ふだんの自分と「非常の」自分
先日、日経新聞にこんなコラムがあった。
「頑張るとき 作家 眉村卓
体調がよくないとか、大分気落ちしているとかの状況で、しかしここで頑張らなければいけないというとき、どうするか、ということである。
若い頃には、たとえどのような状態であろうとも、おのれを励ましむち打って、強引にでも何とかしようとしたものであった。結果、うまくいったこともあれば、大失敗に終わった場合もある。当時の私は、自分がどこまで努力したか、と、運による成否だと解釈していた。というより、常識的にはそれでいいのであろう。
しかし一〇余年前、かつて連れ合いを亡くしたという婦人のある言葉を聞いてから、考えるようになった。その婦人は、
「主人が死んですぐ後に、人に言われたんですよ。今から少なくとも一年は、新しいことを始めないほうがいい。変になっているから、判断を間違う、というわけです。あのときやりたいと思ったことがあったけれども、やれば大けがをしていたでしょう。今はそう思います」
と言ったのである。
何が起ころうとも冷静沈着で平常心を失わない人ならともかく、私など、言われてみればいくつも心当たりがあって、なるほどという気がしたのであった。
だが白状すると心の一方では、ひょっとすると、ショックや変事でいつもの自分でなくなっているときにこそ、「非常の」おのれになり切り、みずからも励まして、これまではとてもやれそうもなかった事柄に挑戦し、それで大成功――という例もあり得るのではないか、との気持ちもあるのだ。
ふだんの自分か「非常の」自分か、という問題でもあるのだろう。」(2014/09/19付「日経新聞」夕刊p1より)
ふだんの自分と「非常の」自分・・・。なるほど・・・と思う。
この話を聞いて、直ぐに思い当たったのが、家の駐車場での車の“こすり”・・・。元々我が家の駐車場は幅が狭くギリギリ。よって他人さまは到底車を入れられない。車のディラーさんも同じ。
当然我々は慣れているが、前に家の出窓にサイドミラーをこすったことがある。そんな時は必ず、“普通ではない”状態のとき。
つまり、頭が駐車について上の空の時だ。何か考え事をしていて、いつもの当たり前の状態では無い。そっちのことに気を取られていて、通常の駐車が出来ない。でも自分は気が付かないので、こすって初めて気が付く。ああ、いつもの精神状態では無かった・・・と。別なことを考えながら車を動かしてはダメなのである。
自分が異常の時は「新しいことを始めないほうがいい」というアドバイスも当たっているかも・・・。それには、まず現在の自分が“普通か異常か”を知らなければいけない。何か事件が起こった時、「今、自分は異常である」との自覚から、すべての行動は慎重になるもの。
さて、自分にこれから起こるであろうこれら「異常の状態」を想像してみると、交通事故、家族や親族の病気、自分の病気の宣告、その他のケガ等・・・。
改めて、これから色々と起こるであろう非日常の出来事。それに遭遇した時は、まず「止まる」ということを心掛けたいと思った。
非日常のことが、出来るだけ起こらないことを祈りつつ・・・。平凡は良いもの・・・。
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コメント
年を取ると感覚が鈍るのか、パニックになることが減ってきたように思います。最近、立て続けに事故や身内の病にあっているのですが、「何とかなる」とパニックになる前に思うようになってきました。70数年生きている間にあまりに色んな事にであったからでしょうか。
悲しいことも嬉しいことも若い時より気持ちが動かないようです。「何とかなる」は経験からきたパニック防止策なのかもしれません。最も私が死の病になったらパニックになって騒ぐかもしれませんが、そうなったらその時に考えます。
【エムズの片割れより】
年の功ですかね・・・。自分など、他人のことだと冷静に判断できますが、自分の事となるとからきしダメで、すぐパニクります。何とも、まだまだ若いようで・・・。
投稿: 白萩 | 2014年9月27日 (土) 18:26