ニトリ・似鳥昭雄社長の日経「私の履歴書」
先日、朝起きて居間に行くと、コタツの上に新聞が大きく開かれていた。「何だ!読みっぱなしで」と片付けたら、カミさんが「これを見せたかったの」と言って紙面を指す。
「週刊現代」の広告に、「日経新聞の連載が「面白すぎる」と大評判・ニトリ社長に聞いた「私の履歴書」ホントのところ」という見出し。
実はこの連載、非常にユニークだったので、内容をカミさんに話したことがあり、それでこの広告にカミさんが気が付いたらしい。
今月(2015年4月)の、ニトリ創業者・似鳥昭雄社長の「私の履歴書」は、異例ずくめ。もう半月を過ぎたが、まだ成功の段階に至っていない。
その前半のハチャメチャ人生を、少し抜粋すると・・・
「子供だった昭和20年代は本当に過酷だった。とにかくちょっとでもへまをすると両親からは殴られる。今の時代なら虐待ととられるかもしれない。空腹のあまり「もっと食べたい」なんて言ったら、味噌汁をぶっかけられ、ぶん殴られた。
父からも月に一回ぐらい、気絶するまでなぐられた。熱があっても手伝いは休めない。逆に「気が抜けている」とひどく怒られる。だから頭はいつもコブだらけだった。「これは愛のムチだ」なんて、考えたことはない。それが当たり前だし、疑問には思わなかった。しかも食器が飛び交う激しい夫婦げんかも絶えなかった。勝つのは腕っ節が強い母だ。」(3回より)
「家では殴られながらこき使われ、学校でも悲惨な目に遭っていた。小学生時代はまさにいじめられっ子。ヤミ米屋だったものだから、「ヤミ屋、ヤミ屋」としょっちゅうののしられた。クラスでも有数の貧乏一家で、着ている衣服はつぎはぎだらけ。体も小さく、トイレに呼びつけられてやはり殴られる。」
「当然勉強はできない。のみ込みが悪く、先生が何を言っているのか分からない。だから通信簿も5段階の1か2ばかり。」(4回より)
「中学校の時、北海道大学の職員が住む住宅地へヤミ米を配達しているときの話だ。札幌市内を流れる創成川沿いでばったりと同級生たちと出くわした。嫌な予感が走ったが、もう避けられない。同級生たちは自転車もろとも川に突き落とした。頭から突っ込んでいれば死んでいただろう。
どろどろの姿で家に帰ると、母は驚きながらこういった。「米はどうしたの」。私はいたずらされ、川に突き落とされたことを話すと「落ちた米を拾ってこい」という。まるで漫画のような世界だが、仕方がないので創成川に戻り、どろどろの米を持ち帰った。それを食べたのは言うまでもない。」
「中学校時代も勉強は相変わらず。先生の言うことが頭に入ってこないので、授業中は漫画ばかりを書いていた。当然高校入試はことごとく落ちた。最後のとりでは北海道工業高校(現在の北海道尚志学園高校)。ここを落ちたら全滅だが、やはり不合格だった。
私は「何か手を打たなくては」と考えた。ヤミ米の販売先の友人が北海道工業高校の校長先生だった。夜中に米1俵を届け、「何としてでも合格したいんです」と訴えた。そのおかげかどうかは分からない。補欠合格となった。」
「成績は相変わらず悪い。1年生60人中、成績は58番目。ところが私より下だった2人は程なくやめてしまう。学年どん尻が私の定位置となった。」(5回より)
「そんな短大生活も終わりを迎えた。やはりもう少し大学生活を満喫したい。そこで編入試験を受けたのが北海学園大学だ。当時から道内の私立大学ではトップクラスで、憧れていた。もちろん自分の実力ではとうてい入れない。試験科目は英語と経済学。そこでカンニングを思いついた。英語は編入試験を受ける同じ短大の友人に任せ、経済学は「俺がやる」と決めた。
ところが英語を担当する友人が問題を解くのに必死で、見せてくれない。一方、経済学の試験内容は「マルクスレーニン主義について知っていることを書け」。私も必死で書いたが、教える余裕などなかった。おかげで英語はさっぱりだった。
結果は私が合格し、友人は落ちた。飛び上がって喜んだ。私の点数は経済学が70点で、英語は5点。両方で70点が合格ラインだった。友人は「なんでおまえが受かるんだ」と愚痴る。それまでとにかくいじめられ、バカにされてきたため、周囲を見返すつもりで北海学園大学には入りたかった。」(6回より)
「名門大学へ入ってもこんな調子で、品格もへったくれもない。アルバイトでは夜のスナックで客の未払い金の「取り立て屋」をしたことがあった。当時は高倉健や菅原文太らの任侠映画の時代。私は浴衣を着て、「その筋の人」を演じる。
近所に住む弟分を引き連れ、ツケを払わない客の元へ出向く。「ごめんなすって」。もちろんなかなか支払いに応じようとはしない。そこで弟分が暴れる。そして兄貴役の私が「お客さんは払わないとは言ってないだろう」となだめ役に回る。するとたいていの客は払ってくれる。スナックのママは「どうやって回収したの」と驚き、取り立てたお金の半分をもらった。
あとはパチンコ、ビリヤードにスマートボール。特にビリヤードには自信があり、ハスラーとしてずいぶん稼いだ。この頃、家出して大通公園をうろつく女性が増えてたので、仕事のあっせんをして紹介料をもらっていた。」(7回より)
「契約も取れないまま。ノルマが達成できない他の新入社員は相次ぎ辞めさせられた。私も解雇の対象だが、一つだけ生き残る道を見いだした。花札だ。
所長が大の花札好きで、毎日のように所長室に呼ばれ、朝方まで付き合わされる。実は花札は得意中の得意で、ほぼ所長を負かしていた。私へのツケは3カ月分の給料に相当する金額になり、催促しても払ってもらえない。私はこう言い放った。「クビの時は借金を返してくださいよ」
6カ月が過ぎた。契約は相変わらず取れない私だが、花札のおかげで辞めさせられない。ところが本社がこのことに気づき、所長に解雇するように伝えた。所長は私へのツケをどこかで工面し、「悪いけど、これで辞めてくれ」とお金を渡され、ついに解雇されてしまった。」(8回より)
「2カ月後、滝川市で10人ぐらいの水道工事の現場監督をするようになった。主に上水道と家庭を結ぶのが仕事だ。
監督になったのはいいが、現場作業員をまとめるのが大変だった。昔からの似鳥コンクリートで働く社員もいるが、半分は東北など各地から集まる季節労働者だ。そのリーダー格は体中に入れ墨を彫り、100キロはある巨漢だった。昼間から酒を飲み、面倒な仕事は避ける。昔からいる作業員は当然不満も生まれる。
ちょっと不満があると季節工たちはストライキに入る。そこでリーダーに「みんなと同じように仕事をしてくれないか」と頼んだ。すると「文句があるなら部下たちを引き揚げるぞ」と脅す。「どうしたら言うことを聞いてくれるのか」と聞くと、「力比べ、相撲、花札、酒で全部勝ったらな」という。
花札、酒なら勝てるかもしれない。相撲は得意だが、相手は大きい。まず花札は勝った。力比べは70~80キロの石を持ち、何歩歩けるのかという競争だ。石を運ぶのは仕事で慣れており、勝利。そして相撲だ。体重は65キロしかないが、奇跡的に勝てた。次は酒飲み競争。こちらは勝負がつかず、引き分けた。すると親分は「大学出の割にやるじゃないか。言うことは聞いてやる」と言い、和解できた。
これには生えぬき社員も感心してくれた。道内のどこの現場よりチームはまとまり、仕事のスピードはどこより速く、利益率も群を抜いた。」(9回より)
「1967年(昭和42年)12月に開業した「似鳥家具卸センター北支店」だが、4カ月たっても、売り上げは全く伸びない。・・・
窮状を見かねた母がある日、こんな提案をしてきた。「結婚すればいい。そうすれば炊事洗濯だけでなく、販売も配送も手伝ってくれる」と言う。好きな女性を連れてこいと言うので、大学時代からの知り合いでお気に入りの女性を母に紹介した。すると母はこう言う。「あの子はいい娘さんね。でも美人はお客さんから嫉妬されるから」と認めず、「愛嬌があり、丈夫で長持ちする人を連れてきなさい」と言う。
お見合いの数はわずか数カ月間で7回。ただ、こちらが気に入っても「長時間労働で親と同居」という過酷な条件で結婚してもらえる人は少ない。その年の春、8回目のお見合いで出会ったのが今の家内の百百代(ももよ)だ。
百百代は北海道興部(おこっぺ)町出身で、札幌市の洋裁学校で勉強し、妹とアパートに住んでいた。その大家が母の友人という関係から縁が生まれた。2回ほど会ったが、百百代は「好きな人がいる」と断ってきた。実は結婚するには早すぎるという理由だった。あるとき実家に戻ったところ、なぜか百百代が父と母と一緒にいる。どうやら両親の眼鏡にかなったようだ。
父は「いいお嬢さんじゃないか。結婚しろよ」と迫る。断ってきたのは相手のはずだが、百百代は父母の熱心な説得に応じて、実家を訪ねてきたという。何より家具店を切り盛りすることに興味を覚えたそうだ。両親は「朝までに返事しろ」と強硬で、結局結婚を決めた。24歳の私と20歳の百百代は68年6月16日、札幌ロイヤルホテルで式を挙げた。結婚式を含め、2人で会ったのはたったの3回だ。
家内は愛想がいいだけでない。何でも高校時代は「女番長」だったそうで、度胸も満点。商売上手で年間700万円の売上高が採算ラインだったが、結婚1年目から1000万円に達した。居住スペースだった2階も売り場にして2年目には1500万円にまで伸びた。
私は配達と仕入れに専念できた。実はこの役割分担が似鳥家具センターが成長する原動力になった。もし私が販売がうまかったら、ただの優良店に終わっていた。私が仕入れや物流、店作りに集中したことで企業として羽ばたくことができたわけだから。」(11回より)
「だが麻生店が開店した頃、地元百貨店の家具売り場の責任者を営業部長としてスカウトしたところ、再び会社倒産の危機を迎えた。営業部長が仕入れ価格を水増しして、自分の懐に入れていたのだ。大事な業務をあっさり新参者に任せてしまう私は本当に脇が甘い。店頭価格がじわり上昇し、客足も低下。売り上げは下降線をたどった。
ある取引先から「お宅の営業部長から賄賂を要求されて困っている」という話を聞いた。実際に賄賂を断った問屋は打ち切られていく。一度問い詰めたら、「会社のためにやっているのに、なぜそんなことを言うのか」と逆ギレしてくる。昼間から札幌競馬場をうろつき、競馬三昧。さらにひどい話がある。勝手に会社の商品を札幌から離れた石狩市などで売っていたのだ。
社内犯罪の根は深かった。営業部長だけではなく、20人の社員のうち、私と身内、一部の社員を除く16人が連座していた。ある夜、私の家に酔っ払った営業部長がやってきて、ドアをどんどん蹴る。家に上げると「俺を疑っているらしいが、証拠がないだろう。逆らったら会社をつぶすぞ」と脅す。私と家内は目の前に座らされる。たまたま家にあった洋酒「ナポレオン」もすべて飲み干された。米国視察時に奮発して買った楽しみだったのに。
私と営業部長は社内の味方を増やそうと、お互いに社員に飲ませ食わせの大盤振る舞いをした。もう奪い合いだ。すると調子に乗った社員たちは「懇親会を開きたいのですが」と飲み代を請求してくる。断ることもできず、交際費はうなぎ登りだ。眠れない日々が続いた。店の販売員も売り上げを懐に入れる始末。再び資金繰りの危機を迎えた。「これはつぶれる」。このままつぶれたら一生後悔する。やるだけやってつぶれてやろうと腹をくくった。」(15回より)
ついつい面白くて、長くなってしまった・・・
「人の不幸は蜜の味」という。他人の不幸話は、聞いていて楽しい!!優越感に浸れるから・・?
でも、このニトリ社長の話は、少々度が過ぎている。ここまで赤裸々に自分のネガティブな過去をさらけ出せるものだろうか・・・。何のてらいも屈託もなく、伸び伸びと自分の敗北の(?)前半生を振り返っている。
自分も今までたくさんの「私の履歴書」を読んできた。しかし、ここまで敗戦を書き連ねた例は知らない。こんな話を読んでいると、かえって氏のこれから語る“底抜けの自信”を感じてしまう。最後の逆転劇があるからこそ、自信を持ってこんな敗戦談が書けるのだろう。
Netで検索しても、氏の経歴については、あまり記載が見つからない。wikiにも記載は少ない。
ともあれ、いつから反撃に出て来るのか・・・。今朝の16回目を読むと、いよいよ反撃かな・・・とも感じるが、“予断を許さない”!?
月も半ばを過ぎた。後半の“つまらない成功談”を楽しみに読む事にしよう。
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