説明にある通り、太陰太陽暦は太陽暦より短いため、だんだんと季節とずれていってしまいます。
そうすると、本来、その月に入る節気(例:1月なら「雨水」、2月なら「春分」)が入らなくなってしまいます。
それを解消するため、入らなくなってしまった節気の月の次を閏月とするのです。
3月の「穀雨」が入らなくなったら、その3月の次は「閏3月」になり、3月の「穀雨」が入るという訳になるのです。

旧暦(太陰太陽暦)と新暦(太陽暦)とはほぼ1ヶ月ずれています。
少し詳しく説明すると、旧暦のほうが新暦よりも1ヶ月遅れています。
それが理解できれば、「五月雨」や「五月晴れ」の意味も理解できます。
要するに「梅雨」や「梅雨晴れ」の事を指すのです。
京都の祇園祭は現在は7月にやっていますが、以前(旧暦の時代)は6月にやっていました。
博多の山笠も同じです。
3月3日、5月5日、7月7日は新暦の日付をそのまま新暦に持ってきてしまったので、季節にずれがあります。
3月3日は新暦にすると4月上旬になります。その頃なら桃の花も咲いていますから、「桃の節句」の名にふさわしいのです。
5月5日の「端午の節句」は菖蒲湯に入る習慣がありますが、これも新暦にすると6月上旬~中旬。
その頃なら菖蒲も青々と茂っています。
7月7日は新暦にすれば8月中旬。お盆直前の頃ですから、晴れている確率が高いでしょう。

ちなみに本能寺の変は天正10年6月2日に起こりました。
新暦にすると1582年6月21日になります。ただし、当時はユリウス暦でしたので、グレゴリオ暦換算だと7月1日になり、夏至過ぎとなります。

大変な長文、失礼しました。

【エムズの片割れより】
いやいやお詳しい。感服しました。
永い旧暦の文化を持ったまま、新暦に変更したので、行事の面では色々な誤差が出てしまっている・・・
徐々に勉強しま~す。
ありがとうございました。

投稿: マッノ | 2016年10月10日 (月) 19:33

大変な長文の上、追記、申し訳ありません。

新暦では確かに4年に一度2月29日を挿入しますが、100で割り切れる年(例:2100年、2200年など)は2月29日を挿入せず、平年となります。
ただし、100で割り切れる上、400でも割り切れる年(例:2400年、2800年など)は閏年となります。

投稿: マッノ | 2016年10月10日 (月) 19:53

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