「百人一首で好きな歌」ベスト10
皆さま、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
さて、先日の朝日新聞に、正月らしい「百人一首で好きな歌」ベスト10が載っていた。
「(beランキング)百人一首で好きな歌 時を超えて重なる気持ち
学校の宿題で覚えようとする息子を見て久しぶりに百人一首のことを思い出しました。何十年か前、意味も十分理解せず(または「ももひきや……」など誤ったイメージで)暗記した大半は忘れましたが、改めて鑑賞すると込められた心情、詠まれた背景や歌枕に興味がわきます。お気に入り、十八番(おはこ)の歌を聞いてみました。
1位は、富士山の雄大な景色を万葉歌人が歌いあげた「田子の浦に……」。「教科書で紹介されていて一番最初に覚えた」(群馬、49歳男性)という人も多いようだ。「子どものころ 祖母が口ずさんでいた。祖父母は静岡生まれ、満州で終戦を迎えた」(東京、78歳男性)というエピソードには故郷や故国への思いがしのばれる。
ランキング入りは少なめだが、百人一首には恋の歌が多く、43首に上る。「『忍ぶれど……』では中学の時、片思いに終わった学年一の美少女への初恋をほろ苦く思い出す」(静岡、77歳男性)、「明治生まれの父が結婚前に母に贈った本に、『瀬をはやみ……』の歌が書かれたしおりがはさんであった。中学生だった私は意味もろくにわからないままこの歌が好きになった」(北海道、82歳男性)。長崎の女性(57)は「あひみての……」の歌に「恋愛をこれほどみごとに表現するとは。今も昔も恋する人の心は同じ」と感心する。一方、「保育園で息子が3首ぐらい覚えてきたが、意味を伝えるのが難しかった」(滋賀、44歳女性)という場面もある。
■かるた上手は往年の乙女ら
百人一首を選んだのは平安末期から鎌倉初期に活躍した歌人、藤原定家だ。知人から山荘のふすまに張る装飾用の色紙を頼まれて書いた。広く世間に知られたのは室町時代、連歌師の宗祇が和歌の「テキスト」として紹介して以来らしい。かるたとして広まったのは江戸時代。初期のものは手書きの高級品で良家の子女の教材用とみられるが、木版で量産されると庶民に普及した。明治に入り競技としても盛んになり、「万朝報(よろずちょうほう)」を創刊した黒岩涙香が1904年にルールを統一した。
定家の山荘があった京都西郊の小倉山近くに、百人一首がテーマの博物館「小倉百人一首殿堂 時雨殿」がある。11月下旬は周辺の嵯峨野・嵐山は紅葉の盛り。館内に展示された宮中歌合わせの再現ジオラマ、100人の歌人が勢ぞろいした人形などとあいまって、和歌が生活の一部だった平安貴族の世界が身近に感じられる。
学芸員の東浦由高さんは「百人一首には当時の評価は必ずしも高くない歌も入っています」という。官選の歌集と異なり、70歳を超えていた定家が心の琴線にふれた歌を自由に選んだ結果らしい。「世に知られるまでの経緯やかるたの始まりなど不明なことも多いですが、これほど日本人の生活に溶け込んだ古典はないのでは」
百人一首のかるた取りに血が騒ぐのはどうも女性に多いようだ。「ふだんおとなしい母ががぜん張り切っていた」(青森、55歳女性)、「孫とのかるた取りでは、なるべく手を出すまいとこらえるが、次第にエスカレート。孫ががっかりしてしまう」(神奈川、68歳女性)、「認知症の義母が連勝です。子どものころの記憶が鮮明に残っているよう」(徳島、52歳女性)。かるた会は明治の小説「金色夜叉」にも書かれたように、かつては男女が出会う場でもあったという。胸をときめかせた少女たちも多かったのだろう。
恥ずかしながら記者が今回初めて知ったのは、北海道の板かるた。木製の札に独特の書体で書かれ、読み手は下の句だけ読む。北海道出身の千葉の男性(72)は「熱が入ると木札が飛び交うので、始める前にふすまや障子を外した」と記憶する。
かるた取りをするかアンケートで尋ねたところ、「よくする」3%、「たまにする」12%、「めったにしない」28%、「まったくしない」50%。少し寂しい結果だが、東京の男性(70)は60年ぶりに再デビューしたという。「67歳でボケ防止に競技かるたを始め、今は同世代の人たちと毎週楽しんでいます」(大庭牧子)
<調査の方法> 朝日新聞のウェブサイトでデジタル会員登録者を対象に11月中旬にアンケートをした。回答者は1555人(男性56%、女性44%)。小倉百人一首の中で好きな歌、思い出深い歌を五つまで選んでもらった。」(2014/12/13付「朝日新聞」b2より)
<「百人一首で好きな歌」ベスト10>
① 田子の浦にうち出でて見れば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ(山辺赤人)(525)
② 花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに(小野小町)(462)
③ 天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも(安倍仲麿)(397)
④ 春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣干すてふ天の香具山(持統天皇)(387)
⑤ ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ(紀友則)(319)
⑥ ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは(在原業平朝臣)(266)
⑦ 忍ぶれど色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで(平兼盛)(220)
⑧ 君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな(藤原義孝)(183)
⑨ 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ(崇徳院)(172)
⑩ 奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき(猿丸大夫)(165)
残念ながら、自分が覚えているのは、①~⑤くらいまで・・・。
今、家庭で百人一首のカルタをするのは1割程度らしい。思ったより多い・・・!?
思い出すと、我が家でも昔は正月によくやっていた。と言っても、明治27年生まれの祖母がまだ生きていた頃の話。祖母が亡くなってからは(昭和50年代以降・・・)、たぶんやったことはない。
短歌作りが趣味だった祖母は、自分が学校で習って、「春過ぎて 夏来たるらし白妙の 衣ほすちょう天の香具山」と言うと、喜んでいたもの・・・。
自分が最初に覚えたのは、この歌だった。意味?良く分からないまま・・・
「田子の浦にうち出でて見れば・・・」も「天の原ふりさけ見れば・・・」も「ひさかたの光のどけき・・・」も、意味を問われると、答えられない。(何せ、高校時代の古文の漢文も大キライだったので・・・)
ま、たぶん語調だな・・・。何となく、口に出すと語調が良いので誰でも覚えやすい。それが上位にランクされた原因!?
正月の風景も変わった。自分が小学生の頃は(昭和30年代の最初)、元旦は学校に行って、紅白の餅を貰い、家に帰って、お年玉が貰えるかとドキドキして・・・。そして親父が「食 べるものはあるのだから、そんなのいらない」と言っているのを聞いて、涙を流し、影でそっとお袋から少額のお年玉を貰って、それを手に喜び勇んで外に出たもの。
考えてみると、お年玉については悲しい思い出しかないな・・・。
それでも霜柱でぐちゃぐちゃになった道を、お年玉で買った竹馬で歩く・・・。そんな日本の風景も遠い昔・・・。(この写真はNetから拾ってきたもの)
でも今日は元旦。この歳になると、正月は年賀状位しか変化点はない。年賀状も、大学時代以降、会ったことが無いし、またこれからも会わないだろう昔の友人とも、惰性的に?やりとりしている。
やはり年賀状は「まだ生きてるよ~」の連絡か?
ともあれ、時間が過ぎるのが早い。そして、今年の目標も「何事もないこと」ナンテ保守的になってしまう。
今年の正月も、百人一首どころか、何も事件が無い、喜ばしい正月であるが、この平穏が一年続くことを祈りたい。
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コメント
初めまして。現在66歳の高齢者(^_^;)です。
百人一首は今はやりませんが高校時代には昼休みに机を寄せて友人同士でやってました。皆それぞれにこの札だけは必ず取るという得意札があったりしました。私は「夕されば門田の稲葉訪れて葦の円屋に秋風ぞ吹く」(源経信)が得意札でした。好きな歌はどちらも恋の歌ですが「由良の戸を渡る舟人舵を絶え行方も知れぬ恋の道かな」(曽丹)「難波潟短き葦の節の間も逢はでこの夜を過ぐしてよとや」(伊勢)。
そう言えば高校2年の時に黒岩涙香の孫娘と同級でした。彼女と一緒に百人一首をした記憶は無いけど、クリスチャンで純真な人でした。大学生の頃に何かの用で黒岩さんと電話で話した事あったけど、その時既に結婚していたと記憶しているので早婚だったんですね。僕は結局未婚のままですが(^_^;)
【エムズの片割れより】
当方と同じような年代のようで・・・
高校で百人一首とは、ウチは茨城の高校でしたが、やらなかった・・・。
黒岩涙香とは知らなかったけど、偉い人なんですね・・・
投稿: 片島諒 | 2015年1月11日 (日) 19:40
黒岩涙香は一般には明治の一時期は日本最大の発行部数だった新聞「万朝報」の発行人として知られてますが、デュマの小説「モンテクリスト伯」の翻案小説「巌窟王」を書いたり、地方毎に違っていた百人一首のルールを整理して統一ルールを作り百人一首協会の初代会長を務めた人でもあるようですね。
【エムズの片割れより】
そうなんですか・・・
投稿: 片島諒 | 2015年1月12日 (月) 16:15
その人と出会った時、彼は自分の住所を書いて手渡してくれました。住所の漢字の読み方が分からなかったので、問い返したら「大江山生野の道の遠ければまだ文もみず天の橋立」の生野の隣と答えました。4年以上の月日が流れ、私がほかの人との結婚が決まった時、「あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびのあふこともがな」と送りました。出会いも別れも百人一首のお世話になりました。五十数年たってふと思い出しました。残念なことに「今ひとたび」の願いはかないませんでした。
【エムズの片割れより】
毎度毎度“恐れ入って”います。学のある人は違いますね~。和歌で返すとは・・・
昔、独身の頃、学生時代の同じサークルだった女性から、「2日後に結婚するので、祝電を下さい」とのハガキを貰いました。
もちろん打ちましたが、和歌などという高尚なワザは使えませんでした。
そんな昔話を、ふと思い出しました。
投稿: 白萩 | 2017年1月 9日 (月) 00:00