「原爆を許すまじ」の歌
北朝鮮では、36年ぶりの朝鮮労働党大会で核開発が叫ばれ、はたまた米国では、トランプ共和党大統領候補の「米国は世界の警察官はできない。米国が国力衰退の道を進めば、日韓の核兵器の保有はあり得る」と述べたというニュースが伝えられている。
核が、何とも安っぽくなったものだ。
NHKラジオ深夜便で「特集 昭和史を味わう「国際社会への復帰」ノンフィクション作家・保阪正康」(2016/05/02放送)を聞いていたら、懐かしい「原爆を許すまじ」の歌が聞こえてきた。
<「原爆許すまじ」日本合唱協会>
(なお日本合唱協会のタイトルは「原爆許すまじ」となっている。)
これは1番だけなので、Youtubeを検索すると全曲があった。
<「原爆を許すまじ」合唱:アンサンブル・ヴェルソー>
「原爆を許すまじ」
作詞:浅田石二
作曲:木下航二ふるさとの街やかれ
身よりの骨うめし焼土に
今は白い花咲く
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
われらの街にふるさとの海荒れて
黒き雨喜びの日はなく
今は舟に人もなし
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
われらの海にふるさとの空重く
黒き雲今日も大地おおい
今は空に陽もささず
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
われらの空にはらからのたえまなき
労働にきずきあぐ富と幸
今はすべてついえ去らん
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
世界の上に
この歌が出来た背景は(ここ)に詳しい。初演は1954年(昭和29年)7月28日だったという。
上の文献から、作られた過程を抜き書きしてみると、
「音楽センターが原水爆禁止の創作歌を募集したのは1954年の6月のことであった。センター発行の機関誌『音楽運動』第3号(1954年5月25日)で関鑑子が呼びかけたものである。」
「木下航二が若竹青年会の場で浅田石二に詩を書くことを依頼したのはセンターの呼びかけから間もなくのことであった。「6月下旬のころのある日曜日の夕方」に木下は浅田から三篇の詩を受け取った。そこから一つを選び、作曲したのが今日に伝わる「原爆を許すまじ」である。次節で見るように、作曲上歌いにくいところを木下が改作している。この作品を木下は7月20日の締め切りぎりぎりに音楽センターに提出したという。」
「浅田が作詩した「原爆を許すまじ」原詩は次のようなものである。
「原爆を許すまじ」
祖国の街やかれ殺された
みよりのほね埋めしやけつちに
いまは白い花咲く
みたび許すまじ
呪う原爆われらの街に祖国の海荒れてふりそそぐ
くろい雨喜びの日々はなく
いまはふねに人もなし
ああ 許すまじ
呪う原爆われらの海に祖国の空重く奪われて
太陽、殺リクの炎、煙
きょうまた天おおう
みたび許すまじ
呪う原爆われらの空にはらからのながき歴史たえまなき
労働にきづきあぐとみと幸
人もみな死に絶えん
ああ許すまじ
呪う原爆世界の空に
現行版と大きく異なるのは、それぞれ1行目の最後の一節(5文字)をカットしたことと、最後の行の「呪う」を外したこと、2番・4番にある「ああ許すまじ」と1番・3番にある「みたび許すまじ」を組み合わせてリフレインとしたこと、「ああ許すまじ」のあと原爆「を」と語調が整えられていること、「祖国」を「ふるさと」に置き換えたこと、などである。三行目もすべて「今は」から始まる形に統一されている。そういう意味では、原型を保ってはいるものの「原詩に大幅に手を入れるという暴挙」と木下本人が述べているのは間違ってはいない。」
「歌が最初に公表されたのは7月28日の音楽センター定期演奏会「平和歌曲の夕べ」においてである。指揮者は林光、伴奏者は萩原希史夫、中央合唱団が歌い、歌唱指導も行われた。木下はこのときは立ち会っていないと回想している。」(ここより)
昭和29年か・・・。
昭和40年始めの自分の学生時代、この歌は知っていたが、うたごえ運動を含め、それほど多く歌われてと言う記憶は無い。
1954~55年は、原水爆禁止運動のピークだったという。それを背景にこの歌も多く歌われたが、その後衰退したらしい。
今この歌を聞いてどうか・・・
テーマは不変。しかし、やはり古い。
当時歌っていたのは若い世代だが、今の若い世代が一緒に歌うとは到底思えない。つまり、そもそもある思想(原水爆禁止のような思い)の元で、一緒に合唱すること、そのものが無い。
こんな歌を聞きながら、「核も戦争も、戦後70年間で風化してしまっている」と認めざるを得ないこの頃の日本である。
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コメント
静岡県では9月に久保山愛吉さんの亡くなられた日だと思いましたが、追悼式典が行なわれ、「原爆許すまじ」の歌が歌われるところを地元のテレビが放映します。毎年その日にテレビから流れてくるこの歌を聴きます。良い歌だと思います。人間ほど愚かな生き物はないと自覚させられます。地球を破滅させる核を得意気に誇示する国々の何と愚かな事か!今、H,Gウェルズが生きていたらどんな小説を書くでしょうか。読んでみたいと思います。
【エムズの片割れより】
第五福竜丸は焼津でしたね。自分も子どもの頃、伯母の居た焼津にはよく行ったので、印象が深いです。
そうですか。まだ歌われていますか・・・
投稿: 白萩 | 2016年5月10日 (火) 20:28