「おみくじ」~賀状に思う
新年あけましておめでとうございます。
さて、先日の日経新聞のコラム。
「おみくじ 宮田珠己
毎年、年の瀬になると、1年の日記を読み返す。いつの頃からか年始に引いたおみくじを日記に貼るようになって、この時期、当たったかどうか確認してみたりしている。
まあ当たっているとは言い難く、もともと当たるとも思っていない。けれど初詣に行くとやはり引いてしまうのがおみくじである。
私の見たところ、おみくじは将来のことを予言しているというよりも、それを引いた時点での心の状態を表しているように思われる。
調子のいいときは大吉が出て、いまひとつよくないときは凶が出たりする。心の中身をおみくじに見透かされている気がするが、それもまた気のせいなのだろう。
いずれにせよ、当たりもしないのにおみくじを引き、それによってなんとなくほっとしている。
待ち人だの家移りだの訴訟だの、いろいろ書いてあるが、悪いことはあっても死ぬとまでは書いていない。ああ、今年も死なないんだと安心する。気休めである。
父もおみくじが好きな人だった。というか気にする人だった。
晩年の正月、病の床で初詣に出かけられず、私は父の代わりにおみくじを引いた。頼まれたわけではなかったが、きっと気にしているだろうと思ったのだ。
本人が引かなければ意味がないようだが、本人が引けないなら、長男である私が引いたものが一番納得がいくだろうと考えた。
私は立て続けにおみくじをふたつ引き、ひとつ目が自分、ふたつ目が父のものと決めていた。
父のおみくじは小吉であった。
病気は長引くが本復するとあったので、安心して病室へ持って行って見せたのだったが、父はすぐにでも退院したいと思っていたのか、一瞥(いちべつ)してつまらなそうな顔をした。
何度でも引いて大吉を出してから持って来ようと考えなくもなかったのだが、わざとらしくてできなかった。
それからひと月もせず父は逝き、おみくじは実にあてにならんと思ったのだけれども、結局今でも初詣に行くとおみくじを引いて、小さく一喜一憂している。
占いはおしなべてそういうものなのだろう。当たらないことはわかっている。わかっているけれど、いいことを言ってもらって安心したい。
それでいい。落ち込んでいるときに、今は苦しいですが後半は持ち直しますとか言われると、それだけで少しほっとする。当たらないから無意味というものでもない。
かりそめでも癒やされるなら無意味ではない。
私は以前、世界各地の海を旅して、サンゴがそこらじゅうで死んでいるのを目の当たりにし、ノイローゼのようになったことがある。ちょうど今年と同じようなエルニーニョの年で、海水温が高くなりすぎて白化していたのだ。
悲惨な光景に気鬱になった私を救ってくれたのは、いくつかの科学の本と、テレビのお笑い番組だった。
テレビなんてくだらないから見ないという人があるけれど、調子の悪いときに心癒やされることもある。くだらないものは無意味ではない。そのくだらないことに救われる場合もあるのだ。
この正月も私はおみくじを引きにいこう。来年はきっといい年になる。(エッセイスト)」(2015/12/24付「日経新聞」夕刊p7より)
今日は元旦。さぞ、寺社は初詣で混んでいることだろう。だから、我々は近寄らない。数日過ぎて、空いてから行くことにしている。
自分は「おみくじ」を買う方ではない。でもたまに買うと、だいたいが吉。凶は出た記憶がない。
先日テレビで、「おみくじ」について放送していて面白かった。12月30日の「羽鳥慎一のモーニングショー」という番組(ここ)。
それによると、吉とか凶とかの割合は昔から決まっているそうだ。浅草寺などはその割合を守っているとか(ここ)。
その割合とは、大吉17%、吉35%、半吉5%、小吉4%、末小吉3%、末吉6%、凶30%だそうだ。
末吉は、「これから良くなる」ということで良い方かと思っていたが、下から番目だって・・・。
吉が半分、凶が3割か・・・
それに、おみくじは、木の枝などにくくりつけて持って帰らない物と思っていたが、持って帰っても良いんだって・・・。ま、それほどマジメに読んでも仕方がないが・・・
さてお正月。
元旦は年賀状。シニア世代はこれをどう捉えるのだろう?
卒業してから一度も会ったことがない人と毎年やりとりをしているかと思えば、数日前に会った会社の同僚とやりとりしている場合も多い。
そもそも年賀状の意味とは??
シニア世代になると「まだ生きてます」が年賀状とか・・・
でも、今日来た年賀状に、「私も古希を迎え先人方に習い、誠に勝手ながら、念頭のご挨拶を本年をもちましてご遠慮させて頂きたく存じます。」というのがあった。
思い返すと、親戚の二人から同じような手紙を貰った事があった。一つは、自分の従姉妹の奥さんが倒れたので、それを機に・・・(ここ)。
もう一つは、叔父が高齢故の賀状卒業(ここ)。
今日貰った賀状でも、近況が分かるものは非常に少ない。
そんな中で、貰って嬉しかったのが、一枚だけあった。
昔、頼まれ仲人をした元部下から、家族の写真と、各写真の説明、そしてこんな事が書かれていた。
「末っ子が入園。上の二人も勉強に習い事に大きく成長した一年でした。子供の成長につれ、一年の時の早さを感じます。今年も笑顔あふれる健やかな一年となりますよう、お祈り申しあげます。」
参った・・・
奥さんが書いたのであろう小さな、しかしきれいな文字。
まさに手に取るように近況が分かる。1年の家族の成長が分かる。これこそまさに本来の年賀状の姿・・・
何度も読み返してしまった。
でもその他は、ほとんどが印刷の文字だけ。何のために賀状か・・・。まあ「生きてるな」は分かるけど・・・
でもエラそうなことは言えない。自分だって、自筆を加えるにしても、キタナイ字で「今年もよろしくお願いします。」程度だ。何が“よろしく”か・・。また今年だって、会うことは無いと分かっていながらも、「よろしくお願いします。・・・」なのだ。
でも上の、本当の意味での近況を知らせてくれる賀状を貰うと、まだまだ自分は賀状を卒業しない。でも印刷だけの賀状のやりとりは、徐々に減らして行く方向かも知れない。
年に一回だけ、賀状を通して今までの人間関係を振り返る元旦である。
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