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2014年6月の24件の記事

2014年6月30日 (月)

2013年の世界シェア(市場占有率)

今朝の日経産業新聞に、2013年の世界シェアが載っていた。
世界シェア50品目 
   スマホ影響圏拡大 押されるデジカメ・ビデオ
 日本経済新聞社がまとめた2013年の世界の「主要商品サービスシェア調査」で、対象の50品目のうち、スマートフォン(スマホ)や関連分野の市場が変動し、シェア争奪戦が激化した現状が浮き彫りとなった。スマホ関連産業のすそ野が広がる一方、デジタルカメラやビデオカメラは需要が大きく減少。電機・IT(情報技術)業界におけるスマホの存在感の大きさを示した。
140630sekai  13年のスマホの世界出荷台数は前年比39.2%増の10億964万台。韓国サムスン電子など米グーグルの「アンドロイド」を搭載したスマホのシェアが伸長。「iPhone(アイフォーン」を手掛ける米アップルも販売を伸ばしたが、シェアは落ちた。
スマホの爆発的な普及に伴って、スマホを動かすのに不可欠な関連部品などの需要も大きく伸びた。データ保存に使うDRAMは32.5%増、中小型液晶パネルは15.7%増、NAND型フラッシュメモリーは13.2%増と、それぞれ前年より大幅に伸びた。
インターネットの高速・大容量化に伴い、ネットワーク関連機器の「ルーター」の市場も8.4%拡大。スマホの波及効果の大きさを示した。
 一方、スマホはIT業界の一部に逆風ももたらした。スマホに搭載しているカメラや表示画面の高性能・高精細化、ネット接続の高速化や使い勝手の改善などが進み、デジタルカメラやビデオカメラ、ゲーム機器との競合が一段と加速。デジカメの世界市場は前年比30.7%減。ビデオカメラは23.2%減、ゲーム機は17.0%減とそれぞれ市場が縮小した。
 スマホは巨大な自国市場を背景に華為技術(ファーウェイ)などの中国メーカーが台頭し、価格競争も厳しい。コモディティー(日用品)化か進むものの、部品やソフトなど関連産業も含めた存在感、影響力はさらに大きくなりそうだ。」(
2014/06/30付「日経産業新聞」p1より)

「2013年の世界シェア50品目の調査では、パソコンで中国のレノボーグループが初の首位を獲得した。ゲーム機器でもソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)が、原油輸送量でイラン国営石油がそれぞれ初のシェア1位となった。昨年に続き中国企業が国内市場の好調さを背景に躍進。太陽電池や薄型テレビ、造船、粗鋼、ルーターなどで上位に入った。」(2014/06/30付「日経産業新聞」p11より)

*「2013年の世界シェア」の詳細PDFは(ここ)~2014/06/30付「日経産業新聞」p10~11より

詳しくは上のPDFを眺めて頂くとして、パソコンの首位が、HPからレノボに替わった。その差、0.5%。しかしベスト5に日本メーカーが入っていないのは寂しい。まあSONYがパソコン事業から撤退する位なので仕方がないか・・・。
それにしてもSONYの撤退に伴い、関係従業員1100人のうち、本社120人、工場300人が退社。440人はSONYのグループ会社に移り、ソニーと投資ファンドの日本産業パートナーズが7月1日につくる新会社「VAIO(バイオ)」に移るのは240人だという。事業撤退とはかくも厳しい。しかしVAIOの愛用者も不安だろう・・・

スマホは世界で見ると、出荷台数10億台で、シェアはサムスン31.3%、アップル15.2%だという。パソコン3億台の3倍の規模。その影響でデジカメは30%減の8100万台だったという。カメラだけは、一眼レフ、ビデオカメラを含めて日本製が世界を席巻している。
NAND型フラッシュメモリーは、トップのサムスン34.7%に対し、2位の東芝が32.2%と、トップとの差が2.5%まで肉薄。さて逆転なるか!?
セキュリティ対策ソフトは、世界で見るとシマンテックが18.7%と圧倒的なんですね・・・。
自動車は僅差でトヨタが1位確保。ゲーム機はSONYが任天堂を逆転して1位。パソコンからのネット検索ではグーグルが6割と圧倒的。
タバコは中国の会社が43%。中国は人口も多いが、タバコを吸う人が多いのですね。
クレジットカードは、相変わらずVISAが6割、マスターが3割の寡占状態。

ともあれ、自分の好きなシェアだが、上の新聞の50品目のベスト5を"ボヤー”っと見ているだけでも、世界のビジネスの動向が分かって面白い。

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2014年6月29日 (日)

「眼鏡市場」と「メガネストアー」の違い~安い“近近”メガネを買った話

格安眼鏡屋について少し勉強したので、たった2店舗だがその体験談を少し・・・
結論は、「“メガネストアー”は、格安メガネショップのように見えるが、普通の眼鏡屋と変わらなかった。そして“眼鏡市場”はさすがに格安だった」ということ・・・。

自分は小学校5年生の時からメガネをかけている。社会人になってから数十年は、ずっと「**のメガネなら安心です」というキャッチコピーの店で作っていた。
老眼が進み、17年ほど前から遠近両用メガネにした。その後、10年ほど前に、老眼が進んだので、いつものメガネ屋で遠近レンズを交換したところ、近くを見た時に、左目でピントが合うと右目が合わず、右目でピントが合うと左目が合わない。また、上左右スミで蛍光灯などを見ると、後に青い像が見える、といった不具合があり、レンズメーカーにまで問合せをして、結局店長が自ら検眼して、3度の作り直しとなった。そのときに言われたことは、「今後は店長の自分か、ベテランの**をご指名下さい」。それ以来、この店には行っていない。
その後、6年ほど前にレンズを交換した時は、「認定眼鏡士」という人がいる店で、今までの事情を話して、慎重に検眼して貰った。
そして加齢のためか、目に異常を感じ始めたのは(当blogによると)2年ほど前(ここ)。
会社で一日パソコンを見てから、ときたま遠くを見るとぼやける。ピントを合わせる目の筋肉の疲労だな・・・と勝手に解釈して、サプリメントを半年試したこともあった(ここ)。
もちろん結果は効果無し。

その「原理」について、先日の新聞にこんな記事があった。
「(元気のひけつ)目の筋肉 コリほぐして
画面見過ぎの「疲れ目・乾き目」を改善する
 朝から晩まで、スマートフォン(スマホ)やパソコンの画面を見ていると、目がしょぼしょぼ。乾いて疲れます。何とかしたい、と改善法を探りました。
140629me  「疲れ目の原因は、ピント調節をする毛様体筋という目の筋肉の『筋肉痛』です」。後藤眼科医院(神奈川県鎌倉市)の後藤英樹院長は言う。人の目は身を守り、獲物を見つけるため、遠くを見るようにできている。遠くを見る時は、毛様体筋はリラックスしているというのだ。
 一方、パソコン画面など近くを見ると、毛様体筋に力が入り、次第に疲れてくる。ピント調節機能が低下し、かすみ目やぼやけにつながる。「1日や週の終わりに見えづらい人がいて夕方老眼、週末老眼と呼ぶことがあります」と後藤さん。・・・」(
2014/06/28付「朝日新聞」e5より)

それで先日、昔買ったクリップ式の小型老眼鏡をメガネに取り付けたところ、何か良い感じ・・・。それで試しに「前掛クリップ式跳ね上げ老眼鏡」というのを試しに買ってみた。メガネも前に付けるサングラスのようなもの。度数は1.0。
何と、これを付けると、長くパソコンを見ていて、直ぐに遠くを見ても、目がぼけない。道路の中央分離帯を見ても、上下に二重にならない。でもそれは左目だけで、右目はやはり少し残るが・・・。

あるデパートに行った時、メガネ屋に寄って話を聞くと、「パソコンから目を離すと遠くがぼ140629lens けるなら、近近メガネを別に作ると良い。パソコンの距離と、読書の距離、それぞれに合うメガネがよい」と言われた。値段を聞くと、フレームが2~3万円、レンズが4~5万円で、7~8万円はかかるという。
そのデパートの帰り道、「メガネスーパー」という店があり、入ってみると、今のメガネと同じようなフレームに、「レンズ込み28,000円」とある。店員に聞くと、近近メガネでもその値段で出来るという。
格安眼鏡屋には行ったことがないが、カミさんや息子はよく利用しているので、カミさんにどの店が良いかを聞くと、zoffがレンズ交換だけでもしてくれたので好きだという。他の店は、レンズ交換だけはしてくれなかったとか・・・
それで近くのzoffに行ってみた。すると「話を聞くと、やはり近近が良いですね。でも当店では近近だけは取扱がない」とのこと。遠近や中近はあるがパソコンと読書用の「近近」は無いんだって・・・。
格安店も色々あるので、どの店が良いか、ちゃんと調べて出直そう、と思っての帰り道、ふと駅前に「メガネストアー」という赤い看板の店に気が付いた。格安店では、近近レンズは難しいのかな?と思って「近近はありますか?」と聞くと、あるという。店頭には「レンズ込みで**千円」というフレームが並んでいる。ここも格安店だ。
検眼してみましょう、というので調べて貰ったら、右目の乱視が進んでおり、2度ほど上げた方が良いとのこと。そのせいで、ずっと右目が不調だったのかも・・・。
検眼が終わると、フレームを探しましょう、と言う。今のメガネに似たもの、と言うと、21,000円から3万円のものを持ってきた。レンズは、というとファイルに入った値段表を持ってきて、色々あるが、薄いレンズだとNikon製で43,000円か、48,000円だという。そしてパソコンだとブルーライトコートをした方がよいとのことで、値段は7,000円だが、フレーム同時購入だと3000円引きの4000円だという。結局、フレーム3万円+レンズ48,000円+ブルーライト4000円+消費税で、88,500円也。
何~だ、結局格安店でも普通のメガネ屋でも、出されるレンズの値段表は同じ物なので、どこで買っても同じか・・・
(なお、(ここ)によると「19800円と出しておきながら最後に色々オプションやレンズを勧められトータル8万円近くかかってしまいました。」という口コミもあるので、メガネストアーはこれが普通の売り方みたい・・・)

長々と書いてきたが、ここからが本番。
Netで、格安眼鏡店と高い眼鏡店の比較体験記事を見付けた(ここ)。
140629meganeya そこには格安眼鏡店の各店の比較表があり(2013年6月)、参考になった。その表から、一番規模が大きく、遠近両用の追加料金無しの「眼鏡市場」という店に行ってみることにした。
店に入って聞くと、近近レンズも同じ値段で出来るという。そしてまずフレームを選べ、と言う。メガネの大きさの問題もあり、なかなか希望のフレームが見つからない。そのうち、店員も一緒になって探してくれた。そして探したのが34,000円の一流メーカー製と16,000円というもの。結局、高級品はレンズの下にフレームが無いので、頑丈ではないだろうと、レンズの周囲全体にフレームのある安い方にした。
検眼をすると、結局、度数は前のメガネストアーと同じになった。検眼の方法は、どの店も同じ。40~50分ほどかかっただろうか・・・。パソコン用の50cmと読書用の30cmに合わせて度数を選んだ。もちろん乱視付き。レンズは、近近は「薄型」の1種類しかないので、選べないという。
「パソコンだとブルーライト処理をした方が良いかも」というので値段を聞くと2000円だという。メガネストアーだと7000円だったのに・・・
しかも全て税込みの値段。かくして18000円余で頼んでしまった。それに、レンズはHOYA製だという。自分の思い込みでは、HOYAが一番で、Nikonが二番、と思っていたが・・・。「今のメガネのレンズだけの交換は?」と聞くと、両方一緒なら11,660円だという。片方だけというのはダメらしい。
出来上がりまで1週間・・・。担当してくれた若い担当者に「あまりに安過ぎるので怖い・・・」と言い残して、店を後にした。

後日、まだ正式な注文をしていなかったので、電話でメガネストアーに「高いので止めたい」と予約キャンセルをした。すると食い下がる・・・。「安い製品もあります」と・・・。後からも電話がかかってくるので「他の店に注文してしまった」と言って、ようやく諦めて貰った。

この騒動で、自分として勉強したのは、デパートもメガネストアーも、「先ず検眼しましょう」と言ってくる。一旦検眼してしまうと、それは買う前提になるので、客はなかなか帰れない。そこで高価な値段表を出されると、そこから選ばざるを得ない。幾ら、店頭にレンズ込みで値段表示してあっても、自分は乱視で近近という特殊レンズなので、普通のメガネ屋と同じなんだ・・・と、つい自分を納得させてしまう。
それに引き替え、眼鏡市場では、まずフレームを選べ・・・。2店で対応が違う。よって、格安店での話は、まず値段の話から入った方が良さそうだ。

同じ格安眼鏡店で、これらの対応の違いは何だろう? 両店のメガネでどれだけの違いがあるのか・・・。
しかも、眼鏡市場は、3ヶ月以内での度数の無料変更や、1年以内での品質保証と、半額での破損保証など、保証が手厚い。

フレームは色々あるので値段が大きく違うのは分かる。しかし同じメーカーの注文品のレンズが、なぜこうも違うのか・・・。レンズは利益幅が大きいというが、同じ「薄型」の近近レンズが、先のメガネストアーや高級店の43,000円のレンズと、眼鏡市場のフレーム込み16000円のレンズの違いが分からない。

1週間後、メガネを取りに行ったときに聞いてみた。「眼鏡市場のレンズは何で安いの?」「普通のメガネ屋さんでは4万円位するのでは? まず発注の量が違います。当店だけで全国に700~800店舗もありますから・・・」「フレームに合わせてレンズを削るのは、どこでやっているの?」「HOYAとNikonは、フレームの大きさをパソコンで測って、そのデータを送って、レンズメーカーで削っているはず。ただ、フレームに入れる作業は当店の2階で手作業でやっている」・・・
(追:後日、あるレンズメーカーに問い合わせることがあり、ついでに聞いてみた。「量販店と普通のメガネ屋さんでは、何でレンズの値段が違うの?」「まず量が違う。量に応じた契約になっている。それとオプションの項目が違う。量販店では、店毎に仕様を決めており、コーティングなどの色々な指定が出来ない。その点、普通のメガネ屋さんは、それを指定するかどうかは別にして、メーカーとして指定できるようになっているだけ値段が高い。レンズそのものに違いは無い。レンズは注文があってからその都度作る。」とのこと)

今まで使っていたメガネと、今回の「眼鏡市場」の安いメガネがどう違うのかは分からない。でも同じ「薄型レンズ」で、使う分には変わらない。何とも伸縮自在の不思議なメガネの値段である。

それ以上に、読書、パソコン用のメガネを手に入れて、目の疲労から解放されたことが、何よりも大きい。遠近両用レンズは近くを見る範囲が非常に狭いが、今回買った近近レンズは見えるエリアが広い。目のピントを合わせる筋肉の疲労に、これだけの違いが出るとは思わなかった。もっと早く、メガネ屋に行くべきだった・・・。

(2014/07/29)~後日談
近近メガネが良かったので、同じ眼鏡市場で遠近メガネも買い換えてしまった。値段は近近と同じで安い。
しかしこれが残念。レンズの上方の左右部分で見ると、レンズの反射による影が出来るのだ。例えば、電車ホームの行き先表示板のオレンジの表示や、テレビのスーパーの白い文字が、文字の左側に緑色の像がダブって見える。レンズはNikon製だというが、今まで使っていたSEIKO製のレンズでは、ほとんどそんな現象は出なかった。
メーカーに聞くと、原因はレンズの反射で、これは設計上の問題なので直せないという。店員さんは、「遠近メガネの中央部分以外はサービスですので・・・」!?
高価なレンズと、格安店での量産レンズでは、こんなところに違いがあるのかも知れない。もちろんこんな現象は、個人の目とレンズとの相性かも知れず、誰でも起こる現象では無いかも知れないが・・・。ま、そんなウマイ話ばかり転がっているワケも無いか・・・

(追:2016/08/09)
上に書いたメガネを作って2年経った。最近、新聞などを読む時、右目がぼけることに気付いた。メガネの度の問題かと、レンズのあっちこっちを探すが、よく見える場所はない。
そう言えば、前に「乱視の度が進んでいる」と言われたことを思い出した。その時は、乱視の度を上げて、近視の度は下げたと思う。今回も同じく、乱視の度が進んだためか?と思い、上のメガネを買ったとは別の、家の近くの「眼鏡市場」に行ってみた。
その話をすると、「検眼しましょう」と色々な検査をしてくれた。結果は「0.25位は、疲れで動く。これは目の疲れですね。右目がきき目なので、先に右目が疲れてぼけるのでしょう。これは目薬しか効きません。レンズの問題ではありません。」とのこと。無料で帰ってきた。
後日、ドラッグストアに目薬を買いに行った。すると、棚には目薬がズラリ。何を選んで良いか迷う。店の人に、メガネ屋で言われたことを言って、良いのを選んで貰った。(「ルイビーE50」410円)
家に帰って目薬をすると、あーら不思議。右目のぼけが無くなったのである。ウソだと思うでしょう。それがホントウ・・・・

考えてみると、眼鏡屋にとって、自分のような客は、ある意味、カモ。レンズを売り付けられる。しかしこの「眼鏡市場」という店は、それをしなかった。オトナの対応をしてくれた。
そんなこともあったので、それまで迷っていたが、カミさんの予備のメガネを、つい注文してしまった。
店の信用は、販売につながるのである。

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2014年6月27日 (金)

ボニージャックスと岡村喬生の「爪色の雨」

沖縄は梅雨が明けたというが、関東は毎日雲が取れない。
そんな梅雨の時期、こんな歌はいかが?

<ボニージャックスの「爪色の雨」>


「爪色の雨」
  作詩:サトウハチロー
  作曲:伊藤翁介

爪色の雨が降ります
しずかに しずかに
あじさいの花がけむります
しずかに しずかに
誰にも知れないように
お風呂場の壁がぬれて行きます
しずかに しずかに

鉛筆色の 角だして
まいまいつぶろが 見ています
しずかに しずかに

爪色の雨の降るたびに
あなたと旅した あの頃を
あなたのお下髪(さげ)を ほほえみを
耳のうぶ毛を はじらいを
あの山脈を あの指を
爪色の雨の降るたびに

何とも情緒たっぷりの歌だが、題が不思議だ・・・。そもそも爪色ってどんな色??
Netでも「爪色」という言葉自体、ヒットしない。爪の色なので、ピンク色か??
「鉛筆色」という言葉も不思議・・・。これもヒットしない。
サトウハチローの詩は、このような不思議な言葉で情緒を語る・・・

ところで「まいまいつぶろ」は、Netで見ると「かたつむり」の東京方言だそうだ。でも自分は使ったことが無い・・・。
先日、NHKラジオ深夜便で、「かたつむり」の方言について話していた。それによると、柳田国男の方言周圏論が有名で、これは全国のカタツムリ方言を集めて地図に描いたところ、京都を中心に方言が同心円状に並んでいることを発見したという。一番外側に分布しているのが「ナメクジ」で、最も古い言葉で東北地方や九州に分布している。そして順に「ツブリ(東北、九州)」「カタツムリ(関東、四国)」「マイマイ(中部、中国)」、そして近畿地方に分布している「でんでん虫」が最も新しい。そして平安時代は、「カタツブリ」と言っていたそうだ。
なお、方言が地方に伝わって行く速度は年速940mだという研究もある、とのこと。カタツムリよりも遅い・・・。(2014/06/20放送「くらしの中のことば」より)

それにしても、家を背負っている「カタツムリ」が、家を背負っていない「ナメクジ」と呼ばれている地域があるとは意外・・・。

ついでに、「梅雨」という言葉は、平安時代に中国から入った梅雨(ばいう)が最初で、これは長江流域で梅の実が熟する頃に降る雨、という意味。それが「つゆ」と呼ばれるようになった由来は、草木に着く「露(つゆ)」、または潰れるという意味の「ついゆ(今の言葉で、ついえる)」という古い言葉から、梅が熟して潰れる時期。それが江戸時代に「梅雨」という漢字に「つゆ」という読みをあてるようになった、という。(2014/06/22放送「知って得する”大人の日本語”」より)

おっと話がそれた。この「爪色の雨」は女声では聞いたことが無い。この歌は男声が似合うようだ。
最後に、こんなバスの歌声はいかが?

<岡村喬生の「爪色の雨」>

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2014年6月26日 (木)

日本もいよいよ徴兵制??~集団的自衛権の先にあるもの

「日本でも徴兵制??」・・・。冗談の世界では無くなってきた。
集団的自衛権も、予想通りの公明党の腰砕けで、まさか・・・がホンモノになりつつある憲法の“個人的変更”!?
テレビのニュースも、閣議決定の日程の報道になってきた。これだけ疑問の声が挙がっているのに、国民の声を聞こうとしない政治の姿勢は相変わらず。無力感さえ漂う・・・

先の戦争では、軍隊が開戦を主導した、と思い込んでいる自分は、当の自衛隊の集団的自衛権に対するスタンスに興味があった。
それが、昨日の記事(ここ)といい、どうも一番懸念しているのが、当の自衛隊のようなのだ・・・

昨日の朝日新聞にこんな記事があった。これも、ある当事者の声である。
「(集団的自衛権を問う)拡大防げず徴兵制招く
    元防衛官僚・加茂市長 小池清彦さん(77歳)
 集団的自衛権の行使にひとたび道を開いたら、拡大を防ぐ手立てを失うことを自覚すべきです。日本に海外派兵を求める米国の声は次第にエスカレートし、近い将来、日本人が血を流す時代が来ます。自衛隊の志願者は激減しますから、徴兵制を敷かざるを得ないでしょう。
 米国の要求は原則として断れません。防衛庁勤務時代、当時悲願だった国産戦闘機の製造プロジェクトに関わりました。いざ作ろうという段で、米大統領から首相に「日米共同開発で」と電話があり、頓挫しました。日米関係はそんなものです。
 平和憲法は国の宝です。9条があったから、朝鮮戦争にも、ベトナム戦争にも参戦しなくて済みました。そう自覚したのが1990年、イラクのクウェート侵攻後、自衛隊を初めて海外出動させる国連平和協力法案が議論された時です。
 このとき、「日本が世界の警察になってはだめだ」と事務次官に直談判しました。結局、廃案になりました。3カ月後、当時の防衛庁長官に「廃案になって良かった。通っていればと思うと、いまでもぞっとする」と耳打ちされました。
 全国の多くの首長たちが首相のやり方に異論を唱えていると聞きます。私も防衛庁内で上申して左遷させられた経験があり、国に盾突くのには勇気がいることはわかっています。それでも、集団的自衛権の問題は日本の将来に関わる話。声を上げることは、今を生きる者の責任だと思います。(聞き手・山本亮介)
*こいけ・きよひこ 新潟県加茂市生まれ。東大卒業後、60年に旧防衛庁に入庁。防衛研究所長や教育訓練局長を務め、95年、加茂市長に初当選。5期目。」(
2014/06/25付「朝日新聞」p38より)

この一文の中で、「自衛隊の志願者は激減しますから、徴兵制を敷かざるを得ないでしょう。」という言葉が重たい。昨日の記事のように、自衛隊に入っている人は、日本を防衛する戦争ならいざ知らず、アメリカが起こした戦争の応援でアメリカのために戦場に行くことなど、まさに想定外だろう。それが今回の安倍首相の独走で現実になる可能性があるとしたら、確かに自衛隊への志願者は減るだろう。

当の自衛官が「黙して語らず」だとすると、どこの官僚が押し進めているのかを確認しておこう。
今朝の朝日新聞にこんな記事があった。念頭に置いておくため、長いが・・・
「(集団的自衛権)陰で動いた外務省 旧条約局出身者、与党協議に影響力
 他国への攻撃に自衛隊が反撃する集団的自衛権の行使を認めることで、自民、公明両党が大筋合意した。背後には、自衛隊が海外で活動する範囲を広げ、外交の選択肢を増やそうとする外務省旧条約局(現国際法局)出身者らの姿がある。侵略した国を国連決議に基づいて武力で制裁する集団安全保障でも、参加への余地を広げようと動く。

 20日の与党協議。自民党はそれまで議題になかった集団安全保障による武力行使を突然持ち出した。複数の政府関係者によると、震源地は外務省だ。その原動力となったのは、集団安保に最も積極的な外務省旧条約局経験者らとされる。
 与党協議の事務方の中心だった兼原信克・内閣官房副長官補は、外務省の国際法局長出身。外務省きっての戦略家と言われ、安倍晋三首相の知恵袋的な存在だ。首相がまだ年次の若い兼原氏を、次官級の副長官補に抜擢(ばってき)した。兼原氏は首相の私的諮140626gaimusyou 問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)も事務方の責任者として取り仕切った。
 集団的自衛権だけでなく、集団安保による武力行使も憲法解釈で認めるよう求めた外務省の現職幹部に、慎重派の首相周辺は「それはダメだ」と跳ね返してきた。
 集団的自衛権は、他国であれ「守る」ことを基本とする。しかし、集団安保では、侵略など問題のある国をたたく行為で攻撃性が高い場合がある。慎重派には「実現へのハードルはむしろ集団安保の方が高い。憲法改正で対応すべきだ」(政府関係者)との考えが強かった。
 首相はいったんは慎重派に軍配を上げた。集団安保の武力行使を認めない方針を決め、5月15日の記者会見で「政府として採用できない」と宣言した。
 ところが与党協議が最終盤に入り、兼原氏をはじめ旧条約局出身者を中心とした巻き返しが起きる。旧条約局出身者らは、自民党の責任者である高村正彦副総裁に説明を重ねた。最終的には高村氏の理解を得て、安倍首相からも集団安保の武力行使も可能とする閣議決定案の許可を取り付けることに成功した。
 その後、公明党の猛反対にあって、閣議決定案への明記は見送られたものの、集団安保でも武力行使をする余地は残った。ある旧条約局長経験者は「集団安保が与党で議論され、その痕跡が残ったことに意味がある」と評価する。

湾岸戦争時の批判、トラウマ
 安倍首相が再び政権に就き、集団的自衛権行使容認を目指すにあたって中核に据えたのが、外務省旧条約局長の経験者らだった。日本が集団的自衛権を行使することに前向きで、国際法に通じているため、首相にとって「理論的支柱」になってくれるからだ。
 兼原氏を交渉の最前線に立て、安保法制懇の座長に柳井俊二氏が就いた。報告書を受け取る政府の国家安全保障局のトップには谷内正太郎氏を据えた。さらに、解釈変更を了承する立場の内閣法制局長官には、歴代長官人事の慣例を破り、駐仏大使だった小松一郎氏を起用した。(小松氏は23日、病気で死去)
 外務省にとって集団的自衛権と共に、集団安保で日本が武力行使できるようにするのは悲願だ。そこにはイラクのクウェート侵攻を受けた1991年の湾岸戦争時の「トラウマ」がある。国連安保理決議により多国籍軍が組まれた集団安保だった。この時、旧条約局にいた外務省関係者は、こんなことを覚えている。
 内閣法制局に「自衛隊に多国籍軍の負傷兵の治療をさせたい」と伝えたが、「憲法9条が禁じる武力行使の一体化にあたる」と否定された。結局、日本は130億ドルを拠出したが、「カネしか出さないのか」と米国を中心とした国際社会から強い批判を浴びた。湾岸戦争時に条約局長だった柳井氏は5月、朝日新聞のインタビューに「何とかしなければいけないという気持ちはずっと持ってきた」と答えた。
 外務省は今年1月に発足した国家安全保障局に、若手の精鋭部隊を送り込み、谷内氏をサポート。同局の「与党対策班」が公明党への説得にあたり、閣議決定の文案作成も主導する。防衛省幹部は「官邸内を『条約局マフィア』が闊歩(かっぽ)している」と評す。」(
2014/06/26付「朝日新聞」p3より)

まあこの記事は朝日新聞 なので過激だが、舞台裏は外務省の、世界における外交的発言権強化が目的??
もちろん象徴は安倍首相だが、このように色々な省庁の権力拡大を背景に、今日本が動こうとしている。
真に必要なことなら、政府も外務省も国民にキチンと説明して、法に則って憲法改定をすれば良いが、誰もが、国民投票をすれば否決する事が分かっているので、悪知恵を働かして、民意不在のどさくさ紛れ・・・。何とそれが、日本が戦争をするかもしれないという重大案件なのに・・・。
今回キャスティングボートを握ったかに見えた公明党も、大臣の椅子ひとつ欲しさに、立党の「平和の党」という理念を捨てたというし・・・。

野党の体たらくも含めて、一部権力者のごり押しが現実化してしまう所が、サッカーと同じく、日本という国の今の実力なのだろう。

140626syaken <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年6月25日 (水)

「教科書代理戦争はむなしい」~戦争への参加を子どもにどう教える?

先日の朝日新聞に、こんな記事があった。
「(社説余滴)教科書代理戦争はむなしい 各務滋
 教科書は、なぜこうも対立を招くのか。
 沖縄県八重山地区の中学公民教科書の採択問題は収束まで3年近くかかった。昨年もある高校日本史教科書が東京都教委などににらまれ、採択を減らした。
 教科書は「正しい考え方」を伝える道具。そう考えるから、引くに引けなくなるのではないか。どちらが正しいかをめぐる大人の争いに、生徒を巻き込むべきではない。
 もちろん、書いてある事実関係が誤っていては困る。学説に照らして無理な解釈を書かれても困る。が、事実をふまえたうえでどう考えるかは生徒一人一人の問題だ。自分なら、教科書にそこまで教えられたいとは思わない。
 そもそも、教科書の子どもに対する影響力を大きく考えすぎていないか。食事にたとえるなら、教科書は今も主食ではあろうが、昔と違っておかずは豊富にある。
 少しインターネット検索をすれば、同じテーマで正反対の意見を探すことも、まるで違う切り口で書かれた書籍を探すことも難しくない。
 公民などは特にそうだ。
 教科書に竹島・尖閣問題の政府見解を書かせる、などと力まなくても、外務省のホームページを見ればくわしく書いてある。中韓の見解も両国大使館のサイトでわかる。
 おかずのことを考えずに、白米の栄養が偏っているとか何とか、そこばかりこだわってみてもむなしい。しかもこれからはタブレット端末を生徒に配って知識は動画で予習させ、教室では議論や演習をしようという時代だ。
 検定や採択というのは、良くも悪くも「行政が教材を吟味する」しくみだ。それは種類の限られた紙媒体の教科書だからできることだ。
 動画教材や、ネット上にある無数の生きた教材が普通に使われるようになれば、行政の統制は及ばなくなると想像する。教科書の一言一句にこだわる意味は薄れてゆく。
 それより教材の自由度を広げ、生徒の探求心や教師の創意工夫を育てることを考えた方が生産的だ。
 文部科学省の学力観も、与えられた正解を身につけることより、自分で考える力を大事にする方向にある。教科書に子どもたちを正しい思想に導いてもらおうというのとは相いれない発想といえる。
 教育に携わる人々が心からこういう学力観を支持していたら、とうに教科書問題は昔話になっていたはずだ。(かがみしげる 教育社説担当)」(
2014/06/17付「朝日新聞」より)

同じ話題で、先日「公民教科書、どう違う?~沖縄・竹富町の採択問題」(ここ)という記事を書いた。
しかし、この論を読んでみると、確かにそうだな・・・と思う。つまり、幾らでも情報が得られる昨今、教科書の一字一句を問題にしても空しい議論なのかも・・・。
それよりも、基本的な考え方の方がよっぽど重要だ。日本の平和に対する考え方など・・・

今朝の朝日新聞にこんな記事があった。
見えぬ国会の議論、現場は不安
   元陸将・元カンボジアPKO施設大隊長 渡辺隆さん

 自衛隊は「専守防衛」を掲げ、長年かけ国を守るための戦略を立て、装備を開発し、隊員を鍛え、なんとか一人前の力を持つ集団に成長しました。
 私が30年余勤務した陸上自衛隊で言えば、敵の着上陸侵攻への対処、つまり外部からの攻撃から国土を守ることが基本です。装備も編成も訓練も全体のシステムも、これを前提にしています。
 急に「集団的自衛権の行使が認められた」と言われても、現場は明日から対応するというわけにはなかなかいかない。日本から遠く離れた地で、集団的自衛権の行使に基づく作戦行動ができる態勢があるかと問われたら、まだまだ難しいというのが個人的な思いです。これまでとはまったく次元の違う話になると現場では受け止めているでしょう。もちろんこれは2年前まで現場にいた私の想像です。現役自衛官は「黙して語るな」と言われ続けましたから。
 1992年に自衛隊初のPKO部隊を率いてカンボジアに行きました。当時、国外で活動すると思って陸上自衛隊に入った者はおりませんでした。「我が国の平和と独立を守る」と服務の宣誓をして入隊した隊員にすれば、当時の流行語「聞いてないよォ」という話でした。我々は契約で自衛隊に入っていますので、隊員たちには新しい任務を「論理」で説明する必要があると常に思っていました。
 <指揮官なら悩む> それでもPKO参加は制度としては志願です。「絶対に行きたくない」という隊員には行かない自由もあります。しかし、個別的であろうと集団的であろうと自衛権に基づく行動であれば、たとえ日本の領域外であっても自衛隊法に基づく防衛出動命令なので拒否はできません。部隊長以下、組織に属する全員が命令に基づいて行動するという、本来の軍事組織が持つ基本的なパターンです。
 正直なところ、私は今、制服を脱いでいて、つまり退官していて、ありがたかった。もし制服を着ていたら、自分が指揮官として集団的自衛権をどう隊員に説明するか、夜も眠れないぐらい悩むだろうと思うからです。・・・・」(
2014/06/25付「朝日新聞」p17より)

これが自衛隊の元幹部の声だ。軍隊は、それがいくら理不尽でも、命令で動く組織。それなのに、今、安倍首相がやろうとしている事に対して、現場の自衛隊そのものが悩むほどの傍若無人さ・・・。

まして、学校の先生は、憲法第九条に対して、その意味を子どもたちにどのように教えれば良いのか・・・。
「憲法第九条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

の条文に対し、戦争を始めたアメリカからの要請で、その紛争に関係のない日本が自衛隊を派遣して戦争に参加する、ということを、純真無垢な子ども達にどう教えたら良いのか・・・
憲法に「国の交戦権は、これを認めない。」と憲法にはっきり書いてあるのに、どうして戦争を始めるのか・・・。
“安倍先生”は、子どもたちにいったいどう教えるのだろう・・・。

我々オトナをどう言いくるめても、純真な子どの達の心までだますことは出来ないのではないか・・・?
何ともやりきれない日本の現状ではある。

140625seihin <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年6月24日 (火)

今朝の電車の優先席での事件~心臓ペースメーカーと携帯電話

今朝の通勤電車の優先席で、こんな“事件”があった。
杖をついたおじいさんが電車に乗ってきて、優先席に座るや大声で「携帯電話は止めろ。ここは優先席だ」と言う。隣の携帯をいじっていた若者は、さっと席を立って行ってしまった。中央の席に座ったおじいさんの両席は空いたまま。次に品の良さそうなおばあさんが乗ってきた。と、携帯の呼び出し音。立ってドアの側でヒソヒソ・・・。そして席に戻る。するとまた、おじいさんが「携帯の電源を切るか、どこかに行ってくれ」と怒鳴る。おばあさんも負けていない。「消しません。娘からの電話を待っているから」「どこかに行ってくれ」「私は足が悪いのでどきません」「消してくれないよ~」「どこか悪いのですか?」「消してくれ」「私は薬剤師だから良く知っているが、ペースメーカーに携帯は影響は与えません」「どこかに行ってくれ」・・・。そして、おばあさんは悠然と新聞を広げる・・・
その大声に、ホームにいた尻押しの(?)駅員さんが乗ってきて「ここは優先席なので、携帯を消して下さい」「私は消しません」・・・すると、とうとう、おじいさんが怒鳴りながら、おばあさんの肩をこづきだした。すると駅員さんが、向かいの席におじいさんを離して座らせた・・・

前にも同じような場面が何度かあった。満員の電車の中で、大きな叫び声が聞こえる。おばあさんが「私はペースメーカーなので、携帯の電源を切って下さい」と周囲に向かって大きな声で言っている。満員電車でも話す人はいないので、異様な光景・・・。そして、周囲の携帯を見ている人に次々と手を伸ばして「携帯切って!」と・・・。言われた人は、キョトンとしながら、「優先席から離れているのに何で?」という顔をして、もっと遠くに立っている場所を移していく・・・。

確かに前は、車内放送で「心臓ペースメーカーに影響するので・・・」とか言っていたが、最近はそのセリフをあまり聞かない・・・。調べてみると、その根拠となる総務省の指針が変わったそうだ。でも携帯が無罪放免ではないらしい・・・。

「平成25年1月24日
各種電波利用機器の電波が植込み型医療機器へ及ぼす影響を防止するための指針」の改正案に対する意見募集の結果及び指針の改正
・・・
【改正の概要】
1.離隔距離の見直し
これまでに行った携帯電話端末による植込み型医療機器への影響調査の結果及び植込み型医療機器の国際規格との整合性を考慮して、携帯電話と植込み型医療機器との離隔距離を22cmから15cmに見直します。

2.携帯電話端末の所持者に対する注意事項の修正
携帯電話端末の所持者に対する注意事項において、「携帯電話端末と植込み型医療機器の装着部位との距離が15cm程度以下になることがないよう」にすることが必要であることを明確にし、あわせて携帯電話端末の新たな機能(電波OFFモード等)にも対応した表現に修正します。・・・」(
総務省のここより)

「平成25年12月25日
平成24年度電波の医療機器等への影響に関する調査結果及び当該結果に基づく「各種電波利用機器の電波が植込み型医療機器へ及ぼす影響を防止するための指針」の改訂
・・・
3 指針の改定について
 携帯電話端末から発射された電波が植込み型医療機器に与える影響を防止するための指針は以下のとおりです。

ア 植込み型医療機器の装着者は、携帯電話端末の使用及び携行に当たっては、植込み型医療機器の電磁耐性(EMC)に関する国際規格(ISO14117等)を踏まえ、携帯電話端末を植込み型医療機器の装着部位から15cm程度以上離すこと。
 また、混雑した場所では、付近で携帯電話端末が使用されている可能性があるため、注意を払うこと。

イ 携帯電話端末の所持者は、植込み型医療機器の装着者と近接した状態となる可能性がある場所では、携帯電話端末と植込み型医療機器の装着部位との距離が15cm程度以下になることがないよう注意を払うこと。なお、身動きが自由に取れない状況下等、15cm程度の離隔距離が確保できないおそれがある場合には、事前に携帯電話端末が電波を発射しない状態に切り替えるなどの対処をすることが望ましい。・・・」(総務省のここより)

この指針を受けた(ここ)の記事によると、
「・・・総務省が現在の第3世代(3G)携帯電話を使ってペースメーカーへの影響を調査した結果、携帯電話から3センチ以上離れれば、ペースメーカーに影響はないことが判明。総務省は今年1月、距離指針を22センチから15センチに緩和した。

 総務省の担当者は「鉄道会社には実態に合わせて見直してほしい」と話す。

 京阪電鉄は指針の緩和にいち早く反応。3月から混雑時を除き「電源オフ」の呼びかけをやめた。近鉄や阪神電鉄は今後、車内放送の見直しを含め検討を進めるという。JR西日本は「とりあえず現状のまま様子をみたい」との姿勢だ。」(2013/10/7付「産経ニュース」より)
という。鉄道会社によって、対応は色々らしい。

さて、さっきのおじいさんとおばあさんのやりとり。
会社から帰ってカミさんに話すと、カミさんは全面的におばあさんの味方。
確かにおじいさんも理由も言わすに大きな声で怒鳴り、自分の周囲は自分の思う通りに・・・。
一方、おばあさんも負けてはいない。前の優先席も空いているので、そっちへ席を移せば良いのに、一切無視して新聞を広げて座り続ける・・・。
どっちも、年寄りは頑固・・・。

140624yuusenseki 心臓神経症という病名があるように、心配性はどうしようもない。これは理屈ではなくて、感情の問題。たぶんペースメーカーを付けているのだろう、おじいいさんも心配性で、「優先席ではルール通り電源を切れ」と言うのも分かるが、如何せん声が大きすぎた。

自分も含めた乗客が遠巻きにしていた、ある日の優先席の光景ではあった。

140624sukuenai <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年6月23日 (月)

漱石の小説に出てくる「愛すべきダメ男たち」~豊崎由美さんの話

先日の朝日新聞にこんな記事があった。
「(リレーおぴにおん)漱石と私:3 愛すべきダメ男たち 豊崎由美さん
 「こころ」の「先生」って、ダメですよね~。エゴイストにしてナルシスト。漱石作品のダメ男の典型です。
 この人、「私が」「私は」と、自分のことしか言ってない。プライドが高いから、自分のことしか考えられないんです。本当に妻を愛しているのなら自殺なんかすべきじゃない。結局、自分が可愛いんです。罪悪感と自分への失望を後生大事に抱えて死んでしまう。
 「坊っちゃん」の主人公も自分勝手で甘ったれで困ったもんですが、漱石の中では珍しいタイプのダメ男ですね。子どものまま大人になっているから、明朗で痛快ですらあります。漱石のダメ男は、基本、辛気くさいんです。
 ダメ男ナンバーワンは「それから」の代助ですね。高等教育を受けたのに働きもせず、平気で実家にカネの無心をしている。いまでいうパラサイト。そのくせ他人をぼろくそに言う。身の回りの世話をしてくれる書生を「この青年の頭は、牛の脳味噌(のうみそ)で一杯詰(つま)っているとしか考えられない」とかね。そんなこと言われたら泣きますよ。
 朝から風呂場で肌をぴかぴかに磨いて、鏡を見てうっとりする。すごいナルシスト。働かない理由がまたふるってて、「僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ」「日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ」。突っ込み所が多すぎて笑うしかないキャラです。
 でも、だから代助は、現代の私たちにとって等身大のダメ男なんですよ。上から目線のパラサイトで、「自分は何者なのか」をうじうじ悩んでいる。私たちの中にも見当たるダメさなんです。「先生」もずっと秘密を隠してきたけれど、結局、告白するわけですよ。プライドは高いんだけど、最後に弱さを見せるあたりが共感できる。
 森鴎外の「舞姫」の主人公も、出世のために恋人を捨てるかなりダメな人ですが、明治のエリートの身勝手さだから、いまの読者には共感しにくい。漱石が読み継がれている理由のひとつは、現代にも通じるダメさを描いているからなんじゃないですか。
 日本でも海外でも、面白い小説には必ずダメ人間が登場します。それは、人間の基本型がダメだからです。ダメを抑えるには我慢しかないんですが、我慢強くて思慮深い人って、だいたいつまらないですよ。そういう人を主人公にしても、やっぱりつまらない。
 人間は多少ダメなほうが面白い。ものすごくダメだと困りますけど。漱石の主人公のような「ちょっとダメ男」くらいが一番いいんです。(聞き手・尾沢智史)
     *
 とよざきゆみ ライター、書評家 61年生まれ。切れ味鋭い書評で知られる。著書に「まるでダメ男じゃん!」「ニッポンの書評」、共著に「文学賞メッタ斬り!」シリーズなど」(
2014/06/17付「朝日新聞」p15より)

読んでいて、何とも痛快だ。
それよりも自分は、この一文を読んでいて、大きなことに気付いた。「文豪・漱石が描いた主人公なのだから、主人公はエライ人のはず・・・」は大きな間違い!
漱石が描いたのがダメ人間なら、別に主人公をダメだと言っても、漱石をダメだと言っている訳ではないのだ・・・。

先日、「女性から見た漱石「こころ」の先生は?」(ここ)という記事を書いた。作家の島田雅彦さんが「こころ」の先生を批判しているテレビを見て、自分が喜んだ記事である。この記事も同様。
なるほど・・・。別に漱石を否定することがタブーなわけでもあるまいが、ここでは登場人物について論じているのである。漱石を否定すると異論も出ようが、漱石が描いている登場人物については、色々と意見があっても良かろう・・・。それは自由な意見・・・

それにしても「パラサイト」という言葉は知らなかった。
ここ)によると、
パラサイト
パラサイトとは、結婚せずに親と同居している人。
【年代】 2000年   【種類】 カタカナ英語
『パラサイト』の解説
パラサイトとは適齢期を過ぎても結婚をせずに親元で暮らす人のことで、正確にはパラサイト・シングルという。パラサイトは英語の"parasite"からきているカタカナ語だが、parasiteの意味が「寄生虫」「寄生植物」であることからもわかるように、「結婚をせず、親元で甘えて生活(寄生・居候)する」といった悪いイメージで使われることが多い。実際、十分な収入があるにも関わらず、裕福な暮らしをするためにパラサイト・ライフ(結婚をせず、親に甘えた生活)を過ごす人や、育児・家事をしたくないといった理由でパラサイト・ライフを送る人が多い。逆に結婚はしたいけれど出会いがないなどの理由で結果的にパラサイトとなっている人もいる。どちらにしてもパラサイトの増加が少子化問題を深刻化させるのも事実であり、社会問題のひとつとしてクローズアップされている。」

とのこと・・・

言われてみると、世はまさにパラサイトだらけ・・・!?
子も子だが親も親? いや、そうせざるを得ない現代社会の方がよっぽど問題!?
でも「パラサイト」とはイヤな言葉だ。何よりも語感が悪い。
早くこんな言葉は廃れれば良いと思う・・・。

どうもこんな記事が気になる“漱石を批判することにトラウマがある”自分なのである。

140623shinigami <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年6月22日 (日)

ETV特集「本当は学びたい~貧困と向き合う学習支援の現場から~」を見て

NHKのETV特集「本当は学びたい~貧困と向き合う学習支援の現場から~」(2014/06/14放送、ここ)を見た。

NHKのサイトにこんな解説がある。
本当は学びたい~貧困と向き合う学習支援の現場から~
いま、子どもや若者の「貧困」が、学力格差や不登校、高校中退などを引き起こし、「学び」に深刻な影響を及ぼしていることが分かってきています。
塾、携帯電話、インターネット・・・。現代では、「平均的な家庭」が、いろいろな物を手に入れられるようになりました。
しかし、経済的に苦しい家庭の子どもはどんどん取り残され、やがて挽回できないほどに、差が開いていきます。
この「差」に苦しめられる、いわゆる「相対的貧困」の子どもが今、増え続けています。
そんな中、元高校教師の青砥恭さん(65歳)は3年前、子どもや若者たちに、無料で「学び直しの場」を提供するため、NPO「さいたまユースサポートネット」を設立しました。
不登校、高校中退などのさまざまな理由で学校から去った子どもや若者に、ボランティアたちが勉強を教えます。
ここに集まる若者の半数以上が、貧困の家庭に育っています。勉強できる十分な環境が無く、学びの場からこぼれ落ちた子どもたち。生活のために日雇いの現場で働く学生、夜の仕事をする高校生・・・。
ここには、貧困の中、ますます学びの場から遠ざかっていく若者たちの姿がありました。
学ぶことを通して、「居場所」や人とのつながり、そして自信を取り戻してもらいたいと願う青砥さんの取り組みと、そこに集まる若者たちの思いを見つめました。」(
NHKのここより)

番組では、元高校教師の青砥恭さんが無料で提供する、「たまり場」と「勉強の場」を通して、貧困の子どもたちの現状をレポートしていた。
ここに登場するどの家庭も、両親の離婚や父親との死別で、経済的に困窮し、子どもたちは普通の学校生活が送れない・・・。そして段々と不登校になり、中学に行っても、勉強に付いて行けないことから学校に寄り付かなくなって、そのまま社会に放り出される・・・。これで良いのか・・・と。
唯一救われるのは、不登校の女子中学生が、ここで自分が美術に興味があることに気付き、ボランティアのシニアの先生からの60回もの個人レッスンを受けて1年生分から勉強をやり直し、面接の訓練などを経て、高倍率の美術部が盛んな高校に合格した姿。
このボランティアさんたちによって、この子の将来が大きく変わったことは確か・・・。何よりも、不登校の子に“高校合格”という果実で与えた大きな自信は、今後の人生にどれだけのインパクトを与えるか・・・。

そんな話をしていたら、カミさんがNHKのハートネットTV(ここ)で、神奈川県の「子ども支援員」(ここ)制度を見て、かなか良い制度だと言っていた。
この制度は、生活保護家庭など、困窮から子どもの育成がうまく行っていない家庭に、行政が自ら手を差し伸べて、家庭の中でどうしよもないがんじがらめの状況を、知識のあるプロが介入することによってその環境にいる子どもたちの良い道を探ろうというような取り組みらしい。しかも同じ担当者が、子どもが成人するまで見守る・・・

よく、東大合格者は裕福な家庭の子どもが多いと聞く。これも同じ。裕福な家庭の子どもは、益々良い方向に歩み、劣悪な環境の子どもは益々取り残されていく・・・。そして、否応無しに劣悪な人生を歩むことになる。
「ホントウにそれで良いのか!!」

支援すべき子どもたちをどうやって見付けるか。それは学校任せにも出来ない。電気料金や水道料金など、公共料金の延滞は、その家庭が出すアラーム・・・。それらの情報に協力を求めて、声を挙げない困窮家庭を探し出し、せめて今の日本の制度の中で、何か出来ることは無いか・・・。知恵を絞ることで何か出来ないか・・・。

我々シニア族にとって、それこそ“余計な人生を活かす”テーマかも知れない・・・。
今日は、自分に言い聞かせる為の話である。

140622katamuki <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年6月20日 (金)

老婆(老犬)「メイ子」の食事(エサ)に翻弄されている話

この所、カミさんも自分もたった3キロのメイ子に翻弄されている。連日、「食べた」「食べない」・・・と。
愛犬「メイ子」(本名/メイリー:ヨーキー:12歳)が、最近食事を摂らない日があるのである。カミさんが言うには、8日おき位に一日中食べない日があるという。
今まで、体調不良で食べなくても、一日中食べない事は無かった。それがこの6月になってから、度々一日中の “絶食”がある。でも、体全体の調子はそう悪くなさそう。でも我々老夫婦は、オロオロと心配してしまう・・・。何よりも、食べなければ体力が落ちるだけなので、どこか体が不調なのではないか・・・と。
「しゃべってくれると良いのに・・・」「いや、もししゃべると、何を言われるか分からないので、かえって怖いか・・・」・・・

先週も今週も、決まって(月)になると食べない、という。(火)は行き付けの獣医さんが休日。それでとうとう、今回は先日の(水)に獣医さんに連れて行った。
だいたい、犬はどこまで分かっているのかがナゾ・・・。動物病院に行く道の、ある交差点・・・。いつもは左車線に行くところを、動物病院に行くために赤信号で右車線に止まったら、何とブルブルと震えだした。自分が一番キライな所に連れて行かれることが分かったみたいに・・・。これにはビックリ! まさか車線が違う事で分かったのでもあるまいし・・・。我々の雰囲気を感じたのだろう・・・

獣医さんが言うには、「もう12歳になっているので、心臓も肝臓も腎臓も弱っている。まず心臓の薬を増やして、良くなってきたら肝臓と腎臓の薬を飲みましょうか・・・」
やはり遺伝が大きいらしい。母親も6歳で亡くなったし、一緒に生まれた姉妹も、3匹中2匹は既に亡くなっている。ヨーキーの純粋種は弱いらしい。
「犬は結構賢いので、ストライキをすれば、もっと美味しいエサが出てくるのでは?と様子をうかがっているかも知れない・・・」と獣医さんは言う。
「3日食べないと困るが、1日位なら心配ない。30分エサを出しておいて、食べなければサッサと片付ける。するとヤバイと思って、出ると食べるようになる」「動物も人間と同じく、歳を取ると頑固にもなる」というアドバイスも・・・

今までは、カミさんが少しでも食べてくれれば・・・と、ずっとエサを出し放しにしておいた。それで、言われて今回サッサと片付けたら、メイ子は焦ったようにも見えた。これでちゃんと食べるようになるかな・・・と思いきや、やはり食べない・・・。なかなか一筋縄では行かない・・・。これはもう我慢比べ・・・。タカを括られた人間と、老婆メイ子との戦い??

しかし“その時”は徐々に近付いている。獣医さんは、「小型犬は明日どうにかなる、というものではない。このまま2~3年続くだろう」とも・・・。
でもその時を考えると、居ても立ってもいられない。

今朝は、久しぶりに完食。夕食もまあまあ。そんな事に、夫婦でホッとしているこの頃である。

140620sanpo <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年6月19日 (木)

藤野可織の「体力」~軽いエッセイ

先日、会社から帰った自分に、カミさんが「この記事、気に入ったから直ぐに読め!」と言う・・・。一読して「直ぐに読まなければいけないほどの記事か?」と返事した・・・
「(プロムナード) 「体力」 藤野可織
 とにかく体力がない。今にはじまったことではない。昔からだ。
 体が弱いわけではない。病院へ行って、風邪以外の診断を下されたおぼえがない。血圧は低めだが、問題になるほどではない。ひたすらに、体力がない。それだけだ。
 小学生のころ、私はとても痩せた子どもだった。ピアノを習っていたからだ。遊びではなかった。将来、ピアノを職業にするために習っていたので、毎日練習をするのは当たり前だった。ピアノを弾くのはとても体力がいる。座っているけれど全身運動だ。それで、痩せていた。6年生のときにいやになってやめると、みるみる太った。
 太っても、体力はそのままだった。中学生になり、ピアノをやめたせいでやることがなくなった私は、日曜日には遊びに出ることにした。遊びといってもたいしたことはしない。映画館か美術館へ行くだけだ。しかし、そうすると後日、しばしば寝込んだ。寝て過ごすと、翌週もそこそこ元気だった。
 高校で、ペースをつかんだ。私は自分が、6限ある授業のすべてを集中して聞き通す体力はないと踏んだ。時間割の並び、得意科目と苦手科目、授業が教科書に沿ったものかそうでないかなどの要素を考慮に入れ、休息に充てる科目を毎週決めることとした。ルールは、2回続けて同じ科目で寝ないこと。当時、私の通っていた高校は授業中のおしゃべりや立ち歩きなどで学級崩壊に近い様相を呈していたので、おとなしく寝ている私が問題視されることはなかった。
 その後も、私は寝た。授業中に、就業中に寝た。会議中にも寝た。確信犯的に寝て、寝てはいけないと手の甲を引っ掻(か)いて傷だらけにしながら寝た。
 今も、よく寝ている。バスで寝て、電車で寝て、喫茶店で寝る。服を買いに出掛けてデパートの休憩用の椅子に座った瞬間、寝落ちする。映画館ではほとんど寝ないが、美術館では数度寝た。どうしても立っていられなくなって展示室を途中で退出し、必死で館内の隅に置かれた椅子を探し当て、そこで寝てしまった。
 もちろん家でも寝る。出張から帰った翌日や一仕事が終わったとき、いや終わっていなくても、ときどきほぼ二十四時間寝てしまう。そのあいだ、トイレか水を飲みにふらりと起き上がることはあるが、用が済むとまたベッドに戻り、一瞬にして眠りに落ちている。私はこの長時間睡眠が、あまり好きではない。丸一日を無駄にするし、このせいでたくさんの面白そうなイベントごとを逃した経験があるし、なにより起きたとき、ぜんぜん体がすっきりしていないからだ。いや、はっきり言って、体調は悪くなっている。喉や顔面の皮膚はひりひりするほど乾き、腰と首は痛み、肩はいつもにも増して凝る。頭痛もあるし、目眩(めまい)もひどい。体力さえあれば、こんな目に遭わなくてすむのに、と思う。
 しかし、この話をすると、それは体力があるんですよ、と言われる。どうやら眠るのにも体力は必要であり、二十四時間も眠り続けるとは相当な体力だ、ということらしい。道理で寝て起きたあとぐったり疲れているわけだ。貴重な体力を一心に睡眠に捧(ささ)げているだなんて、不毛すぎて泣きたい。が、泣かない。せっかく起きているのに、泣いて体力を消耗するわけにはいかない。(作家)」(
2014/06/16付「日経新聞」夕刊p7より)

これが、何とも他愛のない記事なのだ。
そう言えば、前にも同じような記事があったな・・・と探したら、あった。何と同じ藤野可織氏の「「肩凝り」について・・・(こ)」だった。
前回に引き続き、こんな他愛のないテーマで、ここまで書ける才能・・・!!

140619fujino wikiで見ると、藤野可織氏(34歳)は芥川作家だという。読書家ではない自分は、残念ながら知らない。
それにしても、何度読み返しても「休息に充てる科目を毎週決めることとした。ルールは、2回続けて同じ科目で寝ないこと。」が愉快だ。実に良く考えている・・・
また、「私の通っていた高校は授業中のおしゃべりや立ち歩きなどで学級崩壊に近い様相を呈していたので」という記載は、こんなことを書いて良いのかな?と心配になり、wikiで読むと、この高校は同志社高校らしい。

でもこんな記事は好きだな・・・。読んでいてホッとする。新聞やニュースの不愉快な報道より、よほど和む。
特に政治のワケの分からない昨今・・・。こんなエッセイでも読んで、休息を取りましょうか・・・。

140619koukou <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年6月18日 (水)

「首相のあべこべ言葉」~言葉でのごまかし

今朝の朝日新聞にこんな記事があった。
首相、あべこべ言葉ですか 集団的自衛権
 集団的自衛権を語る安倍政権の言葉が、なんだか分かりにくい。積極的平和主義、必要最小限度――。ただでさえややこしいのに、よく聞くと、それって逆の意味?と思えることも。まるで「あべこべ言葉」だ。
 ■積極的平和主義→集団的自衛権の前提に
   必要最小限度の行使→「拡大的に運用できる」
 「安倍晋三首相の言う『積極的平和主義』は本来とは逆の意味。言葉の乗っ取りだ」。詩人のアーサー・ビナードさんは5月23日、北海道室蘭市の講演で聴衆に語りかけた。
 「積極的平和」はノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングさんが世界に広めた考え方。戦争という直接的な暴力がない状態を「消極的平和」と呼び、さらに努力して貧困や差別なども取り除いた状態を「積極的平和」と定義し、その実現を目指すよう唱えた。
 安倍首相は同じ言葉を使って、原則禁止していた武器輸出の条件を緩め、他国の戦争に参加する集団的自衛権も使えるようにしようとする。ビナードさんは、安倍首相が批判を見越し、先手を打ったとみる。「先に平和という言葉を使って批判をかわす。日本に軍需産業を育てるための広告戦略としては、大変お上手」
 安倍内閣が4月、閣議決定した新原則で、武器輸出は「防衛装備移転」と言い換えられた。軍事評論家の前田哲男さんは「軍事に関する言葉は語感に引きずられてはいけない」と指摘。現在、与党協議で議論されている自衛隊による「後方支援」という言葉を例に挙げる。
 前田さんは「後方というと安全のようだが、現代では正規軍同士がきれいに前線をつくる戦争はなくなった」。特に米国が主導する「テロとの戦い」では前線と後方の区別はあいまいだ。2001年からのアフガニスタン戦争では、自爆テロなどで、各国の「後方」部隊に犠牲者が出た。「後方という言葉で戦場の危険を覆い隠す議論をしては、かえって現場の自衛隊員を不安にさせてしまう」
 集団的自衛権を「限定的」に使えるようにするという説明も聞く。だが、憲法学者らがつくる「立憲デモクラシーの会」は9日、「『必要最小限度』の集団的自衛権の行使という概念は『正直な嘘(うそ)つき』と同様の語義矛盾」とする見解を発表。戦争になれば、「必要最小限度」を超えたという理由で日本が撤退を判断できる、と考えるのは現実的でない、などの理由を挙げた。
 自民党は自衛権発動の前提条件として、日本や他国への武力攻撃によって「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること」などの新3要件を提示している。「おそれ」をどう判断するかは時の政府次第だ。
 立憲デモクラシーの会は発表した見解で「ひとたび憲法の制約さえ外れれば、その後いくらでも拡大的に運用できる」と批判する。
 実態を字面で糊塗(こと)しようとする政治の言葉。その極限を描いたのが、英国の作家ジョージ・オーウェルの小説『1984年』だ。周辺国との戦争によって国民の愛国心と恐怖心をあおり、独裁に従わせる国家が舞台。その独裁政党のスローガンは「戦争は平和なり」。
 この架空の国家の支配層は、黒を白と言い換える言語「ニュースピーク」と、うそを告げながら、それを自ら真実と信じ込む「二重思考」を身につけなければならない。
 立憲デモクラシーの会共同代表の山口二郎・法政大教授(政治学)は4月のシンポジウムで、安倍首相の「積極的平和主義」にふれ、「まるでニュースピークを思わせる」と批判。「常識で反論するしかない」と訴えた。
 詩人のビナードさんは冒頭の講演でこうも語った。「政治を決めるのは主権者である国民。まず日本語を自分たちのものとして、取り戻さなければならない」(上原佳久)」(
2014/06/18付「朝日新聞」p30より)

この手のごまかしは、数知れない・・・。障害者に無理な負担を強い、支援を減らす「障害者自立支援法」しかり、文藝春秋(2014年7月号)にもある、全く安心でない「年金百年安心プラン」しかり・・・。
言葉で国民を煙に巻く、という何とも不誠実な政治に、我々国民はどう対処すれば良いのだろう・・・。「戦後レジームからの脱却」というフレーズも、やりたいことを外国語で煙に巻いている。なぜ国民が直ぐ分かる言葉で言わないのか・・・
テレビでは、解説者が「集団的自衛権を急いでいるのは、時間が経つと国民が気が付いてしまい、反対が多くなるので、その前に決めてしまおう、という意図だ」とか言っていた。

言葉でごまかすのは、いつの世でもある。こんな事を思い出した。現役の時、中期計画という制度があり、その策定を何度か行ったことがある。これは、自分たちで担当している事業を、数年後にどんな姿に持って行くのか、という企画の話。
ある上司が言った。「内容はともあれ、英語の頭文字を取った3文字の略称を決めよう。幾ら内容が無くても、ありそうな英3文字で言うと、立派なありそうな話になる」。
かくして、“ABC事業の・・・”ナンテ言う企画を持って行った。すると、トップヒアリングの会議で案の定、「ABCとは?」という質問が出て、「A*** B*** C***の略で、・・・」と説明する。何ともリアリティがありそうで、その会議だけは乗り越えられた。しかし言葉だけで中味がないため、その後に自分で墓穴を掘ったことは言うまでもない。

それに比べ、現在行われている“改革”は、言葉のアヤに止まらず、官僚・政権の深い意図があるので事はやっかいだ。
昨日(2014/06/17)も、集団的自衛権に反対する集会が東京・日比谷公園で開かれ、5000人が参加したという。しかし、タイなどの政情不安に比べると、日本は何とも平和だ・・・
政治家のやりたい放題を、結果として国民が放置している。いや、何よりも政治家が、どんなに国民が反対をしようが、どんなに有名人が大挙して反対を唱えようが、想定範囲内・・・と無視するので、何とも手段が無い・・・。

相手に分かる言葉で言うことは、コミュニケーションの基本。幾ら格好良い言葉で言っても、相手が分かる言葉で説明しないと、コミュニケーションは取れない。そんな当たり前のことは皆分かっているので、全ては意図的に「言葉多くして、相手に悟られないように・・・」という姿勢としか映らない。
それを見破って、真の姿を国民は見極めなければいけないのだが、日本人はそれに耐えられるのだろうか・・・。吉田元首相が言っていたように「国民はバカなので、知らせる必要も意見を聞く必要も無い」といった考え方は、今では死語か?
次世代を担う子どもたちのためにも、今のオトナがこの暴走している“改革”を止める方法を模索するしかないのだが・・・。

140618dakko <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年6月17日 (火)

西島三重子の「もう森へなんか行かない」

先日、こんな歌を見付けた。西島三重子の「もう森へなんか行かない」という歌である。なお歌詞は、聞きながらのメモなので、正確ではない。(一部聞き取れない・・・)

<西島三重子の「もう森へなんか行かない」>


「もう森へなんか行かない」
  作詞・作曲:Guy A.Bontempelli
  訳詞:西島三重子

今日 季節が 変わるように
青春が 行ってしまう
夏の草を 刈り取るように
時の流れが 連れて行くの

 思い出して あの日のこと
 私たちは 森へ行った
 花を摘んで 口笛を吹き
 夢を見ては 語りあった

 もう森へは 行きはしない
 夢見ていた 少女の日は
 森の中に 忘れ去られた
 秘密の歌 夢の呪文

夜 とばりが 降りるように
青春は 去っていった
音もたてず 私の髪に
密やかに ヴェールをかけて

 いつの間にか 忘れていた
 あなたの名も あの歌さえ
 帰る道も 雨に消されて
 風の音に 振り向くだけ

 もう森へは 行きはしない
 過ぎた時を 追いはしない
 ただ 意味なく 笑った日々は
 退屈には 余りあるけど

ここ)によると「「もう森へなんか行かないMa jeunesse fout l'camp」は、フランスのシンガー・ソングライター、ギイ・ボンタンペッリGuy Bontempelliの作詞・作曲です。彼の作った曲は、ジュリエット・グレコ、ダリダ、ニコレッタ、バルドーほか多くの歌手に歌われています。フランソワーズ・アルディがこの曲を歌ったのは、1967年。TBS系列で放送された山田太一脚本のドラマ「沿線地図」で挿入歌として使われて、日本でも有名になりました。ジャン=クロード・パスカルJean-Claude Pascalものちに歌っています。原題は「私の青春は逃げて行く」という意味で、「もう森へなんか行かない」というのは、歌詞に含まれるフレーズ。あまりにも知られているので、この題名のままにします。・・・」だそうだ・・・

この歌は、聞いていると同じようなフレーズが繰り返され、何とも不思議な雰囲気・・・。楽曲的には、A・B・B’という感じか??

せっかくなので、ドラマ「沿線地図」で挿入歌として使われたという歌も聞いてみよう。1967年発売の作品である。

<フランソワーズ・アルディの「もう森へなんか行かない」>

雰囲気がほとんど同じ・・・。
でもなぜこの歌が気になったのか・・・。旋律が実に日本的ではないか?
毎回言っているが、これら自分の知らない歌を発掘するのが、FM放送受信の醍醐味である。

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2014年6月16日 (月)

「医学生ですが死が怖いです」~逃げてもいいんです

先日、朝日新聞でこんな記事を読んだ。
「(悩みのるつぼ)医学生ですが死が怖いです
   <相談>相談者:医学部3年生 20代
 現在、私はある地方大学医学部の3年生で、将来は子どもを心身ともにケアできる優しい小児科医になりたいと思っています。しかし、実習や研修、仕事で避けることのできない「死」が怖くて仕方ありません。
 人間が死を恐れるのは当然かもしれませんが、小学生の頃から、死ぬことを考えると、とても恐ろしい気分になります。いつか自分の体が骨となり意識もなくなると想像すると、恐怖で叫び出したくなるほどです。中高生のときお世話になった病院の先生に憧れて医師を目指したのですが、医師になれば生死を少しは理解できるのではないかとも考えました。
 実際、医学の勉強を始めてから死に対する意識は少し変わり、「人は死後も後の世代に影響を残すことができる」と今は考えています。自分が死ぬまでに、病気の子どもたちにできるだけ良いことをしたい、と思い至るようになりました。
 今は友人と必死に実習や勉強をして、試験後は思いきり遊ぶという生活を満喫し、大学にいれば死の恐怖にとらわれることはありません。家に独りでいるふとした瞬間のみ、そういった恐怖を感じます。このままでは将来、余命の短い患者さんを受け持ったとき、その人の死に向き合うより自分の死を恐れてしまう気がして心配です。何かいい心の整理方法はありますでしょうか。

<回答>回答者:評論家 岡田斗司夫
「死が怖い」のはあなたの個性です
 私の父はがんで他界しました。大正生まれの父は弱音など吐いたことがありません。でも末期がんで入院しているとき、「ようやっと自分が死ぬのがわかってきた。斗司夫、死ぬのは怖いぞ」と笑って言いました。
 死は「理解すれば怖くなくなるもの」ではありません。理解すればするほど、理不尽に思えたり怖くなったりするものじゃないでしょうか。
 父はけっきょく、「死の恐怖」と和解したようです。「死ぬことは怖い」という本音を認めて、すこしだけ楽になったみたいでした。
 あなたは死が怖い。私の父のように「もうすぐ死ぬ」から怖いんじゃなくて、「いつか自分も死ぬ」から怖い。子どもの頃から怖いので、これはもうあなたの「個性」の一部です。
 「個性」なんだから治そうとか乗り越えようとしてもムダ。宗教や哲学も、たぶん助けにならないと思います。
 犬が怖い人は、無理して犬を飼う必要はない。「犬が怖い」を克服するためにあえて飼うのは、時間と犬の人生のムダでしょう。同様に、死が怖いあなたが「死を意識する職業」を選ぶのはムダだと私は思います。
 医者にならなくても、子どもたちのためになる仕事はいくらでもあります。
 例えば、医師免許があれば医者以外にも、厚生労働省の医系技官や保健所長になれます。外資系コンサル会社などでは免許があるとキャリア上、有利です。
 死が怖いんだから、堂々と逃げてもいいんじゃないですか? 私の父のように「必要になるまで」は直面しなくてもいいと思います。
 もう一つ、気になる点があります。ひょっとして医学部に合格しちゃったから「医者にならないともったいない」と考えているんじゃないですか?
 「死が怖い」「子どもの役にたちたい」「医者に憧れている」
 この三つだけでも相互に矛盾してしんどいのに、おまけに「せっかく医学部に合格したからもったいない」まで考え出したら、そりゃ動きも取れなくなりますよ。
 完全に「心の積載量オーバー」です。
 怖いことからは逃げてもいいんです。医学部に合格しても、医者にならなくてもいい。「死が怖い」のは、あなたの個性の一部です。
 否定せずに、その個性といっしょに幸せになる道を考えてください。」(
2014/05/31付「朝日新聞」b10より)

上の記事で「怖いことからは逃げてもいいんです」、そして、「「必要になるまで」は直面しなくてもいい」という考え方について、どう捉えるか・・・
上の意見は、自分の意志でコントロール出来る範囲なので、そうかな・・・とも思う。自分はゲジゲジが大キライ。そもそもムシ類が怖い。家でゴキブリが出てきた時など、大声でカミさんを呼んで退治してもらう・・・。よって、その類の話の延長なら、「死が怖い」から逃げるのも分かる。
それでは「逃げられない怖いもの」に対する対応はいったいどうすれば良いだろう。

上の医学生と同じく、誰でも「死」は怖い。それは「誰も「死」を知らない(体験出来ない)からだ」、と思っていた。だから怖いことも、良く知ってしまえば、「何だ、こんなものか・・・」と怖く無くなるのではないかと・・・。しかしそれは正解か?? つまり、「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」は正解か?(←ちょっと例が違うけど・・・)

分かり易いのが、がんの宣告。誰も茫然自失するだろう。しかし自分のがんを勉強し、良く知れば怖く無くなるのか? 癒されるのか? つまり、もやもやと分からないから漠然と怖いだけで、相手の正体が分かれば怖さは減るのか?
どうも良く分からない・・・。「知れば知るほど怖いので、目を背けて知らない方がよい」という考え方もあるのでは・・・?

先日、カミさんが市の講習会で貰ってきたエンディングノートなるものを書いていた。そして自分にも書けと言う。その中に、終末期の医療の項に「病名や余命告知」について希望するかどうかを書く欄があった。カミさんは当然のように「希望する」。でも自分は絶対に「希望しない」と書くだろう・・・。でも、いとも簡単に告知されてしまうのが現代・・・
怖いことから逃げたくても、逃げさせてくれないのが現代か・・・

先日、兄貴と一緒に「親父は麻雀をしながら脳出血で逝った。祖母も、芝居見物の翌朝、脳溢血で逝った。実に羨ましい。まあ自分も70歳を越えたら、一発で死ぬのならまあ良いのかな・・・」ナンテ言う話をした。
人間としての尊厳を失いながら寝たきりで生きるのも、志半ばで死ぬのも、人間の意志ではどうしようもない。
さっきの医学生の恐怖も含め、「死」とは何ともやっかいなものだ。

140616gokiburi <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年6月15日 (日)

映画「真昼の暗黒」を見る

昭和31年の映画「真昼の暗黒」を“今頃!”見た。何度も書いているように、自分は典型的なミーハー・・・
先日書いた「パソコン遠隔操作事件の弁護人・佐藤博史さんの話」(ここ)という記事で、佐藤弁護士の略歴に「刑事弁護人を目指した原点は、小学生の時、父に連れられて見た映画「真昼の暗黒」だそうだ。戦後の大冤罪事件「八海(やかい)事件」を描いたもので、死刑判決を受けた被告人が「まだ最高裁がある」と叫ぶラストシーンが印象に残った。最終的に最高裁で無罪が確定した結果を見て、「最後は真実が勝つ場所が刑事法廷だ」と強く感じたという。」という記載があり、アンディーのママさんからも小学校の時に見た、といコメントを貰ったこともあって、自分も見てみようかな・・・という気になってDVDをレンタルで借り、今日見たというワケ・・・。

実は、「八海事件」は、言葉はどこかで聞いていたが、詳細については知らなかった。映画を見終わってから、“初めて”勉強した。
この映画、見ていて胸くそが悪くなる。一緒に見ていたカミさんは、拷問での自白強要の場面のあまりのむごさに、途中で見るのを止めると言い出すほど・・・。事実に基づいているのだろう・・・と思うほど、直視するのがツライ・・・
この映画は、高裁判決の出た昭和31年3月公開の作品だという。その後、映画公開から最高裁での無罪判決まで、12年も要している。

<「八海事件」>
昭和27年 6月 山口地裁岩国支部 全員有罪
昭和28年 9月 広島高裁 全員有罪
昭和32年10月 最高裁 事実誤認として差戻し
昭和34年 9月 広島高裁 吉岡単独犯行で4人は無罪
昭和37年 5月 最高裁 複数の犯行として差戻し
昭和40年 8月 広島高裁 全員有罪
昭和43年10月 最高裁 4被告は無罪

それにしても、この最高裁での無罪判決は、 「昭和43年10月25日最高裁は証拠不十分を理由に原判決を破棄し無罪を言い渡した。最高裁が下級審の事実認定を覆し無罪を言い渡したのは裁判史上初めてのことであった。」 ここ)という。どんな冤罪事件でも、いったん判決が下されると、ひるがえるのは難しい。何せ、有罪率99.8%という裁判の世界なので・・・

「八海事件」については、書かないが、警察・検察の思い込みの見立て、それに沿った自白の強要、警察・検察のメンツによる事態のエスカレート・・・。先日見たWOWOWドラマ「トクソウ」と同じテーマだ。こんなことも、今、実際に行われていることの、ほんの氷山の一角なのかも知れない。

しかし、さすがに今井正監督、橋本忍脚本・・・。昭和31年の映画賞を総なめにしただけのことはある。重い内容の映画である。そして出演者の中に、その後大活躍する俳優の若き日の姿があちこちに見られる。

久しぶりに日本映画を見直した。前に「「キネ旬」の映画史上ベスト10」(ここ)ナンテ言う記事を書いたこともあった。

それぞれの時代で評価された作品は、それなりに重みがある。改めて、昔の有名な作品は一通り見ておこうかな・・・と思った。そして「**事件」と名前のある事件は、これもその時代を表している。それらも一通り勉強して、「知っている」ことにしなければ・・・

140715bike <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年6月14日 (土)

「日本の若者、自信も希望もない? 7カ国調査で最下位」

先日、こんな記事を目にした。
日本の若者、自信も希望もない? 7カ国調査で最下位
 日本の若者は自分に自信がなく、将来に希望が持てない――。政府が3日に閣議決定した「子ども・若者白書」で、海外と比べた日本の若者の姿が浮かび上がった。自信を取り戻すカギは、家庭や職場にありそうだ。
140614wakamono  調査は昨年11~12月、日本、韓国、米国、英国、ドイツ、フランス、スウェーデンの計7カ国の、13~29歳の男女を対象に実施。各国千人程度に、自分や家族、社会に対する意識をインターネット調査した。
 「自分自身に満足している」と回答した人の割合は、日本が最下位で45.8%。他国は70%を超えた。「将来に明るい希望を持っている」という人の割合も、日本の61.6%が最低で、残り6カ国は80%以上と差が開いた。
 このほか、「自分に長所がある」(68.9%)、「40歳になったときに幸せになっている」(66.2%)でも最下位だった。一方で、「自国のために役立つことをしたい」(54.5%)はトップだった。
 自己肯定感が高い若者の特徴を探ったところ、家庭や学校生活、職場での満足度の高さと関わりがあった。例えば、「家族といるとき充実している」という質問にあてはまると答えた人では、53.7%が自分自身に満足していた。あてはまらないと答えた人では29.4%にとどまった。(高橋健次郎)」(
2014/06/04付「朝日新聞」p4より)

上の記事の資料のオリジナルは(ここ)と(ここ)にあるが、その資料の中で、日本が突出しているものを拾ってみた。
すると、「気分的に元気がない」「将来に対して明るい希望がない」「職場に対して不満足」「でも早く結婚はしたい」、でも「40代でも実際は結婚していないだろう」・・・という姿が見える。

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この13~29歳の男女が対象だったという結果を“我々オトナ”はどう捉えたら良いのだろう。
日本の社会は、既にかなり疲弊している。自分にはそう映る。
昔、英国がそう言われたことがあった。日本も同じ。老大国・日本!?

国民が「ウソだろう・・・」と言う間も無く突き進んでいる「集団的自衛権」は別格としても、「残業代ゼロ法案」や法人税の低減など、政治の方向はあまりに大企業寄りで、多くの底辺の労働者に対して優しくない。

数年前、ある大手通信会社のプロジェクトで、多数の社員の派遣をしたことがあった。不足分は外注からの派遣者でカバーしたが、その中にいた優秀なS君を思い出した。「こんな給料では、結婚も出来ない・・・」。
しばらくして、派遣先の通信会社のプロパーの勧めで、派遣先の入社試験を受け、何と「雇われ」側から「雇う」側に変身してしまった。もうとっくに結婚しているだろう。

力がある人は、チャンスを活かす事が出来る。でもそれはほんの一握り・・・。
多くの若者が、充実した仕事を得て、明るい未来を描け、安心して結婚・子育てが出来る日本・・・。それは、もう過去の幻なのだろうか・・・。
人生の先輩として、何ともやりきれない若者の調査結果ではある。

140614iiko <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年6月13日 (金)

「残業代ゼロ法案」に思う

今朝の朝日新聞の社説にこんな記事があった。
「(社説)働き方と賃金 長時間労働は許されぬ
 年収が高いからといって、健康を損なうような長時間労働をさせていいはずがない。それが大原則だ。
 働いた時間と関係なく賃金を決める制度の新設が決まった。新制度では、残業代という考え方がなくなる。政府の産業競争力会議で民間議員の経営者が提案し、厚生労働省も同意した。
 対象は、最低でも年収1千万円以上で、職務内容がはっきりしている人。労使が参加する審議会で議論し、年内にも具体的な制度を決める。
 今の法律では、上級の管理職をのぞくと、労働時間を厳格に把握することが企業に求められている。高い能力を持つホワイトカラーの働き方にそぐわない面があることは確かだ。
 しかし、議論の過程には疑問が残る。会議に労働界の代表はおらず、民間議員の提案も目的や効果がはっきりしなかった。
 最初の提案には二つのタイプがあった。導入が決まった「高収入型」と、見送られた「労働時間上限型」だ。
 後者は、労使合意で労働時間の上限を決める方式。女性や高齢者、若者の活用がうたわれたが、一般労働者まで会社が一方的に上限や賃金を決めてしまう恐れがあった。後に対象は「幹部候補」に変わったものの、若者を使いつぶすブラック企業に乱用される不安がぬぐえなかった。見送りは当然だ。
 では、「高収入型」には問題はないのだろうか。
 新制度で、働く人の職務内容が明確化されるのは望ましい。ただ、「残業代をなくせば長時間労働がなくなる」という主張は根拠が薄い。企業側に仕事量を決める権限があるなら、長時間労働を余儀なくされる。
 新制度の対象は、仕事量を決める裁量があり、会社と交渉する力がある労働者に限るべきだ。休日を強制的にとらせるといった規制も欠かせない。
 いったん制度ができれば、なしくずしに対象が広がる心配も残る。年収1千万円超の勤労者は全体の4%未満とされるが、経団連会長が「全労働者の10%程度は適用を」と発言するなど、経済界には対象拡大の思惑がにじむ。簡単に変更できないよう、年収条件を法律で決めることも必要だろう。
 今ある制度との整合性も考えてほしい。例えば、残業代がいらない管理職は「管理監督者」と呼ばれ、本来は経営者に近い立場の管理職に限られている。ところが、経営側に恣意(しい)的に使われる「名ばかり管理職」の問題が絶えない。廃止を検討していいのではないか。」(
2014/06/13付「朝日新聞」社説より)

これよりも先、6月1日放送のNHKの「日曜討論」について、共産党のサイトには、こんな記事があった。

「「残業代ゼロ」法案 今でも不十分な規制外す
       NHK番組 小池氏が撤廃を批判
 日本共産党の小池晃副委員長・政策委員長は1日のNHK「日曜討論」で、安倍首相が導入の検討を指示した「残業代ゼロ」の労働時間規制撤廃について「今の法律があってもサービス残業がはびこり、労働時間規制はあってなきがごときなのに、この規制まで外してしまうものだ。断固反対だ」と主張しました。(小池氏発言)
 労働基準法は「1日8時間、1週40時間」の労働時間の上限を定め、これを超えれば企業に残業代の支払いを義務付けています。安倍首相が指示した制度は、年収や職種などを限定して、労働時間ではなく「成果」で報酬を決めようというものです。
 こうした動きについて小池氏は「労働時間に応じて賃金を支払うのが大原則であり、成果に応じた賃金となれば、成果を上げるまで残業代ゼロで働かされることになる」と批判しました。
 自民党の高市早苗政調会長が、第1次安倍政権で導入を断念した「ホワイトカラー・エグゼンプション」との違いとして労働者本人の「希望」が条件だと述べたことに対し、小池氏は「会社から期待されて断れますか。そんなの何の歯止めにもならない」と指摘しました。
 また、産業競争力会議で財界代表が「幹部候補生に限る」としていることについても、「いまブラック企業は、みんな入ったら幹部候補生といって死ぬまで働けといってやっている。まったく歯止めにならない」と強調。「いま国会の全会派一致で過労死防止法を通そうとしているときに、それとまったく逆行するようなことをやってしまうことになる」と批判しました。
 自民党の高市氏が「残業代がゼロになるのではない。残業代が込みということ」と反論したのに対し、小池氏は「労働時間規制をなくすということは残業代という概念がなくなる。残業代がゼロになる」と述べました。高市氏がさらに「全部の労働者に適用されるわけではない」と弁明したのに対しても、小池氏は「そんな限定はまったく成り立たないという議論をしている」と語りました。」(
2014/06/02付「赤旗」(ここ)より)

政府の労働のルール変更への動きが急で、心配・・・。朝日の社説にもあるように、そもそも政府の産業競争力会議に、労働界の代表がいないのもおかしい。民間議員のリストを見ると、大会社の会長や社長さんばかり。これでは企業側の論理だけで、現場の声が反映されないのは当然。それにしてもこの人選の方法は? まさか、恒例のお手盛り人選でもないだろうが・・・

上の日曜討論も少し見たが、高市政調会長の浮世離れの意見よりも、小池副委員長の意見の方が、よっぽど現場を知っている。

だいたい本人の希望が前提だとしても、各野党が指摘しているように、強者の会社に対して、「希望しません」と言える社員が何人いるのだろう・・・。組合が強い大企業はともかく、いとも簡単にクビにできる中小企業では、機能しないのは自明の理。
そして「成果に対して賃金を払う」という。いったい“成果”って何だ? どんな公正な尺度で測る?? 営業職などでは「売上額」のような数字での尺度があるかも知れない。しかしそんな目標も、上司によって伸縮自在。達成すれば「成果(ノルマ)が低かった」と次は大幅に上げられるだけ・・・。つまり公正・適正な成果など有り得ない。

昔、目標管理制度というのがあった。今でも実施している会社もあるのではないか・・・。自分はこれが大キライだった。
目標管理とは、期首にその期の達成目標を決め、半期毎に上司がフォロー。達成すれば、人事考課や賞与査定が良くなり、未達成なら悪くなる。くせ者は、その目標をどこに置くか・・・。期末に○(丸)を貰いたい担当者は低い目標を掲げる。目標は全員でバラバラであり、上司とせめぎ合いがあるのはまだ良い方・・・。
しかし日本の企業は、上司が部下の評価をキチンと出来るほど優秀とは限らない。たまたまそのときの立場が上司であり、部下・・・。
上司は、部下よりも有能、という前提に立った目標管理制度で評価する部下の“成果”。自分はそんな形にこだわった評価を信じていなかった。
では何を信じているかって? “感(カン)”さ・・・。余計な尺度など不要。人間が相手との日常の付き合いから生まれる評価はバカに出来ない。それも、何人もの感による評価の方が、長い目で見ればよっぽど正確・・・

話は飛ぶが、かつては大会社も「(勤務管理無しで)管理職は24時間勤務」という時代があった。それが自分が卒業する頃、パソコンのログオン・オフによる出退勤管理が可能になって、管理職でも、勤務時間管理が始まった。そして、残業代は払われないものの、残業時間の割増分だけは払われるようになったという。
もしこれが自分の時代に始まっていたら・・・と思うと残念至極・・・。
おっと話がそれた・・・。
労働者の現場とかけ離れて次々と決まっていく、“改革”。国民が望んだ「決める政治」とは、こんな恣意的なものだったのだろうか??
最近、テレビのニュースが苦痛になってきた。同じ顔ばかり映すので・・・。

140613moto <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年6月12日 (木)

昭和50年の出来事(28歳)~子門真人の「およげ!たいやきくん」

自分が生まれてから順に、その年の出来事を辿るシリーズの29回目。自分が27歳から28歳、つまりサラリーマン6年目になった昭和50年(1975年)の出来事を調べてみる。

順不同でメモするが、この年は、田部井淳子さんが女性として初めてエベレストに登頂。沖縄海洋博が開催。そしてベトナム戦争が終結した年。
セブンスター150円。自分もこの当時はタバコを吸っていた。「マルちゃんのきつねうどん」もこの年の発売。
本では、横溝正史の「犬神家の一族」や「八墓村」などが話題になった雑誌では、若者向けの「PLAYBOY」が創刊。テレビの大河ドラマは「元禄太平記」。「前略おふくろ様」もこの年。CMでは「ワタシ作る人、ボク食べる人」。
映画では「金環蝕」や「青春の門」「JAWS・ジョーズ」など。
さて歌の世界では、ザ・ピーナッツが引退。
そして、これらの曲が発売になっている。「さらばハイセイコー(増沢末男)」「年下の男の子(キャンディーズ)」「我が良き友よ(かまやつひろし)」「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ(ダウンタウン・ブギウギ・バンド)」「シクラメンのかほり(布施明)」「心のこり(細川たかし)」「 いちご白書をもう一度(バンバン)」「時の過ぎゆくままに(沢田研二)」「愚図(研ナオコ)」「俺たちの旅(中村雅俊)」「なごり雪(イルカ)」「およげ!たいやきくん(子門真人)」「北の宿から(都はるみ)」「木綿のハンカチーフ(大田裕美)」などなど・・・

歌の題名を聞くと、あああの頃か・・・と思い出す。これらの歌のうち、「シクラメンのかほり」は、それぞれ自分がよく聞いていた布施明と小椋佳のコンビで、この年のレコード大賞。「北の宿から」は年末に発売されて次の1976年にヒットし、同じくレコード大賞になった。
そして同じく年末(1975年12月25日)に発売になった「およげ!たいやきくん」は、500万枚とも言われるシングル盤の売上記録を作り、未だに破られていないという。今日はこの歌を聞いてみよう。

<子門真人の「およげ!たいやきくん」>

「およげ!たいやきくん」

  作詞:高田ひろお
  作曲:佐藤寿一

毎日毎日 僕らは鉄板の 上で焼かれて 嫌になっちゃうよ
ある朝 僕は 店のおじさんと けんかして 海に逃げこんだのさ
初めて泳いだ海の底 とっても気持ちがいいもんだ
お腹のあんこが重いけど 海は広いぜ心がはずむ
桃いろさんごが手を振って 僕の泳ぎを眺めていたよ

毎日毎日 楽しいことばかり 難破船が 僕のすみかさ
ときどき鮫に いじめられるけど そんなときゃ そうさ 逃げるのさ
一日泳げばはらぺこさ 目玉もくるくる回っちゃう
たまにはえびでも食わなけりゃ 塩水ばかりじゃふやけてしまう
岩場のかげから食いつけば それは小さなつりばりだった

どんなにどんなに もがいても 針が喉からとれないよ
浜べで見知らぬおじさんが 僕を釣り上げびっくりしてた

やっぱり僕はたいやきさ 少し焦げあるたいやきさ
おじさん つばをのみ込んで 僕をうまそに食べたのさ

改めて聞いてみると、やはりヒットしそうな歌である。
wikiによると、“シングルの印税は、買い取り契約だったため、売上げに応じた歌唱印税は支払われず、子門は5万円の吹込料の支払いにとどまった”という。一方、キャニオン・レコードは、この歌で新ビルが建ったとか・・・。
なおこの歌は、公式には童謡だそうで、後年生まれた我が家の息子の“愛唱歌”として、日々聞かされることになる。(ああ、今でもこの歌を聞くと、あのいい加減な歌い方の当時5歳の息子の歌声が聞こえてくる・・・。ああヤダ・・・)

*さっき、カミさんが八王子の駅ビル地下で買ってきた鯛焼きを食べた。まだまだ日本の文化として、鯛焼きは健全なようである。

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2014年6月11日 (水)

「老後の健康 歩いて外出できる体力を」

先日、こんな記事を読んだ。
「(私の視点)老後の健康 歩いて外出できる体力を 山田佐世子
 「団塊世代」が、10年足らずで75歳以上の「後期高齢者」となる。その後の人生の明暗は「歩いて外出できる体力の維持」にかかっている。家事をこなし、公共の乗り物で移動し、スーパーで買い物ができれば、一人暮らしも可能だ。外出できれば、近所の人とも交わり、草花や風のそよぎに季節を感じ、心も豊かになる。買い物をすれば計算もする。歩けなくなると一挙にそれらを失い、医療・介護の対象になる。
 私は健康運動指導士として地域で健康指導をしている。ある市で、将来介護を受ける生活が予想される市民対象の「介護予防教室」で運動指導をした。ストレッチと簡単な筋トレだったが、毎週1回でひと月もすると「手すりに頼らず階段の上り下りができるようになりました」とうれしい声が聞かれ、体力テストでは全員改善の結果を得た。
 だが、健康運動指導士、看護師など要員5名、バスでの送迎など経費がかかり、期間は週1回3カ月のみ。終了すると、体力低下は顕著だった。
 心身を動かさないと老化は加速する。そのターニングポイントは、男性の場合、定年退職時にある。ここで手を打つには、いわば「大人の義務教育」のような場が有用と考える。「定期的に歩いて外出する場」を提供し、地域とのコミュニケーションの構築、健康・調理など知識と技術を習得することを目標とした授業をしてはどうだろうか。
 歩いて通えることが前提なので、65歳前後の1~2年間、半日程度のコースで週に2回くらい学区の小中学校の空き教室に集まってもらう。全員参加は、ホームルームと健康講座くらいにしておいて、パソコン、園芸、手芸などカリキュラムは工夫次第、講師もメンバーの中から出てくるだろう。栄養の整った学校給食を食べれば、筋力低下予防にも効果があるはずだ。
 自治会などで対象者全員に声がけするが、親や孫の世話、仕事や趣味を理由とする不参加は可とする。だが出欠届は義務とする。元気だけど、自ら積極的に出向かない人々を集めることで、点と点がつながり面となれば、子育てや介護、防災の一助にもなり、地域に飲み仲間やゴルフ友だちもできるだろう。終了後に自主活動が継続すれば成功だ。地域差はでるだろうが、医療費や介護費の削減に向けて、市町村でこのような「大人の義務教育」に取り組むことはできないだろうか。(やまださよこ 健康運動指導士)」(
2014/06/06付「朝日新聞」p15より)

言われるまでもなく、足は大事。足が悪くなると、自立が不可能になる。つまり他人の力を借りないと生きられない。
だからと言って、上の記事にある「大人の義務教育」も少しやり過ぎ!!? いや自分のような出不精には、好都合の制度かも・・・!?

先日の、84歳になる叔父が電話で言っていた「車椅子になったら最後」という決意もそうだが、我々もそろそろ足の健康について、何か考えないといけないかも・・・
自分は、“たまたま現在は”足の痛みはない。かと言って、足に良い運動をしている訳でもなく、やはり“たまたま”・・・

この所、パソコンでデータが管理できる万歩計を買って、ズボンに付けている。しかし、会社に行っている日でも、6000歩に届かない。1万歩は結構大変。しかし、自分に釣られて同じように万歩計を付け始めたカミさんは、常に8000歩ほどは行っている。家事でも常に歩き回っているということか・・・

最近、「生老病死」を意識する。まさに我々は老から病への段階に差し掛かっている。先頃両親が逝って、自分たちにかかっていた天井が無くなった。老病死がだんだんと近く感じる。
もちろん体力も落ちている。一番分かるのが、ラジオ体操。テレビに録画しておいた朝の「テレビ体操」という番組を、たまにカミさんと一緒にやるのだが、とにかく手の重さでフーフー。今まで、ラジオ体操をしていて、手の重さなど、考えたことがない。それが何と、今は手が重いのだ・・・!!
当サイトを検索してみたら、1年前に「家でラジオ体操を始めた~「1日40分動けば達者に」(ここ)という記事を書いていた。それをケロッと忘れて、改めて今、テレビ体操の事を書いている・・・。でも、少なくても1年前はラジオ体操をしても、手が重いとは感じていなかったことは分かる。それが今は・・・
そろそろ意識的に自分の体力保持について考えないといけないな・・・。(直ぐに忘れると思うけど)そう意識するこの頃である。
(来年の今頃、また「ラジオ体操を始めた!」ナンテ言う記事を書くのだろうな・・・)

●メモ:カウント~590万

140611key <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年6月 9日 (月)

パソコン遠隔操作事件の弁護人・佐藤博史さんの話

4人もの冤罪の逮捕者を生んだ「パソコン遠隔操作事件」。片山被告が犯行を自白して決着が着いたが、ここまでの経緯を、自分は注視していた。
この事件について当サイトに書いたのが「メール冤罪事件 実相見ない家裁は猛省を」(ここ)、そして「「なぜ、マスコミは“いけにえ”を求めるのか?」~パソコン遠隔操作事件」(ここ)。

自分は当時、「週刊現代」の冤罪キャンペーン(ここここ)を読んだ影響もあって、「これは冤罪では?」と思っていた。それだけに、今回の自作自演劇にはガッカリした。それにしても、冤罪を主張していた当の弁護士さんは、この事態をどう捉えているのか、気になっていた。
その佐藤弁護士へのインタビュー記事が先日の朝日新聞に載っていた。少々長いが、じっくりと耳を傾けてみよう。

「(インタビュー)それでも弁護しますか PC遠隔操作事件の弁護人・佐藤博史さん
「悪魔の代理人」その覚悟なければ刑事弁護できない
 無実を信じて弁護した被告人が、一転して罪を認めた時、ウソを見抜けなかった弁護士は何を感じたのか――。片山祐輔被告がすべての起訴内容を認めたパソコン(PC)遠隔操作事件は、刑事弁護とは何かという問題を投げかけた。被告人とどう向き合うべきか、真相解明への責任とは。片山被告の弁護人、佐藤博史弁護士に聞いた。

 ――これまで弁護の依頼を断ったことはありますか。
 「足利事件で菅家利和さんの無罪を勝ち取って以来、全国の刑務所から冤罪(えんざい)を訴える手紙が届きます。しかし、冤罪と思えるものはわずかで、ほとんどは断っています」
140610pcjiken  ――PC遠隔操作事件の片山被告の弁護を引き受けたのは?
 「片山さんが逮捕され、当番弁護士として最初に接見したのがかつて私の事務所にいた竹田真弁護士でした。応援を求められ、引き受けましたが、当初は『片山さんは真犯人だが、大事件になったために、それを認めることができないだけだ』と思っていました。2回目の接見後、担当の警察官に『決定的証拠があるなら、早く成仏させてほしい。私からも説得する』と申し出ました。ところが、警察は応じなかった。そこで、決定的証拠はないのではないかと直感し、以来、私もほぼ毎日接見することになりました」
 ――足利事件の菅家さんの時はすぐに無実を確信されたそうですね。
 「足利事件の犯人は疑いもなく小児性愛者です。本物の小児性愛者を弁護したことがある私は、すぐに菅家さんが小児性愛者でないことがわかりました」
 ――片山被告の場合は?
 「同種の前科のあるプログラマーの片山さんを簡単に無実と信じることはできません。しかし、片山さんは実に巧みに無実を演じられる人でした。何度も試したのですが、片山さんは試されていることを瞬時に見抜き、無実の人ならどう振る舞うかを判断し、不思議なくらい、そのとおり振る舞えたのです」
 ――例えば、どんなことですか。
 「取り調べの録画について聞かれたので、『メリットは無理な取り調べができなくなること。デメリットは、質問に対する反応が全部録画され、うそがバレる恐れがあること』と答えました。片山さんは即座に『では録画を求めます』と言うのです。今は『そうしないと、犯人と疑われるから』と説明してくれますが、当時は役者顔負けの見事な『演技』だったという他はありません」
 「『偶然』も片山さんに味方しました。例えば、片山さんは、逮捕と同時に口腔(こうくう)内の粘膜の提供を求められました。DNA鑑定のためです。しかし、検察官が開示した証拠の中に鑑定書はありませんでした。開示を求めると、猫の首輪に記録媒体を取り付けたセロハンテープから検出されたDNAが、片山さんの型と一致していないことがわかりました。検察官はその事実を隠していました。私たちは『真犯人と片山さんのDNA型は一致しない。それだけで片山さんの無実は明らかではないか』と主張しました。後で片山さんに聞くと、『記録媒体を取り付ける時に真新しい軍手を使った。テープから検出されたのは、軍手に付いた他の誰かのDNAだろう』というのです。捜査官の想像を超える『無実の証拠』がこうして生まれました」
 「『録画されれば、黙秘権を放棄する。質問には何でも答える』と伝えたのに、警察・検察が録画を拒否し、取り調べの機会をみすみす逃したことも、片山さんを楽にさせました。『仮に有能な取調官に録画して取り調べられたら、最後まで否認を貫くことができたかわからない』と片山さんは現在言っています。取り調べの可視化は、取り調べの適正化のためだけでなく、真実を明らかにするための捜査側の最強の武器であることを悟ってほしいと思います」

 ――片山被告が「真犯人メール」を発信したスマホを埋めるところを捜査員が目撃していなければ、あのまま裁判が進み、無罪判決が出たのではないですか。
 「その可能性はあったと思います。明らかに偽りの『無罪証拠』だったわけで、刑事弁護の怖さを思い知らされました」
 ――無罪判決になっていたら、弁護人としての責任を果たしたことになりましたか。
 「刑事裁判の主導権を検察官と被告人という両当事者に委ね、裁判所は中立的なアンパイアとして判断するという『当事者主義』の下では、問題ないとも言えるでしょう」
 「刑法は、被告人が不利な証拠を隠したり、有利な証拠を作り出したりすることは、処罰の対象にしていません。被告人には真実義務はなく、他人を巻き込まない限り、証拠隠滅罪は成立しないのです。警察が『真犯人メール』のうそを見破れず、私たちもだまされたままなら、無罪判決もやむを得なかったといえます。しかし、真実は歪(ゆが)められます。結局、『天』がそれを許さなかったということでしょう」
 ――「真犯人メール」をなぜあの時期に送ったのでしょうか。
 「当初の計画では、判決直前にセットし、判決の数日後に送信させるつもりだったそうです。無罪なら予約送信を解除する、有罪なら収監後しばらくして『真犯人メール』が届き、控訴審で判断が覆るという考え抜かれたものでした」
 「片山さんの保釈後の大型連休に、私は片山さんとお母さんを誘って東北地方に一泊で花見に行きました。その後、お母さんは片山さんと一緒に外出するたびに、『祐輔、この時間は本物なんだね。いつか平穏な日々が戻るんだね』と念を押したそうです。そこで、『早く母を安心させたい』という思いから、計画を前倒ししたのです。結果的に母の愛が悪の仮面を脱がせたわけです」

 ――「真犯人メール」を発信したスマホが発見されたという報道の後、片山被告と連絡が取れなくなりました。
 「夜に電話があり、『先生すみません。私が犯人です』と打ち明けられました。何度も死のうとしたが死ねない、私にわびて気持ちが楽になれば死ねると思ったと言いました。『先生の顔に泥を塗りすみません』とも言うので、『そんなことは問題じゃない。死んじゃだめだ。ありのまま話すことが大切だ』と説得しました。『これ以上先生方にお願いできません。国選弁護人をお願いするつもりです』とも言うので、即座に『ボクは君を見捨てない』と言いました。もし『もう君を信じられない。これ以上弁護はできない』と言っていたら、電車に飛び込んでいたかも知れません」
 ――自分を裏切った相手に、よくそうした言葉をかけられましたね。
 「裏切られた気持ちは全く湧かず、よくぞ真実を話してくれた、また新たな出発をすればいいという気持ちでした。弁護士になって6年間、砂川事件の『伊達判決』で有名な伊達秋雄先生に師事しましたが、『人は必死に罪から逃れようとする。だから、被告人にうそをつかれたからといって咎(とが)めてはならない』と教えられました。それがいつの間にか身に付いていたのでしょう」
 ――検察官と話したそうですね。
 「有罪を認めた公判後、検察官席に歩み寄って『申し訳ありませんでした』とおわびしました。これまで検察官を激しく責め立ててきたからです。ところが、『いや、片山被告が自殺したら、大失態となるところでした。自殺を思いとどまらせただけでなく、罪を認めさせ、無事収監させていただき、ありがとうございました』と言われました。予想外の対応に驚きました。片山さんが真相を明らかにしないまま自殺していたら、私は今も『警察・検察が無実の片山さんを殺した』と声高に主張していたかも知れません」
 ――今回の事件を刑事弁護人としてどう意義づけていますか。
 「真実無実の人を弁護することほど幸せはありません。足利事件がそうでした。PC遠隔操作事件もそう見えました。私は『悪魔の代理人』になる覚悟がなければ刑事弁護人の資格はないと説いてきました。PC遠隔操作事件がまさにそのような事件になりました。天国から地獄に突き落とされたように思われるかもしれませんが、悲愴(ひそう)感はありません」
 「山本周五郎は小説『赤ひげ診療譚(たん)』の中で赤ひげに『毒草から薬を作りだしたように、悪い人間の中からも善きものをひきだす努力をしなければならない、人間は人間なんだ』と語らせています。大切なことは、片山さんを立ち直らせ、片山さんが語り始めた真実から教訓を引き出すことだと思います」
     *
 さとうひろし 48年生まれ。74年弁護士登録。島田事件、足利事件、横浜事件など多くの冤罪事件を担当。著書に「刑事弁護の技術と倫理」など。
 ◆取材を終えて
 刑事弁護人を目指した原点は、小学生の時、父に連れられて見た映画「真昼の暗黒」だそうだ。戦後の大冤罪事件「八海(やかい)事件」を描いたもので、死刑判決を受けた被告人が「まだ最高裁がある」と叫ぶラストシーンが印象に残った。最終的に最高裁で無罪が確定した結果を見て、「最後は真実が勝つ場所が刑事法廷だ」と強く感じたという。逆の意味で「真実が勝つ」結果となった今回の法廷で、真犯人の弁護をすることになった佐藤さんの「刑事弁護の怖さを思い知らされた」の言葉は重い。(山口栄二)」(
2014/06/07付「朝日新聞」p15より)

この記事の中で「裏切られた気持ちは全く湧かず、よくぞ真実を話してくれた、また新たな出発をすればいいという気持ちでした。」というくだり。素人ではとても言えない言葉。我々だったら、「裏切られた!」と、今までの自分の声高の姿勢を防御するために、自分も被害者だ、という立場を主張するだろう。でも一流弁護士は違うようだ。
しかしこの事件、結局、明らかな証拠は無かったようだ。結局、地道な警察の努力の積み重ねが解決に導いた。
これがもし、片山被告が土手に埋めた真犯人メールを発信したスマホを、警察が見付けなかったら、どうなっていたか・・・。

この事件に限らず、『人は必死に罪から逃れようとする』。よって、世の事件で、無罪主張する被告は普通のこと。つまりは、弁護士に対しても、結果的にウソを言う。弁護士はそれを前提に、依頼者の利益を追求する仕事とも言える。
ふと、昔ある弁護士が「弁護士は、検事でも裁判官でもない。絶対的真実を解明する立場にはない。あくまで、被告人の立場に立って被告人の利益を守ることにある・・・・」と言っていたことを思い出した(ここ)。

冤罪について、色々と考えさせられた、今回の事件ではあった。
(当時、冤罪キャンペーンを張った「週刊現代」は、何か弁明するのだろうか? それとも黙(だんま)り??)

140609couhatu <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年6月 7日 (土)

NHK「ドキュメント72時間~恐山」を見る

「人は死んだら お山に行く 青森・恐山 人はなぜ この山を目指すのか・・・」
NHK「ドキュメント72時間~恐山 死者たちの場所」(2014/06/06放送)を見た。
NHKのサイトの解説にはこうある。
「人は死んだら“お山”に行く―。昔から東北の人々の信仰を集めて来た青森県・恐山が今回の舞台。5月の大型連休、恐山が半年間の冬場閉鎖を経て開山すると、巨大霊場を目指して全国から様々な人が訪れる。亡くした娘のため毎年訪ねてくる夫婦、ご朱印目当ての“霊場ガール”。岩場が続く独特の雰囲気に、突然亡き人の名前を叫ぶ人も…。訪れる人すべてを巻き込み、不思議な気持ちにさせるパワースポット。生と死のはざまの3日間。」(ここより)

恐山には、死んだ近しい人との出会いを求めて、全国から人が集まる。

「お父さん去年亡くなったので、もうここへ来ていると思う」(むつ市 72歳)

「自然に涙がこぼれて・・・。兄弟も親も全部いなくなってしまって、今、その人たちの名前そこで座って数えてたら、何だか自然に泣きたくなってしまって・・・」(仙台 86歳)~前にも兄弟7人で、恐山に来たことがあるらしい。でも、いつしかみんな亡くなり、気が付けば一人きりになっていた・・・。「亡くなった兄弟だの みんな ここに来ているんでないかなと思って・・・。私には見えないけど、向こうからは見えているんじゃないかなと思って・・・。「よく来たね」って言われてるような気がして・・・」~亡くした人をなぜか近くに感じる。ここはそんな不思議な場所らしい。

最愛の人を亡くしたという夫婦に出会った。「娘の名前を書いて 供養で 娘が10月に亡くなっているですよね。震災の年 今年で3年目で3回目」(岩手・久慈市から 夫婦)~娘さんは3年前、26歳の若さで亡くなった。「出産のあれで 子どもを産んでから亡くなった。全然病気もしたこたがない そういう子だったから 余計悔しくてさ・・・」~娘さんは子どもを産んだ後、体調を崩して入院した。最後は口もきけなくなり、会話は筆談だったそうだ。「最後にやはり書いて分かりづらかったけど、娘が書いたのは「お父さん治るの」って、そのひと言だったから・・・。「治るよ」って俺が言ったんだけどさ、通じたか分からないけどそれが最後だった。自分もその時点で諦めたんでねえかな・・・。分かったんでないかな・・・。治んないでねえかなって・・・」~二人の地元では、亡くなってから3年は恐山に来るのが慣わし。娘さんの供養で来るのは今年が最後。「来年以降は恐山には来られない?」「来たくないですね。もしかして身内の人が亡くなれば来なきゃなんないでしょう。だから近いうちに来たくねえと思ってさ、分かんねえからさ・・・。それだけは・・・・予知できないからさ・・・」

先日、たまに電話で話す84歳になる老人ホームの叔父から電話がかかってきた。
うちの親父は、男・男・女・男・男の5人兄弟の長男だが、三男の叔父からだった。次男の叔父が先日亡くなったと言う。享年92。4男は10年ほど前に68歳で既に亡くなっており、88歳になる叔母も胃ろうで、もう意識がないので、この叔父は、さすがに寂しそうで「とうとう残ったのは、意識のない姉と自分だけになってしまった」と言う。
この叔父は、気は確かだが、だいぶん体が弱っており、難病の腸の病気や最近は痛い皮膚の病気の蜂窩織炎(ほうかしきえん)で入院したとか・・・。でもいつも言う。「車椅子になったら最後だ・・・」

人は、誕生の喜びはあるものの、死別という悲しみからは永久に逃れられない。それは誰にでも平等に訪れる人の定め。そんな事は当たり前のこと・・・。
神さまは、人生を「別離という悲しみで終えろ」と言う。人生を、悲しみ以外の方法で迎えることは出来ないのか・・・。

仏教で「人生は苦」だという。今まで関係のあった人々が、みな年を取り、亡くなっていく。近しい人も徐々に・・・。もちろん自分も・・・。
こんな経典もある。ブッダが死に際して弟子に説いた言葉・・・
「やめよ、アーナンダよ、悲しむな。嘆くな。わたくしは、あらかじめこのように説いたではないか、―――
すべての愛するもの、好むものから別れ、離れ、異なるにいたるということを。
およそ生じ、存在し、つくられ、破壊されるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということが、どうしてあり得ようか。そのようなことわりは存在しない。」(大パリニッバーナ経)

そうなのである。まさに「諸行無常」(万物は常に変化して少しの間もとどまらないということ)なのだ・・・
夕食の後に、そんな事を話していたら、カミさんが言う。「別れるのは当たり前。だから一緒にいる時にこそ輝かなければ・・・。ずっと別れないのなら、惰性になってしまう」・・・
「なかなか哲学的な、良い事を言うな~」と褒めてやった。

生老病死・・・。特に病の苦しみなどの現実的な「苦」を経験しないで死を迎えることは出来ないようだ。
しかし一方、死ぬまで活動的かつ楽観的で、人生を「苦」と思わないで死を迎える人ももちろん居る。
「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」のだが・・・

140607kannushi <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年6月 6日 (金)

ソマリアの海賊の話~NHKカルチャーラジオより

毎日、通勤途上で聞いているNHKカルチャーラジオ日曜版。先日、海賊の話を聞いて面白かった。
NHKの解説記事にこうある。
「NHKカルチャーラジオ日曜版(2014年5月放送)
海賊がうごかす世界の歴史
   講師:竹田いさみ(獨協大学教授)
海賊の歴史は古くギリシア・ローマ時代にさかのぼり、人が船という大量輸送手段を発明して海上交易を始めたのに伴って始まりました。船に積まれた大量の物資を横取りしたり、重要人物を捕らえて身代金を要求する、文字通り一攫千金の行為が海賊で、「パイレーツ」の語源は「一攫千金」を意味します。法の枠組みを巧みにかいくぐって活躍する一方、時には国家に寄り添って世界の歴史を動かし、歴史をつくってきました。
また、海賊事件は昔の出来事ではありません。例えば、海賊出没ポイントとされるソマリアは、いま資源開発で活況を呈しているアフリカ大陸で、資源の大半を海外に頼る日本にとって死活問題です。公海だけでなく国境をまたぐ彼らの取り締まりは一国では対処できないため、国際連携が進められています。海賊問題は、国際テロと同様、資源開発や援助、国際犯罪の取り締まりと複雑に絡み合って進行しているのです。
古代から今日に至るまでを、海賊の視点から歴史を読み解いていきます。 」(
NHKのここより)

特に面白かったのは、第4回の「現代の海賊」(2014/05/25放送)。
ニュースでよく聞く、アフリカ北東の角部にあるソマリア沖の海賊の話では、スエズ運河を通る船や、多くのタンカーがイエメンとの間のアデン湾で狙われる。母船に数隻の小型ボートを積んでおり、ボートには高速化のため、優秀な日本製のエンジン2機が取り付けられているという。そしてライフジャケットも日本製だという。こんな所でも日本製が活躍している・・・。
狙われた船は、ボートの燃料が尽きるまでの1時間が勝負だという。ボートは波に紛れてレーダーで見付けることが出来ないらしい。ソマリアの海賊の目的は身代金のため、商品である船員に危害を加えることはないらしい。それにしても、海賊もけっこう大変な仕事・・・。1000キロも沖に出るため、飲み水は雨を集め、食糧は釣った魚。そして船を乗っ取ると、その船の食糧を奪う・・・。
少しサワリを・・・

<NHKカルチャーラジオ日曜版「海賊がうごかす世界の歴史」~第4回「現代の海賊」より>

ニュースでよく聞く海賊の話題だが、こうしてその背景や実態を聞くのも、なかなか面白いものだ。
さてさて、日本の政府は、何が何でも集団的自衛権を通そうとしているが、上の放送のように、アフリカで日本の船が危なくなっても、現行法の中で海上保安庁と自衛隊が対処できるようになっているという。
なぜ集団的自衛権が急いで必要なのか、国民はまったく分からない。しかし国民無視で首相が何でも出来る国が今の日本・・・。日本も怖ろしい国になったものだ・・・

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2014年6月 4日 (水)

「女性が働くと経済が成長?」~家事の価値は150万円?

先日の日経新聞にこんな記事があった。
「(エコノ探偵団)女性が働くと経済が成長? 創造力や多様性、活力生む 長期的視点で環境整備を
 「政府が専業主婦の優遇策を縮小しようとしているそうね」。怒った主婦が事務所に来た。「成長戦略だというけど逆効果じゃないの?」「し、調べてみましょう」。探偵、松田章司は気押されたように事務所を飛び出した。

 調べると、政府の産業競争力会議や税制調査会などで配偶者控除の廃止が議題に上っていた。配偶者控除は妻が年収103万円以下なら、夫の年収から38万円を差し引いて所得税を計算でき、負担が減る制度。実際はこの水準を超えても別の控除があるので世帯の手取りが減るわけではない。ただ、心理的負担に加え、配偶者手当の支給基準にする企業もあるため、この額以下に抑える人が多い。
2つの就労の壁
 「何が狙いですか」。大和総研を訪ねると、研究員の是枝俊悟さん(28)が「本当はもっと働きたいのに、制度が原因で年収や労働時間を抑えている人を減らすのが目的です」と説明した。
 配偶者控除の上限は、年金や健康保険の負担が生じる年収130万円と並び、就労を阻む“壁”とされる。厚生労働省の調査でも、就労調整をした主婦パートの6割が103万円の壁、5割が130万円の壁を意識していた。
 日本の年齢別就業率のグラフは、男性が30~50代で高いのに対し、女性は出産・育児による退職が増える30歳代で60%台に下がるM字型(図)。是枝さんは「年収130万~200万円は手元に残る割合が低い『割に合わないゾーン』。人口減による人手不足を考えると、これを解消して意欲のある育児世代の女性を生産性の高い仕事に誘導する必要がある」と指摘する。
有償労働に転換
 「家事などの無償労働は国内総生産(GDP)に含まれない。女性が働きに出れば、家事や育児の関連サービスの消費が増えてGDPの規模も大きくなるはず」。章司はその影響を調べるため、内閣府の経済社会総合研究所を訪ね、研究専門職の三井康正さん(63)に話を聞いた。
140604jyosei1  章司が「家事などの価値を金銭換算するといくらですか」と聞くと、「3つの方法で試算しました」と2013年に公表した資料を出した。例えば家事、育児などをしたのと同じ時間だけ、企業などで働いたと仮定すると、女性は11年の1人平均で年192万円を得られた計算だという。国全体では111兆円弱になり、GDPの約4分の1に相当する規模だ。
 一方、炊事は調理師、育児は保育士など職業別の賃金を組み合わせて計算すると約156万円。全てを家事代行サービスの賃金で計算すると約142万円だという。章司は「この一部が有料サービスに置き換わっていけば、増えた分は成長率を押し上げる可能性があるな」と思った。
 「でも女性が働きに出ると子どもが減り、成長にはマイナスじゃないかな」。章司は女性活用に関するリポートを発表したゴールドマン・サックス証券のチーフ・ストラテジスト、キャシー・松井さんに質問した。すると意外な答えが返ってきた。「厚労省調査では、世界各国の女性の就業率と出生率との間には正の相関(就業率が高いほど出生率も高い傾向)がありますよ」。日本でも同様に静岡、長野、福井では就業率と出生率がともに高水準なのに対し、東京、北海道、奈良では就業率、出生率ともに低い。
 「高齢化や人口減少に直面する日本で長期的な潜在成長率を上げるには、女性の就業率を上昇させる以外に現実的な方法はない」と松井さん。同社試算では、就業率が男性並みになれば潜在的なGDP増加率は13%になるという。職場に女性が増え人材の多様性が高まれば「革新的な考えや創造力を持った人材の育成にもつながる」と松井さん。
厳しい現実も
 「主婦の声も聞いてみよう」。章司は母親の支援団体スタンド・フォー・マザーズ(東京・港)を訪ねた。子育て中のメンバーに意見を聞くと「小さい子を預けて働ける仕事はない」「育児休暇から戻ろうにも保育園の空きがない」と厳しい答えが返ってきた。代表理事の掃部まゆさんも、「子どもの成長に合わせ育児と仕事のどちらを優先するか自分の価値観で選べるのが理想ですが、現実はどちらも厳しい」と指摘する。章司は「優遇制度を廃止するだけなら、一部の人にしわ寄せがいきそうだ」と思った。
 学習院大学教授の鈴木亘さん(43)に意見を聞くと、「政策の効果は現実の環境を踏まえて考える必要があります」と指摘した。戦後、企業の多くや国は、男性を長時間、仕事に専念させる仕組みを前提に、夫を家庭で支える“妻の給料”を税控除や手当の形で実質的に払ってきた。「職場の現実を変えないまま優遇を廃止して女性を働かせても、夫は家事負担が増えて労働時間が減った分、所得も減る可能性が高い」と鈴木さん。
 「女性が安心して働くにはもっと保育所や介護施設が必要で、国民負担は増える。人手不足が生じる前に無理して労働者を増やせば失業が増える可能性もあり、短期的な経済成長だけを目的とするなら効果は疑問です」という。
 「長期と短期、両面から評価する必要がありそうです」。事務所に戻った章司が報告すると、所長が「うちも長期的な成長のために短期的な負担が必要なんだ」。前月より薄い給料袋を差し出した。」
(2014/05/27付「日経新聞」p28より)

前に「この世でもっとも過酷な仕事」(ここ)という記事を書いた。
世の母親は、自然と“無償の愛”を子育てや家庭に注いでいる。その測れないであろう“母親の価値”を、大胆にも計算し、その結果が、150万円ほどだという。少し少ない気もするが、子育て世代の亭主の給料からすると、そんなものかも知れない。

先日の日経新聞に、こんな記事もあった。
日本の女性、まだまだ働きにくい 男女平等度 先進国で最低レベル
140604jyosei2  安倍晋三首相が成長戦略の中核に挙げる「女性の活躍」。だがこれは日本が先進諸国の中で女性の活用が遅れていることの裏返しだ。世界経済フォーラムがまとめた男女平等の度合いを示す「ジェンダー・ギャップ指数」で、2013年の日本は105位で、08年の98位より後退した。管理職に占める女性の比率は先進国では3~4割程度が一般的だが、日本は9%どま140604jyosei3 り。同一労働の賃金で男性を100とすると女性は62にとどまる。成長戦略では25歳から44歳までの女性の就業率を20年に73%に高める計画だが、多くの課題が浮き彫りになっている。」(
2014/05/26付「日経新聞」より)

この「経済分野での平等度を示す主な指標」のグラフが面白い。女性管理職が日本に少ないのは分かっていたが、世界的に見ると先進国でラストとは・・・

逆に、アフリカ・ナイジェリアでは、女性に教育はいらない、として4月に200人以上の女子生徒を誘拐した事件は、世界に衝撃を与えたまま1ヶ月半経った今も、まだ解決していない。
フィリピンのような、経済分野における男性と格差がない社会とのあまりの落差・・・。
日本では今後、女性のパワーを社会でどう活用していくのか・・・

残業ゼロ法案など、政府の暴走は相変わらず。せめて、これ以上日本の社会が悪化することだけは止めたいものだが、我々国民に首相の暴走を止める力は無さそうだ・・・。

140604sushi <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年6月 2日 (月)

健康寿命、浜松1位~20都市集計

どうもこの所、話が健康問題に偏っているようであるが、ツイ書いてしまう・・・。
先日の朝日新聞にこんな記事があった。

健康寿命、浜松1位 「生活に支障ない期間」20都市集計
 「健康寿命」の20大都市別データを厚生労働省研究班(主任研究者=橋本修二・藤田保健衛生大教授)がまとめた。2010年時点で最も長いのは男女とも浜松市で、最も短いのは男性が大阪市、女性は堺市だった。これまでは都道府県別しかなかった。
 健康寿命は、生活に支障なく過ごせる期間の平均を示している。75万人を抽出した厚労省の国民生活基礎調査で、「健康上の問題で日常生活に影響がない」と答えた人の割合から計算する。厚労省は、平均寿命(10年は男性79.55歳、女性86.3歳)との差を縮めることを目指している。
 研究班が集計した20大都市別データによると、健康寿命が1位の浜松市は男性72.98歳、女性75.94歳。20番目は大阪市の男性68.15歳、堺市の女性71.86歳だった。都道府県別のトップは、男性が愛知の71.74歳、女性が静岡の75.32歳。都市別では健康寿命の最長と最短の差が男性では4.83歳あり、都道府県別の2.79歳より大きかった。
 研究班の辻一郎・東北大教授(公衆衛生学)は「都道府県別では、浜松市のある静岡県など健康寿命が長いところは就業率が高く、喫煙率は低い傾向があった」と話す。(辻外記子)
140602kenko20都市別の健康寿命(歳)
      男性  女性
札幌市   69.55 73.18
仙台市   70.42 74.42
さいたま市 71.50 73.92
千葉市   71.93 73.06
東京都区部 69.71 73.13
横浜市   70.93 74.14
川崎市   69.29 73.06
相模原市  71.43 73.68
新潟市   69.47 73.59
静岡市   71.28 74.63
浜松市   72.98 75.94
名古屋市  70.48 73.68
京都市   70.14 74.34
大阪市   68.15 72.12
堺市    69.55 71.86
神戸市   70.10 73.33
岡山市   69.01 72.71
広島市   70.01 72.23
北九州市  68.46 72.20
福岡市   70.38 71.93
全国    70.42 73.62
(2014/05/27付「朝日新聞」p38より)

東京も全国平均も、男の場合70歳位らしい。すると自分はあと3年半・・・。
定義が「健康上の問題で日常生活に影響がない」とすると、平均的には70歳を超えると、“日常生活に支障が出てくる”という事になる。
健康なまま、ポックリと逝ける場合を別にすると、誰も体のどこかの部品に寿命が来て、臓器の故障=病気に見舞われ、そして死ぬ。分かってはいるが、目を背けている。
介護保険や、健保の高齢者に掛かる費用のウェイトを見ても、健康で病院とは無関係、というのは若い時だけ。ほとんどの人は、老化で徐々に身体障害者になっていく。腰が痛い、足が痛くて歩けない、目が見えなくなってきた、耳が聞こえづらくなってきた・・・等々。
それが現実・・・。

「持病」を広辞苑で引くとこうある。
じ‐びょう持病】ヂビヤウ (身に持つ病の意) 
①全治しにくくて、常に、またはしばしば、なやみ苦しむ病気。宿痾しゆくあ。痼疾こしつ。「―に苦しむ」
②比喩的に、身についてなかなか抜けない悪いくせ。「また例の―が出た」

ところで、還暦を過ぎた高齢者で、持病のない人など居るのだろうか?
ふと、自分の持病を数えてみた。すると何と9つも数えられた。しかしどれも、死の危険生は少ない。つまり、死ぬ危険までに体が故障するためには、まだまだ病気が足りない・・・。

今日、会社から帰ると、カミさんの小学校時代からの友人からメールが来て、3月に脳動脈瘤の手術をしたとか・・・。ほんの近い人が、大きな手術をしている。それに引き替え自分などまだまだ初心者!??

いっそのこと、「持病を20まで増やすぞ!」と、楽しんで増やしていく方が良いのか、それとも、全てその場しのぎで、治ったらどんどん忘れていく方が良いのか??
そもそも、それら病気への意識も含めて、病気の原因は、ストレスが多いという。しかし人間にとってストレスを消すことは出来ないし、コントロールすることも不可能。そもそも何がストレスになっているかが、分からない。分かれば避けることも出来るが・・・。
よく「あまり気にするな」とも言われるが、今更自分のこの性格は直せない・・・。
持病などの体の故障に対し、どのような“間合い”を取るべきか、つい考えてしまうこの頃である。(←考えることがストレス!? もう、どうすりゃいいのさ・・・)

140602roomba <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年6月 1日 (日)

腸、腎臓は短命~臓器の寿命にそなえよ

最近、「文藝春秋」に追われている。オトナになったら「文藝春秋」くらい読まなくっちゃ!と思っていたが、いっこうにオトナにならない。それで、先日、定期購読を1年だけ申し込んでみた。すると毎月送られてくるのは良いのだが、そのピッチが速い。前の月の分を読み終わらないうちに、次の号が届く。それで追われているのである。
その「文藝春秋」の2014年6月号に慶大の伊藤裕教授による「腸、腎臓は短命~臓器の寿命にそなえよ」という記事があった。
気になった文言を拾ってみると・・・

・それぞれの臓器にも「寿命」があり、その寿命は臓器ごとに格差がある。
・心臓も脳も、腸も肝臓も、すべての臓器が「砂時計」を持っていると考えて下さい。時計の砂は生まれた瞬間から落ち始め、すべてが落ち切った時に、その臓器の寿命は尽きます。
・もともと砂時計の速度が速い臓器もあれば、砂がゆっくり落ちる臓器もあるのです。
・心臓のように常に動き続けている臓器は寿命も短いと思われがちですが、意外にもそうでもありません。また、脳はすべての臓器の機能を支配して疲れが早いように思われていますが、寿命という点では決して短くはないのです。
・そもそも心臓と脳には「がん」は起きません。その理由は二つあります。
一つの理由は「心臓と脳を構成する主な細胞は分裂をしないから」。もう一つの理由は「体の外の世界と直接触れていないから」――です。
 確かに心臓も脳も仕事はタフですが、体の外の世界と接することがないので、外敵からの攻撃に晒される心配はありません。そのため黙々と本来の仕事に打ち込むことができ、臓器としては長生きの部類に入るのです。
・では、どの臓器が短命なのでしょう。実は、人間の体の中で「臓器の時間」が短いのは、腸と腎臓なのです。
 血液が臓器の機能維持の生命線であることは言うまでもありませんが、腸の血液消費量は全身の血液の30%、腎臓は20%を占め、血液消費臓器ランキングの第一位と第二位です。
・腸と腎臓は、なぜそれほどまでにエネルギーを使うのかといえば、ともに“吸収”という、骨の折れる仕事を担当しているからです。
・腸は、食べたものから体に必要な栄養を吸収します。一方、腎臓は、いらないものを捨てる臓器と思われがちですが、実は、一日当たり百リットルも生産される原尿(汚くなった血液が濾過されてできる尿の素)から、尿として最終的に排泄される1~2リットルを除いたほぼすべてを再び吸収しています。異物を体内に取り込む作業は、大量にエネルギーを消費し、臓器に大きな負担をかけるのです。
・ちなみに、心臓の血液消費量は、全体の5%に過ぎません。死ぬまで長持ちして規則正しく動いてもらわないといけない心臓は、省エネで済むようにできているのです。
・腸の本来の仕事は大きく二つあります。一つは「食物の消化吸収」、もう一つは食物と一緒に体内に侵入しようとする外敵の排除、つまり「腸管免疫機能」です。腸の老化が進めば、腸の免疫力が落ち、様々なバイ菌ななどの外敵が侵入しやすい環境ができます。過食するとそれだけ多くの外敵が体への侵入を試みることになるのです。その結果、体内では様々な臓器で炎症が、軽いけれどもだらだらと慢性的に続き、そして示し合わせたようにそれぞれの臓器の障害が起こります。すると、体は栄養素をうまく利用して消費することができなくなって、どんどん肥満、メタボの病態が進んでいくのです。
腸の老化のスピードが速まりメタボが進むと血管が障害されて、各臓器で酸素不足となります。この段階で最初にダメージを受けるのが、酸素不足に最も敏感な腎臓です。腎臓は心臓と密接な関係があります。腎臓に不具合が生じると、その情報は腎臓神経によって脳に伝えられます。すると脳から心臓に行く神経がその変化を感じ取り、興奮することで心臓をフル回転させるようになり過剰な負担がかかります。
 もともと、この仕組みは、腎臓が弱って水分や塩分を排泄しにくくなっている時、そのことを脳に知らせ、心臓を頑張らせることで、ポンプ機能を高めて水分と塩分を何とか排泄させようとする調節システムで、生体にとっての防衛反応です。ただ、それが過剰になると心臓を疲れさせてしまうのです。
 こうして、腎臓病の人は心筋梗塞、心不全の発症リスクが高まることが、最近の研究でわかってきました。
 はじめは内臓脂肪が溜まる肥満だけだったのが、それが高血圧を呼び、脂質代謝異常症、糖尿病、動脈硬化などと拡大していく。一つの臓器が病気になると、関係する他の臓器にも機能の低下が起こっていく関係は「臓器連関」と言われています。その「ドミノ倒し」のような現象を、私は「メタボリックドミノ」と呼んでいます。
 しかし、逆に言えば、キーとなる臓器の老化を遅らせることができれば、それに連動して他の「臓器の時間」もゆっくりになる。そのキーとなる臓器こそが、腸と腎臓なのです。
 腸と腎臓にはそれぞれが原因となって起こる代表的な病気があります。それは、腸=糖尿病、腎臓=高血圧です。この二つの病気を防ぐため、過食や塩分の取りすぎ、運動不足を解消するなどして、腸と腎臓に対するケアを確実に励行することで腸と腎臓の時間の進行を遅くすることができます。そうすれば、体の他のさまざまな「臓器の時間」も遅くすることができるようになり、長寿に結びつくのです。」(「
文藝春秋」2014年6月号p177~179、慶応義塾大学医学部腎臓内分泌代謝内科・伊藤裕教授「腸、腎臓は短命~臓器の寿命にそなえよ」より)

今朝、メイ子(ウチの愛犬・ヨーキー)が朝食を食べない。カミさんが心配して「病院に連れて行こうか??」「いや、動物は、食べ過ぎた時などは吐いたりして、自分で調整すると、獣医さんが言っていたのでは」「では様子を見るか・・・」
結局、夕方には食欲も出て来て、夜にはいつもの通りに戻ったので、一安心。メイ子も12歳。今後も老化で何が起こるか分からない・・・。

愛犬同様、自分の体も、先日の不整脈以来、すっかり自信を無くしてしまった。発作から3日間再発し易いので注意!と言われていたが、何とか無事に過ぎた。それにしても“発作”はやっかいだ。いつ起こるか分からないので、不安になる。心臓神経症という言葉もあるくらいなので・・・

そんな事を思いながら、最近ご無沙汰の仏教について思った。自分の意志ではコントロールできない事への心の対処の仕方・・・。まさに哲学の領域。人生の生き方の問題。
ハッキリ言って、自分は自分の心をコントロールする事が出来ない。女性陣と違って、異常値に対して、パニックになってただオロオロするだけ・・・。

上の記事も、例によって、読んでいて「ヘエー」と思った。機械もそうだが、たった一つの部品の不具合で、機械全体が動かなくなる。もちろん肉体も同じ。
腸と腎臓を労(いたわ)るのは当然として、自分の場合、どうすればこの心臓がおとなしく動いてくれるのか・・・。解は無い・・・
解のない課題に、どう自分の心が、向き合うのか・・・。老化に伴う「臓器の寿命」という人生の大きな課題が、立ちふさがってきたこの頃である。

140601sasottenai <付録>「ボケて(bokete)」より

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