柳田邦男氏の講演「戦争と平和」~「戦争が廊下の奥に立つてゐた」
先日、todoさんから、 渡邉白泉さんが1939年に詠んだという「戦争が廊下の奥に立つてゐた」という句を紹介頂いた(ここ)。1941年の真珠湾攻撃の直前の時期である。
先日、NHKラジオ第2「カルチャーラジオ日曜版」「人間を考える~平和ということ(2)講師:柳田邦男」(2015/09/13放送(ここ))を聞いたが、ここでも同じ句が紹介されていた。
<柳田邦男氏の講演「戦争と平和」より>
自分は珍しく、この講演を4回も聴いてしまった。
自分は、たくさん読んでいる訳ではないが、ノンフィクション作家としては、昔の「マッハの恐怖」から読んだ柳田邦男氏と、半藤一利氏が好き。
その柳田邦男氏がこの講演で、「戦争と平和」について、こんな話をしてくれた。
「戦争の恐怖体験は、体に染み付いて、決して忘れない。」
1)世代交代と体験の風化
・現在世を担っている戦後世代の議論の中に、戦争の恐怖や非人間性の話が出て来ない。
・抑止論が盛んだが、何か違う。理屈で考える。戦争を体験した世代は、一線を画している。戦争は絶対にしてはいけない。良い戦争も悪い戦争もない。巻き込まれるのは弱者。
2)戦争を語る視点
・2つの視点がある。一つは国家や国益から戦争を論じる。もう一つは人間一人ひとりの悲劇や実体験から。
3)命の人称性
・一人称(自分)、二人称(大切な人)、三人称(他人)があるが、戦争は限りなく三人称の世界。戦争に一人称、二人称という視点を入れたら、絶対的に戦争は否定しなくてはいけない。
4)人間の無人称化の恐怖
・人間を人間として見ない「無人称化」が戦争で最も怖い。核爆弾のような大量殺戮兵器や無差別爆撃がそれ。ナチスが600万人を殺したユダヤ人は、もはや人間ではない、無人称化の象徴。アイヒマンは最後の裁判で「私は忠実な官僚です。上官であるヒトラーの命令に従っただけです。私に責任はない。」と言ったという。
5)国益論・国家存立危機論
・国を守るとは何なのか、そこで生きている国民、一人ひとりの人間を守ることなのか、を見つめなければいけない。そこを戦争体験者の話を抜きにして語ると、往々にして理屈だけでこね回していってしまう。
6)平和とは何か
今の日本について、たくさんの人と一緒に、もう一度この句を味わいたい・・・
「戦争が廊下の奥に立つてゐた」
| 0
コメント
昨夜のニュースで沖縄の翁長知事がスイスの国連人権理事会で、「沖縄の米軍基地の多さが沖縄の人々の人権をないがしろにしている」と訴えた。そのあとの日本政府代表の嘉治大使の全く無表情な冷たい顔が気になった。「基地問題を人権を扱う会合で取り上げるのはなじまい」と言い切った。私はあの女性の冷たい顔にゾッとした。人間の顔ではないと思った。沖縄の人たちの人権が守られていないのは、日本人なら誰でもわかっている。政府というものは人間の感情がない人たちの集まりなのだと思いました。国民の幸せよりも自分の地位が上がることに重きを置いている人たちに違いない。安倍さんの顔も同じ。人間ではないのだと思うことにしました。恐ろしいことです。
【エムズの片割れより】
今朝、最もイヤなニュースが新聞に載っていました。
「安倍首相、祖父と父の墓参り 安保法成立を報告」
個人的な達成感のために、国民を踏み台にして、不幸に追いやる・・・。そして、それを追認する与党・・・
投稿: 白萩 | 2015年9月23日 (水) 14:41
早速 近くの本屋さんに走りました。
「俳句 8月号」はすでに[9月号]に入れ替わっていましたが 注文しました。一緒に「歌集 小さな抵抗」も注文しました。戦場で 捕虜の刺殺を命じられて 拒否 当然凄まじいリンチ、暴行を受ける中で書かれた「歌集」だそうです。戦争とは「殺し、殺されること」ということが今回の反対運動の中で叫ばれました。
殺すこと…の中には それを強要するものがいて それを決死の覚悟で拒否した人もいたということを 知り感じ 考えたいと思っています。
【エムズの片割れより】
今朝(2015/09/27)の、TSB「時事放談」で、浜矩子氏が安倍政権を喝破していましたが、とにかく国民が「忘れない」ことが出来るかどうか・・・
投稿: todo | 2015年9月24日 (木) 13:14