運動会で食べる栗!?
先日の日経新聞にこんな記事があった。
「人ひとりの重さ 大竹昭子
東京に住んでいると、島国にいるのを忘れてパリやニューヨークにいるのと同じような感覚で過ごしているが、ヨーロッパ製の世界地図を見るとびっくりする。日本が、ない。いや、よく見ればあるのだが、ユーラシア大陸の端っこにシミのように並んでおり、これが日本かとその地理的現実に唖然(あぜん)となる。
島国のなかの、さらに小さな人口百人未満の離島を沖縄に訪ね歩いたことがある。人口八十人前後から一家族だけの島まで十一あったが、どこの島でも共通していたのは、人の数が減れば減るほど行政とのつながりが細くなること、その要になっているのが学校だということだった。
学校があるかないかは島の雰囲気を大きく左右する。それは島に上陸すればたちどころにわかる。学校があれば島の中心が定まっているように感じるが、ないとただ民家がぱらぱらとあるだけで、なんだかとりつく島がないのである。
学校が開いていれば運動会や学芸会など、行事のたびに島民が集まり、顔を合わせる。校舎で島の寄り合いや慰労会が行われることもある。教育だけでなく、人が集う場としての意味が大きく、学校がそこにあるだけで共同体の姿がくっきりと鮮明になるのがよくわかった。大きな島から少し離れた、三世帯のみが暮らす小島を訪ねたときは、人が少なければさぞや互いに仲がいいだろうと思ったら、大違いだった。わざわざ不便な島に暮らそうというのだから、一家言ある頑固者ばかりで、我関せずと孤高を守っている。共同体の対極を垣間見たようだった。
学校がなくなるとどうなるか。若い夫婦はいなくなり、住民は高齢化し、郵便局はなくなる。大口のお客さんが学校なので同時に消えるのだが、そうなるとお年寄りは年金をとりにいけなくなる、というように連鎖式に行政から孤立した小さな世界に追い込まれていく。
ある島では、生徒数がひとりという危機的状況になったとき、島の外から子供を受け入れて窮地を凌(しの)いだ。ひとたび学校が閉じれば再開はむずかしい。ここはひと踏ん張りせねばと、ある家族が子供を島に送るよう親戚を説得し、それ以来、島暮らしを望む子供や養護施設の生徒を預かることがはじまったのだ。
このように島では人ひとりの存在が重い。島の未来を左右するほどの期待がその人間にかけられる。かたや都会では、人は吹けば飛ぶように軽くはかない。ぎゅう詰めの満員電車や、物が氾濫する大型店や、一斉に歩行者が渡りだすスクランブル交差点などにいると、私なんていなくたってどうってことないや、という虚無感に囚(とら)われることがあるし、実際、ひとりが消えても平然とつづいていくのが都市生活なのである。
都市にはそこだけで解決できない問題が山積し、一方、離島は島の力ではどうにもならない現実に直面している。物理的な距離を超えたものがふたつの間に横たわっているが、私は二者択一ではなく、二極分解した世界を往復してさまざまな価値観を縫い合わせていくことに、自分自身の生のリアリティーを見いだしている。どちらが欠けても困るのだ。島にいくと、そうか、人はこれだけのもので生きられるのかとわかり、目の前が明るくなる。その感覚を杖(つえ)に東京にもどれば、ブレのない生き方ができそうに思うのだ。
(作家)」(2014/10/29付「日経新聞」夕刊p7より)
この記事を、なるほど・・・と読みながら、小学校の運動会を思い出した。小学校低学年の頃・・・。自分の小学校は、埼玉県北足立郡与野町立上落合小学校だった。昭和30年代初めである。
秋の運動会になると、周辺の家族は皆、校庭にムシロを敷いて見学に繰り出す。そして、高学年の騎馬戦や棒倒しなどで盛り上がる。そして運動会最後の大イベントが「丁目対抗のリレー」だった。
自分は当時の8丁目。この応援の盛り上がりは、今でもよく覚えている。
運動会と言えば、自分の印象は「栗」。このゆで栗は、自分の頭の中では「運動会」と対になっている。昼になると、家族と一緒の会場のムシロで昼を食べる。そこには必ずゆで栗があった。
その栗が食べられない。カミさんは栗にはまったく興味がないので、前に自分がスーパーで買って茹でたことがある。ナイフで半分に切り、スプーンで食べる。たまに中にムシがいたりして、その黒い部分を避けて食べる・・・。
これが、評判が悪い。スーパーで買うときも、かなり大量でしか売っていない。前に買った時、さすがに自分だけでは持て余し、会社に持って行ったが、誰も食べない。息子にも会社に持って行かせたが、誰も食べなかったという。つまり誰も、食べ方が分からない??
ゆで栗も、今では死語か・・・?
いや! 何だか元気が出て来たぞ。カミさんから「自分で責任を取って!」と言われようが、今度スーパーに行ったら栗を買うぞ! そして茹でる。そして昔の運動会を思い出しながら(?)食う!!
別に運動会が好きだったワケでもないけど、妙に「栗」が気になる秋である。
| 0
| コメント (3)
最近のコメント