「出世の極意」
先日の日経に面白い一文があった。
「出世の極意 高橋秀実
私は大学を卒業後、3年間会社に勤めて転職した。しかし転職先が半年でつぶれてしまい、以来、ずっとフリーである。
フリーとは潜在的失業者のことで、いまだかつて「役職」というものに就いたことがない。友人や知人たちの役職の移り変わりを眺めているばかりなのだが、かれこれ30年近く眺めているうちに、「出世する人」と「出世しない人」を見分けられるようになってきた。両者は雰囲気からして明らかに違うのだ。
誤解を恐れずに言わせていただくと、出世する人は、おおむね仕事が「できない」人である。もちろん無能という意味ではない。「できない」と素直に表明できる人。恥をさらせる人で、全身から何やら「できない」というオーラが漂っているのだ。考えてみれば、自分が「できない」からこそ人にお願いするわけで、彼らはおのずと腰が低く、感謝を忘れないのである。
例えば、出世した知人の考える企画などは驚くほど陳腐だ。編集者として大丈夫なのか? と私は心配になり、思わず「そうじゃないでしょ」「こうしたほうがいいでしょ」などと熱く語り、語りながら次々とアイデアが思い浮かんだ。彼はいうなれば踏み台。ダメな企画を率先して提出し、まわりはそれを喜々として追い越していく。身を挺(てい)して「できない」をさらすことで周囲の「できる」を引き出すのである。逆に「できる」人はできるから命令するばかりで、周囲の「できない」を浮き立たせてしまうのだろう。
そもそも「出世」とは仏教語で、世を出る、つまり出家と同様に私利私欲、俗世間を離れることを意味していたらしい。なんでもかんでも「できる」ように振る舞うのは煩悩にほかならず、それでは出世しないのだ。「出世」という言葉は今では「世を出る」ではなく「世に出る」という意味で使われているが、私が察するに、これは「世を出る」と「世に出る」ということではないだろうか。つまり「できない」と悟ると人は謙虚になる。自らをわきまえているので周囲の信頼を得て、世の中から必要とされるようになる。仕事とは世に「できない」ことがあるからそれを補うために発生するわけで、みんなが「できる」ようでは仕事自体がなくなってしまうのだ。
そういえば先日、私は雑誌の企画で注目企業の社長たちに「座右の銘」をたずねて歩いた。どんなビジョンを持ってリーダーシップを発揮しているのか取材しようとしたのだが、全員が「座右の銘はありません」と答えた。ひとつの考え方ですべてを掌握するなんて到底できませんと。記事の企画上、それでは困ると私が訴えると、ある社長は「だったら何がいいですか?」と私に訊(き)いた。
「私が決めるんですか?」
驚いた私は彼としばらく話し込んだ。世間話を聞きながら、私が「それにしましょうか」と提案すると、彼は「じゃあそれでお願いします」と微笑(ほほえ)んだ。主体性に欠けるようだが、彼によれば「社長」とは機能にすぎず、人に利用されるのがその務めだとか。
出世する人は、その佇(たたず)まいが公園に似ている。公園は人が集まり遊ばれてこそ公園で、自分が遊ぶわけではない。だからひとりでいると、どこか寂びしさが漂っており、つい手を貸してあげたくなるのである。(ノンフィクション作家)」(2014/08/08付「日経新聞」夕刊p7より)
なかなか含蓄のある一文だと思う。ほとんどのサラリーマンは、上司との人間関係で苦労している。役職の上の人は、自分はエライ人、と勘違いして部下に“命令”を下す。「業務命令」と称して、押し付ける。「きかなければクビだぞ!」と脅(おど)す。部下も「仕方がない」と我慢する。それがどんな理不尽であっても・・・。そして部下にストレスが溜まっていく・・・。
それが良くも悪くも普通の(悪い)組織の現実の姿だと思ってきたが、“「社長」とは機能にすぎず、人に利用されるのがその務めだ”というスタンスは、それこそエライ・・・!
会社(社会)における人間関係は、つくづくお互いの人間性の問題だと思う。上司が熟した人間であれば、周囲の人は黙ってその人に付いて行く。命令されなくても、その意に沿う。しかし薄っぺらな人間の上司であれば、その時の命令こそ聞くが、それはその立場に対して仕方なく従っているだけで、その人がその立場を離れた瞬間に皆その人から離れていく。まあそんなもの・・・。
世の中のサラリーマン。上の記事にある「出世する人」が上司であったなら、どれほど皆の日常が生き生きとするか・・・。そして、どれほど世からパワハラが減るか・・・
しかし、自ら相手(上司)を選べないのも、これまた歴然たる現実である。
(ところで、石破幹事長は上司(自民党総裁)の“命令”に背き、安保相を辞退するんだって・・・。この上司の元では“出世しない”と悟ったのかな・・・??)
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