死んだ後、思い出してくれる・・・FMシアター「夏の午後、湾は光り、」より
毎週聞いているNHK FMの「FMシアター」。
今週(2015/03/21)は、第35回BKラジオドラマ脚本賞最優秀賞作品だという「夏の午後、湾は光り、」。
あらすじをNHKのHPから引くと、
「京都府・伊根町の分校に通う16歳の多賀子は、たった一人の園芸部員。育てた花をリヤ カーに乗せて、地域の人々に売り歩いている。ある夏の午後、花を売り終わって学校へ戻る途中、多賀子は美しい女性・友里に出会う。田舎道に不釣合なお洒落をした友里は、多賀子がひそかに片思いしている忠志先生の、別居中の妻だった……。
足を挫いた友里をリヤカーに乗せ、先生の元へと運ぶ羽目になった多賀 子。複雑な思いを抱えてリヤカーを引く多賀子だったが、背中合わせで言葉を交わすうちに、友里と心を通わせていく。
リヤカーが進む山道から、午後の陽光を受けてきらめく伊根湾が見える。のどかな田舎町を舞台に、「忘れない」ことの苦しさと尊さを描く。」(NHKのここより)
このドラマを聞きながら、頭に浮かぶ風景・・・。“京都府・伊根町の分校”をNetの地図で探すと、実際にあった。こんな地図を頭に浮かべながら聴くと、益々風景が頭に浮かぶ・・・
このドラマの中の、こんなセリフが心に残った・・・
<FMシアター「夏の午後、湾は光り、」より>
このセリフを、少しだけ文字にしてみると・・・
「おじいちゃんやおばあちゃんが戦争の話をしてくれる。
・・・
皆、誰かに覚えてて欲しいねん。おじいちゃんもおばあちゃんも、遠からず死んでしまうやろ。そしたら、この国は、戦争がどんなに怖かったか、悲しかったか、それを知らん人ばっかりになるだろ。
いつか戦争が始まりそうになったとき、あれは怖いものやから止めとき、と言う人がいなくなるやろ。皆、それが怖くてしょうないねん。
それと、おじいちゃんもおばあちゃんも、自分のこと、誰かに覚えてて欲しいねん。多賀ちゃんに持てる限りの思い出話をした人間がいたこと、ずっと覚えてて欲しい。自分がこの世に居なくなっても、時々思い出してくれる人間が居るって、嬉しいことやで。
それはもう、安心して死ねる気がするくらい、嬉しいことやと、先生は思うわ・・・」(桑原亮子・作「夏の午後、湾は光り、」より)
別に目新しいセリフではない。良く言われていること。
でも、きな臭い話だが、現政権が日本を戦争の出来る普通の国にしようと突き進んでいる今、改めて心に響く言葉・・・
それに、死んで行く人の心情も、何か分かるような気がする・・・。
話は変わるが、昨年、叔父が亡くなった。3人いた叔父の中で、唯一子供がいなかった。それで、定年後、夫婦で熱海の温泉付きの豪華老人ホームに移ったのだが、二人とも献体を申し込んでいた。お骨を墓に納めても、継ぐ人がいないため、たぶん献体の後は、共同墓地に入るのだろう。
叔父はそれを、かなり割り切っていた。夫婦ともに身寄りがいないので、死んだらオシマイ・・・。献体してそのまま消える・・・
それはもう、仕方のない選択肢。
そんな事を思いながら、つくづく我が家の孫という命の継承者の存在を、有り難いと思う。我が唯一の孫も1歳4ヶ月になった。もう自在に歩き回り、何やらしゃべろうとしている。
歯が上下4本ずつ。良く食べるので、女の子なのにお腹はポンポン・・・。健康そのものだ。
この、すくすくと育つ新しい命を見守りながら、自分はまだまだ幸せだと思う。孫が可愛いという通常の次元を超えて、命の継承、いや、将来、自分たちの存在を思い出してくれるかも知れない命の存在に対して、有り難いと思う。
上の物語、いや上のセリフを聞きながら、月並みだが、この子の成長を見届けるまで、簡単には死ねないぞ・・・と思い、そしてまた、この命の継承に対して感謝し、自分もそのうち“安心して死ねる気がする”かも・・・と思いつつ聴いたドラマであった。
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