日本の終末期医療~「親族に違う考えの人もいる」の現実
先日、朝日新聞にこんな記事があった。
「(私の視点)終末期医療 仁愛の心を持てる法律を 黒岩宙司
「医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救うを以(もっ)て志とすべし」。江戸時代の儒学者、貝原益軒の「養生訓」の言葉だが、日本の終末期の医療は「人を救う」というよりむしろ虐待ではないか。日々の臨床のなかでそう思うことがある。
今年2月、カナダの最高裁が、医師による死の幇助(ほうじょ)を禁止した現行法は違憲と判断した。回復が見込めない重い病気で、耐え難い苦痛を受けているなどの条件がある場合に安楽死を認めるという画期的な判決だ。医師会は判決の前に議論し、法の枠内で、患者の死を手助けするか否かを決める際に医師は自らの良心に従う権利を持つという方針を示した。判決はこれを反映したといわれる。
日本はどうだろう。僕らは治すという仁術にはたけているが、終末期の医療となると仁術が難しい。無意味で患者を苦しめるだけの延命から救ってあげようとした医師がことごとく有罪になっている。
周防正行監督の映画「終の信託」は、この実態をリアルに描いた。患者の意思に従って気管内チューブを抜き、鎮静剤を投与した医師が殺人の疑いをかけられ検事に反論する。「あの状態で生きてるのは苦しむだけ。体中に針や管を刺されて、何もできずに、どうして生かされていなければならないんですか。医者や家族が責任を逃れるためにですか」。しかし、孤立無援のなかで医師には有罪判決が言い渡される。
僕自身、末期の肺疾患で救急搬送された患者の息子さんから「胸の管を抜いてください。父も私も望んでいない。文書に署名してます」と懇願されたことがある。途方に暮れ、ある大学病院の呼吸器科部長に電話相談した。「そうしてあげたいが、このご時世、私なら抜きません。モルヒネも使いません。本人や息子さんはよくても親族に違う考えの人もいる」と気の毒そうな返事だった。
挿管して生命維持を開始したのちに抜管が許されない医療は倫理的に問題があると、すでに22年前に海外の学術論文が述べている。これによると、抜管した医師を殺人罪で起訴する日本の検察は「管につながれたまま、死よりつらい状態で生かされ続けることになるかもしれない」という心理的な負担を患者にかけ、倫理的な罪を犯したことになる。
実はカナダの現行の法律は、他の欧米諸国と同じように生命維持装置の中止(気管内チューブを抜くこと)をすでに認めている。今回の最高裁判決はこれをさらに進めたもので、医師が薬物を投与して死の手助けをすることも可能になる。
世界の終末期の医療と日本のそれとは乖離(かいり)するばかりだ。生き方と同じで人の死に方に答えはない。司法や政府、医療現場と市民は力を合わせて、私たちが仁愛の心を持てる法律を作ってほしい。(くろいわちゅうし 医師)」(2015/04/11付「朝日新聞」p15より)
この話・・・
「胸の管を抜いてください。父も私も望んでいない。文書に署名してます」
「そうしてあげたいが、このご時世、私なら抜きません。モルヒネも使いません。本人や息子さんはよくても親族に違う考えの人もいる」
これが現実であろう・・・
でも、人が生まれることに、本人の選択肢はないが、死は本人による選択肢があっても良いのではないか?とも思う。
終末期を、本人の思い通りにしてあげるには、どんな手立てがあるのか・・・?
先日、NHKラジオ第二の「海のほ乳類クジラの博物誌」という番組を聞いていたら、海岸に打ち上がったクジラは、戻しても生き延びる可能性が無いので、苦しまないようにしてあげる。と言っていた。先日も、茨城海岸にイルカが150頭も打ち上がったが、生き延びたのは少ないのでは?
切腹の介錯と同じで、いわゆるトリアージの黒カードの場合、なるべく苦しまずに逝かせてあげるのが、かえって人道的だと思うのだが・・・
話は飛ぶが、先日、WOWOWドラマ「天使のナイフ」を見ていたら、こんな言葉があった。
あなたが生まれた時
あなたは泣いて
周りの人は笑っていたでしょう
だから、あなたが死ぬ時
あなたは笑って
周りの人が泣いている
そんな生き方をなさい
Native American
なかなかの名言である。
人間、はたして笑って死ねるものだろうか・・・
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