奥田英朗著「沈黙の町で」を読んで
カミさんに強く薦められ、奥田英朗著「沈黙の町で」を読んだ。
とにかく奥田英朗は“うまい”ので読めと・・・
1年前の朝日新聞の文化欄の切り抜きも一緒に・・・。その記事に曰く・・・
「誰も裁かず 心情引き出す いじめ描く「沈黙の町で」単行本化
小さな地方の都市で、中学2年の男子が学校で転落死し、いじめの実態が明らかになる――。朝日新聞連載時に反響を呼んだ奥田英朗の小説『沈黙の町で』(朝日新聞出版)が単行本になった。「何が起こったのか、小説だからこそ全景を描くことができた」と作者は語る。 1学期末の試験をひかえた中学校で、2年B組の名倉祐一が死んでいるのが見つかった。携帯メールからゆすりといじめがあったとわかる。失点を恐れて先走る警察は少年2人を逮捕、2人を補導する。わが子を守ろうとする加害者側の親の暴走、真相解明を求める被害者家族の焦燥。学校側は穏便第一だ。真夏の地方都市を舞台にした群像劇で町の全体像に迫る。
昨年7月の連載終了直前に、大津市での中学2年生の自殺といじめの関係が話題になった。その後も痛ましい出来事が続いている。
「いじめはなくならない。自分の中学時代を思い返しても、通過儀礼のようなものでさえあった。特に男子は弱肉強食で暴力と隣り合わせ。自力では地域から逃げ出せない中学3年間は、サバイバルの時期だ」
『沈黙の町で』には、学校生活の中で「いじめ」がおこる雰囲気が形づくられていく様子が描かれる。加害側には元いじめられっ子や不良だけでなく、正義漢や人気者がいる。死んだ名倉も従順なだけではない
〈大変だなあ。生きて行くって〉――先輩からのいやがらせを回避するため、教師にうそをつく女子中学生のつぶやきは切実だ。
作者が執筆の際に気をつけたのは「誰も裁かない」ということだ。「百%の正義も悪もない。裁くと物語の値を落とすと思う。何かを踏みにじることになるし、何かを見なようにしていることになる」
ただ、この作品は自分の中に痛みを生んだという。「登場人物が死ぬという設定は避けられないし、これまでもあったが、人間の尊厳を損なってまで物語を作りたくはなかった。今回は、そこに抵触したかもしれない。登場人物全員を救いたいと思ったが、最初に名倉君を死なせてしまった。登場人物を見捨てるみたいで、書きながらもずっと胸が痛かった」
連載中、読者から「名倉君を救って欲しい」という手紙など、各登場人物への同情や共感が寄せられた。「奥田さんは教師だったのか」という元教師からの問い合わせもあった。教師経験はないし、人物取材もしない。「13歳の子供にも、親にも言い分かある。登場人物に耳を傾けて声を引き出していく」というスタイルだ。何事も大人に相談せずに処理しようとする子供たちと、都合のよい事実だけを知りたがる大人たち。それぞれの「言い分」が、単行本化にあたって加筆修正され、大人と子供の世界の乖離がよりくっきりと浮かび上がった。(吉村千彰)」(2013/02/25付「朝日新聞」文化面より)
本の内容は上の記事の通りだが、読んでいてストーリーの変化の少なさに、少々不満を覚えた。舞台は中学校とその周辺。同級生の死を取り巻く小さな動きを、事細かに描いて行く。
物語は、7月1日の事件発生から一学期の終業式までの動きと、4月の始業式から事件発生の日までの、二つの時間軸で動いていく。そしてその二つの流れが、最後に一つになる。
上の記事のように、この物語には悪役もヒーローもいない。カミさんが言うように、どこにでもいる中学生とその家族、そして教師やマスコミが、まあそうだろうな・・・という動きをしている。特に母親の「自分の子どもさえ・・・」という姿や、平凡な生活で、このような事件が勃発した時のパニックの様(さま)は、我が家でもありそう・・・。
一番不安定だという中学生時代の友だちや教師との関係。そして、子どもを甘やかして育てることの危険性、親と子の薄い会話・・・。もちろん子どもは問題が起きても、「親に相談する」などという選択肢は無い。子どもを育てる上で、一番やっかいなこの時期、どこにでも発生する可能性のある事件のような気がする。
振り返ると、自分たちの頃は(昭和30年代後半だが)、イジメという言葉はあまり聞かなかった。しかし不良はいた。でもそんなに悪さをすることもなく・・・。しかし今は携帯の時代。メールでイジメの「指示」が直ぐに飛ぶ。
言うまでもなく、イジメは理屈抜きで悪いこと。特に自分がいじめられないために付和雷同しての集団でのイジメは、多くの悲劇を生んでいる。
この物語も、いじめられて死んだ子どもが完全な被害者で、いじめていた友だちが完全な加害者、という前提で進んでいく。しかし、その先入観は徐々にくつがえされて行く。つまり、いじめられていた本人も、場所を変えると(下級生や女子生徒相手だと)いじめる側に立っている・・・。それはまさに、食物連鎖を連想させる。
どこにでもありそうなここに描かれている数々の出来事。それが一人の死によって、周辺の事情が明らかにされていくが、もし死という事件さえなかったら、どこにでもある風景として霧のように消えて行く運命だったのだろう。
今の学校現場で、このようなイジメがどのような状態なのかは知らないが、たぶん現実にはこのようなことは普通の風景なのだろうな・・・と思いつつ、何とも救いのない読後感ではあった。
せめて、孫にはいじめる側にもいじめられる側にも立って欲しくないと、ただ祈るのだが・・・
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コメント
本書は読んでいないが、いじめは加害者にも被害者にも言い分があるというコメントは事実であろうが、やはりいじめは悪い。特に弱い者いじめは卑怯だ。
小生も、目白から等々力に戦争災害から避難する為疎開した。等々力の玉川小学校では比較的都会であった目白からの転勤で、地元のわんぱくによくいじめられた。終戦後、目白に戻り落合第四小学校の4年生に転入した。そして又いじめに遭った。背が高かったことや近視のメガネをかけていた事、地元の友達が少なかった事などが原因と思われる。
ある時、校庭で追っかけっこしている時、転んで石の階段に眉毛の上をぶつけ、血が噴出した
先生たちが驚いて飛んできて、近くの聖母病院に緊急搬送され10針ぐらい縫った。それ以来いじめはなくなった。
60年後小学校の同期会があり、卒業以来初めて出席したところ、当時の担任の先生がすぐ近づいて来て、私のおでこを撫でながら「傷跡が残っているな」とおっしゃった。60年前の事件を覚えていらっしゃったのだ!
多分、怪我をした時、先生方はいじめがある事に気が付かれたのであろう。私は、先生とは何と有り難いものなのだろうとその時つくずく思ったものである。
【エムズの片割れより】
そう言えば、自分も小学校の頃、唯一のメガネ男だったので、随分とからかわれました。ドンちゃん・・・と。あれもイジメだったのかも・・・
投稿: こうちゃん | 2014年7月21日 (月) 17:58