「頑張れ、受験生!」「死後同居?」湊かなえのコラムより
今日の日経夕刊の「プロムナード」というコラム。湊かなえ氏のタイトルは「ありがとう、さようなら」。読むと、半年続いた連載が今日で終わりとか・・・
先日も「旅立ちのBGM」(ここ)を取り上げたが、当blogのネタ用フォルダにまだ眠っている氏の記事を思い出した。だいぶ前の記事だが、読んでみよう・・・
「(プロムナード)頑張れ、受験生! 湊かなえ
サイン会で読者の方から、私の小説を読むきっかけとなった作品を挙げられることがよくあります。映像化されたものがほとんどですが、今年に入ってから、私の作品の中では1、2を争うマイナーな短編集がその中に混ざるようになりました。
入試や模擬試験の問題として取り上げられたからです。一部抜粋という形だったので、続きが気になって本を読むことにした、と言われ、そういう出会いがあるのだなと、とても嬉(うれ)しく思いました。
入試問題となる場合、試験前の問題流出を防ぐため、引用されることは原作者に知らされません。サイン会の後に、入試問題として使用しましたと、問題用紙と模範解答が届きました。有難(ありがた)いことに数校が別々の短編を取り上げてくれています。早速解いてみるか、とワクワクしながら問題用紙に向かいました。
まずは漢字問題。私は小説を書く際、自分が書けない、読めない漢字はなるべく使わないように心がけています。普段口にしない単語や熟語もそうです。
私の作品の登場人物は、自分と同様、一見どこにでもいそうな人たちばかりです。だから、特別な言葉は用いません。「驚いた」よりも「驚愕(きょうがく)した」の方が字面としては賢そうに見えるけれど、日常生活の中で「驚愕した」と言ったことなど、おそらく一度もないので、小説でも「驚いた」と書きます。そのため、漢字の読み書きは全問正解でした。
本文中に5カ所ほど空欄があり、適切な擬音語、擬態語を選びなさいという記号問題がありました。こんなに多用していたのか、と気付かされ、猛反省です。擬音語や擬態語はイメージを伝えるのにとても便利ですが、どこか漠然としており、これらを頼らずに描写することを意識して書いた文章の方が、より鮮明に場面を浮かび上がらせることができると自分に言い聞かせながら書いていたはずなのに、と。
ある担当編集者からは「……」を使うのは手抜きだと言われたこともあります。みんな使っているのに、と不満に思いながらも、「……」と書いた場所に無理やりにでも言葉を当てはめてみると、あら不思議。奥まで踏み込んでいたと思っていた人物の内面に、さらにもう一歩入ることができたような気がして、おおっ、と歓声を上げてしまいました。
人物の内面。傍線部の時の主人公の気持ちを何文字で答えなさい、という問題もありました。これははじめから模範解答を見てしまいます。そして、ああそうだな、と納得はするのですが、それは自分が全文を知っているからで、抜粋された箇所だけ読んでも解るのかな、と心配になったりもするのです。
逆に、この作品を読んだ人が試験を受けていたら、とも想像してみます。この学校に入るのは運命なんじゃないか、と奇跡に遭遇したような気分になり、絶対に合格できると確信して、実力以上のパワーが発揮できそうです。湊かなえがそれほど好きなわけじゃないけど、お母さんが読んでいたからたまたま手に取ったという人は、お母さんありがとう、と心から感謝するかもしれない。ついでに湊もありがとう。
楽しい想像が尽きることはありませんが、出会いとは予期せぬところに転がっているものであり、今後も作品を通じて一人でも多くの方と出会えたら幸いに思います。(作家)」(2014/11/11付「日経新聞」夕刊p7より)
「(プロムナード)死後同居? 湊かなえ
田舎の農家の大家族で育ったわたしは、都会のサラリーマンの核家族に憧れていました。この夢だけは絶対に叶(かな)えてやると、強く誓っていたのに、自分の田舎とは別の田舎に住む長男と結婚してしまいました。それでも構わないと思えるような大恋愛ではなかったのですが……。人生とはなかなか計画通りにはいかないものです。
しかし、NOと言えないわたしが一つだけ、結婚直後にきっぱりと宣言したことがあります。
「同居はしません」
家として完成している旦那さんの実家は、何年経っても自分の家ではなく、ただ住まわせてもらっている場所にしかならなそうに思えたからです。
結果、旦那さんの実家から自転車で10分のところに家を建て、10余年、良い関係を築けているのではないかと思います。
ところが、先日、旦那さんのおじいさんの法事がありました。会ったことがないため、思いを馳(は)せることもなく、炎天下、墓前でお寺さんが読経するのを聞きながら、ぼんやりお墓を眺めていると、ふと、疑問が生じてきました。
わたしが死んだら、この先祖墓に入るのか?
信仰心の薄いわたしは死んだら全部終わりだと思っています。死後の世界などあるはずがない。でも、もしあったらどうしよう。お墓が一つの家だとしたら、会ったこともない旦那さんのご先祖たちと一緒に住むことになる。何人入っているのか知らないけれど、大、大、大家族ではないか。よそ者のわたしはどれだけ気を遣わなければならないんだ。
どうにか回避できないかと考えました。死ぬ前に自分の墓を建てておくのはどうだろう。周囲に空きはないので、少し離れたところになるけれど、それくらい距離があった方が上手(うま)くいくはずだ。それなら、個人墓ではなく、夫婦墓の方がいいかもしれない。そもそも、墓なんているのだろうか。トンガの海や大好きな南八ヶ岳に散骨。しかし、残った人に負担をかけたくはない。
答えが出ないまま、食事の場に移り、その席で旦那さんのお母さんに訊(たず)ねました。
「わたしが今死んだら、やっぱり、××家(湊はペンネームです)のお墓に入らなあかんのやろか」
「しゃあないやろな」
仕方ないと言われては、それまでです。知っている人が誰もいないわけではないし、骨壺(こつつぼ)が部屋みたいなものだろうし、年々図太(ずぶと)くなっているので、同居になってもどうにかやっていけるのではないかな、という気もしています。
妻たるもの、夫の家の墓に入るのは当然ではないか。死後の同居がイヤだと? このバカものが!
と、長年、身を粉にして家庭を支えてきたと自負している男性方からお怒りの声が聞こえてきそうなことも重々承知しています。しかし、実際、世の奥さま方はお墓のことをどんなふうに考えているのでしょう。特に、そういう方々の奥さまは。
問題を先送りにするため、市販薬で1週間ほどダマしダマしやり過ごしていた胃痛を診察してもらいに、病院に行きました。コーヒーを控えるようにと言われ、それを原動力に原稿を書いているわたしは、今は墓よりもそちらの方が深刻な問題になっています。(作家)」(2014/8/12付「日経新聞」夕刊p7より)
よく読んでいた欄なので、終わるのは残念だが、仕方がない。しかし、この連載は上の記事のように、なかなか楽しかった。氏も自由に書いていたようで、自書のPRなどをしていた記事もあった。
それで、自分は湊かなえ氏の小説を読んだことがあったかな・・・と考えると、無い・・・
そもそも自分は小説をほとんど読んでいないのだ。でも湊かなえの映画やドラマは見たことがある。映画で「告白」は見たし(ここ)、wowowドラマで「贖罪」も見たな・・・
でもこんな“おっかない”小説を書く作者も、こんなコラムも書くんだね・・・。
とにかく読んでいて、ついニヤッとする楽しい連載であった。
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