「いいがかりつけてなかった? 徳川家康」
先日の朝日新聞にこんな記事があった。
「(文化の扉 歴史編)いいがかりつけてなかった? 徳川家康
関ケ原の戦いの後、豊臣方が建立した京都・方広寺の鐘の銘文にいいがかりをつけて、大坂冬の陣を起こしたとされる徳川家康。だが、史料からみる限り、実情はいささか異なるようだ。
徳川家康は1542年、松平広忠の嫡男(ちゃくなん)として岡崎城(愛知県岡崎市)で生まれた。62年、尾張の織田信長と同盟。72年に三方ケ原の戦いで武田信玄に大敗するものの版図を広げ、84年の小牧・長久手の戦いでは当時、最大勢力を誇っていた豊臣秀吉を苦しめる。
豊臣政権下の五大老となってからも天下を狙う野望を胸に、1600年の関ケ原合戦では豊臣恩顧の大名を裏切らせて石田三成率いる西軍を破る。
1603年には征夷大将軍に任じられ、05年にはそれを息子の秀忠に譲るも、14年、豊臣秀頼が建立した京都・方広寺の釣り鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」とあるのを「家康の名を引き裂いて呪詛(じゅそ)するもの」といいがかりをつけて大坂冬の陣を起こす。さらに講和の際、外堀だけの約束だった大坂城の堀を内堀まで強引に埋めて裸城にし、翌年の夏の陣で豊臣氏を滅ぼしたとされる。ドラマなどでは、腹黒い狸(たぬき)おやじというイメージで描かれることが多い。
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だが、こうした家康像は修正が必要なようだ。
国際日本文化研究センター教授の笠谷和比古(かさやかずひこ)さん(日本近世史)は、方広寺の鐘に関する家康の抗議は「筋が通っており、捏造(ねつぞう)などではない」と話す。
証拠は銘文を選んだ僧の清韓が残した弁明書だ。清韓は「国家安康と申し候は御名乗りの字をかくし題に入れ」と記し、意識的に「家康」の2文字を入れたことを認め、祝意を込めたと主張する。
だが当時、人をその諱(いみな)(この場合は家康)で呼んだり、諱を無断で鐘銘に使ったりするのは礼を失する行為。「一方の『君臣豊楽』では豊臣の文字を入れて秀頼や秀吉などの諱は使っていない。呪詛といわれても仕方ないのでは」
また、大坂冬の陣の後に行われた堀の埋め立ても、外堀だけの約束だったのを徳川方が強引に内堀まで埋め立てたとされるが、当時の第一次史料にはそうした記述はないという。「二の丸や三の丸の堀の埋め立てには1カ月以上を要しており、その間にトラブルが生じた様子もない。豊臣方が止めるのを押し切り、徳川方が勢いで埋めたというような事があったとは考えにくい」
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笠谷さんによれば、家康は元々、豊臣家を滅ぼそうなどとは考えていなかった可能性が高いという。
関ケ原合戦の前に、のちに東軍に属する武将が集まって行われた小山評定は、当初は石田三成の謀反を鎮定してほしいという増田長盛や淀殿の要請に応じる形で方針が決定されており、関ケ原後の領地の再配分も、あくまで五大老の筆頭という立場で行っている。
「領地の給付状況をみると、西日本には徳川譜代の大名がまったく配されていない。家康は、東日本は徳川、西日本は豊臣という、『二重公儀体制』による全国支配を考えていた節がある」
家康が征夷大将軍に任じられ、それを息子の秀忠に継がせる形としたのも、「秀頼には将来、秀吉と同じく公家の最高位の関白になってもらい、将軍と関白という二つの権威でそれぞれ日本を治めようとしたから」と推測される。
では、なぜ家康は豊臣氏を滅ぼしたのか。笠谷さんは「彼は二重公儀体制を志向しながら、自らの死後、実績のない秀忠ではそれを支えきれないと危惧していた」と話す。「豊臣の一大名に戻れればいいが、徳川家が滅ぼされてしまう可能性の方が高い。悩んだ末に踏み切ったのだと思います」
幕府成立後、神君と尊ばれ、神にまで祭られた家康だが、明治維新以降は新政府の旧敵ということでマイナスイメージが強調されるようになる。しかし歴史は家康も悩める人間であり、人の親であったことを私たちに教えてくれる。(編集委員・宮代栄一)」(2015/01/12付「朝日新聞」p24より)
この論は、なかなか面白い。自分は今まで、銘文や堀の埋め立ての話も、そして、いいがかりの理屈も含めて、まったく疑ってこなかった。
しかし、特に堀の埋め立てなど、確かにこれは大工事。1ヶ月以上も工事をしていたら、その工事を拒否したり妨害することは出来たはず。それが、もし平穏に行われていたとすると、約束があったという考えも分かる。
徳川家康といえば、山岡荘八で読んだ。読書家ではない自分だが、30年以上前、世界で一番の長編ということで、山岡荘八の「徳川家康」を読んだ。現役真っ盛りの頃だ。
この本は面白く、次々と読破していくのに達成感を覚えたもの。1冊を一晩で読んだ事もあった。それを読み終えた後、同じく山岡荘八で「豊臣秀吉」も読んだ。この時期、山岡荘八に少し凝っていた。
だから、上の二つの話も、完全に疑っていなかった。それを覆すとは、何とも面白い。
肝心なのは、証拠。
上の記事によると、清韓が「意識的に「家康」の2文字を入れたことを認め、祝意を込めたと主張する。」とある。
一方、wikiの「大坂の陣」の項にはこうある。
「この事件は豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの俗説が一般に知られているが、上記にあるように、いずれの五山僧も「家康の諱を割ったことは良くないこと」「前代未聞」と回答し、批判的見解を示したものの、呪詛までは言及しなかった。しかし家康の追及は終わらなかった。例え、銘文を組んだ清韓や豊臣側に悪意はなかったとしても、当時の諱に関する常識から鑑みれば、このような銘文を断りなく組んで刻んだ行為は犯諱であることには違いなく、呪詛を疑われても仕方のない軽挙であり、祝意であっても家康本人の了解を得るべきものであった。姓が用いられた豊臣と、諱が用いられた家康の扱いの差についての指摘もある。家康のこの件に対する追求は執拗であったが、家康の強引なこじつけや捏造とはいえず、崇伝の問題化への関与も当時の史料からみえる状況からはうかがえない。しかし、崇伝も取り調べには加わっており、東福寺住持は清韓の救援を崇伝へ依頼したが断られている。清韓は南禅寺を追われ、戦にあたっては大坂城に篭もり、戦後に逃亡したが捕らえられ、駿府で拘禁されたまま1621年に没している。なお鐘と銘文は、方広寺にそのまま残され、現代に至っている。」
なるほど・・・。少なくとも、自分の思い込みは、どうもそれだけではないようだ。
一方、堀の埋め立てについては、同じくこうある。
「和議条件の内、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていた。この城割(城の破却)に関しては古来より行われているが、大抵は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものであった。
しかし、徳川側は徹底的な破壊を実行する。松平忠明、本多忠政、本多康紀を普請奉行とし、家康の名代である本多正純、成瀬正成、安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を埋めた後に、一月より二の丸も埋め立て始めた。二の丸の埋め立てについては相当手間取ったらしく周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行した。講和後、駿府に帰る道中に家康は埋め立ての進展について何度も尋ねている。工事は23日には完了し、諸大名は帰国の途に就いた。この際、門や櫓も徹底的に破壊されている。
豊臣方は「二の丸の埋め立ては当方の受け持ちである」と抗議したが、徳川方は「工事が進んでいないので、手伝う」といい約定破りのかたちでそのまま、埋め立てを行ったという説もある。」
これも、なるほど・・・である。
つまりドラマのように、「問答無用!」ではなかったようだ。
和議条件で、三の丸と外堀とともに、二の丸も埋められるようになっていたとすると、誰が埋めようが良い訳で、「言い掛かり」では無い事になる。
今回は、自分の再認識の勉強用だが、風説とは別に、歴史には色々な事実や背景があるということだ。歴史は奥が深い・・・
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コメント
今年は確か 家康没後400年だと思います。
信長、秀吉大好きという人が世の中には多いらしいけれど私はどちらも大嫌いです。
沢山の寺を焼き僧侶、信者を殺した信長、朝鮮侵略をはじめ 唐、天竺までその手に収めることを夢みた誇大妄想狂―ーー秀吉。
この2人に比べ家康は3世紀にわたる[太平の世]の基礎を築きました。特に17世紀最初の100年間で耕地面積を倍増させそれ故日本の人口も2倍になりました。戦争に向けられていた[力]を「国造り」に向けさせたと理解しています。家康が好きな理由です。
【エムズの片割れより】
確かに信長と秀吉は、自分の権力に酔っていた独裁者。しかし家康はプロの政治家、という感じがします。
投稿: todo | 2015年1月24日 (土) 05:37