「書くこと」の意味
先日、朝日新聞でこんな記事を読んだ。
「(記者有論)若い世代の投稿 自分を、他人を、動かす言葉
声編集・加藤真太郎
新聞投稿指導の達人がいる。
東京都町田市立小山中学校の社会科教諭の芝田実さん(52)。「投稿チャレンジ」と銘打ち、宿題の一つとして生徒たちに思い思いの投稿文を書かせる。文章には手を加えず、生徒が希望する朝日、毎日、読売、東京、産経の5紙いずれかに送る。3月まで勤めた立川市立立川第七中学校では、12年間に2万通以上を投稿。1123本が紙面に載った。
私が担当する朝日新聞の「声」欄にも毎週、多い時は10通を超える投稿が芝田先生から届く。原動力を知りたくて、会いに行った。
なぜ新聞投稿なのかを、芝田先生はこう話す。「世の中の動きに関心を持ち、自分の考えを発信できる人間に育ってほしい。新聞投稿を書くと、そのために必要な情報収集力、思考力、まとめる力、表現力、発信力が育まれるのです」
小山中の教室での指導の現場を拝見した。生徒たちが「部活動」「ありがとう」「税金」など自分が書きたいテーマで原稿用紙に向かう。目安は20分間。半分ほどしか埋められない子もいた。芝田先生は「最初は書けなくても、続けることで力がつく」と励ます。
生徒たちの姿を見ながら、私は「書くこと」の意味を考えた。
まず、何を書くか考える。それを探すために自分自身の内面を見つめる。夢、目標、悩みごと、いじめ、マナー、政治、教育、平和……。テーマによって、関心は家族や友人、先生といった身近な存在から社会、国、世界へと広がっていくだろう。知らないことは学び、調べなければならない。投稿文には、もう一つの要素が加わる。読む人に理解してもらうための表現力や発信力だ。
自分の中にあるモヤモヤしたものを文字にして、社会と結びつける。それは自分を発見することであり、自分を鍛えることでもある。
この一連の作業を芝田先生は「成長の種」と話した。言い得て妙だ。
こんな例があったという。教師に暴言を吐いたり、授業を抜け出したりしていた女子生徒の投稿が新聞に載った。その後も何度か載り、周囲の見る目が変わった。自信がついたのだろう。生活態度が変わり、自ら投稿に書いた通り、高校合格に向けて懸命に勉強に取り組んだ。
「声」欄には、1日に200通ほどの投稿が寄せられる。若い世代の意見が、世代を超えた議論に広がることも少なくない。4月に掲載した「シニア世代は働くべきではない」をはじめ、高校生の投稿に賛否両論が寄せられ、何度か反響欄「どう思いますか」につながった。ここに来て、安全保障関連法案や戦争に関する投稿が若い世代からも増えている。
若い人の「言葉の力」は、多くの人の気持ちを動かす。その力が増すように応援したい。」(2015/08/14付「朝日新聞」p14より)
ここに書かれている芝田実先生のスタンスは、大いに同感。
「新聞投稿を書くと、そのために必要な情報収集力、思考力、まとめる力、表現力、発信力が育まれるのです」・・・
その通りだと思う。
ふと、大学1年(教養)の時のいわゆる「国語」の試験を思い出した。日本文学だったか、課目は忘れたが、試験で「書くこと」についての小論文の出題。
たまたま当時、日記を付けていたので、祖母の短歌の趣味のことなどから、書くことについて、色々と書いた。書きたいことが幾らでも浮かび、答案用紙の裏まで書き殴った。
答案の返却の時、最初に呼ばれた。「A」とあった。
しかしサラリーマンになって、あまり「書く」ことは無くなった。それがメールの時代になってから、書くことが日常化した。
それ以来、このblogも含め、自分にとって「書くこと」は日常化している。
過去の自分の文章を読み返すことはほとんど無いが、でもそろそろ人生の締めくくり。
当blogも含め、後の人の迷惑にならない程度に、書き残すことにしようか・・・
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コメント
私はこの「素晴らしい」教師が以前在籍していた中学校に通っていました。この教師をはじめとし、多くの教師から暴力や嫌がらせを受けました。自分が悪かった部分ももちろんあったと思いますが、それにしても今でもあの時受けた暴力や暴言が心の中で大きく存在しており、こんな歳にもなってお恥ずかしいですが、何年もの間、何が正しかったのか、彼が正しければ自分も同じように子供達に「諭す」べきなのか、いや、やはりいくら自分が悪かろうが彼がやったことは間違っていただろう・・・などと、自問自答を繰り返しておりました。
「自分の中にあるモヤモヤしたものを文章にして、社会と結びつける。それは自分を発見することであって、自分を鍛えることでもある」
と、本当に仰っていたのでしょうか。
だとすれば、それは私からして見れば虚栄心でしかないと思います。
なぜなら私は去年、私の思いを文章にし、彼宛に手紙を出しました。
ですが、今まで彼から返事はありません。
私が思った通りの結果であり、彼が私に行った事を肯定する行動でもある様に受け取っております。
願わくば、私たちの子供が私と同じ被害に遭われませんように・・・。
【エムズの片割れより】
「新聞投稿指導」という事実は一つですが、その裏にある真実は色々あるのですね。
暴力や嫌がらせ。先日の小4女児への親の殺人事件で、世間の目が対暴力に向かいました。
教師も人間、とは言え、一点の曇りも無い教育、というのは無理なのでしょうか・・・?
投稿: 元生徒 | 2019年2月25日 (月) 19:02
お返事ありがとうございます。
一点も曇りも無い教育という物は、教育者として志すのであればその道を目指すべきだと思います。ただし、生きとしいける物は所詮、野生であろうとも、自分を含め、所詮棒にぶつかる物だと思ってます。
その場面に出会ったからという理由で大勢を目の前にし、身長差30cm以上はある発育途上の子供の胸ぐらを掴んで、下駄箱に押し付け、お前はこの学校にいらねぇんだよ。なんていう行動をして良いのでしょうか。
そしてそれは過去の事、その時代に合っていた事などと割り切って2017年度のBest Coach賞などと言う、教師による暴力撲滅をうたう賞にノミネートされ、受賞されてしまうのでしょうか。
わたしには子供が二人おります。
もし同じような事を子供にされたら、悲しくなるどころではないでしょう。
想像してみてください。
あなたの子供が、義務教育というお題目の元、選択肢のない道の途中で、些細な間違いを犯したがために、大男から胸ぐらを掴まれ大勢の前で罵声を浴びせられる。拳も向けられている。
犯罪行為と呼ぶには十分すぎると思います。
私は思います。
あの時、勇気を持って警察を呼べば良かったと。
でもそれは今の自分があってこそ。
経験や知識があるからこその結論なんです。
そこが大人と子供の違いであって、その差があるからこそ、絶対に守らなければならない所がある。
側から見れば私はモンスター候補なのかもしれません。
ただ、私は自分の身(家族含め)は自分で守るしかないと思っています。
日本の教育に期待する物は一切ございません。
ただ単に法律で定められた義務教育という物に付き合っていかなくてはならないだけなんです。
投稿: 元生徒 | 2019年2月26日 (火) 22:32
横スレでごめんなさい。
元生徒様の心情忖度して余りあります。
辛いでしょうね。
トラウマは許しによってしか解決できません。
長女は小学校の5.6の担任女教師に言葉の暴力を浴びせられPTSDになり、今もトラウマから抜け出せずにいます。連合赤軍のように毎日標的を定めて苛め抜いたそうです。児童同士にビンタを張らせた鬼女であった
と20数年後に娘から聞きました。自分でびんた張ると手が痛いからと平然と言う鬼女だったそうです。知ってたら警察物です。父母の会の時{適正な指導をお願いします}と発言の私を「あんたみたいな母親だから娘もろくなもんでい」と皆の前であざ笑われました。何故あの時、教育委員会に直訴しなかたのかと今も悔やんでます。信頼する次女の担任に訴えたら「お母さん。子供の担任の悪口を言ってはいけません。あなたは今母親としての賢さが問われている」と言われました。又、PTA会長に直訴したら「わが校の教員は素晴らしい方ばかりです。信頼してください」と言われました。
それから 現在長女は教師となり鬼女を反面教師しています。
元生徒様のトラウマには胸が痛みます。
許し以外ないと言いつつ到底許しがたい事です。まして 晴れがましい存在になってるは耐え難いことですね。
セクハラなら セクハラと認識した時に
訴えれば成立(何年か忘れたが)、
女子高卒業後 かなり経過してセクハラで訴えられ辞任した教師がいました。
投稿: りんご | 2019年2月27日 (水) 09:30
元生徒様
続き
次女は老練な担任の後に新任の綺麗なお嬢さん先生が担任となりました。次女卒業後に同僚と結婚。こともあろうに新婚の彼女は鬼女にいびられ精神を病み退職に追い込まれたそうです。
かなり後になって聞きました。
元生徒様も不運でしたね。
どうか 打ち込めるものを見出して乗り越えてください。
投稿: りんご | 2019年2月27日 (水) 09:41