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2014年8月 3日 (日)

「終末期」何をどこまで・・・?

今朝の日経新聞にこんな記事があった。
終末期(2)何をどこまで 「延命治療」に課題
 治療によって病気が治り、元気を取り戻す可能性があるときに、治療の意義を否定する人はいないでしょう。では、病気の性質上、回復が見込めず再び元気な状態に戻らないと分かったときはどうでしょうか。例えば認知症は、現在の医療では回復は望めません。多くの場合、軽い物忘れから始まり、やがて外を歩き回ったり道に迷ったりします。通常、診断後5~10年以上たつと末期の寝たきり状態になります。
 この末期の状態で肺炎になったらどこまで対応すべきでしょうか。薬の服用にとどめる、点滴注射までするといった選択があります。認知症は回復しませんが、肺炎は通常、治療で改善します。同じように慢性の心臓や肺の病気も回復は困難ですが、一時的に悪化した場合、改善を目指してどこまで治療するかが問題となります。
 元気な状態への回復が望めない場合、「治療を開始しない」あるいは「治療を中止する」という選択肢もありえます。認知症の末期に、胃瘻(いろう)で胃に穴を開け栄養剤を注入してまで延命治療をしない、あるいは認知症がさらに進み、胃瘻をはずすというものです。心臓が止まりかけたときに注射を打ち一時的に動き出すようにするかどうか、という選択もあります。
 元気にならない状況で、病状改善を目指し、どんな治療をどこまで実施するのか。「延命治療」の難しい点です。(池上直己・慶応義塾大学医学部教授)」(
2014/08/03付「日経新聞」p14より)

終末期についての記事は色々あるが、自分はこの記事で「元気な状態への回復が望めない場合、「治療を開始しない」あるいは「治療を中止する」という選択肢もありえます。」という文言が新鮮に映った。
医師が書く記事で、「治療を開始しない」と言うスタンスは、今まであまり目にしたことがなかったので・・・。
こらからの時代、「病気はどんなものでも治す」「一日でも長く生かすことが医療の役割」、といった従来のスタンスは見直されていくのではないかと、思った一文だった。

先日、ある病院に見舞いに行った。入院している部屋は男女混合の7人部屋。部屋にはテレビもなく、皆がうつろな目をして寝ているだけ。つまり認知症の人を集めているような部屋に見えた。
他人のことをとやかく言うつもりはないが、もし自分だったら・・・、と考えると、「元気な状態への回復が望めない場合、「治療を開始しない」」というスタンスは非常に有り難いと思える。
もし毎日やることがあり、楽しくて、生きている甲斐があるのなら、一日でも長生きしたいと思うだろう。生きている意味があるので・・・。しかし、もし認知症や、回復が望めない場合は、いかに早く苦しまずに最期を迎えるか、にステージが移っても良いように思う。
手足を拘束してまでも点滴をして、数日間命を永らえることに何の意味があるのか・・・
北欧では、ある年齢以上になったときは、積極的な治療はしないとも聞く。

しかし自分がもしそのような状態に陥った場合は、その決定手段はもはや本人にはない。よって、生きている毎日が“本人にとってベターでは無い場合”は、何もしないで自然に任せる、ということを家族に頼んでおくしかない。
病院の一室を見て、益々“人間が死ぬのは大変だ・・・”と感じた。

140803kaibou <付録>「ボケて(bokete)」より

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