「鼻歌」について
先日、こんなコラムを見付けた。
「絶唱カラオケ 大竹昭子
友人が出産し、久しぶりに生まれたての赤ん坊に接した。泣くときの様子に圧倒される。顔面が収縮して梅干し状になり、ああ、来るなと思う間もなく、縮こまっていた力が泣き声になって一気にあふれでる。すばらしいエネルギーの爆発。
笑う表情も愛らしいが、どこか予定調和的なにおいがある。それに比べて、泣き叫ぶ行為には、説明のつかないものが体の奥から突き上げてくるような生命の勢いが感じられる。
ふるえるのは声帯だけではない。体外に出ようとする力に、全身が突っ張り、振動する。じっと見ていると、もしかしたら人間が成長とともに忘れてしまうもっとも劇的なものが、この泣き叫ぶという行為なのではないかとすら思えてくる。
大人になると、声はもっぱら言葉をしゃべるために使われる。それ以外の目的で声帯をふるわせる機会はめったにない、と考えてふと思い浮かんだことがある。
目覚めのいい朝にコーヒーを淹(い)れながら、または洗い立ての洗濯物を陽に干しながら、ふと口をついて出る鼻歌。あのとき、自分の体から出た音が空気をふるわせることにシンプルな歓(よろこ)びを感じとってはいないだろうか。
鼻歌は気がついたら歌っていたというような無意識の行為だが、それが高じてもっと大きく声帯をふるわせたいと思ったらどうするか。昔なら海や山にむかって叫んだかもしれないが、いまの人はたぶんカラオケにいくだろう。そこではだれかに聴かせるためよりも、自分のために歌うことが多い。
先日、友人の紹介で日系三世の知り合いがハワイからやってきた。食事のあと、カラオケに行きたいと言うので店に入ると、リクエストするのがどれも日本の演歌だったのに驚いた。日本語を話さない彼がそれらを選ぶのは意外であり、わけを訊(き)くと、こう答えた。
演歌は感情を込めやすいし、歌っているときの快感が大きい。ハワイでも歌うのは演歌ばかりだと。
なるほど快感原則に基づけば何であれ容易(たやす)く国境を越えるのは、演歌も同様なのである。しかも彼の場合、耳で歌詞を覚えるので記憶ちがいが多々あり、「オクロの数を~」とうなっているので、なんのことかと思いきや、「ほくろの数を」だったりするが、本人は意に介しない。言葉の意味を噛みしめることより、声に感情をのせて体の外に出すところに、歌う楽しみを見いだしているのだ。
カラオケが登場する以前、歌は、歌のうまい、歌好きがうたうものだった。ヘタくそが歌うと「ぬかみそが腐る」と言われ、声に自信のない人は人前で歌うのを遠慮した。ところがいまはヘタもうまいもなく、マイクを手にすればだれもが歌う。聴いている人がいようがいまいが、おかまいなしに絶唱する。
つきあいでカラオケに行くことがあると、この事実にはたと驚かされるが、もしかしたらこれは、赤ん坊の時代をとうに過ぎてしまった大人の、声帯をふるわせたいという欲求の発露かもしれない。
意味を超えて泣き叫んでいた赤ん坊のころの尾っぽが、アンプで増幅された音空間のなかでひょっこりと顔を出す。赤ん坊は自己陶酔の表情は見せないが、自意識のある大人がそうなるのはいたし方がない。大目にみることにしよう。(作家)」(2014/09/10付「日経新聞」夕刊p7より)
今日は、声と鼻歌についての話である。
この記事の最初にある生まれたての赤ん坊の泣き声は、昨年の孫の誕生で、まったく同じ体験をした。ホントウにちっちゃな体なのに、その泣き声の大きいこと・・・。恐る恐る抱くと、「泣くぞ!泣くぞ!」という予告の表情とともに、まさに泣き声が爆発する。
ヨメさんに「赤ん坊の泣き声って、こんなに大きいんだ~」とツイ言ってしまった。
声は、自分で自信のある時には、ハリのある大きく朗々とした声になる。逆に自信が無い時は、小さくか弱い声になる。それは日常のこと。そして一日会話をしたいと、声が枯れたりもする。
しかし「鼻歌」については、考えたことがなかった。フト思い出してみると、自分もけっこう鼻歌を口ずさんでいるらしい。
それはいつも会社の帰り道。そして決まって布施明の歌なのである。そう、現役時代の、帰り道のあの建屋の脇を通る時に、何かを歌っていた・・・。
そして先日も気をつけていると、やはり会社の帰り道で、何かの旋律が口から出ていた。
つまり、自分にとって、会社帰りが一番リラックスしているのだろう、という事が分かった。
無意識の自分に気付く「鼻歌」ではある。
●メモ:カウント~640万
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